ねばねばの正体
「うわああっ、猫又、何これ?」
黒いねばねばした触手が足に絡んできたのだ。急いで払い除けると手にぬめっとしたものがべったりとつく。
「ぎゃあ、気色悪っ、来るな、来るなっ」
腐りかけた蜘蛛の巣みたいな……もちろん、蜘蛛の巣が腐らないことくらい知ってるけど。例えればそんな感じのねばねばだ。
「く、蜘蛛みたいだよな」
「蜘蛛? どっちかっていうと触手は蛸っていう……いや、蜘蛛か。そうかもしれん」
猫又は顎に手をやってふんふんと考え込んでいる。その間にも黒っぽい触手があちこちから伸びて来ておれたちは触手の群れに囲まれていた。
「ど、どうするんだよ。囲まれちゃったじゃないか」
別に猫又のせいじゃないんだけど、誰かにおっ被せてしまわないと泣きだしそうだ。
「この触手を操ってる本体をやっつければいいんだ。俺サマの前に出ろ、悠斗」
「えええっ、嫌だって、おい」
腕を掴まれた猫又に押し出されるように前に行かされる。何で? 俺を生贄にしてその隙に本体を狙う作戦? 俺に一言の相談も了解もないの?
「やだっ、猫又がそれで妖しをやっつけられるとしたって、なんで俺が犠牲にならなきゃいけないんだよ」
別に一人無事でいたいなんて思ってるわけじゃない。一緒に立ち向かうならやられてもいいんだ。でもこんなの嫌だ。そう思って猫又の後ろ側に回ろうとした。
「動くな、ボケ」
「いてっ」
途端に猫又の蹴りが横腹に決まる。
「何訳の分らんことぐだぐだ言ってるんだ。早く鞄から鏡出してやつらに向けろ、バカ」
――あ、そういうこと?
鏡は妖しに効く。だから、猫又は俺の後ろに回らないといけないのだ。言われて気づいた。
「鏡のことすっかり忘れてた」
「おまえ……ここに一体何しに来たんだ?」
うううう、ごもっとも。
鞄を手探りで探す。目を逸らすなんてとても怖くてできない。大きくもない鞄の中に確かに鏡はあるはずなのに手に触れるのは懐中電灯とか、ハンカチにテッシュやらお財布とか。お育ちが良いのが丸分りだ。くそっ、なんだって定期なんて持って来たのかと自分に腹が立つ。
「早くしろっ、悠斗」
後ろから罵声が飛ぶが、こっちだって早く出したいに決まってる。焦ってる時に高圧的にされるともっと焦るって知ってるんだろうか?
足元から這い上ってくるゼリー状のものがもう気持ち悪くて堪らない。顔にべちゃっと覆い被さるように触手がへばりついてきた頃ようやく硬い手触りと巡り合えた。
会いたかったよ、ベイビー。
「これでも喰らえっ」
鞄から出して両手で突き出すように構える。ぐわんと空間が歪むような感覚と共に白く眩しい光が目を焼いた。
火を当てられた蛭のようにじゅっという音させてぼとぼとと腕や足から触手が落ちていく。最後に顔を覆っていたぬるぬるもべたりと地面に堕ちて崩れる。俺たちを囲んでいた円がぞぞぞっと広がった。
「こ、これってさ」
な、なんかこのままいけるかも。
この鏡さえ持っていればこいつらを恐れる理由などない。妖しには無敵ってことじゃないの?
俺は無敵。
こんな気分の良いことが最近あっただろうか? 生まれてこのかた、こんなにヒーローだったことなんて一回もない。猫又だって頼ってる。
誰か俺のこと見て無いかなと思ってしまう。でも、これから始まる俺の活躍は人にお見せするわけにはいかない。残念だ。でも俺の善行はきっと神様が見ているはず。
「このまま突っ走るぞ。ついて来いよ、猫又」
俺の後ろで「ちっ」という音が聞こえてきたが寛大にも聞こえないふりをしてやった。自信がつくと余裕が生まれる、そういうことだ。
おバカにも自分が強くなったと思い込んでしまった俺。まあ、今までそんな経験が無いんだからしょうがない。
「うおおおおりゃああ」
手鏡をかざしながら爆走する男子高校生。一般の人が見ちゃったらかなり変だし、本人が思っているほど足も速くないだろう。でもここはさらっと流して欲しい。だって今は妖怪相手という非常時だ。
下がって行く触手のスピードを超えて俺は闇の中に突っ込んでいった。