ドール(夜)
その夜。僕はなぜか眠られずに部屋を出た。所々に灯りが揺らめく石造りの回廊は冷え冷えとした冷気をまとっていた。この館の主人と同様に人を寄せ付けない気配だ。そのまま何かに導かれるようにして回廊を渡る。
月が中庭から光を投げかける。冴え冴えとした美しさを投げかけるその光に惹かれて僕はそちら側へ目を向けた。中庭には池が湖面に月を下ろして存在している。僕は美しいその眺めに心を打たれ、ぼんやりと見やっていた。
だから僕がそれを見たのは全くの偶然と言っていい。静かな何者かの気配がしたのだ。ここにいるものの数など限られている。僕はその気配のもとに目をやった。
影がその体積を減らす。擬音としてはスルスルだろうか。滑らかな動きで、その体型が脱げていく。目を見張る僕の前にその姿を晒し出した。その漆黒の髪を闇に紛らせつつも、白い肌がそれを裏切り闇夜を照らす、そんなきつい眼差しをした美少女だった。西洋人形のように美しく、闇に紛れてしまいそうな黒いドレスを纏う。一瞬前までそこにあった重厚な気配は消え失せ、代わりに花影な雰囲気を纏った彼女は一歩庭の中へと歩を進めた。彼女はそこに咲く白い花を口元に持って行き匂いを嗅ぐようなそぶりに紛らわせて小さくため息を吐く。僕は見てはいけないものを見てしまったかのような畏怖に打たれながらも不思議とその場を動くことはできなかった。
「人の子には物事の本質を見抜くことなどできないのね。」
翳りを帯びた眼差しを宙へ浮かべ放つ言葉は年を経たものの言葉。薄々気づいていたこの子の正体が確定的なものとなった。
「それでも良い。それを超えられる稀有な魂にチャンスをやるというのは私が決めたこと。」
彼女の独白は続く。
「でも、だれしも儂を生理的に嫌なものとして扱うのはやはり悲しいわね。仕方のないことだと割り切るのはとうの昔に済んでいるというのに。」
誰に聞かせるでもなく生まれ出でた言葉たち。それはだからこそ説得力を持って僕の心を打った。でもやっぱりそう紡いでいる彼女の横顔は寂しそうで。僕は無意識のうちにそこに足を踏み入れた。
「うん?」
訝しげな言葉を発して彼女はこちらを振り返る。そして、こちらを認めた彼女の目の中にあったのはなんだろう。陶酔、不安、後悔、落胆、歓喜、嫌悪。様々な感情がうごめいていた。
僕はなんと声をかければいいのだろうか。彼女の体型に嫌悪を覚えなかったと言ったら嘘になる。そこまではっきりした感情ではなくとも、世間一般並には僕の中の肥満差別はあったのを知っている。それをこの状況で何か励まそうなんて、ただ、ドールが実は痩せていることを知ったから何じゃないのか。何という浅ましさだ。結局は全て体型によって判断を下すのだ、僕という人間は。何も言ってやる資格なんてないんじゃないか。僕は思考の泥沼に沈んでしまった。呆れた表情となりながらもその僕をきつい眼差しではあったけれども見つめ続けてくれたドールの存在がなかったら僕はどうなっていたことか。そして、僕は口を開く。正直思考は千々に乱れ飛んだままだ。でも、これだけは言っておかなくちゃいけないことだと僕は知っている。
「ドール、君には君の悩みがある。ただ、一人で抱え込まないでくれ。愚痴のこぼし相手くらいにならなれるやつはたくさんいるさ。⋯⋯ 僕でもなれる。」
その時のドールの顔は呆れ、微笑し、晴れた。
「やれやれ、安易な同情論やら惚れたとか言おうものなら叩き出してその根性を冥界で叩き直そうかと思ってたけど、なかなかどうしていいことを言うものね。」
その口から可憐な見た目に似合わぬ物騒な話が飛び出してくる。さすがは冥界の神だ。そして、口調が変わっている。この形態ではこういう口調らしい。
「ただのヘタレではないかという話もないではないけど、わしはその距離感が好き。そうね、そのくらいは頼らせてもらうことにさせてもらいましょう。」
そう言って、ドールは僕の手を握る。何が起こるのかと身構える僕の前で、彼女は僕の思いもしなかった行動に出た。僕の手を持ち上げて自らの口に近づけ、口付けを交わしたのだ。甲にしめやかな甘っぽさが乗る。慌てて距離を取る僕に、彼女は妖艶に唇を舐めて言った。
「これで契約完了。いついかなる時でもわしの愚痴に付き合うこと。ゆめゆめ忘るることなきように。破ったならば冥界にて終わることのない地獄を味あわせてやるから。」
こちらを夜の色の瞳でじっと見つめて彼女はそう結んだ。
不意に目線を外して、ドールは空を見上げる。
振り仰ぐ彼女の目線を追って僕も上へ目を向けた。赤い月が僕らを照らす。これが凶兆なのか吉兆なのか。神のみぞ知るだ。
まあ、ここまででドールですね。僕は好きですよ。彼女。




