トリガー
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21年12月24日12時ぐらい
あれからどれくらいの時が経ったのだろうか、自然の息遣いも、人工物の奏でる煩わしい機械音も聞こえない、完全なる静寂。
音が人にとってどれほど身近で大切なものだったのか、今ならわかる。
今も瞳に写る朧げで霞み切った現実が俺には幻覚のようにも見え、出所のわからない焦燥感が心を逆撫でる。
音を喪うだというのはこれほどまでに人の感情を荒立たせる。
あちょっと待って。
……ぷぅ
人はきっとこんな無音の中正常でいられるように出来てないんだろう。
静寂の中、様々な記憶が走馬灯のように流れては消えていく、徐々に消えゆくあの日の誰かの手の感触。
耐え兼ね狂いそうな情動をよそにどこか落ち着いている自分もいた。
母の胎内すら通り越して無に還るような……そんな居心地の良さ。
……ガルルルゥ
存在が空気と同化する、どこまでも孤独、どこまでも愚劣、どこまでも矮小。
俺というちっぽけな個が世界に取り込まれ、どこまでも傲慢で強かな世界そのものに茫漠とした劣等感を抱いてしまう。
人の身で世界に羨望を抱くことなど、それこそ傲慢だ。
しかし人は満たされないが故の進化を遂げる生き物、俯くと影、上を見れば他人の脚光はまるで神の後光のようで……永遠に安定した幸福などどこにいこうと誰の手にも入らないものなのだ。
……グルルゥ!ガゥ!
「わぁ!?なんだ!?」
急激に膨れあがった背後からの威圧感に俺は思わずその場を飛び退き尻もちをつく。
途端地面にえげつない衝撃が走り、今まで俺がいた場所に現れたのは棍棒を担ぐ緑色の小鬼の姿。
ガァ!!
まさに般若を思わせるような顔立ちをしていて身に着けているものは局部を隠すためだけの腰蓑一着、身長は中学生男子ぐらいだが筋肉隆々なその身体は壮観で、巨体の熊でも相手にしているような威圧感だ。
「……ゴブリン、か?」
ズル剥けのケツをズボンの中にしまいながらゴブリンに関しての情報を脳内辞書から引っ張り出す。
ゴブリン、それはダンジョンの低層で出現する最もメジャーなモンスターである。
純粋な戦闘能力は低層でも特に貧弱な上に、純粋な戦闘能力は弱いが特殊能力を持っているとかもそういうわけでもない。
正真正銘のダンジョン最弱、それがこのゴブリンというモンスターだ。
「やべぇよなぁ、この状況」
俺は冷や汗を垂らしながらゴブリンが棍棒を振り下ろした地面を見る。
土が捲れ上がり、完全に変形してしまっている床を。
ゴブリンは確かに最弱だ、国連、というか国連が主導してが作ったダンジョン協会なる組織が定義したモンスターランクなるものでも最低のGランク。
それは紛れもない事実、しかしそれはモンスターと比べた時の話だ。
御覧の通り棍棒で叩いただけで地面をえぐるほどのパワー、小柄が故の俊敏性、武器を使えるほどの知能、今回は一匹だしはぐれのようだが、集団で狩りを出来るほどの連携力も備えている。
モンスターを使役できる召喚士でなければ勝ち目は薄い。いや、ないと言っても過言にはならないだろう。
ダンジョンに生息する生命体と人類の戦力差というのは、それほどまでにかけ離れているのだ。
「んな悠長なこと考えてる暇はねえか」
俺は涎を垂らして唸りをあげながらこちらににじり寄ってくるゴブリンを睨みつけながら視界の端で不自然な暗闇、ダンジョンの出口を捉える。
モンスターは基本的にダンジョンの外に出ることは不可能。
それを可能にする魔道具があることは知っているが、ボロ切れのような腰蓑しか身に着けていない目の前のゴブリンがそんな御大層なものを持っているはずはない。
第一、モンスター同士で争うことのない奴らが人の手を介さずにモンスターを倒した時にドロップする魔道具を手に入れることなど不可能。
あそこさえ潜り抜けてしまえれば逃げられる筈だ。
ゴブリンと俺の出口への距離はほぼ同じ、双方壁を背に向かい合うような形。
俺は一月ほど前に卸した新品ピカピカのブレザーをゆっくりと脱いだ。
大丈夫、身に着けてるモンの上等さならトリプルスコア以上の差をつけて勝ってんだ、逃げるくらい造作もねえ。
ゴクリと生唾を飲み込むとゴブリンから目を離さないまま、まずはゆっくりと出口へと歩を進める。
作戦はこうだ。
マタドールの要領でブレザーを使ってあいつの視界を奪い、どうにかしてさっきひりだした茶色いバナナをぶち当てて行動不能にする。
その間に俺はこんなとこからおさらばする。
ゴブリンは通常三体から五体で行動し、五感に優れるが知能が低い。
これでも元探索者志望、ある程度のモンスターの情報は頭に入ってる。
これで俺の意図に気付かなきゃ、五十メートル七秒一九の何とも言えない俺の凡足であいつからおさらばできるんだが……
そろりと俺は足を動かすが、奴はその先を一瞥すると何か理解したような面でニヤついた。
大きく跳躍し、どっすんと重そうな音を立てて着地する緑色の悪魔。
ひとっ飛びで出口を塞がれた構図。
「頭悪ィんじゃなかったのかよ……」
まさに絶体絶命。
退路は断たれ、彼我の戦力差は絶望的。
「あーあ、結構まずいよなこれ……」
冷や汗を滴しながら自重したその時だった。
「……は?」
それを見た瞬間はこの緑畜生が一体何をしたのか分からなかった。
本来眼や耳で捉えたことが脳に到達するまでのコンマ数秒の間でまとめられる筈のそれら感覚情報は、一個体のゴブリンによる連続した動作だったのにも関わらず、脳はそれを別々の動作として受け取った。
薄汚い緑色の腕が棍棒を地に投げ捨てる。
クカカと醜悪な笑い声が耳に届く。
右手の鋭利な人指し指が地面を指さし、左手の中指で喉元を掻っ切るような動作を見せる。
しかし脳に情報が伝達され切った時にはそんな詳らかな情報を理解できるほどの容量は残っていなかった。
激情や絶大な痛みは、脳のメモリを一瞬で消し飛ばす。
そう例えば、鼻炎のときインフルエンザにかかったような、腹痛に苦しんでいるとき急に足の骨をへし折られたような。
__奴は笑ったのだ。
ただその笑みには侮蔑的な感情は含まれていなかった。
目に宿るその感情の名前は……
一秒
『お前にはどうせ何も出来ないんだから』
フラッシュバックする記憶
二秒
『別に無理する必要はない』
価値もなければ責任も伴わない正論
三秒
『向いてないんだからしょうがない』
分かったような面、口から出まかせの一般論、時が経つにつれ泡沫となった希望はいつか跡形もなく消えて残るのは……?
四秒
『そろそろ大人になりなよ』
世界は誰にも見向きもしない、量子の結合で出来た単なる永久機関でしかない。
それでも俺は……
五秒
「アキラメレバラクニナレル」
『諦めれば楽になれる』
ゴブリンの姿が、奴らと重なる。
こんなもん錯覚と幻聴だ、知ってる。
だけど……
「そんな目で俺を見んじゃねえええええええ!!!!」
その感情の名前は
哀れみ
龍宮道山の最も嫌いなモノ。