雨の日の訪問者
とある雨の日の話
紫月さんの元で暮らし始めて二日が経った雨の日。
その日は朝から雨で、「梅雨入りですね」と紫月さんは呟いた。
「困りましたね…今日は下に用事があったのですが、お二人だけにするのは心配で…」
「留守番くらい俺らで出来ますよ」
「そうではなくて…こういう日には雨宿りをする子がいますから」
「雨宿り?」
意味が分からず二人で首を傾げると、紫月さんの顔は更に曇る。
下というのは、山の麓にあるこの家から更に下に降りるとある里のことだ。
雨でそこまで行くのが憂鬱だというのなら分かるが、紫月さんの悩みはそこではないらしい。
雨が降っていて雨宿りをするのは分かる。でも、何故その雨宿りにそんなに困ったような顔をするのか分からない。
「でも用事があるんだったら行ったほうがいいと思いますけど」
「ですが…」
「あーもう!よく分からないけど用事って相手がいるならその人にも迷惑かかるだろ!」
「う…」
紫月さんが前の日に誰かに電話をかけていたのは見ていた。
となったら相手は紫月さんが来るのを待っている可能性が高い。大人の用事は大変なものだって母さんはよく言っていたから、蔑ろにするのは良くない。
「お兄さんが行かないと困った困ったーってなっちゃうかも」
「そうだな蛍。凄く困るよな」
「うん!蛍だったら困った困ったになっちゃう!」
「うぅ…」
蛍の元気な追い討ちに、紫月さんは渋々外出の準備をし始める。
じっくり時間をかけて、なんなら何回も俺達に注意されながら準備を終えると、紫月さんは視線を合わせると、急に真面目な顔になった。
「なるべく早く帰るようにしますが…もし誰かが訪ねてきても、決して扉を開けないでください」
「開けちゃダメなの?」
蛍が問うと、紫月さんは静かに頷く。
「そうですね…受け応えも極力しない方がいいですね」
「お返事も?」
「はい。約束出来ますか?」
差し出された小指に、蛍は深く考えず「うん」と素直に自分の小指を絡める。すると「指切りげんまん」と二人で歌い始めた。「指切った」と言い終えると、今度は俺の方に小指が向けられる。
「暁くんも約束してくださいね」
「はぁ…分かった」
鵜も言わさぬ真剣な表情に、しょうがなく小指を差し出せば、素早くとられ先程と同じように彼は歌い出す。
この人は意外と強引なところがあるらしい。
そんなこんなでやっと紫月さんを送り出すと、この大きな家は急に静けさが増したように感じた。
最初は自分達だけだからかと思っていたが、どうもそれだけじゃない。この家でよく聞こえる足音や、楽しげに遊ぶ笑い声が聞こえない。
ただただザーザーと降り続く雨の音だけがやけに大きく聞こえた。
「雨止まないね…」
紫月さんの用意してくれていたお昼ご飯を食べ終わり、暫くご機嫌に遊んでいた蛍も、心細くなってきたのかぬいぐるみを持って俺の横に座った。
「お兄さん転んでないかな…」
「大丈夫だよ。あの人転びそうにないし」
そんな風な会話をしていると、雨音に混じって何か別の音が聞こえた気がして振り返る。
部屋の襖は少し開いていて、そこから見える廊下の先には玄関がある。薄暗い玄関には何もいない。聞き間違いかと思って向き直ると、
ドンドンドンッ
と、また…今度は先程よりも大きな音を響いた。
「お客さんかな?」
「俺が見てくるから蛍は待っていて」
立ち上がると、蛍を置いて玄関を見に行く。もしかしたら紫月さんが鍵を忘れた可能性もあるし、見に行って損はないだろう。
暗いせいか、いつもよりも廊下が長く感じて少し気味が悪い。
辿り着いた廊下の先、玄関の扉を見てみるが何もいない。
首を傾げ、やはり聞き間違いだったのだと溜め息を吐くと、俺は踵を返す。
ドンドンドンッ
今度は聞き間違えることないくらいの大きな音が、後ろの戸から聞こえてくる。
おかしい。
尚も響き続ける戸を叩く音に、俺はおずおずと振り返る。
すると、磨りガラスの嵌った引き戸の先にはさっきまではなかった人影が立っていた。
「お兄ちゃん?」
いつの間にか蛍もこっちに来ていたみたいで、反応のない俺を不自然に思ったのか、後ろから覗き込むように引き戸を見た。
「開けてくれませんか?」
「…蛍…今何か喋ったか?」
俺の問い掛けに、蛍はブンブンと首を横に振る。
「開けてくれませんか?」
「お、お兄ちゃん…」
男とも女とも分からない抑揚のない声が、引き戸の向こうから聞こえる。
じわりじわりと恐怖心が顔を覗かせるが、決めつけるのは早いと隅へ追いやる。
そうだ。ただの配達員とかかもしれないし、これだけ雨が降っているのだから、雨宿りをしに来たのかもしれない。
蛍はその場にいさせて、俺は扉へと近付く。
『こういう日には雨宿りをする子がいますから』
『もし誰かが訪ねてきても、決して扉を開けないでください』
ドンドンと叩かれる引き戸に手をかけようとした時、ふいに紫月さんの言葉が蘇って、俺は勢いよく後ろに下がった。
「開けてくれませんか?」
戸の向こうからは再び抑揚のない声が聞こえる。
ドンドンと叩かれる引き戸は、さっきよりも勢いが増したように感じる。
「開けてくれませんか?」
「お前誰だよ…!」
「開けてください」
「っ!」
「開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けてください開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ」
おびただしい数の手形。そして雨音よりも激しい怒声にも似た声。
それにおされて、俺は一歩また一歩と後ろに下がる。蛍も流石に異常だと感じたのか、「ひっ」という小さな悲鳴と共にぬいぐるみを抱きしめた。
「っ…帰れ!!帰れよ!!」
音に負けぬよう声を張り上げてそう言ったが、それでもなお戸を叩く音は止まない。雨音も先程より強まって、自分の声が相手に届いているのかすら分からない。
そんな意味のない攻防の末、俺は蛍を庇うように抱きしめると、キッと戸を睨みつける。
全く意味はないだろうが、精一杯の抵抗だった。
「去りなさい。ここには貴方が向かうべき場所ではないですよ」
凛とした声。決して大きくないその声は、驚くくらい素直に耳に入ってきた。
瞬間、あれだけ響いていた怒声も戸を叩く音も綺麗に消えて、しとしとという雨音だけが残った。そして、代わりにガチャッという音がして戸が開く。
そこには何故かずぶ濡れの紫月さんがいた。
「ただいま帰りました。偉いですね二人とも…ちゃんと約束を守ってくれたんですね」
「紫月お兄さん…!!」
「よしよし、怖かったですね」
濡れるからと、抱きしめずに頭だけ撫でた紫月さんに俺も近づく。
「なぁ…さっきのってなんだったの」
「難しい問いですね…」
チラリと俺を見た藍色には迷いの色。言っていいものなのかというよりは、どう説明しようか迷っているという感じだ。
「言うなればあれは…集合体でしょうか?」
「集合体?」
「えぇ、水子や…水難によって帰って来れなかった方…あとは…」
「あー…もういいやありがとう」
つまりは死んだ奴の集まり。それが一時の安寧を求めてきたということだろうか。
そんな俺の考えを読んだのか、紫月さんは少し湿った手で俺の頭を撫でた。
「開けていたら、少なくとも私が帰った時にはお二人はここにいなかったでしょうね」
「マジか…」
蛍を気遣ってか言葉を濁したものの、俺にはバッチリその意味が伝わる。
あの時開けなくてよかったと心の底から思った。
「ねぇ、お兄さん傘なくしちゃったの?」
「あ、そうじゃん。傘持っていったよな?なんでずぶ濡れなのさ」
俺達の問いに一瞬キョトンと目を丸くすると、いつものように紫月さんは優しく微笑んでこう言った。
「泣いている子がいたのであげちゃいました」
いつのまにか雨は止んでいた。
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