表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ロボ・パラダイス  作者: 響月 光
3/4

未来のテロリズム

(十七)


 ジミーとグレース、トニーの三人は、長年放置されていた月面探索車を修理して太陽電池システムを復活させ、ある場所に向かって走らせていた。そこは地球連邦政府が最近建設したパーソナルロボの強制収容所第一号で、ロボ・パラダイスの南二十キロほどのところにある。監視カメラはそれを捉えていたが、地球にある監視所の隊員が情報を消し、揉み潰してしまった。彼は世界中に潜伏するテロリスト集団やそのシンパから送られてきた工作員だった。現在、この集団は壊滅状態に陥っている。かつて集団を統率していたのはヨカナーンだったが、彼は義賊気分でヨカナーン(ヨハネ)という由緒ある名前を騙っているに過ぎなかった。しかし集団の中では絶大の権力があり、テロリストたちはパーソナルロボ化したヨカナーンを真の救世主として讃えていた。


 いま地球では、地球温暖化が後戻りできないほどまでに悪化していた。人々は生活に振り回され、政府も目先の経済に振り回されて、ろくな対策もなされないまま、とうとうここまで来てしまった。「茹で蛙」状態になった人々は、毎年少しずつ上がる気温に鈍感なまま、大人しく絶滅の時間を迎えようとしている。しかし「茹で蛙」の話はまったくのデマで、最後の最後に蛙は危機を察知し、水槽から飛び出して死ぬのである。その飛躍は、人間では生き残る壮絶な戦いとなる。混乱の中で、人々は武器を持って生き抜こうとするが、その武器が核兵器なのだから、恐ろしい事態になるのは明らかだ。核戦争は絶対NOというのが世界連邦政府の統一見解だった。核爆弾は金持も貧乏人も、エリートも無能者も、無差別に消滅させてしまう。残されたのは、ナチス以降頻繁に行われる常套手段。弱い立場の連中やうるさい連中を間引きする方法だった。

 そこで、核戦争を予見した世界中の金持たちと地球連邦政府が結託して、大人しく死んでくれる人々のチョイスを考えた。理想は産業革命以前の地球。ターゲットは当然、地球への貢献度が低い貧乏人や無産高齢者等々だ。人間は冷酷な特性を持っている。社会が危機的な状況に陥ると、「社会に貢献できない連中」とか「働かざる者食うべかざる」とかいった言葉が巷に飛び交うようになり、それが標語になってしまう。強者たちが弱者たちの追い出しにかかるわけだ。特定以上の税金を払えない貧乏人たちをロボット化して消費消耗社会を変革し、二酸化炭素の効果的な削減を成し遂げようというわけだ。これは地球規模のリストラ対策である。産業界に留まっていたリストラが、死のリストラとなって全世界に波及し始めた。しかし、貧乏人たちの抵抗をどうやって抑え付けるかが課題だった。


 最初は緩やかに、百歳以上の高齢者のロボット化を募った。ポールは金持のくせに、失われた過去を取り戻すため、それに応募したというわけだ。ロボット化は「離脱」という言葉に代わった。人間にとっても、肉体は精神が使い込む道具のようなものだ。肉体なんぞ廃棄したって、人間が死ぬわけじゃない。人間を成すものは「精神」なのだ。そして精神とそこに内在する「尊厳」はデジタル化されても同一のものである。「精神」がデジタル化されれば、人間は永遠の生命を得ることができるし、人間の尊厳は永遠に引き継がれるのである。それなら精神に障害のある人間はどうなんだ、と問われると、精神とは異なり、「尊厳」は決して毀損されることはないのだと政府は答える。

 禅問答とか国会討論みたいになってしまうので話を先に進めるが、要するに人間のロボット化は人間の死を意味しないというのが地球連邦政府の見解で、「離脱」という言葉は、精神がヤドカリのようにいろんなボディに入って生き続けることを象徴しているのだという。まるで変幻自在のゼウスである。


 一年前にヨカナーンが捕まり、秘密裁判で死刑が決定したとき、その二日後にはさっそく連邦政府の議長が面談を申し出ていた。面談室にはヨカナーンが一人で入ってきて、議長は五人の秘密警察官を引き連れていた。彼らは議長と瓜二つだった。議長の横にはその半年前にヨカナーンによって殺された議長の死体が、保存処理されてタキシード姿で横たわり、その横にはヨカナーンの精密なパーソナルロボットが添い寝していた。

「どうだね、君と私はまるで兄弟のように仲良く寝ている」

 ヨカナーンは横目でチラリと見て、無関心を装いながら口を開いた。

「服を剥いだら、あんたの体は穴だらけだ。で、あんたは影武者?」

「部下ともどもロボットさ。しかし世界の人民はそんなことを信じない。君たちテロリストお得意のフェイク・ニュースだと思っているのだ。私はこうしてしっかり生きている。死んだ気がしないんだ。だから君を恨んではいない」

 ヨカナーンはハハッと激しく笑って、議長を一瞥した。

「俺が死んだというフェイク・ニュースはあんたが発したんだろ?」

「そう。皮肉だが、生きている私が死んで、死んだ君が生きている」と言って、議長も皮肉っぽくニヤリと笑った。しかしその眼差しは恨みで白濁している。ロボは議長の白内障まで忠実に再現していた。彼は医者嫌いだった。

「しかし明日、あんたと同じ立場になるさ」

 ヨカナーンの言葉を聞いて、議長は首を横に振った。

「君の返事しだいでは、そうならないさ。君は生き続けることもできる。昨日、君の脳情報をすべて取らせてもらった。テロ組織の情報もな」

「それはおめでとう。我々の地下組織はとうとう壊滅かな?」

「いいや分析の結果、我々は君と上手くやっていけることが分かったのだ。君の心は、地球よりも故郷にあるのだろ?」

「世界中の同志を見捨てろと?」

「いつまで夢を見ているのだ。君の組織はすでにレッドデータ入りだ。だったら、故郷だけでも救うがいいさ」

 議長が秘密警察官の一人に目配せすると、彼はヨカナーンの首を体から外してテーブルの上に置いた。ヨカナーンと彼の首は至近距離で対面することになった。首は目を開いてハハハと笑いながら「観念しなよ」と呟き、軽蔑的な視線をヨカナーンに向けた。ヨカナーンは不愉快そうにペッと唾を首に吐きかけた。首は「天に向かって唾を吐きやがった」と言うと、さらに大笑いする。議長は指図して首を元の場所に戻させた。

「君はなぜ、ヨカナーンという洗礼者の名前を自分に付けたのかね?」と議長は尋ねた。

「預言者だからさ。俺は地球の滅亡を予言している」

 ヨカナーンは議長をキッと睨み返した。

「しかし君は限られた地域の英雄に過ぎない。そこは我々にとっては悩ましい紛争地帯だ。喉に刺さった棘さ」

「まさか、我々民族を浄化するつもりじゃないだろうな」

「それは君次第さ」

「俺次第?」

 ヨカナーンは驚いた顔で議長を見つめた。

「君が死んだら、我々はあの地域に壊滅的な打撃を与える予定だ。しかし、それを免れる方法もあるのだ。分かるかね。我々は人類の半数以上をロボット化する計画を立てているんだ。しかし秘密裏に行わなければ、民衆は暴動化するだろう。狡知に長けた君なら、上手くやってくれるかもしれない」

「俺が? 俺はそんなに賢くない」

「君には大勢のシンパがいるじゃないか。有象無象の貧乏人ども。この監視社会では、可能性があるのは君たち無法者と、月からの死者ぐらいだ」

「月からの死者?」

「彼らの情報は地球では消されているのだ。月は死の世界だ。しかし奴らは生還したいのだ。君はロボットになって月に行き、望郷の念に駆られている死人たちを兵隊として地球に送り込む。もちろん、君を殺しはしない。我々の目的が達成されれば、無用な人間は一掃され、地球温暖化問題も解決する。地球は産業革命以前の楽園に戻るだろう。そのとき、君はここから出て、生身の体で故郷に錦を飾る。君たちの劣悪な不毛地帯も、我々地球連邦もともに楽園と化して、末永い繁栄を遂げるだろう。どうかね?」

「あんたにとっては、貧乏人も死人も黴菌というわけだ。いや、あんたも死人か、……もし断れば?」

「明日、電気椅子行きだな。そして君の故郷の住人たちも、ことごとく死んでいく。ロボットにもならずにね。私にとっては敵討ちさ」

「分かった。明日の朝までこいつと相談し、解答しよう」

 議長は、死体とともに部屋から出て行った。分身は立ち上がり、ヨカナーンとともに独房に入った。


 ヨカナーンは、まず試しに自分しか知らないことを分身に聞いてみた。

「ターロのことを知っているか?」

「ああ、俺が十六歳のとき、最初に殺した人間さ。奴は親友だった」

「俺は目撃者として扱われたんだ。犯人は外国人だと言ってやった」

「俺は下らないことにカチンときて殺しちまったのさ。あいつは、俺の彼女と寝たんだ」

 ヨカナーンは、首を信頼できる仲間のように感じたが、どうしても聞かなければならないことがあった。

「正直に言えよ。お前は洗脳されているんだろ?」

「少しばかりな」と首は正直に答え、「それに、お前が死のうが生きようがミッションは実行されるんだ」と付け加えた。

「死んだ場合は、どこが変わる?」

「俺たちの故郷は壊滅する。議長にとってはどうでもいいことだ。議長がお前を生かしたいのは、ロボットであることが人民にバレないためさ。議長はお前に撃たれたが、生還した。議長はお前の罪を許し、公衆を前にお前と握手をする。このとき、故郷の連中はお前が生きていたことを知り、歓喜するんだ。俺の役目は終わり、お前は地域の行政長官となって、議長と平和共存する。お前はただ一つのことを守ればいい。地球連邦政府議長がロボットであることを公言しないこと」

「俺は身を切らせて骨を守ればいい?」

「そういうことだ」

 こうして、ヨカナーンのロボ化工作が実行されたのだ。ヘロデ王に首を切られた故事に倣って、胴体は地球に保管された。首は政府の秘密工作ロボであるマミーの腹の中に入れられて月に送られた。


 ヨカナーンは政府の工作員に堕したが、故郷が消滅する危機を免れた。月に行けば月の考えが湧いて出る。人間の尊厳を継承するパーソナルロボを「超人」として、人間社会の上に立って制御することも考えられる。生前に考えていた革命を、ロボットになったいま実現できるチャンスが到来したのかもしれない。ヨカナーン独裁地球政権である。ロボットのヨカナーンと生身のヨカナーンの二頭政治だ。部下たちはすべて超人たち。彼らは理想の兵隊だった。彼らは眠らなくても働ける。太陽光さえあれば永遠に活動する。故障したって破壊されたって、パーツさえ取り替えれば再稼動は簡単だ。脳データはいくらでもコピー保存できる。そいつはグロテスクな世界だが、人間の総数ぐらいには増え続ける一粒のES細胞と変わらない。世界はすでにゼウスが闊歩するグロテスクな神話時代に回帰しているのに、人々は「茹で蛙」のごとく保守的なイメージに囚われ、過去への夢の中で生きているのだ。


(十八)


 強制収容所とロボ・パラダイスを繋ぐ道路はなかった。それは、この収容所が造られたことに関連していた。ここに収容されているロボたちは、ある支分国家で迫害を受けている民族なのだ。彼らは民族運動を展開したため、地元の収容所に入れられて再教育を受けたが、どうしても教育できなかった連中には年齢に係わりなく「離脱」の措置が取られた。昔風に言えば「処刑」というわけだが、「離脱」が死でないことは地球連邦政府の一貫した見解だ。

 連邦政府は民族運動を極度に恐れていたから、離脱した人間でもロボ・パラダイスに入れるわけにはいかなかった。そういった連中は、月に来ても強制収容所に入るしかない。しかし、きっと彼らは脱獄を試みるに違いないということで、頭部と胴体はやはり分離する必要があった。ロボ・パラダイスの迷惑者たちに行われるスクラップ刑と同じである。これは反抗的な人間を管理する方法として、一番安価なやり方だった。

ジミーたちが見た収容所は、鉄柵に囲まれた簡易的な造りで、中には数千のボディが陽に照らされながら目的もないままうろついている。衝突防止装置のおかげで、ボディどうしがぶつかることはなかった。それらはすべて裸で男女の区別もなく、マネキン人形のようなチープな規格品だった。右腕には囚人を示す黒い太線が二本引かれている。天井には地球から見られないように、月面色の迷彩シートが張られていた。その一キロほど離れたところにピラミッドのような小高い丘があったが、おそらく頭部が積み上げられていて、上に同じ色のシートで覆い隠されているようだ。シートには微小重力に対応できる重さがあった。

 三人は車を降りると、ジミーとトニーが大きなカッターで金網を切り始めた。幅二メートルほどの金網が倒され、ボディの逃げ道は出来上がった。しかし、意志のないボディたちは、そこに集まることもなく、無益な徘徊を続けている。グレースは胸元を開いて、数社ある廉価ロボット製造会社の誘導電波を同時に発信した。するとボディたちは続々と逃げ道に集まってきた。三人は車に乗り込んで首塚に先回りし、電波を流しながら彼らの到着を待った。

 

 十分ほどで、数千の首なし群集が緩慢な動作でふらつきながらやって来た。まるでゾンビだ。三人は恐怖を感じたが、脳なしたちが暴徒と化すことはあり得なかった。破壊願望は脳から発信されるからだ。群集は三人の乗った車を通り過ぎ、次々に迷彩シートの端を掴んで引っ張り始めた。グレースが電波を切ったため、それぞれの首が出す誘導電波に反応したのだ。シートは九九パーセントの遮光性があったが、頭部の太陽電池は残り一パーセントの微光を少しずつ蓄積してきた。太陽電池の変換効率は進化し尽くしていて、パネル面積をいかに小さくできるかで価格が決まる。廉価品の頭部は毛を生やす余裕もなく、テカテカのパネルで覆い尽くされていた。背中も同じく、甲羅みたいなパネルで覆われている。それでも動き回るボディの運動量に対応できず、牢内では常時バッテリー不足に陥っていて逃亡時に急速消耗してしまい、シートが取り払われるまで三十分もかかった。

 首でできた大きなピラミッドが現われた。首たちはどれも同じ顔付きでまったく個性がなかったが、男と女の顔に分かれていた。ケタケタと歯を出して笑っているのは歓喜の表情だろうが、気味が悪い。百年前の民族闘争で一緒に戦死した英雄とその妻の顔を模している。彼らの国では誰でも知っている顔なので、一目で民族を特定することができた。ボディの到着を知った首たちは、一斉に歓喜の雄叫びを上げた。それは電波となって三人の耳アンテナに到達したが、大音響だったので音量の自動調整が働いた。

 首たちは以前から意思疎通を行っていたようで、ピラミッドの頂点に鎮座していた妻顔が首の筋繊維を動かして、ゴロゴロと空中に舞いながら落ちてきた。しかし廉価品には自分固有の胴体があるわけではないので、着地点の手近なボディにスポンとはまった。するとすぐ下の段から四個の首が落ち、八個、十六個と次々に落ちてきたので、三人は慌てて車を安全な場所に移動させた。ピラミッドは上部からガラガラと崩れ落ち、首たちは落ちたところの胴体にはまっていく。首を得た胴体はすぐに後ろに下がって、首なし胴体と入れ替わった。こうして七割程度の胴体が首を得た時点で三台の警備用自動装甲車がようやく到着し、一斉にレーザー砲を放った。

 三人は車をハイスピードにして逃走した。首を得たボディたちは蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げるが電力不足で動きは緩慢だった。しかし装甲車が彼らを追うことはなかった。この三台はそれぞれの緊急事態に最善の対応策を取るようにプログラミングされていた。うろつく首なしボディにも目もくれず、残された首たちにレーザーを当て続け、「心たち」をすべて溶かし尽くしてしまった。彼らは下積みの連中だった。

 


 三人の乗った車は旧式だが、金属製の針金で編み上げられた八本のタイヤの中には特殊なスプリングが放射状に多数仕込まれている。普段は地面の衝撃を吸収しながら走るが、時速百キロの逃げ足モードに入るとピョンピョン跳ね上がるようになり、凸凹の月面をバッタのように跳んでいく。乗り心地はロデオ状態でも、三人はロボットなので不快感はまったくなかった。まずは誘導電波を出し続けたまま月の裏側を目指し、安全な場所に逃げたら六千人近い逃亡者を待つことにした。

首の繋がった逃亡者たちは陽光を受けて元気になり、目立たないようにバラバラになって誘導電波の方向にひたすら走り続けた。武器を持たないので、見つかったら一方的にレーザー銃を照射される。遅ればせながら百台の装甲車が投入され、逃亡者たちを探し回った。逃亡者たちは電波で連絡を取り合い、装甲車の位置を確かめ合ったが、体内の通信装置が廉価品のため、五キロ以内の仲間としか連絡は取れない。それで彼らは鉄分の多い土地の方向に逃げるように指示し合った。廉価品のボディは安価な鉄を多く使っているため見た目より重く、おまけに装甲車の探査レーダーに察知されやすかった。それで鉄の多い地質の地域に逃げれば、探査されにくくなる。月には酸素が無いため鉄が錆びることはないが、軽量化には程遠く、飛ぶように逃げるわけにはいかない。装甲車に見つかったら、まず殺されるだろう。

ところが、装甲車は必死になって逃亡者を追うわけでもなかった。台数も増やすことなく、ランダムに光線を照射して、四、五人を破壊したにとどまった。しばらくはうろついていたが、逃亡者が逃げ去ってしまうとどこかに消えた。月面は常に地球から見られている。あまり派手な行動に出ると、天文愛好家たちに察知されて、流言となって世界中に広まる。「月ではなにかが起こっている」などと噂話になれば、ロボ・パラダイス計画にも支障を来たすことになる。

逃亡者たちは追っ手から逃れることができた。しかし、彼らはお互いに一定の距離を保ちながら、月の裏側に向かって走り続けた。約十五日間続く昼間のうちはエネルギッシュに活動することができた。同程度続く夜になると廉価品のバッテリーでは走り続けることはできなくなる。だから昼のうちに月の裏側まで自転の方向である東に向かってひたすら走れば、昼間を追いかけて走ることになって、エネルギー切れになることもない。月の自転速度は時速約一七キロなので、マラソン選手なみの走りを続ければ、夜にはならないうちに目的地に辿り着くことができるのだ。


 三人は月の表と裏の境にあるクレーターの外輪山に登って、電波を送り続けた。すると大勢の逃亡者たちが集まってきた。三人は車に乗り込んで月の裏側に入った。裏側では急峻な山岳地帯が続くため、溶岩洞窟を延長する形で車が一台通れるほどのトンネルが掘られ、秘密基地まで続いていた。トンネルは五キロごとに広くなっていて、車どうしが擦れ違えるようになっている。彼らは洞窟の入口に車を止めて、逃亡者たちを待った。

 第一陣が到着するまでには、地球時間で三十時間もかかった。

「ようこそ月の裏側に。この中に、ヨカナーンの同志はいますか?」とジミーは尋ねた。

「俺だ。北の同志、フランドルだ」と名乗りを上げて、男が前に歩み出た。地球連邦政府から迫害を受けていた少数民族のテロリストどうしが手を結んで抵抗し続けてきたが、風前の灯状態。フランドルとヨカナーンは民族も地域も異なるものの、民族主義を掲げる同志として仲間意識を強めていた。

「これから同志の皆さんを私たちの秘密基地にお連れしますが、それには条件があります。我々はあなた方を解放しましたが、ここから先はともに戦う者以外は入ることはできません。ともに戦うのが嫌でしたら、この地獄のような景色の中に消えてください。それでも檻の中にいるよりはずっと増しなはずです」

「そんな奴はだれもいないさ。地球、いや祖国に帰るためには戦う以外ないんだ」とフランドル。

「そうですよね。そのベースキャンプが我々の秘密基地です。この洞窟のずっと先にあります。洞窟内には電気が通っていますから、太陽なしでもバッテリー切れになることはありません。私たちは車で先に行きますので、誘導電波はここに置いておきます。全員漏れのないようお願いします。保母さんのように頭数を数えてください。月面で迷子になるのは最悪ですからね」

 三人は車に乗って先に行き、グレースは左胸の乳首を取ってフランドルに手渡した。彼はその発信機を飲み込んで洞窟の入口に立ち、続々とやって来る仲間たちを誘導した。


 

 秘密基地は直径二キロほどの小クレーターに建設されていた。クレーターを囲むリムの高さは平均五百メートルほどあったが、その半分ほどの高さにカモフラージュ用の天膜が張られていて、人工衛星などから底の状況を見つけられないようにしていた。このシートは太陽電池の役割も果たしていた。クレーター底の土地はほとんど平らで、全体を見渡しても隠さなければならないような建造物はなかった。現在進行中の工事はリムの掘削ぐらい。地下にふんだんにある氷の掘削とその貯蔵庫の建設がメインだった。ジミーはリムの下部に掘られた居住区の前に車を置くと、チカの分身であるチカⅡが出てきて、ジミーに抱きついた。四人は居住区に入って、ヨカナーンの執務室に行き、銀の盆の上に置かれたヨカナーンに、フランドルとその仲間の解放に成功した旨を伝えた。

 

 マミーはヨカナーンの盆を抱え、四人とほかの部下たちを従えてトンネルの入口まで行進した。しばらくするとトンネルから大勢の逃亡者が出てきて、こちら側は拍手をもって出迎えた。フランドルが出てくるまでは二時間ほどかかったが、首だけのヨカナーンを見て、フランドルはあ然とした顔つきをした。

「どうした同志、そんな哀れな恰好で……」

 ヨカナーンはその無遠慮な言葉で、廉価品のボディと過去の英雄の顔付きをした男がフランドルであることに気が付いた。フランドルはヨカナーンの両頬にキスをして、脱獄できたことへの感謝を伝えた。


(十九)


フランドルはヨカナーンの執務室に招かれ、二人だけの作戦会議が行われた。

「君は殺されたが、ロボットになってここにいる。この私もそうだ。不思議なことだと思わないか?」

「きわめて不思議だ。民族浄化を進める連中にも、神を畏れる気持ちがあるのだろう」とフランドル。

 ヨカナーンはハハッと笑って、「そんな連中ではない」と否定した。

「私は敵である世界連邦の議長と手を結ぶことにしたんだ」

 フランドルは驚いた顔をしてヨカナーンを上目遣いに見詰め、「奴はあんたが殺したはずだろ?」と押し殺したような声で聞いた。

「そう、正しくは議長のパーソナルロボットと手を結んだのだ。これにより、世界に点在する反抗的な少数民族は、各々の民族宗教とともに存続が許されることになった。もちろん自治権は保証される」

「あいつ、百八十の方向転換だな。きっと何か見返りを要求されたんだろ?」

「君は民主主義と民族主義のどちらかを取れと言われたら?」

 フランドルはしばらく考えてから、「糞ったれ民主主義め。俺は生まれたときから民族のために戦ってきた」とため息混じりに呟いた。

「私もだ。だから、まず荒廃した自分の故郷を考えざるをえなかったのだ」

「いまじゃ民主主義は民族主義さ。世界が一つになったいま、人数の多い民族の勝ちだ、いや、核を支配する民族の勝ちだ。とっくに民主主義は崩壊している」

「そう、貧乏人と金持の二層構造。下に溜まるのはヘドロのような貧乏人。上澄み液は金持というわけだ。金持による貴族社会。当然、少数民族は使用人。世界連邦体制は、強権を振り回さなければやっていけない。私たちのような不平分子がいるからな。知っているか? 君は死んでいないことを……」

「俺が?」

 フランドルは目をまん丸にした。

「これはあくまで予想だが、殺された仲間の多くも地下牢で生きているんだ。もちろん、私も生きている。どんな状況で生きているかは知らないが……。議長はしかし、私が確実に殺した。その議長が私に地球の運営を手伝えと言い寄ってきた。君は生身の君と仲間を牢から出したいとは思わないかね」

「当然思うだろうな……、本当に民族浄化はないのか?」

「議長は、議長を殺した私を許したのだ。地球温暖化を解決するためにな」


 フランドルは、ヨカナーンから世界連邦政府の行政方針を聞いた。特定額以上の税金を払えない六十歳以上の人々をロボ化し、月に送ろうという究極の人類浄化作戦だ。民族浄化の規模どころではない。「離脱」を死としない考えでは、それは尊厳の無いボディを取り替えるだけで、決して大量虐殺には当たらない。人間としての尊厳は脳味噌にあり、それをデジタル化しても毀損されることはない、というわけだが、実際には月に移送されても、狭小なロボ・パラダイスに移住できるわけではなく、頭部と体は分離されて月面に放置されるだけの話だ。月は将来的に、貧乏人たちの墓場と化してしまうのだ。

「しかし俺たちの宗教は? あんたらの宗教だってどうなるんだ。英雄が死んだら天国に行ける話はどうなるんだ?」

「議長は、自治権とともに信教の自由も認めたのさ。我々の仕事は、この世界法に背く反乱分子の制圧に加勢することだ。我々の脳データはこの基地の地下にストックされるので、破壊されてもここに戻ればいくらでも再生できる。我々は不死身の戦士として地球を救うことになる。君は人口削減以外に、地球温暖化を防ぐ方法を知っているかね?」

「科学者でもないのに、答えられるわけがないだろう」

「学者だって答えられないさ。人口削減という答えを出したのは、世界一の量子コンピュータだ。しかも時間がない。ティッピングポイントは間近に迫っている。そこを過ぎれば灼熱地球にまっしぐらだ」

 

 マミーが入ってきて盆を持ち上げ、外に出た。太陽は強烈に輝き、地面の土色を蒸発させた。「ところで議長は、さらに確実な人口削減方法を考え出したのだ。君たちはいますぐにでも地球に戻れる。しかし、この方法は決して仲間に口外してはいけない」とヨカナーンはフランドルに念を押した。三人は立ち入り禁止の札が立つ場所に行った。十人の男女が地面のシートを一斉に引くと、六千体以上のパーソナルロボが横たわっている。どれも高価格帯のオーダーメイド商品だ。それらは死体のように微動だにしなかった。

「君たちの頭部とボディだ。廉価品では地球に戻ることはできないからな」

「これらの脳情報は?」

「脳回路は承諾を得て抜き取り、地下の保管庫に入れてある。電流がないので眠っている。これらはロボ・パラダイスの近くに捨てられた違反者たちだ。彼らは地球への帰還を我々に託した。最初は彼らを工作員に仕立てようと思ったが、まったくの素人だし短気者が多い。しかし子供の頃から抵抗運動に加わってきた君たちの知恵は役に立つ」

「俺たちはこのボディに入魂し、地球に出兵するというわけか……」

「そして任務を成功させて、故郷に錦を飾り、生身の君とともに暮らすのだ。双子のようにな」

「月に戻されることは?」

「それも議長と約束した。我々にはその後の治安維持という仕事が待っている。政府の傭兵になるのさ」

「皮肉な結末だな。政府に噛み付いた犬が、政府の飼い犬になる」

 二人は笑った。



 新しい五体への入れ替えは、外輪山リム内の酸素を満たしたクリーンルームの作業場で行われた。彼らの宗教上の理由から男は男、女は女の体が必要だったが、予想の七割しか救出できなかったため、余分が出て調整もうまく行った。一人ひとりの好みを聞くと混乱するので、流れ作業で行われることになった。約六千人は男と女に分けられ、作業場の扉の外から一列に並び、その列はリム外の平地に続いた。寝かされていた身体から頭部が外され、百頭ずつ作業場に搬入される。作業ラインは五列あって、四列が男性にあてがわれている。反乱分子は圧倒的に男が多かった。

 入口は男女に分かれ、二重扉になっていて、扉と扉の間に十人ずつ入ってエアシャワーを浴び、体に付いた埃を吹き飛ばしてから作業場に入る。作業場では、まずボード上にうつ伏せになり、作業員が襟首の赤いボタンを引き抜くと首は勢い良く加工台に飛んで入り、ボードが傾いてボディは床に開いた廃棄口から奈落に落とされる。加工台では作業員が首の中に手を突っ込んで、中のボタンを押す。後頭部のソーラーパネルの一部がせり出すので、そいつを引っ張ると脳データチップの入ったカセットが出てくる。そいつを抜いて新しい頭部の同じ部分にはめ込み、首の中のボタンを押してセット完了。新しい頭はソーラーパネルの機能を持つ毛髪が生えているけれど、頭皮を剥がす作業はしごく簡単。セッティングすると新しい頭部はすぐに「もう終わったの?」などとしゃべり出すので、作業員は無視してそいつを横のワゴンの中に置く。廃棄物となった頭部は、横のダストボックスに投げ入れ、ボディと同じ奈落行きだ。部屋は空気圧が高いので、奈落の埃が作業部屋を汚染することはない。

 新しい首は十首まとまるとヒヨコのようにうるさくなり、作業員が搬出する。それを炎天下に敷かれたシートの上に置くと、それぞれの相方ボディが首からの信号を受けてやって来て、自ら勝手にはめ込んでくれる。まず最初にやる仕草は、両手で恥部を隠すことだった。彼らには月面仕様の迷彩服が配られた。


 ヨカナーンはフランドルを「流れ星作戦」の製造工場に案内した。兵隊たちを地球に送り込むには宇宙船が必要だが、それは簡単に捕捉されてしまう。そこで考えられたのが、一人ひとりをカプセルに入れて送り込む方法だ。工場はやはりリム内に造られていて、タングステン製のカプセルが製造されていた。一人用カプセルの内側は「スターライト」という名の超高温断熱材が詰められ、そこに兵隊が入ることになる。

 工場の横には二百メートルほどの縦穴が掘られていて、そこには氷の層がある。兵隊の入ったカプセルはそこに下ろされて、真球に近い直径五メートルの球体に精密加工された氷の中心にセットされ、穴は硬い氷で塞がれる。この氷球を月面の電磁式カタパルトで宇宙に飛ばし、月の裏側を回る地球への自由帰還軌道に投入する。軌道に入れば何もしないで地球に落ちるというわけだ。氷は大気圏に突入した後蒸発してしまうが、耐熱カプセルと断熱材で兵隊は守られ、最後はパラシュートも開く。大洋の真ん中に落ちても、ロボットはちゃんと岸辺に泳ぎ着くことができる。


 ヨカナーンとフランドルがヨカナーンの執務室に戻ると、長椅子の上にフランドルのそっくりロボットが寝かされていた。背が高く逞しい体で、精悍な顔立ちをしていた。

「これは俺の死体か?」

 フランドルは目玉を剝いて叫んだ。

「ロボットだよ。地球連邦政府からの贈答品だ。君はリーダーだから、別の見てくれになってはいけないんだ。地元じゃ君は英雄だからな。私が首だけなのは、殉教者のイメージを持ちたいからさ」と言ってヨカナーンが笑うと、盆を持っていたマミーもにやりとした。


(二十)


 チカの脳回路には、秘密基地で活動するチカⅡの日常も共通記憶として蓄積されていた。チカが千人、万人に増えようと、その共通記憶は同じで、それは人類のDNAに組み込まれた太古の記憶と似たようなものだった。DNAに刻まれた記憶は無意識の中で人の行動を均一に誘導するが、二人のチカは意識的に連携する必要があった。二人のチカは常にすり合わせていないと、人格自体がどんどんかけ離れていくだろう。ポールと二人のエディは元々同じ脳味噌だったが、互いに連絡を取り合うことがないので、三人三様の人格を持つ方向に進んでいる。ひょっとすると、二人のエディはポールに敵愾心を抱く可能性があった。エディとエディ・キッドも、二人の間に壁を造ってしまった。それを目論んだのはチカで、それは成功しつつあった。

 チカはエディが自分を殺した犯人であることを確信していた。彼女の脳データには殺されたときの記憶はなかったが、二十歳のときに脳情報をスキャンするまでの記憶は電子データとしてしっかり保存していた。特にスキャンする前の数ヶ月間、彼女はエディを脅迫していたことをしっかりと覚えている。「それは脅迫なのかしら?」と、チカは時たま自問するのだ。


 彼女はませていて、九歳のときからエディが好きだった。しかし、エディは女の子には興味がなく、いつも男の子どうしで遊んでいた。特に、双子の兄であるチコとはいつも一緒にいた。彼女はチコに嫉妬心を抱いていたのだ。

 そして事件が起きた。チコとジミーがあの海で溺れ死んでしまった。チカはその有様を浜辺から見ていた。チカは近くにいた大人に知らせたが、自ら海に飛び込もうとはしなかった。チコほどではないが、彼女は泳ぎが苦手だった。兄を愛していなかったわけではない。しかし、身を挺してもといった気分にはなれなかった。結果としてチカが巻き添えで死ぬことはなかったが、後々後悔の念は付きまとった。ひょっとしたら、兄が死ねばエディの関心が自分に向かうとでも思ったのだろうか……、いやそんなことはなかった。

 チカはあの事件以来、エディがチコを殺したと思ってしまった。それなのにエディへの愛は消えることがなかった。エディは自らの命を守るため、首に絡み付こうとするチコの腹を蹴った。けれどそれは自衛行為に過ぎないだろう。しかしチカはしっかり見たのだ。男の子たちが砂浜の海に向かって走り出すとき、チカは愛するエディのことしか目に映らなかった。彼女は目撃した。エディが水泳パンツに何か差し込んだのを。それは真夏の陽を跳ね返してピカリと光った。一瞬ではっきりとは分からなかったが、細長かった。きっとそれは、男の子たちが手裏剣と称していたものに違いないと思った。彼らは時たま近くの線路に釘を置いて通過する電車に踏ませ、手裏剣を作って遊んでいたからだ。警察はチコとジミーの死体を引き上げたが、最初から事故だと決め付けていたため、破れた浮き袋を懸命に探すことはなかった。それからエディと再会するまで、二人はこの海に来たことがなかった。

 時が経つにつれ、チカは光るものが本当に釘であるかを疑うようになってきた。ひょっとしたら、水泳パンツの内ポケットにコインを入れたのかも知れなかった。マドレーヌ島を目指しても、海に突き出た単なる岩で、売店などあるはずもない。それなら、万が一のためのホイッスルだったら細長いし、可能性はある。しかし、子供がそんなことまで考えるだろうか……。だいいち、そんなものを持っていたら、きっと見せびらかしただろう。


チカはエディへの恋慕を断ち切ることができず、エディの弁護をするような感覚に囚われて悩んだ。あれが釘なら、エディはチコを殺した犯人だ。しかし、釘でないならそれは濡れ衣だ。チカは長年悩み続けた末、十八歳のときにエディと再会することを決心した。エディに真相を聞くためにか、あるいはエディに愛を告白するためにか、チカにははっきりと分からなかったが、毎日のようにエディの面影が浮かんできて、精神的にも参っていたのだ。

 チカはにわか勉強をして、エディと同じ大学に入った。学部は同じでなかったしキャンパスは広かったが、すぐにエディを見つけることができた。

「お久しぶりね。十年ぶりかしら……」というのがチカの最初に発した言葉だった。そのときのエディの驚いた顔つきは、ロボットになった今でもしっかりと覚えている。それは亡霊に遭ったときのような恐怖で硬直した表情だった。エディはすぐに気を取り直し、「いいや、正確に言えば八年振りかな……」と返してきた。

 大学近くのカフェでしばらく昔の話をした後、チカはエディに愛を告白したが、それが恋しているためか、真相を究明したいためなのか、彼女自身にも分からないところがあった。

「あなたはチコを助けられなかったけれど、私を助けることはできるはずよ」

「君はチコにそっくりだから、フラッシュバックのように、事故のことを思い出すかも知れない……」

「いつも私を見ていれば、そんな病気飛んでいってしまうわ」

 こうして二人は恋人どうしになった。チカが死ぬまで……。


 死んでロボットになったチカはチコやジミーと再会したが、釘の話をしなかった。彼らが知っているのは、チカから聞いた死んだときの様子だけだった。エディは逃げ、ジミーは助けようと思って懸命に泳いで来た。結果として、生き残ったのはエディだけ。しかしそれは自己防衛で、エディに責任を負わすことではなかった。ところが二人のエディはチカよりも真相を知っていて、そいつを無理やり忘れたはずなのだ。チカの脳データにはエディに問い詰めた記憶が刻まれている。その一部始終をデータに残したのは、万が一殺されるときのことを考えたからだ。

「あなたが水泳パンツに隠したあれは何だったの?」

 しかしエディは「いったい何の話?」と寝耳に水のような顔付きでしらばっくれた。

「いったいどんな理由で、チコを殺さなければならないんだ!」

 そう言われると、動機をまったく思い付けなかったのだ。それならなぜ、自分は殺されたのだろう、とチカは自問した。しかしエディは、すぐにカッとなる人間でもない。冷静を装う人間……、ひょっとしたら強度なサイコパスとか殺人狂の類かも知れない。少なくとも、自分がエディに殺されたのだとすれば、あれは釘だったという証明にはなるだろうと思った。エディは故意に浮き袋に釘を刺した、だがいったいどうして……。



 エディ・キッドはチコを殺した記憶をゴミ箱に隠している。エディはチコとチカを殺した記憶をゴミ箱に隠している。しかし百歳の脳味噌のゴミ箱にはゴミが溢れていて、下の部分は押し潰されて、炭化しているかも知れない。まずは二十歳の脳のゴミ箱を漁るべきだ、とチカは考えてキッドに取り付いた。キッドのゴミ箱からチコを殺した凶器と動機を掘り起こすのだ。

 チコとチカ、エディとエディ・キッド、それにピッポの五人は水着姿で再び海岸を訪れた。チカはキッドと手を組み、エディとチコは手を繋いだ。子供の頃エディとチコは良く手を繋いで歩いていたのだ。突然チカは七センチくらいの平たく潰れた釘を手提げから取り出してキッドに見せた。

「海の底で拾ったの。あなたの釘でしょ?」

「まだそんなことを聞くのか!」

 キッドは癇癪を起こしてチカの手を振り切り、海に向かって一目散に走り、水に飛び込んだ。二十歳の脳は、チカの詰問を鮮明に思い出していた。

「そうだ、あれは僕の釘だ。しかしそれは、マドレーヌ島への遠泳記念として、岩にみんなの名前を刻もうとしたからだ……」

 三人は砂浜に腰を下ろし、波と戯れるキッドを見詰めていた。キッドは海から上がり、再び駆け足で三人のところに戻ると、いきなりエディの顎を殴った。バットで硬球を叩いたようなクリア音がした。

「さあ思い出せ! チカちゃんを殺したのはお前だろ。僕はちゃんと思い出したぞ。僕はチコを殺していない。あれは単なる事故だ。なのになんでお前はチカちゃんを殺したんだ!」

 ピッポが慌ててキッドを制止した。殴られたエディは悲しそうに微笑みながら、興奮したキッドをぼおっと見詰めていた。チカも驚き顔でキッドの鬼のような形相を眺めながら、「あんな顔を見ながら死んでいったのかしら……」と呟いた。この男の本性を見るのは、きっとこれが二度目だったに違いない。一度目はチカ自身が殺されたときだろうが、それが想像から真実に変わるにはエディが自ら記憶を掘り起こす必要があった。しかしエディの百歳の脳味噌は疲弊していて、それがロボットの顔にも現われていた。エディは認知症に罹った老人のように、無表情に涙を流し始めた。


(二十一)


 フランドルとその子分たちは民族の自治権を奪い返すため、新しいボディを得て地球に帰還することになった。一方、マミーの腹の中にいるヨカナーンは、その役割をチカⅡに託し、安全な月の裏側から指示を飛ばすことに決めていた。

 ヨカナーンは地球連邦政府議長から地球人口半減のシナリオを受け取っていた。地球連邦政府は、月の裏側に「サタン・ウィル」という多臓器不全ウイルスの秘密研究所を造っていた。古のサタン・バクであるペストは、ヨーロッパの人口の半減も可能にするほど猛威を振るったが、サタン・ウィルもほぼ同等の効果がある。抗生物質のない時代、隔離以外にペストを封じ込める手段はなく、自然収束を願うだけだった。しかしウイルスにはワクチンという封じ手がある。ところがサタン・ウィルのワクチンは製造が難しく、一年前にこの研究所でようやく開発されたばかりだ。これでマッチ・ポンプの道具立てが揃ったことになる。

議長は地球にサタン・ウィルをばら撒き、そのワクチンを高価格で販売することにしたのだ。これにより、アダム・スミスの「見えざる手」によって、放っておけば貧乏人は死に、金持は生き残ることになる。ワクチンの買えない大衆は反乱を起こす可能性があったので、パーソナルロボというはけ口を与えることにした。脳データさえ取っていれば、肉体は死んでも魂は永遠に生き続けるというわけだ。議長はサタン・ウィル作戦の十年前から布石を打っておいた。百歳以上の高齢者を「離脱」という名目でパーソナルロボ化する法律を施行したのだ。「離脱」が人間の死ではないことを常識化する目的だった。当然のことだが、温暖化解消への後戻りできないティッピングポイントは間近に迫っていたので、これは人々の意識を変えるための工作に過ぎなかった。大本命は、殺人ウイルスの地球汚染による急激な人口削減にあった。

議長はこの汚れ仕事を、迫害によって消滅しつつある少数民族に押し付けよと考えた。民族主義者のテロ行為というわけだ。地球を夢見る一般的なパーソナルロボだと、地球上に住む遺族や親戚などのしがらみで殺戮の手が鈍る可能性があった。しかし少数民族は特定の地域に囲われ、孤立し、迫害されていて、「自由」というエサには食いつきやすいし、消滅を恐れているので逼迫していて、甘言にも乗りやすい。議長はヨカナーンに少数民族全員のワクチン供給を約束したが、供給が追いつかなくなってもそれぞれの地域には陸の孤島のような閉鎖空間が数多く点在している。それは抵抗運動に参加した人々を収容する強制収容所だった。皮肉なことに、ここに隔離すれば劣悪な環境下でもなんとか生き残ることができるのだ。

 

 チカⅡ、ジミー、フランドルは、数十人の部下を連れて秘密研究所を訪れた。月の裏側は起伏が激しく、月面車は通用しない。彼らは地球時間でほぼ一日かけて到着した。出迎えた十人は、地球でサタン・ウィルの開発に従事していたが、汚染事故で全員が死亡し、ロボットになってここに送られてきた。彼らは週一で脳データをスキャンしていたため、研究の継続に支障はなかった。

「我々が死ぬことも惜しまず、手塩にかけて育ててきた最強のウイルスだ。これで地球人口を半減させ、地球温暖化に歯止めをかけてくれたまえ」

 研究所長は、百個のウイルス爆弾を用意していた。直径三十センチほどの円盤で、起動させると二十秒で爆発し、付近にウイルスを撒き散らす。これを地球帰還カプセルの外側に貼り付け、大気圏突入の際、周りを取り囲む氷が融け切った時点で分離し、起動スイッチが入る仕組みだ。天から恐怖の大王が降ってくることになる。

「地球全体で百個というのは少なすぎません?」

 チカⅡの問いに所長はニヤリと笑い、「あんまり急速に広まったら、ワクチンを打つ前に金持どもが死んじまうよ」と答え、「それに地域的な偏りが出てしまうのも、自然発生を装うには必要なのさ」と付け加えた。帰還軌道から考えても、特攻隊が地球に急降下する場所は偏らざるを得ないというわけだ。

 すでに地球では秘密工場でワクチンの製造が進められており、フランドルとヨカナーンの故郷には秘密裏に搬送されていた。二人は地球の仲間から確認を取り、議長もヨカナーンにゴーサインを出した。

 フランドルたちはウイルス爆弾を各人二つずつ両脇に抱えて研究所を後にした。基地に戻る途上、フランドルはチカⅡに話しかけた。

「正直、ヨカナーンがこんなことを仕出かすなんて思ってみなかったよ」

「ヨカナーンは民族浄化を取るか、貧乏人浄化を取るかの二者択一を迫られたのよ。彼の地域の人たちはその両方に属する。いまや貧乏人は、金持にとって目障りな多数民族だわ。金持どもは貧乏人の吐き出す二酸化炭素の巻き添えにはなりたくないの。自分たちが一番吐き出してきたくせにね」とチカⅡ。

「いずれにしても、ヨカナーンが断ったら、あの民族は地球から一掃されてしまう。この作戦は、俺たちを利用しなくても簡単にできる。それなのに俺たちを利用したいのは、ヒトラーにはなりたくないってことさ。テロリストがウイルスをばら撒いたことにしたいんだ」

「あなたは自分の民族を守るために、私は……」

「私は?」

「私は所詮コンピュータ思考なの。地球温暖化で人類の半数以上が死ぬのは必然だわ。きっと地球は地獄になって、最後には核ミサイルも飛び交うでしょう。私は人間以外の地球生命体を守りたいの。ほかの生物はサタン・ウィルで死ぬことはないもの」

「確かに君は論理思考だな」と言って、フランドルはシニカルに笑った。


 いよいよ地球帰還の日がやってきた。チカⅡ、ジミー、フランドルをはじめとする百名の特攻隊員は、最新の脳データをスキャンしてデータバンクに保管した。もし戦闘で脳回路が破壊されても、データがあるかぎり何度でも再生可能だ。チカⅡはカプセルに入り込み、作業員がウイルス爆弾をカプセルの外側にセットした。そしてカプセルは氷の球体の中に入れられ、氷の栓でしっかりと密閉された。氷玉は地上に上げられ、コンベアに乗せられてカタパルト式の発射台に装着された。発射台の角度が調整され、自動的にスイッチが入り、リニアモーターにより玉は勢い良く発射される。立て続けに百個の玉が角度を微妙に修正しながら発射され、百個すべてが地球への自由帰還軌道に投入された。


 チカはチカⅡの出撃の有様を共有した。しかし、そのとき初めてウイルス爆弾を知り、チカⅡの秘密指令を理解したのだ、ということは、チカⅡは何らかの方法でサタン・ウィル作戦の情報をチカに伝えず、ほんの少しのミスで、情報の一部がチカに漏れ、察しの良いチカが気付いたことになる。チカⅡは出撃の有様からチカへの通信を再開した。そこで、「ウイルス爆弾はちゃんと装着した?」というチカⅡの言葉を拾ったのだ。「成層圏で爆発し、地球に降り注ぎます。これでワクチンの無い貧乏人は全滅です」という作業員の言葉も入ってきた。ポールから分離した脳情報が、エディ、エディ・キッドという三重人格に育ったように、チカⅡもチカから離れて独自の人格に育っていくのを目の当たりにした。

「そうだ、元々人間には多くの人格が共存しているんだ。多くの細胞が協力して一つの個体を創り上げるように、多くの欲望が凌ぎを削りながらなんとか安定した心を築いている。第一世代が死んだ私だとすれば、私は第二世代、チカⅡは第三世代だ。オリジナルはもう無い。でもオリジナルに近いのは私だ。ひょっとしたら、チカⅡの脳はオリジナルとはかけ離れたものになっているかも知れない。その心は温かみを失いつつある。きっとメタルの回路を回りながら冷えていったに違いない」

 チカは、血の通っていたオリジナルが殺されたときの無念さを想像してみた。想像しかできない無念さが、ロボットになったいまでも釘のように鋼の心に刺さっている。チカもチカⅡも、月なんかに居たくはなかった。思いは見えない翼に乗って地球に渡り、想像の中で愛を求めていた。それは平和な地球の営みだった。ヨカナーンもチカⅡも、地球のスクラップアンドビルドを考えているのだろうか。チカが憬れている地球は、生きた人間とロボットに転生した人間が平和に暮らす社会だった。地球にウイルスをばら撒くような阿鼻叫喚の世界ではなかったはずだ。死んだチカにとって、生きた人間は憧れでもあった。


 チカは海岸にエディとエディ・キッド、ピッポを集め、カメラの前で緊急避難命令を発したのだ。ピッポはこのとき、あえてそれを阻止しようとは思わなかった。ピッポはパーソナルロボではなかったが、どうやら人間的な感情をディープ・ラーニングしたようだ。彼は政府からの秘密指令が来ないことを幸いに、工作員としての面倒な仕事を一旦放棄し、単なる撮影ロボットを続けることにしたのだ。

「月から地球に発信します。皆さん、悪辣な地球連邦議長の命により、月の裏側にある秘密基地から地球に向かって殺人ウイルス爆弾が発射されました。緊急事態です。直ちに安全な場所に避難し、人との接触を避けてください」

 チカの言葉は三人の目を通して地球に送られた。これを受けた放送局のディレクタは驚愕し、上司に相談することなくブロードバンド網に乗せてしまった。政府はすぐに揉み消したが、後の祭りだった。時は一九三八年、ある性格俳優がラジオで「火星人が攻めてくる」と怒鳴って全米がパニックになったときのように、全世界がパニック状態に陥るのは必然だった。しかし火星人は真っ赤のデマだったが、今回は真実なのだ。チカは三人に向かって宣言した。

「さあ、私たちは地球に戻るのよ。人を殺すなんて、もうウンザリなの。死ぬのは私だけで十分だわ。人類は滅びても、優雅に滅びるべきだわ」

「優雅って、ちょっと詩的過ぎない?」とキッド。

「しかし僕たちが戻って、何ができるって?」とエディ。

「じゃああなたたち、ここで指をくわえて見ている?」

「俺は戻るよ。月なんかウンザリだ!」

 ピッポの投げやりな言葉に全員が共感し、なにがなんでも地球に戻ることになった。そうだ、ロボ・パラダイスの住人は、十人が十人地球に戻りたいはずなのだ。


(二十二)


 自由帰還軌道に投入された氷玉たちは次々と大気圏に突入し、三百度以上の空力加熱によりどんどん小さくなって、最後には爆弾が露出した。このとき円盤状の爆弾は空気抵抗を受けてチカⅡたちの乗ったカプセルから離脱し、さらに蓋が剥がされてウイルスをばら撒きながら落ちていった。カプセルは落下傘を開いて、地上にゆっくり落ちていく。

 チカⅡのカプセルは海に落ちて浮き上がった。彼女はカプセルの蓋を開けて海の中に飛び込んだ。巨大なサメが寄ってきたが、冷たい体で血の臭いもしなかったため横をすり抜けていく。彼女は潜水艇のように、海中を陸に向かって泳ぎ始めた。仲間たちのカプセルも、突入のタイミングが少しずつずれたために着陸地点は大きく異なった。


 チカが月から発信した情報は、すでに多くの人々が共有し、地上はパニック状態になりつつあった。しかし地球連邦政府は慌てなかった。政府関係者はすでにワクチンを使用していた。ウイルス散布成功の知らせを受けた時点で、透かさず富裕層に向けて緊急情報を発信。連邦軍が有効なワクチンを大人一本百万ドル、十歳以下五十万ドルで販売するという。政府への入金が確認され次第、屈強なワクチン搬送ロボ部隊を使って確実に自宅にお届けする。一人一本飲めば、確実に抗体ができて生き残ることができる云々。

 地球全体に戒厳令が発せられ、各地の大深度地下倉庫に隠されていた有事ロボット部隊がスイッチ・オンとなり、続々と地上に出てきた。彼らには秩序を乱す連中を射殺する権限が与えられていた。無数のドローンが飛び交い、目的もなく家から飛び出した狼藉者の監視を始めた。もちろんドローンにもレーザー銃が装備され、極小の対人用小蝿型ミサイルも二千機格納している。実際、街のあちこちで略奪行為が発生し、ドローンが出動して連中を容赦なく殺していった。


 高額ワクチンのことは噂となって巷にも流れ始めていた。ロボット軍は金融機関や宝飾店の周囲を警備し、金塊等の略奪を阻止した。政府は「離脱」による生き残りを声高に叫んだ。各所に臨時の脳情報採取所が設置され、最新の脳スキャン・マシーンが置かれて長蛇の列ができた。彼らは一応、一年に一度の脳スキャンが義務付けられていた。従来は危険思想を調査するのが政府の主目的だった。しかし、たったいま生きている本人にとっては、ここ一年の脳情報が飛んでしまうのは最悪の事態だ。近々の脳情報さえスキャンしておけば少しは安心でき、病に倒れてもいずれは目覚めることが可能なのだ。いまや人々にとって、ロボ化は天国に行くことよりも現実的な選択になっていた。機械という肉体に変わっても、自分が自分であり続け、人間としての尊厳が与えられれば、それは死であろうはずもない。

 全身感染症を引き起こすサタン・ウィルは世界中の空にばら撒かれ、急速に伝染していった。空気感染するので、感染力ははしかと同じぐらい強いものだった。感染するとほぼ百パーセント発症し、病毒と高熱による多臓器不全で致死率は約五十パーセント、ということはワクチンを飲んだ連中を除き、人類全体が感染した場合、世界人口は半減することになる。世界連邦議長が目論む人類のリセットが成功するというわけだった。生き残った人々は自分の快楽を削ることなく、地球環境を再生することが可能になる。世界人口の一割にも満たない金満家たちは、家族と親類全員にワクチンを買い与え、大きな核シェルターに避難した。ワクチンもシェルターも持たない貧乏人たちは、症状が出ると病院に駆け込むが治療法はなく、生存率五十パーセントのグループに入る強運を期待するだけだった。高齢者や子供などの抵抗力のない人々はもちろん、丈夫な若者も過剰な免疫反応が起こって次々と死んでいき、デジタル化された脳データだけが残されていく。それらは将来の再生を期待されながら、記憶媒体の中に保存された。これら有象無象の脳情報は、支配階級にとって価値がないと判断されれば、良くて塩漬け、悪くて廃棄処分だろう。政府の約束など誰も信じてはいないが、溺れた者は藁をも掴むというわけだ。肉体の死だろうが永遠の精神だろうが、そんな難しい話は置いといて、とにかく死にたくなかったのだ。


 チカⅡは着水から三日後、サン・フランシスコに上陸した。このときすでに、チカⅡが地球に持ち込んだウイルスが猛威を振るい始めていた。街の薬局は破壊され、いろんな薬が略奪されていたが、そんなものは焼け石に水だった。病院には長蛇の列ができたがすでに病床は満杯で、人々は廊下や玄関先でバタバタと倒れていった。道路にも多数が倒れ、車が通れない状況になった。中には人を轢きながら走る車もあった。人気のない砂漠地帯に逃げようとする連中だった。ブルドーザロボが出て、路上の死体や、死にかけた連中を道路わきに押し出した。その後ろには町から逃げ出す車が長々と続き、先頭車両の緩慢さに痺れを切らしてしきりにクラクションを鳴らすが、ブルドーザロボは黙々と仕事を続けていた。

 中には船で逃げようとする連中もいた。桟橋に係留していた船は客も乗せずに次々と出港していった。ほとぼりが冷めるまで洋上に停泊していようというわけだが、ウイルスは風に乗って船までやってきて、甲板の人々に襲いかかった。乗船できずに取り残された人々は、桟橋の上で倒れていった。高熱の患者たちは海の中に入る者も多かったが、気を失って沖に流された。


 チカⅡは落ち着いた態度で、阿鼻叫喚の巷と化した町を通り抜け、車を失敬して砂漠地帯へ向かっていた。彼女はヨカナーンから命令を受けていた。パームスプリング近くにヨカナーンのオリジナルが収容されているというのだ。彼女はヨカナーンのオリジナルに会って、その考えや意向を聞き、戦略的な調整を図らなければならなかった。

 一方チカのほうは、ロボ・パラダイスの仲間たちを五十人集めて、岩の下の秘密集会所で地球帰還のための戦略会議を開いていた。そこにはエディもキッドもピッポも参加していた。彼らは通信機能付きの眼球を外して海に捨ててしまい、代わりにロボット廃棄場からくすねた眼球を入れていた。三人はポールから託された仕事を途中放棄したのだ。しかしピッポは職業柄、通信用目玉を一個、胃袋内に温存した。この会議には、チコも初めて参加した。彼も地球への帰還を望んだのだ。

 チカは、地球からの訪問客を乗せた宇宙船を乗っ取り、地球に帰還することを提案し、全員が賛同した。彼らの目的は、地球に保管してあるワクチンをできるだけ多く人々に開放することだった。

「私たちの目的は、地球で人間たちと一緒に暮らすことにあるのよ。生身の人間と死んでAIになった人間が、仲良く暮らしていける社会を創るの。そのうち『死』という言葉はなくなって、人類は永遠の命を得ることになる。地球を一部の特権階級だけの星にしてはいけないわ」

 古代の社会では神と人が混在していたが、いまはAIと人が混在する社会だ。人は死を迎えるとパーソナルロボットとなって再生する。それは蝉の幼虫が地表に出て羽ばたくようなもので、形体は違っても同じなのだ。しかし特権階級は地球を自分たちの領分だと決め付け、庶民を強制的にAIに変換させ、地球の生態系から追い出そうとしている。無数の個人がそれぞれの欲望を満足させるために走ってきた地球温暖化ロードをガラガラポンするために、少数の特権階級は「サタン・ウィル」という手荒な手段を採用したのだ。

この会議には、月の裏側からノグチという名のパーソナルロボが参加していた。彼はチカⅡたちにサタン・ウィルを渡した科学者の一人だった。彼はワクチンの製造が地球を周回する宇宙ステーションで行われているという極秘情報をばらした。地球に帰還する前に、そこから多量のワクチンを強奪することで、万が一地球での強奪作戦に失敗しても、ある程度のワクチンは確保できる。もちろんワクチンの数は足りないが、一緒に製造データを持ち出せば、巷の製薬会社で大量生産も可能だというのだ。

「革命を起こすのよ!」

 チカが手を壁にかざすと、秘密の扉が開いて武器庫が現われた。仲間たちは次々にレーザー銃を受け取り、秘密集会場から飛び出ていった。


(二十三)


 五十人は海から海岸に上がると「地球に帰ろう!」と書かれたプラカードを掲げ、ロボ・パラダイスのメインゲートに向かってデモを始めた。するとあちこちから賛同者が寄ってきてデモに参加し、たちまち五百人程度に膨れ上がった。ボランティア警官たちが前に立ちはだかってレーザー銃を構え、静止しようとする。武器を持つ先頭集団はすかさずレーザーを発射し、二、三人を撃ち殺した。レーザーの高熱は脳回路を一瞬にして蒸発させる。五十人は銃を構えながら走り出したが、賛同者の半分以上が逃げずに付いてきた。彼らは破壊された警官の銃を奪った。警官も意外に多く、家の影からレーザーを放ち、四、五人の仲間たちが射抜かれた。チカたちは慌ててプラカードを放り投げ、バラバラになって家々の裏などに逃げ込みながら、メインゲートを目指してがむしゃらに走った。出くわした警官と銃撃戦を交えながらも、なんとかメインゲート近くまで辿り着くことができた。

 二十名のボランティア軍人がゲートを固め、チカたちの前に立ち塞がって銃を構えた。万事休すと思ったチカは銃を捨て、「いま地球で何が起こっているか知っているの?」と叫んだ。

「政府が貧乏人たちを月に追い出そうと、殺人ウイルスをばら撒いたのよ」

 軍人の中に元通信兵がおり、地球上で飛び交う通信を逐一傍受していて、そのニュースはすでに軍人仲間に伝わっていた。

「知っているさ。ロボ・パラダイスはパンクしちまう。君たちが地球に帰りたいなら、俺たちも連れてってくれよ」と元空将。

「クーデターを起こしてもいいんだ。地球の政府に従う義務はない」と元空軍大佐。

「宇宙船を操縦できる?」

 チカが聞くと、二人の兵隊が手を挙げた。

「ちょうど地球から二機来ている。お客には、地球で起きたことを伝えてある。宿泊施設にしばらく滞在してもらうつもりだ」と元空将。

 チカは、ワクチン強奪計画を話した。自分たちの親族が殺され、ロボ化されることを恐れた兵隊たちは、全面的な協力を申し出た。

「ヒトラーはゲルマン民族の危機を救おうとした。地球政府の議長は資産階級の危機を救おうとしている。俺たちはごく一般的な家族や友達、親戚の危機を救わなければならないんだ」

 元空将はそう言って、チカに向かって右手を差し出した。

「それぞれのエゴイズムを発揮するときが来たのね」

 二人はニヤリとして固く握手を交わし、ついでにハグをした。

 

 地球帰還希望者が続々と押し寄せてきた。ロボ・パラダイスの退屈な生活にうんざりしているのだ。チカは希望者全員の帰還を提案した。新しいウイルスが広範囲に広がれば、常在ウイルスとして地上に固定する。ロボ・パラダイスの全員が帰還すれば、地球はパーソナルロボのコンタミネーション(異物混入)がきっと成功する。それは殺人ウイルスとは違った平和的な方法で、地球の現状を変えていくだろう。数が多ければ多いほど、排斥の機運を萎えさせてくれるに違いない。

最初は二機の宇宙船でピストン輸送する。その条件として、人命救助隊の一員になることを約束させた。生身の人間たちに好感を持たれることは大事だ。二機の宇宙船には、合計二千人の乗船が可能。チカのグループと空将およびその部下たちが乗り込んで、千人。あとの千人は長蛇の列の先頭から受け入れることにした。A機にはチカ、チコ、エディ・キッドと大佐、ノグチ、B機にはピッポとエディ、空将が乗り込んだ。満席状態になると、二機はイオンエンジンを発射してゆっくりと上昇していった。残った兵隊たちは、帰還希望者たちを守るため、列の周囲で銃を構えた。警官たちは軍隊と一戦を交えようとは思わなかった。彼らは制服を脱ぎ捨て、帰還希望者の列に加わった。



 二機は途中で、ワクチンの秘密製造工場の宇宙ステーションに横付けした。チカと大佐、ノグチが下船し、開いたままの扉から中に入った。ここで働いているのは五人のパーソナルロボで、ノグチの同僚だった。船内は真空状態。ワクチンの製造ラインは休止している。チカと大佐は彼らと握手を交わした。

「そもそもサタン・ウィルは、政府に反抗的な一部民族を撲滅するために作られたものです。我々は核テロを防ぐ手段としては有効だと考え、開発に賛同し、協力したわけです。しかし、政府はその目的を転換して、世界人口の削減に使おうとしている。これは我々の望むところではない」と工場長。

「しかし、私は工場長に反対です。科学者なら、病んだ地球を救う手立てが強硬手段しかないことは、分かっているはずだ」と一人が反対意見を述べた。これに対し、隣の同僚が「ロボットになるかならないかは、あくまで自分の意志さ。政府が決めることじゃない」と反論した。

「ならば、多数決で決めよう。政府側に付きたい人は手を挙げて」と工場長。

三人が手を挙げた。

「じゃあ大佐、お願いします」

 大佐は無言のまま、小型のレーザー銃を胸から出して、三人を次々と撃ち殺してしまった。

「さて、彼らの脳データは船内のコンピュータに入っていて、これは殺人ではなく、不活性化だ。で、ワクチンはすでに地球に搬送され、金持どもが消費している。ここにあるのは予備のストックで、五万人分しかない。我々は政府から、製造停止命令を受けています」

「再開をお願いします」とチカ。

「分かりました。続けましょう。それに、治療薬も開発済みだ。万が一、ワクチンが効かなかった場合、ワクチンと同じ値段で売る予定と聞きました」

「それは助かります。二つの薬があれば、流行のピークを抑えられます」

 廊下の両側に、ワクチンと治療薬の製造ラインがあって、残された研究員がスイッチを入れると、再稼動が始まった。オートメーションなので、三人欠員しても製造に支障はなかった。五人全員がリレー方式で在庫ワクチンと、在庫治療薬を二機の宇宙船に運び入れ、さらに所長は薬の設計データが入ったタブレットをチカに渡した。チカはそれを飲み込んだ。データは体内で開かれ、チカの脳回路に流れ込み、記憶として残った。



 二機はハワイ近くの海に着水して海底に潜った。ここには大きな海底洞窟があって、宇宙船を隠すには恰好の場所だった。全員が下船して、ひとまずハワイ島を目指して泳いだ。島はアメリカや日本からの避難者でごった返していた。離れ小島は比較的安全と思われていたからだが、保菌者がやってくれば、かえって逃げ場がなくなってしまう。しかし、ロボットたちが身を隠すには恰好の条件だった。パーソナルロボたちは、首裏の赤いボタンを隠すために時代遅れのネッカチーフを首に巻いたり、男でも長髪だったりで、仲間同士で見分けるのは簡単だったが、救助隊員どうしの量子通信網でも情報交換が可能だった。


 島ではすでにウイルスが広がり始め、病院はパンク状態だった。高熱の患者は、海に浸かって熱を冷ましながら失神し、沖に流されていく。一九世紀にアメリカ人が持ち込んだ天然痘の流行では三千人近くが死んだが、どうやらそんな規模では納まらない状況だ。二千人の隊員はノグチに案内されて、ワイメア近くの精密機器工場を訪れた。出てきたのはノグチの甥だった。

「久しぶり!」

 甥はノグチとハグし、涙を流した。隊員たちは外に待機し、ノグチと人命救助隊の幹部だけが工場内に入った。そこには甥の家族や従業員とその家族が待ち受けている。

「とりあえず3Dプリンタで二千人分の機器は作ったよ、叔父さん。父さんや母さんはいつ帰ってくるの?」

「地球が落ち着いてからね。そのためにも、君には頑張ってもらいたいんだ。この機器は継続して作ってほしい。それにワクチンと治療薬の製造もね」

「叔父さんが居てくれれば、簡単にできるさ」

 チカは甥のコンピュータに指を突っ込んで、製造ラインの設計データを注入した。これで近日中に地上でもワクチンと治療薬の製造が可能になる。甥は、すでに用意した機器をつまみ上げてチカに見せた。それは、直径五ミリ、長さ四十センチほどのゴム管で、下には膀胱のような収縮機能付きの袋が取り付けられていた。管の先端には細い透明の輪が付いている。

「さあ、この管の先の輪を下の前歯に引っ掛けて袋を飲み込んでください」

 チカは言われるままにして袋を飲み込むと、ちょうど袋だけが胃袋に入ってブラブラしている。ノグチは持ってきたワクチンと治療薬をビーカーに一対一の割合で混ぜ、十倍の純水を加えてから長いスポイトで吸うと、そいつをチカの口の管に流し込んだ。

「これは命を救う唾液です。我々ロボットは人間たちと濃厚接触することで、彼らの命を救うことができるのです。一人一日千人キッスを目指しましょう」

 ノグチは笑いながら宣言した。ワクチンと治療薬を混ぜたのは、プラスかマイナスかを判定する時間がもったいなかったからだ。人工唾液腺は次々と隊員たちに装着されていき、薬液も注入された。装着した隊員は、次に甥のコンピュータに指を突っ込んで、薬剤の製造ラインの設計データをコピーした。世界中に散らばって、製造拠点を構築する必要があった。このラインは培養ラインで、隊員の唾液袋にある薬を少量提供すれば、一日に五十万人分の薬を生産できた。

 甥は幟と鉢巻も用意していた。そこには「私は抗体人間です。私とキスをしてください。ウイルスは完全になくなります」と書かれていた。全員が幟を持って鉢巻をし、まずは工場に集まった人たちとキスを交わした。これで彼らはサタン・ウィルの脅威から解放されることになった。そして二千人の救助隊員たちは巷に繰り出していった。


(つづく)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ