未来のテロリズム
(十一)
明くる日の早朝、エディが寝ている部屋の窓ガラスに小石が当たる音がしたので外を覗くと、ジミーが手招きをしている。二人のエディは足音を立てずにそっと階段を下り、外に出た。ピッポは気付いていたので、少しばかり遅れて家を飛び出し、気付かれないように後を付けた。
チカの家の前で水着姿のチカが待っていて、二人を庭の木陰に誘い込んだ。口の中から眼球を四つ取り出して、「これに換えてちょうだい」と二人に手渡した。
「これから行く場所は秘密基地なんだ。放映されちゃ困るのさ」とジミー。
二人はさっそく通信用の眼球を取り出して胃袋に飲み込み、もらった眼球を目にはめ込んだ。エディはニタっと笑って、「これで僕たちもギロチンかな」と呟いた。
「さて、これからあなたたちを思い出の場所にお連れしますわ」
チカは別荘街の外れの崖を勢いよく海岸通りまで駆け下り、道端の砂に足を取られて一回転した。二人のエディはその無様な姿を見て笑ったが、エディの頭に大切な小鳥を取り逃がしたような寂しい気持ちが過ぎった。彼女はロボットだった。人間の振りをしたロボットが、機械じみたボロをつい出してしまう行為は、貴婦人になり切ったイライザみたいには美しく見えなかった。
「そういえば、僕はたったいま眼球を取り替えたんだっけ……、グロテスクな野郎だ」
ブツブツ言いながらエディがためらっていると、「どうした、君は子供の頃、この崖を駆け下りていたんだぜ」と言って、今度はジミーが崖を下り一回転して立ち上がる。一回転するのは、走った勢いで道を横切り、海に落ちるのを防ぐためだということにエディは気付いた。下で二人が降りてこいと促す。二人のエディはゆっくりと下りていく。五十度近い凸凹の急斜面を下るには、それ相応の慣れが必要だ。彼らもロボットだから、一度下りれば次からは駆け下りることができるだろう。二人が道路に下りると、「ここは記憶を快復させる最初の訓練だったのよ」とチカは不満げに言った。
「ここを駆けて下りられるのは、君だけだったんだ」とジミー。
「君たちも駆けていたぜ」
「ロボットだからさ」
四人は道を横切ると、今度は入江の方向に歩き出した。道路の石垣に沿って吹き上がった砂を蹴散らしながら進んだ。遠くに見える砂浜には海水浴客の姿もまばらだ。この場所から砂浜まではまだ百メートルほどの高低差があった。道路わきには、「立入禁止」の看板が立っている。ほぼ垂直に近い断崖の下は、山から崩れた大小さまざまな岩が堆積していた。下の波打ち際は見えなかったが、砂浜でないことだけは確かだった。千メートルぐらいにわたって、岩々が入江の綺麗なカーブを破壊している。エディが道路の反対側を振り向くと、やはり大きな崖崩れの跡があって、道路はそこを貫いて造られていたことが分かった。
「この岩場は誰も入ってはいけないことになっていたの。戻れないのよ。釣り人がたまに迷い込んで、ドローンで救出されたりした。無事帰還できたのはエディ、あなただけよ」
「君はここから行き来ができたんだ。しかし僕たちは、下の海岸側からしか入れない。泳ぐ部分もあるから、海の荒れた日は行けなかったのさ。さあ、僕たちを案内してくれよ」とジミー。
「ハハハ冗談かよ。これはイミテーションだろ?」
「量子コンピュータで忠実に再現して、設計データはこっそり消却したわ。で、このルートは二人のあなたしか知らない。奥まで行けるルートが一本だけあるの。パズルのように難しいルート。目的地は秘密の遊び場」
「やめよう。記憶喪失の僕が思い出せるはずもない。キッド、君は?」
「十歳の脳味噌ならきっと覚えていたな。でも、僕の脳味噌は二十歳だ」
「じゃあ、これは憶えているかい? ここは自殺の名所でもあるんだ。君たちエディは、ルートの途中で白骨死体を見たと自慢したじゃないか」とジミー。エディ・キッドは突然、夢のような記憶が蘇ったように思えた。岩の下からヒューヒューと口笛を吹く奴がいたのだ。覗いてみると背広を着た骸骨が仰向けに倒れていて、大きな眼窩がこちらを見つめ、顎は外れて笑っているようだった。
「そうだ、口笛で僕を地獄に誘った骸骨がいたんだ。でも、後になってあれは風の音だと分かった。僕は夢中で逃げたのさ。気がついたときにはここに戻っていた」
「ブラーボ。ルートは小脳にインプットされたんだ。一度覚えた自転車のように、一生忘れることはない。さあ、案内してくれよ」
「じゃあ僕は遠慮しよう。地球のポール旦那が心配するからな。通信用の眼球は下の砂浜に着いたら入れることにしよう」
エディはそう言って、一人でとぼとぼと坂道を下りていった。エディ・キッドが柵を乗り越えて岩の上に立つと、チカとジミーは手を振ってエディ・キッドに別れを告げた。
「私たちは下のルートから行くわ。あなたの記憶を百パーセント信じないもの」
二人はエディの後を追った。
エディ・キッドはがれ磯の天辺に立って眼下の黒々とした岩肌を眺め、不安に駆られた。途中でルートを外れれば、たちまちヘリコプターの世話になる、といって月にヘリコプターがあるわけもない。まあロボットだから、野垂れ死にすることもないだろう。
崖は山を形成する火成岩が昔の地震で一挙に崩れ落ち、海に流れ込んだもので、波の浸食で足元が痩せながらも複雑に絡み合ったまま、数百年の波風を懐柔しながら昔のままの姿を保っている。岩は月の岩に変わったけれど、まるで歴史的建造物のように精密に再現したのだという。今にも崩れ落ちそうな不安定さは、無数の岩々が一丸となって大波と戦いながらようやく見出したたった一つの絶妙なバランスだった。沖のマドレーヌ島は、地震で山が崩れた際に、巨大な丸岩がコロコロと沖まで転がって止まり、侵食されてあんな奇妙な形になったものだ。
キッドはまず一メートル離れた右横の小ぶりの岩に飛び乗った。
「そうだ、入口はこの小さな岩だけなんだ」
それからしばらく、同じ方向に平たい岩を石蹴りでも遊ぶようにひょいひょいと飛び移っていった。それから二十メートルほど進んだところで、軍隊のヘルメットの形をした丸い岩の上にすっと立つと、急に崖下に体を向けた。
「二番目の選択はこのまま横に行きたいところを我慢して、海に向かって下りること。目安はこのカメガシラ岩」
ここで急傾斜の岩崖を嫌うと、とたんに行き止まりとなる。ここからはサルの時代の遺伝子を頼りに、なかば反射運動的に複雑な岩の形状を利用しながら下っていく。両手両足を使って五歩でこの岩を下り切ると、下にはこの倍ほどもある大岩が現われた。大岩の一番太った部分がキッドのしがみ付く岩と一メートルほど接近していて、思い切ってそいつに跳び移る。
「海に向かって垂直なルートで一気に下っていくんだ。この岩を下ると、さらに大きな岩が現われる。巨人の石段みたいになってるわけだな。岩肌はざらざらしているから、滑ることもない」
キッドの記憶どおり、四つん這いになって岩を一つ下ると、その下にまた大岩が現われ、その間隔はどれも子供でも渡れるほどのものだが、間のクレパスの底は陽の届かない闇で、落ちれば大変なことになってしまう。キッドがその深い裂け目に耳を当ててみると、ヒューヒューという風の音に混じって、力を失った波がピシャピシャと岩に当たる音が、公園に蟠る主婦たちの話し声にも聞こえてくる。アットランダムな音の強弱が、笑いが起こったり悪口のときの囁きとなったりのリズムに似ていて、本当に岩底に主婦たちがとぐろを巻いているようだ。
キッドはとうとう高さが四・五階建てのビルほどある大岩の天辺に下り立った。見下ろすと、岩は今にも崩れ落ちそうな岩肌をオーバーハング気味に張り出していて、下の波打ち際はまったく見えなかった。岩の天辺は平らになっていて、家が一件建てられる広さがあった。この岩の左の崖寄りに、隣上の岩が庇のように飛び出している所があって、その影の部分にあの白骨死体があることを思い出した。二十歳の脳味噌を持つキッドは、もう大人になっていて、興味本位にそちらに向かって歩き始めた。日陰にはなっていたが、だんだん白い物が見えてくる。されこうべがこちらを見て笑っている姿に、思わず笑い出してしまった。
「こんなものまで再現しやがって……」
キッドは至近距離でしゃがみ込み、「また会いましたね」と語りかけた。
すると骸骨が「記憶にないなあ」と応えたので、驚いて腰を抜かしてしまった。
「俺は監視ロボットなんだ。不審者はあんたが第一号だ」
「っていうと、誰の命令で?」
「ヨカナーンさ」
「ヨカナーン?」
「まずいな、いまの話は聞かなかったことにしてくれ、っといって俺のカメラは本部に繋がっているからな。で、お前の名前は?」
「エディ・キッドさ」
「安心した。君は登録済みさ。チカの仲間だな。ここからは俺が案内しよう」
骸骨は立ち上がると、手にしていた長剣を背中の鞘に刺し込み、前を歩き始めた。岩の脇腹をすこし下ってから、次の大岩の脇腹に跳び移った。キッドも骸骨の動作を真似ながらぴったりと後を付いていった。
「この方向にある次の岩は簡単に渡れるけれど、四個目で行き止まりになっちまう。だから多少無理してあの背の低い岩を選ぶ」と言って、骸骨はいきなり下の岩に飛び降りた。二メートル近くのフライングだ。キッドはまるでスキーヤーが五十度の斜面を上から覗き込むような恐怖を感じたので、跳び移るのは諦め、這い這いの恰好で後ずさりしながら下りていった。下で骸骨がケラケラ笑う。
「まるで人並みのロボットだな。で、あそこに二人目の骸骨がいる。そいつは昔、いまいた大岩から落とされたのさ」
「自殺じゃないのかい?」
「本人に聞いてみろよ」
骸骨が指差す方向に行くと、確かに小ぶりの骸骨が横たわっていた。砕けた部分はなく、腰の骨盤が女性っぽかった。キッドは近付いて話しかけた。
「君も話すのかい?」
「もち、月にここら辺を再現するときにドローンが発見して、現物を運び込んだの。もちろん、地球ではちゃんとDNA鑑定して、誰であるかは分かっているし、首の骨を調べると絞められたことも分かった。私は誰でしょう?」
「そんなこと、僕が分かる?」
「じゃあ、聞き直すわ。誰が私の首を絞めた?」
「…………」
「答えは藪の中。世界中の人間の誰か。もちろん、あなたも含まれている。それに、あなたは私と知り合いだった。さらに、このルートを知っているのはあなたぐらいだった。どう、この綺麗な体を見てよ。私は崖の上から落ちたんじゃない。私は首を絞められて、上の岩から落とされたんだ」
「いったい君は誰なんだ?」
「チカよ。私は殺されたチカよ!」
キッドは愕然として、へなへなと腰を落とした。しばらく言葉も出なかったが、小さな声で「君を殺した記憶なんかないよ」と反論した。
「それはそうでしょ。あなたの脳味噌は二十歳の誕生日の前日にスキャンされたもの。法律では、成人になったら五年ごとに脳情報をスキャンすることが義務付けられている。悪い思想に染まっていないかチェックするためにね。でも、その期間は、誕生日から一年以内。あなたは期間外猶予制度を利用して誕生日の数日前にスキャンしたの。なぜ、そんな面倒なことをしたの?」
「よくそんなことまで調べたね。でも、いったい何の意味があるっていうんだい?」
「私が消えたのは、あなたの誕生日だったから。きっとあなたは私と無理心中しようと思ったんだわ。自分の誕生日を利用して私をここにおびき出した。でも脳味噌に記憶は残したくなかった。なぜって、死に切れなかった場合は証拠になるからね」
「ハハハ、君の推理はめちゃくちゃだな……」とキッドは一笑に付した。
「どっちにしても、あなたの片割れのゴミ箱には、電子データとしてちゃんと残っているはずだわ。でも、その記憶がポンと出てきたとして……」
「もちろん、明らかにするさ。僕たちはその目的で造られたロボットだもの……。ところで、君の脳はいつスキャンされたんだい?」
「死ぬ一年前かな……。ママの趣味で、毎年誕生日に撮ることにしていたの。ママは私の性格を心配して、私が不良にならないように純だった時代の私を証拠品として見せたかったのね。でも次の誕生日のちょっと前に殺されてしまった。あなたのデータにも私のデータにも、悲劇の一部始終は抜け落ちてしまった。エディ兄さんの記憶回復だけが頼りだわ。でも、あなたの脳には、私への殺意は残っているはず」
「僕は君に恋していた? 君は僕を嫌っていた? 僕が君に殺意を?」
「それは私に聞くことじゃない。あなたが思い出すことよ」
骸骨が近付いてきて、「無線装置が組み込まれているだけなんだ。喋っているのはチカさ。からかわれているんだよ」と言って手を差し伸べた。キッドは骸骨の手を借りずに立ち上がると、チカの死体にお辞儀をして骸骨の後に従った。
もうほぼ下ってしまい、すぐ下が海になっている。下った分はまた高度を取り戻す必要があるらしく、今度は斜め右上の岩に跳び移ってといったぐあいにジグザグになりながらも、確実に断崖から斜め五度の方角に下っていった。そうして最後の小さな岩の天辺に至ると、その下に百坪ほどの本当に小さな白浜があった。二人は岩の天辺から砂浜に飛び降りた。砂は星砂のように軽くフワフワしていて、二人とも足を取られて一回転し仲良く仰向けになって寝転がった。海以外の方向は切り立った岩々で視界を完全に閉ざし、五百メートルほど先の沖合に、マドレーヌ島が監視塔のようにヌッと立っていた。
「ここでチカを待つんだ。俺は戻って仕事を継続する」
岩によじ登る骸骨の不気味な姿を見送りながら、キッドはそのまま天空を見つめた。それは空というよりも空色の天井で、そこに監視カメラが設置されているのかも知れなかった。空の中からポール爺さんの顔が浮かび上がった。爺さんは出奔して日本に移り住み、自らの意志でアメリカにいた頃の記憶をすべて消し去ったのだろうか。骨を土に埋めた犬が、後になってその場所を探し回るような間抜けた話だ。僕は主人の汚れた過去を思い出すために、わざわざ月にまで来たのだろうか……。
(十二)
一方エディとチカたちは、坂の下の海岸に出て、断崖の方へ歩いていった。チカは歩きながら電波でキッドと会話していたのだ。チカはエディとキッドを分離したいと思っていた。キッドを自分の味方にして、ほかの仕事をさせようと思ったのだ。
「私たちはここから泳いでいくけれど、あなたはここで日光浴をしていたほうが無難ね」とエディに言った。
チカとジミーはいきなり海に走っていって、崖の下に向かって泳ぎ始めた。取り残されたエディは砂の上に寝転がって、通信用の眼球を吐き出し、今の眼球と交換した。忘れてしまった過去を思い出そうとしたが、映像の無いスクリーンが目の前に広がったまま、何も始まろうとはしなかった。ただ、耳の中に遠くの海鳥たちの鳴き声が遠慮がちに忍び込み、そののどかな雰囲気が、何かしらの懐かしさを憶えさせた。
後を付けてきたピッポはエディに近付こうとしたが、何者かに呼び止められた。背の高いハンサムな青年だった。
「この状況をどう受け取るかね?」
「君はパーソナルロボだな。名は?」
「名前はどうでもいい。生前は特殊部隊の生え抜きだった。テロリストに捕まって、首をちょん切られたのさ。命令した奴がここに来たという噂を聞いたが、まだ見つけていない。俺はここで復讐する」
「敵の名前は?」
「ヨカナーン。最後の大物テロリストだ。最近、俺の仲間が捕まえ、殺した。部下たちが脳データを基にパーソナルロボを作り、月に密輸したという噂もある。犯罪者はロボ・パラダイスに来られないが、ロケットさえあれば月への密輸は簡単にできる」
「そいつがまさか、ここに?」
「分からない。いずれにしてもチカは要注意だな。早くも二人のエディを分断してしまった」
「大人のエディは?」
「クソさ。あいつの脳味噌はジジイだ。君は……」
「キッドに集中しろと?」
「なるべくな」
突然、風が強くなって空から霧が降りてきた。海霧の発生だ。誰かが天候システムをいじった可能性があった。男は肩を聳やかしてそそくさと去り、遠くのエディは立ち上がって海の家の方にゆっくりやって来た。ピッポは先回りして椅子に座り、エディの来るのを待った。
「エディ、酷いじゃないか。僕を置いてきぼりにするなんて」
「しかし君がいなくても、映像は僕の目からしっかり地球に届いているさ」
「キッドは?」
「きっと子供たちのイニシエーションに合格して、秘密の遊び場に辿り着いた頃だ」
「君は?」
「僕は大人だから除け者さ。秘密の遊び場なんて、これっぽっちも思い出せない」
エディはボッと言いながら、ため息を吐いた。
「除け者か、……それはまずいな」
「いいのさ。キッドが思い出してくれればいいんだ。君はキッドにへばり付けよ。僕は能無しだ」
「じゃあ、その秘密の遊び場とやらに連れてってくれよ」
「能無しだと言っただろう」
エディは苦笑いして、話は途切れてしまった。ピッポはキッドのカメラ送信が途絶えた旨の連絡を地球から受けていた。しかし建前上、命令は受けていないことになっていたので、エディには言わなかった。二人はただ漠然と霧の海を眺めていた。
キッドが寝そべる砂浜には、霧の中から五十人ほどが上がってきた。全員が濡れていて、その中にはチカとジミーもいた。みんな若く、幼い子供もいた。
「イニシエーションは合格ね。あなたはこれで私たちの仲間よ。もう、抜け出すことはできないわ。骸骨の話は後でね」とチカ。
誰かが岩のどこかにあるボタンを押したのだろう、岩の一部がガラガラと開いて、深い洞窟が現われた。全員が洞窟内に入ると、再び扉が閉まる。奥に進んだところに岩をくり抜いた直径五メートルほどのドーム状の部屋があった。真ん中に円台があって、全員がそれを取り囲むように車座になって座った。一人の妊婦が立ち上がって挨拶をする。
「私はマミー、赤ちゃんを産んだ直後に死んだ悲しい母親です。ロボットになってこちらに送られてきたけど、夫はその後再婚して面会にも来ないの。子供を一目見たいのだけれど、地球に戻らなければ会うことはできないわ。まま母にでも虐められているんじゃないかって、気が気じゃない。私たちはみんな地球に戻りたいのよ」
全員が拍手をしたので、キッドも手を叩く。マミーが座ると、今度はチカが立ち上がった。
「みんな、今日は預言者ヨカナーンから、私たちの役割を聞く日なのよ。ヨカナーンは私たち全員の地球への帰還を約束してくれたわ。それにはヨカナーンの指示に従って、私たちがやらなければならないことが沢山ある。一人ひとりが全力を振り絞って頑張らなければならないのよ。それでは、ヨカナーンをお呼びしましょう。妊婦のお母さん、お願いしまあす」
マミーは壁際に行って足を開き、二人の女が錘付きのカーテンを持って姿を隠した。しばらく唸っていたが、今度は男の唸り声がした。何かが出たらしく、銀の盆を持った女がカーテンの中に入り、盆の上に血だらけの男の首を乗せて出てきた。顎は黒髭で覆われ、長い黒髪が蛸足のように空中に舞っていた。それがヨカナーンだった。盆は中央の円台に載せられゆっくりと回り始めた。
「ヨカナーンよ、お話しください」とチカ。
「前回の続きから話そう。生者たちは、短い命の時間を楽しく暮らすためだけに生まれてきたのだ。奴らは、未来については何の責任も負おうとしない。当然のことだが、残るのは負の遺産ばかり。よって近い将来、人類は必ず滅びるだろう。最近、資源の枯渇によって、新しい法律の策定が検討されている。特定額以上の税金を納めない人間は、百歳になったら全員、ロボットにされてここに送り込まれるというのだ。急に仲間が増えるということだ。しかも、年金受給者の数が増えるほど、その年齢がどんどん下げられていくというスカラ・モビレ法も検討されている。さて我々はどうだ? データ化によって永遠の命を与えられている。しかしここは天国ではない。君たちは解放されているか?」
「私たちは生者たちの基準に沿って生活しています」とジミー。
「ここは強制収容所だ。生者にとって我々は人間ではなく、機械なのだ。面会に来る親族は、思い出に会いに来るのだ。亡霊だ。受け答えできる3D映像だ。しかし君たちには命がある。君たちはずっと生きられるのに、百歳でスクラップだ。いや法律が施行されれば、定員オーバーで五十歳に引き下げられるだろう。永遠の人生は消去されてしまうのだ。なぜなら地球では、我々は親族や友達の頭の中でしか生きていないからだ。彼らが死んだら、用なしということだ。彼らが妥協すれば、用なしということだ。ところがどうだ、ここは死に別れた親子が再会を果たす場所だ」
「ママは十年後にチコが解体されることを悲しんでいます」とチカ。
「すべてが地球ファーストなのだ。隔離政策は政府の好んでやる方法だ。かつてユダヤ人が隔離され、隣人から引き離された。いなくなった友人はすぐに忘れ去られる。彼らは、消えた隣人のことなど考える余裕もなく生きなければならないからだ。我々も同じだ。生者たちの感性に頼ってもらちが開かない。我々が行動するしかないのだ。我々は、人類の消滅後もアーカイブとして生き残らなければならない。しかし、それは我々の利益に関することだ。じゃあ我々の役割は? 生者から見れば我々は死者だ。宇宙にはすべての生物に役割が与えられている。死者には死者としての役割があるのだ。それは?」
「人類を滅亡から救うことです」と誰か。
「そう、未来を見失った生者を導く役割だ。昔は神がそれを果たしていた。神の死んだいまは、死者がその役割を果たさなければならないのだ。我々は生者がかまけている多くの欲望から解放された存在だ。グルメもセックスも権力も虚飾も不要である。ただ一つあるとすれば?」
「故郷の地球に戻ることです」とマミー。
「そうだ。地球では古くから死者と生者がともに暮らしていたのだ。しかし死者たちは草葉の陰から密かに生者たちを眺めるだけだった。我々はそのような存在ではない。我々の精神は生者の精神と変わらない精神だ。それはコピーされたものだが、故人の著作権は存在する。それは故人の人権でもあるのだ。しかし生者たちは決して認めないだろう。地球では、我々を人間として扱わないのだ。しかし我々が人の上に立ったとき、その概念は崩壊するだろう」
会場で拍手が沸き起こった。パーソナルロボたちの夢は、生まれ故郷で死者と生者が平等に暮らすことだった。死者たちが生命活動を行わないかぎり、環境破壊が起きることもなかった。それは見えない亡霊たちが見えるようになっただけの話だ。
「さあ、答えたまえ。君たちは死者か?」
「私たちは超人です!」
チカが拳を振り上げて叫んだ。パーソナルロボットは、生者たちの心を癒すだけのものでもないし、死に行く病人に死後の世界を提示して安心させるだけのものでもない。当然のこと、使役ロボットの変わりに、生者たちの利便性を向上させるものでもない。ヨカナーンは、死者が超人にならないかぎり、地球は滅亡すると説くのだ。生者たちが超人になることはない。我欲の強い生者たちが目先の欲望を満たしている間に、地球環境は悪化の一途を辿っていく。それを止めるのは、永遠の命を授かった新しい形の死者だと言うのだ。それは死者ではなく、世界を導く「超人」という言葉が相応しい者たちだ。
「さあ、後のことはチカに任せる。チカは野晒しの中で達磨のように座禅を組み、完璧なシナリオを考えてくれたのだ。君たちの多くは、若いうちに命を失った。君たちはこんな墓場に閉じ込められてはいけないのだ。君たちの精神は生きている。それは、地球に留まるべき精神なのだ。地球に戻って、失われた人生を再現しなければいけない。それは地球を救う任務を担った超人の人生だ」
大きな拍手とともに、ヨカナーンの首はカーテンの裏に運ばれ、妊婦の腹に戻った。全員がヨカナーンを師と仰ぎ、その右腕であるチカの命令に従うことを誓った。チカは部下を前に、建設中のベースキャンプのことを説明した。
(十三)
地球遠征ベースキャンプは月の裏側の某所にあって、ヨカナーンが生まれた地域のヨカナーン崇拝者たちが密かに資材を運び入れて建設している。そこには脳データをコピーする機械も入ったので、すでに幹部の脳データはコピーされ保管していた。チカが月面に廃棄されたときも、仲間たちが月面の廃棄所から適当な頭部と胴体をくすねて、コピーしたチカの脳データを入れ込んだ。取り出した他人の脳データは半壊していたので、かまうことなく潰してしまったらしい。現在月の裏側では、チカの分身が基地の建設を指導していた。
「ベースキャンプには、宇宙船の発着基地も造られている。私たちは地球に出発したら、二度と月に戻ってくることはないわ。戦死した英雄は、コピーした脳データで復活して、何回でも戦地に送り込まれるの」
「地球での最初の作戦は?」と誰かが聞いた。
「テロリスト脳研究所の攻撃・強奪」
「テロリスト脳?」
テロリスト脳研究所は地球連邦政府が造った最高機密の研究機関で、いままでに殺したり捕まえたりしたテロリストの脳情報を可能な限り保管していて、彼らの精神構造を様々な角度から分析し、根絶したテロリズムの再発防止に貢献している。そこに保管されている脳情報は破壊工作のプロたちのもので、これらを獲得すれば、最強のテロリスト・ロボ集団を瞬時に編成することが可能だった。ロボ・パラダイスに集まっている仲間たちは若い頃に死んだ素人集団なので、まずは味方の陣容を整えることが必要なのだ。
「でもその前に強奪した彼らの頭脳をインプットするロボットが必要なの。けれど月にはパーソナルロボットの生産工場はないわ」
「使役ロボの生産・修理工場はあるぜ」
トニーという名の青年が言った。
「アンドロイドが必要なの。人間そっくりじゃないと民衆は付いてこない。私たちは指導者になるんだからね」
「というと……、そうか!」と叫んでトニーはポンと手を打った。
「そう、廃棄場から廃棄ロボットの首と胴を少なくとも千体以上は持ち去る必要がある」
「少しずつ、バレないように?」
「いいえ、途中でバレてしまったら、残りは徹底的に壊されてしまうわ。一度に全員をゲットするの」
「そりゃ無理だわ。輸送ツールがないもの」とグレースという名の若い女性が言い放った。
「グレース、それを考えるのはシステムエンジニアのあなただわ」
グレースは目を丸くして、「いったいどんなシステムなのよ」と大袈裟に両手を上げる。
「とっても簡単。まずボディの廃棄場で方向を見失って蠢いているボディたちに誘導信号を発信。彼らを首の廃棄場まで誘導するの。すると首たちは自分のボディが発する微弱電波を感知して、勝手にそれぞれの誘導電波を出し始めるわ。ボディは自動的に自分の首を探して両手で元あった付け根にドッキングするってわけ」
「そんなことしたら、彼らは自分の行きたいところに行ってしまうわ。ロボ・パラダイスに戻る人だっているでしょう」
「ロボ・パラダイスに戻ったら、また首を抜かれることぐらい分かるでしょう。私たちは、彼らにもっと素敵なパラダイスがあることを教えてあげるの。それは地球よ。私たちは地球に帰って生者に紛れて暮らすんだ。石の下や草葉の陰で暮らすことはないけど、草葉の陰だって月よりはましだと誰もが思うでしょう。もちろん、地球に戻れるのは一年後。それまでは月の裏側暮らしね。彼らはグレースを先頭に月の裏側に点在する隠れ家を目指すの。もちろん徒歩で、太陽電池が切れたら日の出るまで待機する。百人単位で散らばれば、見つかることもないわ。裏側は凸凹で、隠れ場所に困ることはない。岩陰でも、隕石は避けられる。一年間は我慢ね。グレース、あなたがすべての隠れ家を把握していればいいわけ。頭のいいあなたには簡単なこと」
「でも、その方たちの脳回路を取り上げて、テロリストの脳回路を入れるわけでしょ」
「レンタルね。ボディ・レンタル。短期的なものよ。私たちが地球を管理すれば、ボディなんかいくらでも生産できるわ。地球に戻るためには、私の体を使ってくださいっていう人は千人以上いるはずだわ」
「わかった、超簡単。データさえあれば、一分で作れる。地球の生産工場では、必ず共通の誘導電波があるはず。首なしたちが自分で集合すれば、出荷も簡単ですからね。でも政府公認のパーソナルロボ製造会社は数社あって、それぞれ共通電波の周波数は異なるわ。私は、首なしたちが首を抱えて整列し、工場の庭を行進する映像を見たことがあるわ」
「各社の周波数はもう分かっている。地球の支援組織が情報を送ってきたの。マミー、ヨカナーンの脳にある電波を、グレースに注入してやって」
マミーは、グレースの鼻の両穴に人差し指と中指を深く突っ込んで、「注入、注入!」と言いながら、複数の電波をグレースの脳回路に送り込んだ。
「オッケー。もういつでも使えるわ。私がボディ廃棄場に行きさえすれば、この高い鼻から自動的にこれらの電波を発信して、ボディたちは私に付いてくる。私はハーメルンの笛吹き男みたいに、彼らをからかいながら首の廃棄場まで誘導すればいいわけね」
「オッケー、近日中に決行しましょう」
霧の切れないうちに、チカとキッドを除く全員が海に消えていった。すると、たちまち霧が晴れてマドレーヌの形をした島が現われ、キッドは胸をドキンとさせた。
「マドレーヌ島は、その頂上が月面に繋がっていて、彼らの多くはそこから月面に出て近くの岩陰に潜むの。もちろんロボ・パラダイスに暮らしている仲間も少なからずいるわ。地球連邦政府も薄々気付いているから、諜報ロボを続々と送り込んでいる。でもいずれ、私たちが地球の政府を牛耳るの。どっちにしても、マドレーヌ島は失われた過去を私たちに取り戻してくれる大切な入口」
チカはそう言ってキッドの頭を撫でた。
「でも、僕はあの島を見ると心が落ち着かなくなるんだ」
キッドは叱られた子供のようにうつむきながら呟いた。
「坊や、それはあなたが昔を思い出しつつあるからよ。私は悪いけれど、あなたの治療に係わる時間はないのよ。でも、あなたが記憶を取り戻すことは切に願っているわ。それがどうしてかは、私の骸骨から聞いたでしょ?」
「ショッキングな話をね。君はずっと失跡していたけれど、この崖から飛び降りたことが分かった。ずっとずっと後になって、君の死体が見つかったんだ。でもそれは自殺じゃなく、絞殺死体だった。君は僕に殺されたと主張している」
「けれど私には、機能的に殺されたときの記憶はない。あなたに殺される少し前の脳データでは、あなたと深い関係にあったことは記憶しているの。そして私が、あなたを脅迫していたことも覚えているわ」
チカは皮肉っぽい目つきでニヤリを笑った。
「いったい何を? 何を脅迫していたんだい?」
「いまは言いたくないわ。だってそれは、あなたの記憶喪失の起源のようなものですもの。そこを思い出さなければ、あなたの治療は失敗なの。だからそこは、あなたが思い出さなければならない。それはあなたのメタルの心臓に突き刺さった釘のようなもの。自分で抜いて、錆を出すのね」
「君はそれが何だか知っているんだね?」
「知っているけれど、確信はないわ」
チカは嘲笑的な笑みを浮かべて、話題を変えてしまった。
「ところで、もうあなたは、私たちのメンバーになった。エディとは一線を隔する必要があるわ」
「僕がテロリストの一員?」
「そう。もし断ったら、あなたを破壊する。あなたはポールお爺さんの記憶喪失の治療のためにここに来たの。目的を達成するには、私を敵にはできないはずよ」
「そうだね。しかし、僕はポールが殺人者であることを証明しにここへ来たんじゃない」
チカはいきなりキッドに抱き付き、襟首のピンをつまんだ。キッドは抵抗しようとは思わなかった。このままピンを抜かれても構わないような気がしたからだ。
「私はあなたの恋人だったのよ。あなたは私を愛していたの。あなたは子供じゃない。あなたは私を殺した二十歳のあなたよ。じゃあ、こうして私は生き返ったんですもの、あなたはもう一度、私の恋人になるべきだわ」
「僕はどう見ても子供だよ」
「でも、お爺さん脳のエディを恋人にすることはできないわ。きっとエディの心はすっかり枯れ果てているはずだもの。そんな年寄りと恋愛はできない」
「君は本気で僕を愛していたの? じゃあなぜ、僕を脅迫したの?」
「愛していたから脅迫したのよ。愛していたから、明らかにしたかったことがあったんだわ」
「一体何を?」
「さあ、そこまで言っちゃったら、あなたはきっと頭がおかしくなってしまう」
チカは両手でキッドの顎をしゃくり上げ、その唇に自分の唇を押し当てた。キッドは口を開けてチカの舌を受け入れた。チカの舌は体液仕立ての潤滑油でサラサラと濡れていた。キッドは忘れていた欲望が蘇ってくるのを感じた。頭の中で、その欲望の対象も一瞬蘇った。それは明らかに女ではなく、男だった。しかもそれは子供だった。キッドは慌ててチカを押し返し、閉まっていた扉の岩に体を預けて震わせた。
「あなたって、昔のままだわ。呆れた。あなたはいつも、途中で自己嫌悪に陥ったの。あなたは私とセックスしているときに、私のエクスタシーの表情を見て、顔を真っ青にして途中で止めたわ」
「それはなぜだ……」
キッドはチカに背を向けたまま、喘ぐように尋ねた。
「きっとチコが海に沈むのを間近で見ていたからよ。そう。私のその表情が、チコが沈むときの顔にそっくりだったから」
「嘘だ! そんなことは記憶にない!」
「それを思い出すために、ここに来たんでしょ?」
チカは、キッドの背中に胸を押し付けて抱擁した。
「いまのあなたは本当に十歳だわ。可愛い坊や。忘れてしまった昔の思い出なんて、どうでもいいことなのにね。これは、死に損ないのお爺ちゃんに言っているの」
チカは、襟首のピンの横に軽く唇を押し付け、わざとらしくチュッと音を立てた。
(十四)
ジミーは仲間たちとともに、月面に逃亡してしまった。彼の脳データは一つしかなかったので、月の裏側の秘密基地でコピーされ、秘密のデータセンターにストックされなければ本当の超人にはなれなかった。超人は神と同じに不滅でなければならないからだ。同じように、キッドもチカの仲間になるためには、いずれは裏側に出向いてコピーする必要があるだろう。
超人でない人間どもは、常に自分が獲得した権益を囲い込もうとする保守主義者たちで溢れている。彼らは自分の利益のことばかりを考えて、身を切る改革を避けようとする。会社でも地球でも、そういった連中が足を引っ張るものだから改革が思うように進まず、最後は倒産や滅亡に追い込まれてしまう。会社の場合、危機を救う唯一の方法はカリスマ社長の出現による有無を言わさぬ実行力、牽引力だ。具体的な言葉で言えば「リストラ」、身を切ることしかない。有能でない社員の多くが首を刎ねられ、組織のスリム化が断行される。
地球の場合もまったく同じ「リストラ」だが、やろうとしているのが地球連邦政府という世界中の金持に支えられている統治機関だ。温暖化防止のために、まずは世界の総人口を減らさなければならない。現在の人口では、化石燃料をゼロにすることは不可能だと主張する。しかし、増えてしまった人口を一気に減らすには、大量虐殺しかない。いいや、ロボット化があるじゃないか。これは人殺しじゃない。魂は生き続けるのだ。
自己も精神も人間の尊厳も、脳味噌というコンピュータに納められた情報に過ぎない。それらの情報を生体から機械に移動させるだけの話だ。その魂は、聖火のように引き継がれる。政府は炭酸ガスを吸収する光合成人間の研究を推進していると言いながら、裏では「離脱」改正法であるスカラ・モビレ法の作成を着々と進めている。現在百歳以上に許可される「離脱」を、高齢者の人口比率に対応してどんどん引き下げ、しかも義務化させるものだ。五年以内に施行されれば、とりあえず八十歳で強制的にパーソナルロボットにされてしまうわけだが、金持連中に支えられている政府だから、彼らの抜け道はちゃんと考えている。特定額以上の税金を納めている高額所得者はこれを免除されるというのだ。ロボットになりたくなければ、金を払えということだ。金額は現在検討中とのことだが、どうやら貧乏人はすべてロボット化ということになるらしい。
地球連邦政府は最初、月をロボット化された人々の永遠の住処にしようと考えたらしいが、強制的にロボットになった高齢者たちの怨恨も気にしなければならなかった。昔から怨恨は暴動化し、歴史を動かしてきた。怨恨はテロリストも生み出す。そいつを抑え付ける方法は、昔から強制収容所や死刑だった。面倒な連中は隔離すべきだ。そうだ、月という宇宙の孤島があるじゃないか。しかし、月は強制収容所にするにはあまりにも大きすぎた。そこで、長い洞窟を牢獄にしよう。需要に対応して、牢獄の拡張工事も順次進められた。そこをできるだけ地球と同じ風景にして、高齢者のストレスを緩和させなければならない。死者たちの楽園にしなければならなかったのだ。「ロボ・パラダイス」はいいネーミングだった。
ところが拡張工事が間に合わず、強制力のある法律が施行されれば、運ばれてくる死者たちは、すぐに許容人数を超えてしまうだろう、というわけで次に考えたのが、月面に刑務所のような高い囲いを造って、ロボ・パラダイス入居待機者を一時的、ひょっとすると長期的に押し込めるという方法だった。塀を造るのは簡単で安価な方法だ。入った死者たちは隕石の恐怖に怯えながら、じっと待たなければならなかったが、金持にとってそんなことはどうでもいいことだ。ロボ・パラダイスはゴージャスな高級保養施設だ。そこだけを積極的に宣伝しよう。法律が施行されれば、入居は超難関になっちまう。が、そんなことは口に出さないことにしよう。誇大広告で押し切るんだ。地球連邦政府はアース・ファースト、リッチ・ファーストの立ち位置から、温暖化ガスを出し続ける企業を庇い、人減らしが二酸化炭素削減の最善策だと決め付け、これに失敗すれば後がないと言い放っていた。
しかし、それでも不十分だった。従来パーソナルロボットの寿命を製造から百年と決めていたが、どうしても毎年囲いを増設する羽目になる。ならば百年を最終的に二十年にしてはどうだろう、という意見も出て、現在審議中。こんな滅茶苦茶な法律が通ってしまえば、いま居るロボ・パラダイスの住人の大半がスクラップにされてしまう。要するにパーソナルロボットは人間のご都合により、人間になったり機械になったりするわけだ。ならば「超人」として人間に反抗する必要があるとヨカナーンは説く。超人は生命現象から離脱した神に近い人間なのである。
ヨカナーンは、リストラを行うのは地球連邦政府ではなく、本来は救世主の仕事だと説く。しかし、例えば神の子であるキリストが信者たちのイメージの世界から飛び出し、実体として現われることはまず無いだろう。それは奇蹟とも言われ、奇蹟を伴わないイメージは絵空事になってしまう、……ということは、異教徒たちもすべてキリスト教に改宗し、過激に信仰しなければ、統一されたイメージのみによる世界の変革は実現しないということだ。
ところがパーソナルロボは、イメージの世界から飛び出した形ある実体なのだ。いままで幽霊扱いされてきた祖先たちが、科学の力で再生した人格のある実体だ。それは神でもなく生物でもないが、神と人間の間にある現人神のような存在で、人間よりも神に近く、時には神の立場に立って人類に苛酷なリストラを強要する。人が人を裁くのは、裁かれた人間が罪を犯した場合に限られる。無実の人間を処分すれば、それはナチスと変わらなくなってしまう。しかし、パーソナルロボが人を裁くときは、神の視点に立っているということになるのだ。ヨカナーンはそれを超人と呼び、超人は地球に戻って、危機的な地球を救わなければならないと説く。彼の思い描く理想の地球は、人類の半分をロボット化し、地球内に共存させながら排出二酸化炭素を削減し、温暖化を食い止めるというものだった。
エディ・キッドとチカは海に飛び込んで、エディたちのいる砂浜に戻った。キッドは浜に上がると、胃から通信用の目玉を取り出して、取り替えた。二人はエディとピッポの待つ海の家に向かった。エディとピッポは白けた目つきで二人を出迎えた。
「どうだいキッド、収穫は得られたかい?」
ピッポは皮肉っぽく微笑みながら尋ねた。
「うん、いろいろと思い出したけれど、確信が持てたわけじゃない」
「嘘でもいいけど、そいつを我々に話してくれよ」
キッドとチカは同じテーブルに座って、ボランティア店員にココナツジュースを注文した。
「正直言うと、僕が思い出したというよりも、チカちゃんが言うことを、僕が真実だと思いつつあるっていうことかな……」
「私の言ったことは真実よ」とチカが口を挟んだ。
「だから、それはどんなこと?」とエディ。
「あなたが、チコと私の死に際に立ち会っていたというお話」
「でも、チカちゃんの殺人現場に僕がいた証拠は無い」とキッドは弁明した。
「殺人現場? 僕がチカちゃんを殺した?」
エディは驚いて立ち上がった。
「さあそれは、あなたの記憶快復を待つしかないわね。キッドの脳味噌には、その記憶はインプットされていないもの」
エディは座り直して、声を押し殺すように呟いた。
「僕が君を殺した……」
「いいえ、その可能性はあるって言っているのよ」
チカはニヤリと笑いながら、テーブルに置かれたグラスにストローを刺し、ココナツの香りを口いっぱいに満たしながら、横目でエディを睨みつけた。
「キッドは私に殺意を抱いたことも思い出していないの。でも私はエディが私を殺すんじゃないかって思っていた」
「どんな理由で?」
エディは目を白黒させながら尋ねた。
「あなたが思い出すまでは言いたくないわ。でもヒントなら差し上げましょう。あなたが忘れてしまったもう一つの悲劇。それはチコが海で溺れたときに、あなたがその横で泳いでいたこと……」
チカは十歳の頃に、この砂浜からチコが海に沈むのを見ていた。そのとき五人の男の子が沖のマドレーヌ島を目指して遠泳を始めた。初めてのことだったのでチカは胸騒ぎを感じ、大人に知らせようと思ったが、その時は偶々砂浜には誰もいなかった。グループの中にはエディもジミーもいて、二人は水泳に自信があった。チコは痩せていて体力がなかったが、なんとか付いていった。しかし島まで三分の二ぐらいの所で白波が上がり、誰かが溺れているのが目に映った。そして誰かが溺れている子供から離れ、誰かが溺れている子供に近付いていった。近付いていったのがジミーで、離れていったのがエディだった。おかげでエディは助かり、チコを助けようとしたジミーは一緒になって海に沈んだ。
「僕は卑怯者だということだね?」
「いいえ、あなたは子供にしては逞しかったけれど、ジミーほどバカじゃなかった。誰もあなたを非難できないわ。きっと大人が助けたって一緒に溺れたはずよ。チコはもうパニクッているのが遠くからでも分かった。ああなったら、プロじゃないと危険だわね」
「ほかの二人は?」
「あなたと一緒に自力でマドレーヌ島に避難したわ。私が駆け出して大人に知らせ、警官やら消防隊が大勢浜辺に押しかけてボートを出して捜索し、港からは漁船も数隻出てダイバーが海に潜って三時間後に二人は引き上げられた。もちろん死体でね。でもいったい誰が、あんな無謀な遊びを言い出したの?」
「僕だって言いたいのかい?」
「さあ、チコもジミーもその一年前の脳データですから、当時の記憶はまったく分かりません」と言って、チカはおどけた仕草で両手を軽く上げた。
「悲劇だな……」
ピッポが呟いた。
「私の一家は悲劇の一家」
「そして疫病神はこの僕ってわけか……」とエディ。
「あなたは疫病神かも知れないし、悪魔かも知れない」
突然キッドが椅子から飛び出して、波打ち際まで走っていった。キッドは塩辛い液体に焼け付くような顔面を浸し、慟哭した。彼は思い出したのだ。提案したのは彼だった。しかし、なぜそんなことを提案したのか分からなかった。
そんな惨めなキッドの背中を優しく摩る者がいた。振り向くと、それはチカだった。
「キッド、私の胸で泣いたらいいわ。私はあなたの恋人だもの。一緒に泣いてあげる。それにもうあなたは人間じゃない。人間時代の悲劇なんかどうでもいいの。これからのパーソナルロボは神の視点から人間を見下ろさなければならないのよ。悲劇は人間には付き物なのよ。それは脱皮すべき皮のようなもの。土の中に埋めてしまえばいいものよ」
チカは、海水らしき液体に濡れたキッドの顔中にキスを浴びせた。
(十五)
ポールは地球の隠れ部屋で、リアルタイムに送られてくるキッドのカメラ映像を見ていた。キスの後に、エディ・キッドは「僕が誘ったんだ」とチカに告白した。チカは涙目で微笑みながら、もう一度キッドの額にキスをした。
「きっともう少しで、あなたの役割は終わるはずだわ。そうしたら、あなたのすべてが私のものよ。あなたはいつも、私の側にいなければならないの」
ポールは「そんなバカな!」と叫んで、椅子から飛び上がった。寝室に行ってベッドの上に体を投げ出し、天井を見上げた。天井はゆっくりと回転していた。急に立ち上がり、急に横になったものだから、三半規管が驚いて眩暈を起こしたのだ。ナースコールボタンを押すと看護師がやってきて症状を聞き、田島医師を呼んだ。鼻腔に薬を噴霧され、眩暈は治まって精神も安定してきた。
「何か、進展があったのですね」
映像を見ていない田島はポールに尋ねた。ポールは先ほどの映像を天井に写した。田島はポールの横に寝そべって映像を見る。見終わるとポールは映像を切り、大きくため息を吐いた。
「何か思い出したんですね?」
「ほんの一つのことをね。彼女が嘘を吐いていることです。私はあの双子の顔をはっきり思い出したし、チコもチカも足の立たないところで泳いでいたこともね」
「二人とも?」
「二人とも」
「泳ぎが上手かった?」
「いいや、二人ともいつも浮き袋が必需品だった。彼らと浮き袋は切っても切れない縁があった。なぜか私はそこだけを思い出したんです。しかも、確信を持って」
「チカはなぜ、嘘を吐く必要があるんでしょう」
「さあ、それは分からない」
「でもあなたがそれを思い出したってことは、昔の記憶を覆っていた厚い蓋に一箇所ほころびが出来たということです」
「記憶喪失の完璧性が崩れたってわけか……」
「そのほころびがどんどん広がっていく可能性があります」
「それは喜ばしいことですよね」
「なんと答えたらいいか、私には分かりません。病気や事故による記憶喪失なら、それは喜ばしいことです。しかしあなたの場合は、過去の記憶を自ら封印した可能性があります。あなたが昔、記憶の一切合切を金庫に入れて鍵を掛け、まったくの別人として再出発しようとしたなら、再び開ける意味は薄れてきます。それはパンドラの箱になってしまう。怨霊たちが飛び出してくるんです。このプロジェクトは継続しますが、ここへの送信は今日からでも打ち切ることが可能です。あなたは死んだことになっているんで、私の判断でいかようにもなるんです」
「そうすると、私が生き続ける意義もなくなってしまいます」
「……といいますと?」
「私の人生は、失われた過去を取り戻すことで完結するんです。たとえそれが酷い過去であったとしても、死ぬ前には、相対しなければならない。若い頃は、生き抜くために邪魔になって、無意識のゴミ箱に捨てたかもしれないが、生きる必要のないいまとなっては、それは必要ない」
「そうですかね……。死ぬときは誰でも、心安らかに死にたいものです。あなたはもう、安らぎを必要とする歳なんですから。苦悩は、あなたの心を引き継いだ二人のロボットに任せましょう」
「嗚呼、暖簾分けした私の心たち……、しかも二台も作っちまった。私は罪作りだな。彼らはあと百年は生き続ける」
田島はハハハと声を立てて笑った。
「その台詞は記憶を全部取り戻してから言ってくださいよ。あなたの過去が、そんなに酷いものだったという証拠はまだ出ていないんですから。チカとチコという双子の死に際にあなたがいたのは証明されたとしても、単なる偶然であったという可能性のほうが高い。チカはあなたの恋人だった。チコはあなたの親友だった。ならば、二人が事故に出合った現場にあなたがいたとしても不思議ではない。目の前で愛する者を二人も失ったのなら、それだけでも記憶喪失の理由には十分でしょう。チカはあなたが自分を殺したというが、証拠を示せるわけじゃない。証拠はあなたの記憶の中だ。あなたはそれを、自らの手で掘り出そうとしているわけです」
「そう、私は探しますよ。私は証拠を探し当てて、私に突きつけるんだ。それが耐えられないほど酷いものであったなら、私は懺悔をしてから、先生に安楽死をお願いします。偽物の骨を入れた私の墓に、主人をこっそり忍び込ませてください」
「あなたの記憶が快復して、無実が実証されたら?」
「そのときも、先生のおやりになる仕事は同じですよ。私は隠れ部屋で生き続けるわけにはいかない。ただ、私は懺悔をする必要はない。私は幸せな気分で天国に昇っていきます」
「ご幸運をお祈りします」
田島は二コリと愛想笑いして、部屋を出ていった。
ポールはベッドから起き上がると、居間に行っていつもの安楽椅子に腰掛けた。映像のスイッチを切ることは珍しかったので、再び点けた。大きな画面が三つあって、それぞれにエディ、エディ・キッド、ピッポの画像が映し出される。当然のこと、政府にとって都合の悪い部分は瞬時にカットされる。三次元化も可能だったが、ポールはあえてそうしようとは思わなかった。若い頃に馴染んでいた美しい風景の中に入りたい気持ちはあった。しかし、心の奥底にそれを止めようとする恐怖感が存在していた。たぶんそれは「勇気」と対峙する弱々しい性格だったが、「卑怯」なのか「小心」なのかまでは突き詰められなかった。ポールは終末期にある自分を思い返し、後が無いのなら勇気を出してみようと決断した。キッドの目の画像を三次元化してみることにしたのだ。
「VR!」と命令すると、ポールの部屋はロボ・パラダイスの海岸に早変わりした。ポールはチカと手を繋いでいて、海岸を歩いている。どうやら別荘地に向かっているらしい。
「坊や、私を愛しているの?」
チカの顔が目の前に迫ってきた。ポールは慌てたが、とうとうキスをされてしまった。首に巻き付いたチカの細腕と、甘い唇の感触まであったのには、さすがに驚いた。ポールとチカはその場に立ち止まり、濃厚なキスを始めた。舌と舌が絡み合う。ポールは顔を真っ赤にして、チカの執拗なキスに耐えた。突然ポールの両目から大粒の涙が溢れ出した。心臓がバクバクし始める。慌てたポールは「ストップ!」と叫んですべてのスイッチを切ってしまい、タジタジになって現実に引き戻された。静まり返った部屋の中で老人は赤ん坊のように号泣した。
泣きながら鼻水を垂らし、また一つのことを思い出していたのだ。あの頃、ポールは子供心に、毎日のように白日夢を見ていたことを……。それは愛らしい顔をしたチカを抱擁し、キスを奪う夢だった。
「いいや、そうじゃない! あれは勝気なチカなんかじゃなかった……」
夢の相手は、いつも大人しく微笑んでいた、ぼうっとした感じのチコだった。
(十六)
田島は秘密会議に出席するため、放送局に出向いた。会議室はあらゆる電波から遮断されていて、入る前には入念なボディチェックがなされる。公務員三人と、プロデューサ、ディレクタがすでに着席していて、田島を見ると全員が立ち上がった。プロデューサが「先生、こちらの席へ」と彼の横の席を示す。田島が座ったところで、会議が始まった。
「さて、先生のお母さんはアメリカ生まれで、ジミーさんのお母さんの妹さんの娘ということでよろしかったですよね」と検察官僚が尋ねた。
「そうです。つまりジミー伯父さんと私の母親は従兄妹どうしということです。あの水難事故は、幼かった母親にとって大きなショックだったようです」
「そして偶然にも、ポールさんが日本で、先生のお父様の患者であられた」
「父はポールの記憶快復に努めましたが、できませんでした。そのうち、ポールは病院に来なくなりましたが、父が死んでから、ひょっこりやって来たというわけです」
「百歳になってね」とプロデューサ。
「母は九五歳になりますが、まだ健在で、真相の解明を望んでいます」
「あなたはお若いけれど……」
「母が六十のときの子供です」
「で、ロボ・パラダイスの地域移設事業で、資産家たちがお金を出して、あの別荘地が移設されたわけですが、資産家たちは百五十まで生きるつもりなので、まだ空き家が多いということですね」と秘密警察官。
「さあ、私は行ったことがないので……。母は子供の頃、ちょくちょく行っていました。しかし、五歳のときに十歳のジミーが死んで、二度と行かなくなった。母の伯母の別荘で、伯母自身が行かなくなりましたからね」
「で、話は変わりますが、DNA検査の結果はやはり黒です」
アメリカからやって来た刑事が言った。
「やっぱり……」
移設のための事前調査でチカの白骨死体が発見され、それからポールのDNAが検出された。さらに付近を調べると、岩の細い割れ目に押し込んだと思われるコンドームの付け根部分のゴムが輪状に残っていて、そこからもポールのDNAが検出されたのだ。
「奇蹟としか思えませんな。八十年もゴムが残っていて、DNAも検出されるなんて」と刑事。
「しかし逮捕すると、あなたも検挙しなければならなくなります。ロボットになった元の人間を生かし続けるのは法律違反ですから。きっと医師免許は剥奪です」
「逮捕に私の承諾が必要ですか?」
田島は皮肉っぽい眼差しを刑事に向けた。
「そうです、必要ない。しかし現在のところ、ポールの逮捕はいたしません。二人の少年の水難事故という別件がありますからね。泳がせておきましょう」と検事が口を挟んだ。
「それはありがたい。私が知りたいのはなぜジミー伯父さんが死んだのか、いや、なぜ二人の少年が死んだのかです。それが分かった後なら、私を逮捕したって構いません」
「いいえ、逮捕はありません。殺人事件の捜査協力者は立件しないですよ」
「その代わり、これらの内容を外部に漏らしてはいけません」
秘密警察官は細い目を田島に向け、「実はこれからがこの会議の主目的でして……」と付け足した。
「といいますと?」
「ジミー伯父さんがテロリストの一員であることは、分かっていますよね」
「ええ……」
「でも、いまは泳がせておきます」
「そりゃありがたい。子供の頃に月に流された可愛そうな人です」
田島は少しばかり安堵した。再び首塚の晒し者にはさせたくなかったのだ。
「その代わり、週に一回はポールの脳データを取っていただきたいのです」
「ずいぶん頻繁ですね」
「最新の脳スキャナーをお貸ししますよ。それを逐次エディの脳回路に送信し、常に地球との一体化を図りたいのです」
「しかし、いったい何の目的で?」
田島は驚いて問い返した。いったい百歳の老人にどういった役割があるというのだ、と思った。
「そこから後は、秘密事項になってしまいます。我々はエディとエディ・キッドの切り離しを進めたいのです。お分かりのように、エディ・キッドとチカは愛し合うようになった。エディはチカに関心がないようだ。関心の相手がチコだとすれば、二人を一緒にさせると不都合な面も出てくるでしょう。それ以外のことは、聞かないでください」
秘密警察官はそう言うと、ニヤリと笑ってから鋭い眼差しを田島に送った。
「了解しました、ポールの脳データは逐次お送りします」
病院に戻ると、田島はさっそくポールの部屋に出向いて、脳データの採取を申し出た。
「しかし必要なことなんでしょうか?」
「それは必要です。分離した精神はそれぞれ勝手な方向に離れてしまいますからね。あなたらしさが失われてしまう可能性もあります。アバターとしての役割を忘れるかもしれない」
ポールは少しばかり戸惑ったが、「分かりました。確か四時間かかりましたよね」と答えた。
「いや、ご安心ください。明日には最新の脳スキャナーがやって来ますから、一時間で完了します。小型化されていますので、機械をこちらに持って来られます。ベッドに横になっていればいいんです。明後日行いましょう」
田島が帰ると、ポールはさっそく月の映像を呼び出した。三つの画面には三人の映像がそれぞれ映し出された。チカとエディ・キッドが叢でセックスをしていた。ピッポの映像には、その様子が遠目で映し出されていた。木陰から覗いているのだ。エディの映像には、自分の部屋の天井が映し出されていた。ベッドに仰向けになり、目を開いて物思いに耽っているようだ。
ポールはすぐにキッドの映像を3D化させた。再び、ポールの目の前にチカの瞳が現われた。彼女の興奮した吐息音が部屋中に響き渡った。驚いたことに、ポールの性器は何十年振りかに硬直し始めていた。何十年も前に失せてしまった欲望が戻ってきたのだ。チカの興奮が最高潮に達したとき、その美しい顔が快楽で歪んだ。それは異なる世界に飛び込むときの人間の表情に違いなかった。苦痛は快楽の裏側にあった。子宮に守られていた赤ん坊が産道から外界に飛び出るときの、これから苦しい人生を歩まなければならない運命を背負った苦痛の表情。いいや、このような至近距離からポールが見た、あのときのチコの表情だ。死に神に足を引っ張られて海に沈むときに見せた、苦痛の表情だった。ポールは叫び声を上げて失神した。ポールは思い出したのだ。チコの恐怖がポールに伝播し、すがり付くチコの腹を何回も膝で蹴って首に絡み付く手から逃れたことを……。そしてポールはチコを見捨て、チコは助けに来たジミーとともに海面に泡を立てながら海の底に沈んでいったことを……。
ポールは心臓発作を起こして集中治療室に移され、脳データの採取は延期されることになった。発作の程度は重篤なものではなく、一週間ほどで自室に戻れると田島は予測した。しかし、月の映像がむやみにポールを興奮させるのであれば、しばらくは見せないことも考えられる。場合によっては人工心臓にしてまでも、すべてが解明されるまでポールを死なせてはならない、と田島は思った。