お粗末と失敗と狂奔2
僕とドールは机の前に座って向きあっている。彼女の長い黒髪がその机にバラバラと無造作にかかっている。彼女は肘をついて、こちらの頬を右の人差し指でツンツンと突いてくる。何がしたいんだこの人は。
僕もそろそろ戻らないとサクラの機嫌がマッハでやばい。それをわからないドールじゃないと思うんだけど。
「いやあ、君を困らせるのは楽しいわね。」
「ダメだこの神様、ただ意地悪なだけだ。」
無理でしょこれ。元の場所に帰れるビジョンが見えてこない。どうにかこうにかドールを説得してしまいたいが⋯⋯。
今度は両手とも頬づえをついてニヤニヤと笑みを浮かべている。返す気はこれっぽっちもなさそうだ。
ダメだ。とっかかりが見えない。どうしようもないのでは?
「そうだね。流石に酷い気がしてきたから、君があることをしてくれたら許してあげよう。」
やったあ。これなら帰れそうだ。
「あることって?」
「君がこっちにくる前にやっていたこと。」
「この世界にくる前ってことだね。登山だね。」
とぼけとこう。
「サクラとやりかけてたことに決まってるじゃない。」
ドールは獲物を狙う蛇のように爛々と目を輝かせていた。
「いやちょっと待て。何言ってるのドール。正気?」
あれのことか? いやでもこの世界は15禁ですらないって聞いたぞ。そんな非道が許されるはずがない。俺は信じないね。
「寂しいの。慰めてちょうだい。」
こちらに向けて体を乗り出して、ドールは弱々しく言った。
シチュエーションが理想のエロ漫画的なんですが。据え膳だね。どうしろと。いや確かにドールはめちゃくちゃ魅力的な女性だと思うよ。綺麗だし可愛いし、一癖ある性格も好きか嫌いかって言えば好きな方だ。
「なら文句はないわね。さあ、抱いて。」
「でも、それはできない。」
そう。それだけはダメだ。向こうにいるサクラを裏切ることになるから。ユウキを悲しませてしまうから。だから、僕は、この据え膳は食えない。男の恥だろうがなんだろうが構うことはない。大切な人たちを傷つけるのだけは絶対にダメだ。
「全くもう。剣の分からず屋!」
ドールはその美貌を歪めて泣き顔になった。なんだか悪いことをしてしまったような気がする。でも、僕はドールからこんな感情を向けられるようなたいそうなことをした覚えはないんだけど。⋯⋯偶然お風呂場で見てしまった彼女の裸が記憶の底から浮かび上がってきて慌てて首を横に降った。何もなかった。いいな。
「そうだぞ。わしの裸を見たんだから責任を取ってもらわないと。」
水を得た魚のように生き生きとしてドールは元気を取り戻す。やってしまった。でも思い出さないのは不可能だっただろう。仕方ない。仕方ないんだ⋯⋯。
「で、返事は? はいね。はいよね。よーしやるわよ。」
ドールは目に見えてはしゃぎ始めた。あれのせいなのほんとなの。確かにあれは僕にも責任があるけれど。
マジでやるの??僕は信じたくないよ。
でも、ドールの目は大真面目で、冗談を言っていいるようには見えない。それどころか、テーブルのうえを乗り越えて迫ってきた。力づくで襲われてしまう。大ピンチだ。
ガラリ。ドアが開いた。
「ドールさまー。仕事が溜まってます。」
入ってきたのは日本人形のようなストレートの美少女。どう考えても可愛いのに、それを意識するより前に怖いと言う思いに襲われてしまう女の子。オソレだ。
「あー、待って、今いいところだから。」
そちらを見もせずにドールは僕の体に手を回す。
「っ。何やってるんですか。許しませんよ。」
怯んだのは一瞬で、彼女はすぐさま状況を理解した。
すっと僕とドールの間に割り込んだ。
僕の前に立って、ドールを見下ろす。直接視線を向けられているわけでもないのに、冷や汗が止まらなかった。この子、やっぱり怖い。
「全くもってあなたは三神としての自覚があるんですか。」
「いやでも。」
「ただの言い訳ならそれ相応の罰を受けてもらいますが? 」
吹き荒れる冷気。それは氷由来のものではなく、どう考えても幽霊由来の恐ろしさから来る幻影だ。それが、ドールに向かって放たれる。
少なくとも僕は小便ちびると思う。今も割とそれに近い感覚があるし。
「⋯⋯わかったわ。オソレがそこまで言うなら仕方ない。」
部下の威圧に耐えきれなかったのだろう。ドールは折れた。オソレぐっじょぶ。
「剣さんにごめんなさいしてください。」
「剣、ごめん。」
「⋯⋯嬉しくなかったかと言えば嘘になるから、許すよ。」
「今後も呼び出していい?」
ドールは上目遣いでおずおずと尋ねた。
「迫らないのなら歓迎するよ。あと、ちゃんとこっちの状況を確認してから呼んでほしい。」
サクラ大丈夫かなあ。心配だ。
「そうね。⋯⋯まあ、なんとかなると思うわ。」
「ちょっと待て。やっぱり大変なことになってるんだな。」
「見てからのお楽しみってことで。」
「ドールさま、あとでお仕置きしますからね。いいですね。」
「おかしいな。わしはお前の上司のはずなんだけど。」
「もっと尊敬できる上司でいてください。」
「ま、まあ。とりあえず剣を元の場所に返そう。」
ドールは話をそらすようにそう言うと、前に見た黒い空間の歪みを作り出した。
「じゃあ、また。」
僕はそう手を振って、その中に入る。視界の裏にオソレにしばかれるドールの姿を見た気がしたが、気にしないことにした。




