神様だって何だって
ぐにゃり。小学生の時に理科の実験で作ったスライム。その中に飛び込んだみたいな手ごたえがあるような無いような心もとない感触。
ぬめっだか、どろっだかしたものが身体に当たったと思うと煙を上げて消える。それは面白いほど。だが、消える時には恐ろしいほどの悪臭が辺りに漂って吐きそうになる。
これはやばい。
「お、おげ……」
匂いに弱い俺には過酷すぎる。ちょっと鏡を伏せたくなるほどの匂いに足が完全に止まり、後ろから続いていた猫又が勢いよく背中にぶち当たってきた。
「こらっ、何やってる、悠斗。休むのは後にしろ」
「休んでるわけじゃ……おえっ……だって臭い」
言った途端に尻に蹴りが入った。いつもの事とはいえ、よくもそんなに潔く蹴れるなと言うくらい痛い。もしかして敵と味方に力の入り具合の違いなんて無いんじゃないのか? 思わずそう思うが、本当にそうだったら立ち直れないので聞けない。
「痛えっ」
「ここで立ち止まって、こいつらの餌になるのか? そんで自分がこの糞みたいな匂いになっちまうってか? 自分が糞なら匂いなんて気にならないよな。木は森に隠し、糞は糞の中に隠す……ってな」
背後から恰好だけとはいえ女の子にはあるまじき言葉が連発される。まったくどんな躾をされたんだと文句を言いそうになって、俺は思い出した。生前の猫又の飼い主は猟奇殺人者だった。もう躾以前に問題のあるやつ。
怨念の混じった血を浴びて猫又は妖怪になったんだ。可哀そうなやつだよな、実際。だけどさ。
それにしたって。
糞、糞言い過ぎなんだよ、くそっ。
「うるさい、ちょっと休んだだけだ」
怒りってパワーがある。絶対無理だと思っていたのに、いつの間にか匂いをあまり感じなくなる。勢い良く立ち上がって、ただひたすらご神木に向けて再び走り出した。
ぶわんと羽根布団みたいな感触の空気の壁を突っ切ったと思ったら、急に宇宙から帰還した宇宙飛行士みたいに重力を感じて膝をついた。
「ここまでよく来たな小僧」
聞こえた声は、がさがさと雑音が混じっている。その声の主を見ようとしたが押さえつけられているかのように頭が上がらない。まるで地球の重力が変わってしまったか、自分が瞬間移動で他の星に来たか……この後に及んでテレビアニメの影響を深く受けていると母さんの言葉に納得する。
だからって、俺には魔よけの鏡がある。
「これを喰らえっ」
どうだっ、そう言いながら必死で鏡を持つ手を上に掲げたが一向に身体は楽にならなかった。
何で?
「お、重っ、何で効かなくなったんだ?」
「こいつが妖しじゃないからだ」
後ろから聞こえた猫又の声。
妖しじゃないって……だったら一体?
「そいつは神だ、悠斗。鏡は今、用は無い。しまっとけ」
ぐいと肩を引かれたと思うと俺の前に猫又がずいっと出ていく。ちゃりちゃりと敷石が音を立てた。
にしても、この圧力は何だ? これじゃあ真っ直ぐ立つことさえ困難だ。鏡が効かないんじゃどうしようもない。前に立つ猫又がごにょごにょ言っているのを聞きつけて去年聞いたものに似ていると気付いた。
「……元柱固真、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神、害気を攘払し、四柱神を鎮護し、五神開衢、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、安鎮を得んことを、慎みて五陽霊神に願い奉る……祓いたまえ、清めたまえ、急急如律令……」
何を言ってるのか分からない。上から圧し掛かる圧力はそれでも風が吹いているように揺らぐが無くなりはしない。
「魔封じなど通じぬわ。妖怪ごときに鎮められるとでも思うておるのか、この痴れ者め」
耳障りなかさついた声に胸が早鐘を打つ。
「悠斗、懐中電灯持ってるだろ。それを俺さまが合い図したら真っ直ぐ向けろ。いいな、しくじるなよ。そんで、その後鏡をまた出せ」
前を向いたまま猫又が早口で言う。そして俺の返事を聞くこともなく右手を刀のように振りかざした猫又は走りだす。
去年見た時みたいな展開。だけど、相手は神って、神様なんだろ? 神様をやっつけていいのか? それより神様って強いんじゃないの?
「ぶっ殺してやるっ」
神様相手に畏れ多い言葉を吐きながら、猫又が跳び上がる。相手が妖怪だろうが、人間だろうが。ましてや神様だって対応を変えない猫又は偉いのか、偉く無いのか?
ぶっ殺す相手の貴賎は問わない一本気な猫又の攻撃をおそらく躱しているだろう神様の気配が、動く空気の流れで分かる。
「ちょこまか動きやがって。これで終わりにしてやる」
もう悪役みたいな口ぶりの猫又の口からは短い息使いが聞こえる。今までの攻撃が全てかわされたらしい。
さすが神様。
「おまえからはこれだけか。なら、今度はこちらから行くぞ」
金属を引っ掻いたみたいな耳障りな声で神様はひひひと笑う。なんだか品の無い神様だ。しゅっと何かが通ったような気配の直ぐ後で「げぼっ」と口から何かが吐き出される音がした。
「猫又? だ、大丈夫か」
立てない俺は四つん這いのまま音のする方へ向かう。敷いてある玉砂利が掌や膝に当たって結構痛い。
「来るなっ、邪魔だ、悠斗っ。おまえの面倒まで見る暇なんてないっ」
即座に猫又の大声がする。
「じゃ、邪魔って」
「うるさいっ、そこで大人しくしとけ」
猫又のバカ野郎。
ちくしょうと思いながら止まった俺の目の前にどおっっと塊がぶつけられるように落ちて来た。