お母さんの教え
「だいぶ大きく膨らんだようだな」
「ぎえええっ?」
後ろから急に声をかけられて飛び上がった。怖い話をしてるときにビビらそうとして急に大声を出すやつがいる。そして、まんまと俺はビビったよ。
「猫又っ」
怖かったやら、今までどこ行ってたんだとか。言いたいことが互いに優先順位を争って、もう頭はぐちゃぐちゃだ。
嬉しいんだかむかついてるんだか……きっと両方だ。
「おまえなあっ」
そう言って振り返った俺に、ガコンと猫又のげんこつが頭に入る。今の猫又は人型でお馴染の目付きの鋭いエセ女子姿だ。
な、なんで?
「でかい声出すんじゃない。おまえどんだけ場数を踏んでも学習しないんだな。そんなんだから『すべりどめ』に行くんだよ」
「うっ……」
再会に内心嬉しかった笑顔も凍る言葉をさらっと猫又は言い放つ。こっちはいなくなってしまってどんなに心配したか。文句の一つも言ってやろうと再び口を開く前に猫又が俺の鞄をバンと叩いた。
「あの物騒なもんはまだ鞄の中にしまっておけよ。不用意に出すもんだから相当飛ばされたじゃないか、このバカ」
「お、俺?」
「そーだよ、おまえだ、悠斗。帰ってくるのに往生した」
憎々しげにそう言うとふんと猫又は鼻を鳴らす。
「ご、ごめん。で、どこまで飛んでったの?」
隣町? まさか違う県とかじゃないよな。逡巡するおれの口の端をぎゅむっと捻りあげて猫又が答えた。
「ちっ、地獄の釜近くまで飛ばされたんだよ。煮えたぎる血に落ちるかと思ったんだからな」
なんだって?
「ほ、本当?」
「嘘ついてどうするんだよ、ああ?」
いやもう、なんでこんなに凄味があるのか分らないし、どうやったらそんなとこまで飛ぶのかも謎なんだが、相当ヤバかったらしいのは分かる。
「俺サマは成仏して極楽に行きたいんだ。なんで地獄に行かなきゃなんないんだよっ」
「いや、それはやっぱり神様は良く見てるから……」
言わなきゃいいのについ言ってしまう。妖怪殺しまくってる猫又が極楽に行けるわけなんて無いんじゃないか。極楽って本当にあるの?
「ぐわああああっ」
肉食獣の咆哮のような声が聞こえ、殴りかかって来た猫又の手が俺の頭上で止まる。助かったと一瞬思ったが、危機は去ったんじゃなくて別口になっただけだと即座に気づいた。いや、もっと悪い。
「何今の?」
「殺生石に閉じ込められていた何かが本格的に目を覚ましたのかもな」
あっさりと猫又が応えて声がする方を見据えた。見るからに嬉しそうな顔で、きっと猫姿だったら毛が興奮で逆立っていると思う。
「行くぞ、悠斗」
「あ、うん」
横目で見た猫又の舌がぺろりと自分の上唇を舐める。
「た、楽しんでないだろうな」
「バカ野郎、楽しいわけないだろ」
猫又はそう言うけど、スカートから飛び出した二本の尻尾が立ち上がり、ふるふると揺れている。思ってることなんかダダ洩れだ。
楽しんでる。
「これって悪霊かな?」
去年の夏に見た――そう言おうとして言葉を飲み込んだ。その悪霊が猫又の元飼い主で、そいつのせいで猫又が妖怪になったと思い出したから。
悪霊と成果てた飼い主を猫又は優しい人だったとそう言っていた。簡単に割り切れるわけはない、そう思うと口にできない。
口ごもる俺にふんと猫又は鼻を鳴らし、二、三度大きく頭を振った。おまけに足元の石を蹴とばした後、不貞腐れ気味に口を開いた。
「そうだ、俺サマの飼い主と同じ腐った悪霊だ」
「え?」
「そう言って欲しかったんだろ。なんで俺サマがおまえの気持ちを斟酌しなきゃならないんだ」
苛々すると猫又は大きく舌打ちをした。
「なあ、猫又……ごめ……」
「うるさいっ」
俺の言葉は猫又の声と実力行使によって遮られた。どすんと鳩尾に重い一発くらって膝が折れて蹲る。
「……いってぇ……なにすんだよ」
「それ以上、気色の悪いこと言うなよっていうお願いだ」
――お願いだと?
猫又め、お願いするときは暴力禁止っておまえのお母さんに教わらなかったのかよ。