穂高
ゆったりと休憩をとって目覚める朝の気分は爽快の一言に尽きる。
ただ、僕はまだ独り寝だ。ユウキと一線を超えたことには超えたけど、そのあとどうしていいかわからなくて、疲れを理由にして、避けていた。共寝はまだあの時だけだ。どうにかしてもう一度雰囲気を作りたいと思うけれど、そういう欲望にあふれた思考をするのはなんだかカッコ悪いと思ってしまうので、僕は行動に移さない。自分でもバカだなと思いますですはい。
山にいる人たちは目覚めが早くなるの法則は確かなようで、みんな一様に早起きして、朝ごはんもしっかりと食べた。生活習慣はよくしないとダメだよ大学生と言いたくなったけど、僕はまだ大学生活なんて経験していないはずなのになんでだろうか。不思議だ。
家をたたんで出発する。やはり岩壁の方には行かないようで、右の草斜面を攻略するようだ。こちらも急とはいえまだ有情で、ヤリの案内する通りに、ジグザグと刻みながら高度を稼いでいける。
すぐに昨日泊まっていた谷は見下ろせるほどとなり、雲の層が近づいてきた。雨が降っていないからそこまで酷い状態にはなっていないと思いたいけれど、予断は許さない。水がたくさん集まってできた雲だってよくあるから、中に入るとずぶ濡れというパターンもありえる。
「大丈夫じゃよ。これは性質の悪い雲ではない。」
僕の思考を拾ったらしいシロが力強く保証してくれた。シロのお墨付きがあるなら心強いこと限りないな。じゃあ、撥水性のコートを羽織る必要もないか。
いつの間にやら雲の中に入ったみたいだ。半径10mだけが視界に入って、そこから先は白い霧が先を見ることを阻んでいる。なるほど、おとなしい雲はこんな感じなんだ。確かに雲の中だけど、雲には絶対に触れられない。そんなジレンマがある。
この前ヤリが作ってたさとうぐもってどの状態の雲から作ってたんだろう。ヤリの後ろ姿をみながらそんなことを考える。あわよくばヤリが気を回して解説でもしてくれないかと思っての振る舞いだったが、彼女が気づく様子はなかった。この雲の中正しい道を選ぶのは大変だろうから、文句はいえない。僕だったらこんな天気の日は動かないという決断を下すことになると思う。視界がきかないというのは思ってる以上に危険で、気づかないうちに別の方向に行ってたり、気づかないうちに崖のすぐそばに立っていたりする。
僕ら五人をホダカの元に案内するということで先導しているヤリが余裕のないのはむしろ当然といえよう。なんでも答えが返ってくるとは思わないほうがいいな。
草の急坂だった道は、この前ヤリの山に登った時のような岩で満ちた光景へと変わって行った。この辺りの山は、森林限界はおろか植物の生育限界も越えているらしい。おそらく、風が強すぎるのが原因だと思う。あと、険しすぎるのとかも。根が芽吹く土壌がないのだろう。それでもわずかな岩の崩れ目を足場に小さな草本が育っていて、なんだか嬉しい。
岩のゴロゴロしている大きな斜面をまっすぐに登っていく。この前は尾根道だったけれど、今回はまさに斜面で、出っ張りみたいな目印もなくて、ヤリが案内してくれなかったらかなり苦戦していたと思う。まあ、普通にここに山があることにも気づかずに先に進んでいたかもしれない。天気が悪そうな山は基本的にスルー推奨だからな。上部が雲に覆われていたら、見なかったことにしてたと思う。みんなを危険に晒すような登山は絶対にしてはいけないと信じている。⋯⋯ 僕だけの命じゃないから。
いや、ヤリの頂上に登ったのは、僕だけだったからまだ自分で責任取れたからで⋯⋯ 。
「休憩にします。」
ヤリが宣言した。少しペースが速いとはいえヤリも結構みんなのことをみてちゃんと休憩の合図をしてくれる。ありがたいことだ。思い思いに岩の腰を下ろしてエネルギー補給をする。
「剣、さっきあなたが考えていたことだけど、あなた、自分が死んだら自己責任だから山に登ってもいいって思ってるの。」
サクラが不意に真剣な顔つきになって僕に問いかけてきた。
「⋯⋯ うん。」
考えていたこととしては正しかったので首肯する。ただ、彼女の意図は掴めなかった。
「ダメよ、絶対。」
「どうして? 」
「あなたが死んだら、絶対に嫌な人が少なくとも二人、いるからよ。」
まっすぐに彼女は僕の瞳の中を見つめてきた。
「私の気持ちも、ユウキの気持ちも、わかってるわよね。」
「うん。」
愛と言う言葉を使うのは恥ずかしいけれど、たぶん僕から2人に向ける気持ちもおんなじだ。
「大切な人が死んだらどう思うかなんて、言わなくても大丈夫よね。」
「剣が死んだら、私は世界を許さないよ。」
ユウキまでもが加わって、僕に気持ちを送る。
ユウキが死んだら、僕は呆然として立ち直れないだろう。サクラでも同じだ。そしてそれは僕が死んでも同じこと。
「金輪際、私の目の届かないところで死の危険を犯すんじゃないわよ。」
「約束だよ。」
ユウキの黒の瞳と、サクラの青の瞳が僕に迫る。
自分が死ぬなら迷惑のかからない場所でなんて、甘かった。そんなことやったら、他の人がどう思うかに考えが至らなかった。ユウキもサクラも、僕の大切な人だ。悲しませるようなことは絶対にしたくない。自己を一人のものとして切り離して考えることはもうやめだ。人の関係は繋がっていく。関係の糸が切れたら、痛みを残すのは間違いない。それは、どう考えても嫌だなと、僕だって思うから。
「これからは、二人と一緒に山に登るよ。」
そうだ。山は一人で背負わなくてもいい。協力しあうことができる。この前だって、サクラを起こして、一緒にいけばよかったんだ。
「⋯⋯ ちょっと違うけど、まあ剣だもんね。仕方ないか。」
ユウキは僕の言葉になぜかため息をついた。
「全く同感ね。」
サクラも同意する。
いや、今回の言葉は僕にとってもかなり人間的に成長できたと思うものなんだけど、ダメなの?
「多分、剣じゃなければ、危ないことをしないあたりに落ち着いてたと思うよ。」
呆れと安心の相反する響きを混ぜ込んだユウキの言葉だった。
「そう、剣は勝手な行動をする時があるからの。あんまり心配させんでくれ。」
「あなたがいないとみんな悲しむんですからね。⋯⋯ 私も少し寂しいですし。」
シロとイチフサも加わって、僕のことをあれこれ品評された。⋯⋯ あの、ヤリがしびれを切らしかけてます。早く出発しましょう。
結局、僕の望みがかなったのは三十分ばかり過ぎたあとであった。みんな僕のことに一家言持ってるんだけど。
好きな子にこうして諭されたら山に登らない選択をするのが普通だけど、ここでそれが微塵も思い浮かばないのが剣クオリティ




