白黒世界2
下山する。下りの方が膝に負担がかかるというのは多くの登山家が意見を同じくするところだろう。足を下ろす衝撃がダイレクトに膝に響く。ぬかるみやら岩やら石やら木の根やら色々な材質の足場を踏みしめて下る。⋯⋯ 道がないのつらい。
とりあえず、尾根道に沿って塔を見失わないように下っていく。木々の深い森に入ってしまうと、方向感覚が狂ってしまっても仕方がない。目印を見失わないのができる登山者ってやつだ。赤テープ大事だからね。迷ったなと思ったら、赤テープのあるところまで戻ろうね。進んだら、死に目を見るよ。
目印は見失わないこと。それを肝に命じて、僕は、この尾根を下る。広葉樹、笹、シダの順に低くなっていく植生は、歩けないとは言わないまでも、歩きにくいというのは確実だ。
そして、白黒の濃淡だけでも、その程度の区別はつくのだなと少し面白く思う。まあ、全て葉の形からして違うからな。
植生的には、僕らの世界とあまり変わらないようだ。色がないという一点を除けば、僕の世界と言われても疑問を抱かないだろう。
樹高が高くなってきた。目の前の登り尾根を目標にひたすら下る。もう一度上から見て、方向を修正しないと。こうして、縦走が始まった。
尾根をたどって、峰を越え、峠を越え、僕はひたすら歩いた。白い光が動いていき、いつの間にやら、周囲が黒へと変わる。⋯⋯ 太陽は動いているようだ。
夜が来たらしい。全て黒一色に染まった周囲を見渡して、僕は進むのを諦めた。さすがにこのまま歩き続けることはできない。崖があったとしても、気づかずにそのまま落ちてしまうだろう。
何はともあれお腹が減った。一日歩き通しだったのだから当然だろう。だが、ない。食料はどこにもない。まず第一に山に食料はない。厳しい環境に耐え忍ぶ植物は、実に不必要な果肉などつけないのだ。もしそんな稀有な植物があったとしても、この状況。白黒の世界ではそれを見分ける方法などありはしない。赤い実も緑の葉も全てが等しく灰色に見えるのだ。食欲が湧くはずもない。⋯⋯ これ、夢じゃなさそうだな。
というわけで僕は初日にして割と詰んだ状況に追い込まれた。山に登ったのが失敗だったか。⋯⋯ だが、山で死ねるなら、病院で死ぬよりはマシかもな。
最後のあがきとばかりに、僕は懐をゴソゴソと探る。今まで気にしなかったけれど、この服、僕がもともと着ていた服じゃないぞ。めちゃくちゃ動きやすかったから意識の埒外にあった。
それに、色も白黒じゃない。青と紫の派手な色使い。この世界に来て、初めて白と黒と灰色以外の色を見た気がする。
懐に、飴があった。3個ほど。これが神様チートのはず。餓死なんて嫌だ。僕は生きてこの山の連なりから脱出しなくてはならないんだ。そして塔へ行って、元の世界への帰り道を探すんだ。⋯⋯ 何だか気が遠くなって来たぞう。これでいいのか。難易度高くない?
飴を一口舐めると、何だか体の芯が暖かかくなった。緩やかに体温が上昇して行き、夜の寒さもあまり感じない。すごいチートだ、この飴。⋯⋯ あと2個しかないけど。
ふかふかの地面。ちょうど平らになっている場所があってよかった。僕は、そのまま横になった。一人だ。一人だなあ。何も見えぬ暗闇の中、そう実感した。
この意識ある時間の長さ。邯鄲の夢レベルの長夢でもない限り、夢とはいえないだろう。異世界であると考える方が自然だ。戻る方法を探しているとはいえ、道筋は見えない。このまま一人孤独に山で衰弱死してしまう可能性は高い。
山岳部では、仲間たちの存在があった。だから、山は孤独とは結びついていなかった。だが、この世界で一人だけ、後かに誰もいないという状況は思っていた以上に僕の精神を削っていたようだ。不安、寂しさ。切迫してはいないけれど、緩やかに僕を不安定にしていく感情が生まれては消える。母さん、父さん、ユウキ⋯⋯ 。
でも、体は睡眠を欲していて、僕は泥のような眠りに落ちた。
辺りが明るくなった。白くなったと言った方が正しいかもしれない。朝が来たのだろう。伸びをする。朝露が服を濡らして寒い。靄のかかる光景は幻想的だ。山と山と塔と。⋯⋯ 見失ったかと思ったけれど、思っていたよりも近くに来ていたみたいで、山の遥か上に伸びていく塔が大きく見えた。
僕は元気を回復させていた。チートっぽい飴玉の力と、睡眠をしっかり取ったことによる良い影響だろう。これなら、いけるはず。塔が大きすぎて距離感はよく掴めないが、一日二日歩けば良さそうだ。
歩く。基本方針は昨日と同じ。尾根道を外れないように、ひたすらアップダウンを繰り返す。上りは楽しいんだけれど、下りが辛い。上りなら、岩を腕の力で強引に越えるなどして足の負担が減るんだけれど、下りは本当に膝にくるからな。
しかし、鳥の鳴き声くらい聞こえて来ても悪くないと思うんだけれど、それすらない。完全に死の地といってもいいのではないだろうか。
寂しさを力に変えて、おそらく僕の踏破スピードは過去最高を更新した。今僕が立っているのは、山脈の突端。ここから大きく高度を下げ、山脈は平野へと没している。その平原の向こうに、天を衝くように、塔がその巨大な姿の全貌を見せている。⋯⋯ 上は見えないけれども。
雲のせいで隠れているとかではなく高すぎて上が見えないというのは初めての経験だ。灰色の空の下、塔には白い雲がまとわりつき、その非現実的な光景をもって僕を圧倒した。




