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第8話(最終話)

「……くん」

 遠くで響く、馴染み深い透きとおった声。肩に伝わる断続的な揺動。

「駆くん!」

 その声が切羽詰まったものであることをようやく認識し、俺は目を開けた。のぞき込んでいた美鈴と目が合う。

「もう9時だぞ! わたしは今日は3限からだから構わないが……君は完全に遅刻だ」

 自分のせいだと思っているのか、叱責口調などではなく、むしろ後ろめたそうな感じだ。

 そうだ、いけない。昨日目覚ましをセットし忘れてしまったのだ。跳ね起きたとたん、

「……つっ!」

 後頭部に鈍い痛みが走り、俺は頭を押さえた。

「大丈夫か!?」

 美鈴がうろたえた声を上げる。

「うん……」

 砂を詰めたように頭が重く、少しでも動かすとズキリと痛む。どうしたんだろう? 俺は昨日酒を飲んでいなかったはず――と思って、あることに気づいた。少しずつとはいえ、ドリンクを全種類飲んだじゃないか!

「風邪だろうか?」

 美鈴は自分の額と俺の額に手を当て、小首をかしげた。

「いや……違うよ」

 俺は手を横に振って、

「たぶん二日酔いだ。ほら……昨日俺、ドリンク全種類試し飲みしただろう?」

 やや情けない気分で言った。美鈴は一瞬きょとんとしたが、すぐに思わずという感じでくすくす笑い出す。

「失敬……不謹慎だったな。だが、君がそんなに酒に弱いとは思わなかった。わたし以上じゃないか」

「ほんとだよ。これじゃ、ふたりとも成人しても、飲みに行けそうにない……」

「いや、それはむしろ好都合だ。陰陽師たるもの、酒など飲んで隙を生じさせてはいけない」

 美鈴は澄まし顔になって言う。

「でも、酔わなければ問題ないじゃないか。もしかしたら、潜在能力が活性化されて、逆に強くなるかも……」

「……本当か?」

 真面目な口調。いや、もちろん口から出まかせだ――。もっとも、世の中にはアルコールが入ったほうが頭が働くとか、仕事がはかどるという人もいるらしいから、あり得ないことはないかもしれない。

 美鈴は再びふっと表情を和らげ、

「とにかく、今日は休みたまえ。わたしがそばについているから」

「ありがとう。でも大学は? 午後からは授業あるんだろう?」

「……まぁ、今日くらいは欠席しても構わないだろう。こ……恋人が寝込んでいるというのに、のんきに授業を受けるような薄情なこともできまい」

 病気ではないし、寝込んでいるというほど大袈裟なものではないのだが、真面目な美鈴が大学を休むほど自分を気遣ってくれている、ということが嬉しく、俺はその言葉に甘えることにした。

 美鈴に携帯を取ってもらい、学校に電話する。もちろん本当のことは言わず、風邪ということでごまかしておいた。

「二日酔いにはしじみの味噌汁がいいと言うな……。しじみを買ってくるか」

 美鈴が冷蔵庫をのぞきながら独りごちている。その姿を見ながら再びベッドに横になったとき、大切な――とても大切なことを思い出した。

「美鈴!」

「うん?」

「俺の鞄、取ってくれないか? そう、そこにある……」

 壁に立てかけてあった鞄を取ってもらい、俺はごそごそと中を探る。

「あまり動くと体に……」

 心配そうに見つめる美鈴の前で、俺は目当てのものを取り出した。

「一日遅れだけど、改めて誕生日おめでとう」

 小さな長方体の包みを、おもむろに差し出す。

「俺からのプレゼント。本当は昨日渡そうと思ってたんだけど……」

「え……」

 美鈴は目をしばたたいた。そっと手を伸ばし、壊れものを扱うように受け取って、

「開けてみて……いいか?」

 おずおずと訊いた。俺がうなずくと、美鈴は包装紙を破かないようにはがす。白くて硬い紙の箱が現れ、中からさらに、紺色の布張りの箱が出てくる。そのふたを開けるやいなや、美鈴は息を呑んだ。

「これは……」

 中身をつまみ、窓から注ぎ込む陽の光にかざす。繊細なデザインの、白金のネックレスだ。シンプルなチェーンに、交差したふたつのリング、美鈴の瞳と同じ紫紺色の、9月の誕生石――小さなサファイア。

 美鈴は今度はネックレスをてのひらにのせ、しみじみ眺めながら、

「いいのか……? こんな高価なものをもらってしまって……」

「高価って……。学生の俺に手が出るものなんだから、大した額じゃないよ」

 俺は笑ってみせた。今までした買い物の中で、かなり高い部類に入ることは確かだが、もちろんそんなことはおくびにも出さない。それに誰かのためにお金を使うのは、とても楽しくて、温かで、豊かな気持ちになれることだ。ゆかにもろくに贈り物なんてしなかった俺は、そんなことさえ美鈴と付き合うまで知らなかったけれど――。

「ほんとは指輪にしようと思ったんだ。でも、美鈴はいつも手袋をはめてるだろ? だから……」

 俺は照れ隠し混じりに続ける。少しの間があって、

「ありがとう……駆くん。ダメだな、あまり嬉しくて言葉が出てこないよ……。昨日から、こんなことばっかりだ」

 美鈴は微笑んだ。が、

「だが、わたしなんかに似合うだろうか?」

 ふと不安げに目を伏せる。赤い夜に巻き込まれるまでの生き方のせいか、女性にしては高い背丈や独特な言葉遣いのせいか、美鈴は自分が女の子らしくないと思い込んでいるふしがある。俺に言わせれば、もちろんそれはとんでもない過小評価だ。

「大丈夫。俺が保証する。つけてみなよ」

 美鈴はこくんとうなずいた。チェーンの留め具を外し、首に回して再び留める。

「どう……だろうか?」

 俺のほうへ向き直る美鈴。白い首元でふたつのリングがかすかに触れ合い、サファイアが深みのある輝きを放つ。凛とした中に可憐さを秘めた美鈴の美貌に、それは選んだ俺自身も驚くほどよく似合った。

「素敵だよ……とても」

 感嘆をこめて答えると、美鈴は顔を輝かせた。俺のほうへ一歩踏み出し、身をかがめる。間近に迫った紫紺の瞳が、すっと閉じられたかと思うと、唇に柔らかいものが触れた。軽い――でも心のこもったキス。

 しばし美鈴と見つめ合ったあと、俺は頭をもたげた。このときだけは頭痛も気にならない。引き寄せられるように、美鈴が再び顔を寄せてくる。

 これから毎年、君の隣で、君がこの世に生まれ落ちた日を祝えますように……。ついばむようなキスを重ねながら、俺はそんなことを祈っていた。

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