プロローグ
かつては日本の首都として名を馳せた東京都。
今回の調査団のメンバーのほとんどは、昔の東京の姿を知らなかった。世界間融合が起こったのが大体100年前のことだから、それも致し方ないことではあるが。
もはや森林と化している旧首都圏へ、頑丈な装甲車でもって列になり突き進んでゆく。今回のこの装甲車はなかなかの優れもので、現代科学の粋を集めた超合金によりどんな道でも傷一つ付かない。その上施された防御結界で耐魔力まで高い。そんな代物を今回日本政府は千近く動かした。国民達も国家上層部が本気であることをひしひしと感じていた。
木々が鬱蒼と生い茂る中で、
ゴゴゴゴ……と道なき道をひた走る車両の群れ。
「オイオイ、こいつぁ……」
先頭車を運転する軍人は目を丸くして呟いた。
「姉ちゃん、これがアンタらの言う聖域かい?」
助手席に座る魔法使い然とした格好の女性は、静かに息を呑んだ。
「はい。ここが──…」
森林から突如として開けた場所に出る。
さながら、古の遺跡のようであった。
倒壊したビル群、アスファルトは既に風化しており数多の亀裂から草木が伸びている。鹿や狐の野生動物たちは車に驚いて一目散に逃げていった。
魔女は一旦車を停止させた。恐る恐るドアを開ける。
柔らかい土を踏んだ。大地は全体的に湿り気を帯びているらしい。
一帯には可憐な花が無数に咲き誇っていた。耳をすませば美しい鳥の囀りが幾つも重なって聞こえてくる。人の踏み入らぬ地になってからというもの、ここは動植物の楽園となっていたのだろう。
続々と続いてきた車も停止してゆく。
やがて同乗者である軍人も意を決して降りてきた。
「なんつーか。噂通り退廃的だな」
そう言う彼の目はどことなく寂しげだった。年長者である彼には幼い頃の東京の記憶が未だ残っているのかもしれない。
「ええ、けれど」
「ああ。こいつは軍人の俺でも見入っちまうな」
そう会話しながら、ふと魔女は宙に手をかざした。目を閉じて手のひらに感覚を集中させる。そこからじっくりと知覚を広げてゆく。
「……明らかにこの辺りから大気に満ちる魔力が跳ね上がっています」
「そうか、ならやっぱ間違いねぇな」
「はい。ここから先は世界で最も危険な領域の一つ、聖域都市トウキョウ」
「綺麗なバラにはトゲがあるってことかねぇ」
「そういうことです。一旦ここで調査を行いましょう。深部へ向かうのはその後かと」
「ああ、同感だ」
ここは聖域、神の如きモノが住むとされる領域。人智を超えた神秘こそが常。進むには細心の注意を払わねば、その気持ちは皆一様に同じであった。
軍人の耳に装着した連絡デバイスが通知を鳴らす。
「ん、了解。なるほど、そいつぁ良かった。こっちも─…」
通話を切ると彼はホッと浅く息をついた。
「吉報みたいですね」
「とりあえず各方角の部隊すべて聖域内に到着したらしい。まさか八つすべて無事に済むとはな」
「嬉しい誤算じゃないですか」
「どうだかな、こういうのは経験上──…」
軍人は冗談ぽく胸元にぶら下げた計器を確認する。わずかに数値が揺らいでいた。誤差の範疇をでないわずかな揺らぎだ。
しかし、染み付いた感覚がなにかを訴えかける。だが周囲は見渡せど外敵の姿はない。ならば空は…──彼はすぐさま叫んだ。
「ワイバーンだ、全員構えろッ!」
その場にいた大勢が一斉に空を見上げた。
上空から威嚇するような甲高い声が響き渡る。
皆、驚いてこそいたがすぐさま武器を構えた。
計器の反応が薄かったのは、聖域に満ちた高濃度の魔力によって索敵が鈍くなっていたからであった。
兎を狩る大鷹のごとく剛速で滑空してきたワイバーンは、土煙を巻くほど勢いよく調査団の前に降り立った。
「ったく人騒がせな野郎じゃねぇか、ッ撃てぇ!」
一瞬にしてワイバーンを取り囲む陣形を取って刹那、一斉射撃が繰り広げられる。
銃火器、魔法、異能あらゆる力が交差した威力はもはや爆発に近く、強靭な鱗を纏う飛竜といえど無事では済まない。強烈な火薬の匂いがあたりに充満している。
「……」
──…白煙が立ち込め視界を遮っている。内側にいる敵を視認できない。目前の敵を確認できないという恐怖に緊張の糸が張り詰める。
と、次の瞬間、木々が折れんばかりの暴風が巻き起こり霧は払われ翼竜は宙へ舞った。
しかし、ワイバーンの鱗は既に裂け流血甚だしい。いや寧ろ、あの攻撃を生還したことのほうを評価すべきか。
「腐っても竜種、か」
一目散に聖域深部の方角へ飛んでゆく。だが逃げるのなら追撃はしない。手負いの狼なんとやらである。それに低級でも竜種は基本的にそこらの獣より遥かに頭がいい。あれはもう人を襲うことがなくなるだろう。
安堵しつつ、飛んでゆくワイバーンを見送る一同。
そんな中、軍人の胸元の計器が震えた。
すぐにチェックすると針がぎゅるぎゅると音を立てて回転し続けていた。
「……なんだコイツは?」
と、突然空を割らんばかりの轟音が鳴り響いた。周りの人間がそれが落雷であると認識した刹那、眩い極光が彼方のワイバーンを貫いた。
「な……!?」
調査員は皆言葉を失った。何名かは腰を抜かしてしまっている。
灼き焦げたかつて竜であったものが地上に落下してゆく。さながら神の怒りであった。不遜に天翔けるものを殺す罰。唯我独尊の証明。
魔女が早口に告げた。
「推定魔力量、既に測定不能。これは自然現象ではなく、間違いなく災害指定クラスによる攻撃です!」
「了解、した」
下手に動けば死ぬ、誰もがその真実を直感した。背を冷や汗が伝う。
まもなくうるさいほどの静寂が訪れた。
この星の生命体の全てが息を潜めたかのようであった。
──と。
カタン、カタンと蹄の音が響く。
来る、何かとても恐ろしいものが。
胸が張り裂けそうなほどに鼓動が早まる。止まらない鳥肌に真なる神秘を実感する。
「──あれは……」
遠方に影があった。馬のような骨格をしている。サイズは馬よりは明らかに大きいが、翼を広げたワイバーンの方がはるかに勝る。けれど、違う。命あるものとしての根本の格が違う。比較することすら烏滸がましい。
修羅場を潜ってきた軍人は乾いた笑いが混み上げてきた。
それは優美な二本の髭をゆらゆらとたなびかせていた。眩い金色の鱗を持ち、あらゆるモノを噛み砕く牙を覗かせる。さしずめ天を衝かんばかりの双角は王冠とでもいうべきか。
──旧い神話に曰く。かの獣こそが獣類を統べし長の片割れであり、鳳凰と対の関係にあるのだという。
そう即ち、彼の者こそが翼持たぬ黄金竜『麒麟』である。
「……たしかに『神』だな」
目視しただけで平伏せざるを得ない圧倒的威容。
ヒスイ色の瞳が調査団を捉える。ただそれだけで数人は泡を吹いて倒れた。麒麟の放つプレッシャーと桁外れの魔力にあてられたのだろう。
「逃げましょう。今すぐに」
魔女が震える声で囁いた。
「ああ。奴さんがそれを許してくれればだが」
ゆっくりと、気に障らぬように一歩一歩後退する。
あと一歩、車に乗って逃げおおせられれば。
軍人の耳に装着したデバイスの着信が鳴った。
その間わずか数秒、その場にいた全員が走馬灯を見た。
──麒麟が嘶いた。
「直ちに撤退ッ、逃げろ!」
神は慈悲を持ち合わせてはいない。神とは自然であり、自然とは神である。時に命を育み、時にきまぐれで命を奪う、それこそが自然の摂理である。
今、雷霆が撃ち落される。
景色全てが白に染まってゆく。
何も、何ももう見えない。