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画面の向こうのゴリラさん

作者: 榊
掲載日:2026/09/26

清坂 正吾様主催の『ゴリラパーティー』企画参加作品です。

企画して頂き、ありがとうございます。

『人間、今日も労働してきたんですか』


 コートを着たままパソコンを開くと、そんな文字が届いていた。

 膝に置いたコンビニの袋から、温めてもらった弁当の熱が伝わってくる。私は手に持っていた鞄を床に置き、冷えた指をキーボードに載せた。


『してきました。ゴリラさんは?』

『森の見回りを少々』

『平和でしたか』

『冷蔵庫のプリンがなくなっていました』


 袋から割り箸を出そうとして、少し笑った。会社を出てから初めて、自分の顔が動いた気がした。


『それは重大事件ですね』

『群れの中に裏切り者がいます』


 四月に新卒として就職して、一年余りが過ぎていた。

 二年目になれば自然にできると思っていたことの大半が、まだうまくできなかった。電話が鳴ると一度息を止めてしまうし、上司の「ちょっといい?」には、心当たりを探してから振り返る。帰宅して洗濯機を回したのに、干す前に眠ってしまうこともあった。

 実家にいた頃には勝手に補充されていた洗剤も、勝手に片づいていた流し台も、一人暮らしの部屋ではいつまでも私を待っている。

 パソコンを少し奥へ押し、手前に弁当を置く。


『今日は何かありましたか』


 ゴリラさんから届いた次の一行を見て、私は割り箸を割った。

 あった。説明し直すほどのことでもないのに、電車の中で何度も思い返してしまうくらいには。


『取引先に送るメール、送信する前に先輩に見てもらってるんですけど』


 そこまで打って、先にご飯を一口食べた。自分でも嫌になるくらい細かい話を、ゴリラさんは急かさずに待ってくれた。


 ゴリラさんと知り合ったのは、就職して初めての夏だった。

 学生の頃に登録したチャットサイトを、眠れない夜に何となく開いた。雑談部屋に日記のような書き込みを残していたら、ある日、ゴリラのアイコンから返事が来た。名前まで『ゴリラ』だった。

 何度か話すうちに、私たちは二人用の部屋を使うようになった。

 それ以外のことを、私はほとんど知らなかった。

 年齢も、性別も、住んでいる場所も。ときどき家族の話が出るから、誰かと暮らしているのだろうと思っていた。夜はたいてい家にいて、少し難しい話になると、その場で調べてから返事をくれた。

 落ち着いた人だと思った。少なくとも、毎日何かしらで狼狽えている私よりは。


『件名が長すぎるって言われて直したら、今度は内容が分かりづらいって言われました』


 私は弁当を半分ほど食べたところで、話の続きを送った。


『短くて分かりやすいのが、一番難しいんですよね』

『そうなんです。毎回、見てもらうのも申し訳なくて』


 返信を待つ間に、机に溜まっていたレシートをまとめた。生活費を記録しようとして取っておいたものだったけれど、一枚目に触れた時点で諦め、そのままごみ箱へ放り投げる。


『ゴリラなら、件名はウホで通します』

『絶対に怒られます』

『本文で丁寧にウホウホします』


 声を出して笑うと、隣の部屋を思って口を押さえた。

 ゴリラさんは私の仕事を代わってくれないし、明日使えるメールの書き方も教えてくれない。それでも、さっきまで何度も頭の中で聞こえていた先輩の声が、少し遠くなった。


『今日、ちゃんと食べていますか』

『今、弁当を食べてます』

『それならよかった。こちらは鍋でした』


 具は何だったのか尋ねると、白菜、豆腐、きのこ、と一つずつ届いたあとに、『肉は遅刻しました』と続いた。買い忘れたのだという。

 私は食べ終わった容器を袋に戻し、口を結わいていく。


***

 仕事を終え、家に帰るとチャットを開く日々はそれからも続いた。

 朝、会社へ向かう電車の窓に疲れた顔が映っていても、帰ったらゴリラさんにこの話をしようと思うと、一日頑張れた。

 昼休みに買ったパンの袋がきれいに開かなかったこと。駅で前を歩いていた人の鞄から、長ねぎが二本出ていたこと。私が持ち帰るのは、たいていその程度の話だったけれど。

 ゴリラさんの話も、だいたい同じだった。


『自動販売機でコーヒーを買ったら、コーンスープが出ました』


 そんな書き込みの翌日には、リベンジしてまたコーンスープが出て来たという報告が来た。ボタンの上に貼られた商品見本が、隣と逆になっていたらしい。


『明日はきっと、コーヒーを買えると思います』

『応援してます』


 私は流し台に持っていこうとしていたマグカップを、もう一度机に置いた。聞いてほしいことがある夜はもちろん、何もなかった夜にも、ここを開くようになっていた。

 たまにゴリラさんがいないと、書き込み欄を開いたまま、ほかのことをして待った。風呂から上がって『遅くなりました』の文字が増えていると、それだけで少し得をした気分になった。


 冬のある晩、珍しく返事が途切れたことがあった。

 その日の私は仕事で大きな失敗もせず、スーパーで半額の刺身を買って帰っていた。夕食の報告を送ってから二十分ほど経って、ようやくメッセージが現れた。


『ゴリラ、今日は群れに入れませんでした』


 私は箸を置いた。

 いつもなら、森で何があったのかと返すところだった。けれど、続けて出てきた文章には、ゴリラも森も出てこなかった。


『話すタイミングが分からなくて。何か言おうとした頃には、次の話になっているんです』


 どういう人たちと、どこにいたのかは書かれていなかった。

 私は『私もよくあります』と打ってから消した。それだけでは、自分の話を始めてしまいそうだった。


『今日は、何の話をしようとしたんですか』


 今度の返事も、少し待った。


『コーンスープです』


 画面を見ながら、私は刺身のつまを箸で寄せた。自動販売機の前で、缶を二本持って立っている、顔の分からない人を思い浮かべた。


『あれ、まだ続きがあったんですか』

『今日、貼り直されていました』

『じゃあ、ようやくコーヒーを』

『いえ。コーンスープにしました』


 どうやら、コーンスープが気に入ってしまったらしい。

 私は笑って、『今度、私も買ってみます』と送った。ゴリラさんは銘柄を教えてくれたあと、底に残る粒をどうやったら全部飲めるかという話を始めた。

 しばらくして、もう大丈夫なのかと聞きかけたけれど、やめた。うまくできるか分からない缶の振り方を読みながら、残っていた刺身を食べた。


 数日後、帰り道の自動販売機で同じ缶を見つけた。

 部屋に着いてから写真を送り、教えてもらった通りに試したが、どうしても最後の一粒が出てこなかった。


『ゴリラさん、一粒残りました』

『ゴリラも残ります』

『できないんですか』


 返ってきたのは、両手を上げたゴリラのスタンプだった。

 私は空になった缶を振り、微かに鳴るコーンの音を聞いた。次に買った時こそ、と思いながら、流し台に置いた。


***

 二月の終わりに、ゴリラさんが写真を送ってくれた。

 机の上に、小さなゴリラが寝かされていた。灰色のフェルトでできた、手のひらに収まりそうなキーホルダーだった。左右の腕の長さが違っていて、右耳の付け根だけ、白い糸の縫い目が見えた。


『自作なんです』


 写真の下に、少し間を置いて文字が増えた。


『なかなかのゴリラではないでしょうか』


 私は画像を大きくした。目は黒いビーズで、口は一本の刺繍糸だった。眉がわずかに傾いていて、困っているようにも、こちらの話を聞いているようにも見えた。


『上手ですね。耳のところだけ、白い糸なんですね』

『実は──』


 ゴリラさんによると、綿を詰めたあとに耳が取れかけたのだという。黒い糸を使い切ってしまい、裁縫箱にあった白い糸で縫いつけたらしい。


『明日、糸を買って縫い直そうかと思ってます』


 左腕が長くなったのも、裁断の失敗だと教えてくれた。左右を合わせて切ったつもりが、下の一枚がずれていたらしい。

 私は写真をもう一度眺めてから、返事を打った。


『私は、このままのほうが好きです』

『傷だらけですが』

『もしお店にほかのゴリラが並んでいても、この子なら一発で分かりますから』


 送ってから、実物を見てもいないのに大げさだったかもしれないと思った。けれど、ゴリラさんからはすぐに『では、このままで』と届いた。


『明日から鞄につけます』


 その日の会話が終わってから、私は写真を保存した。

 ファイル名は、ゴリラさんのゴリラ。付けてみると妙におかしくて、ほかに誰もいない部屋で、また少し笑った。



 三月に入って、帰宅する時間が遅くなった。

 二度目の年度末だった。去年は先輩の指示通りに手を動かしていればよかった仕事に、今年は自分で確認しなければならないことがいくつも増えていた。

 一つ片づけている間にメールが届き、返信を書いていると電話が鳴った。昼休みに買ったおにぎりを、夕方になって引き出しから出す日もあった。

 最初のうちは、深夜でもチャットを開いた。


『ただいまです。今日はもう寝ます』

『おかえりなさい。おやすみなさい』


 それだけのやり取りでも、帰ってきた感じがした。

 けれど、いつの間にか机の前に座ることも減っていった。パソコンの上に郵便物を載せ、その上に会社から持ち帰った封筒を置く。

 朝になると会社へ行き、帰宅すると眠る。休みの日は洗濯を二回動かし、気付けば一日が終わっていた。


 最後に開いた夜、ゴリラさんは『春から、少し遠くに行くことになりそうです』と書いていた。

 私は歯ブラシをくわえたまま、それを読んだ。


『引っ越しですか?』

『そんな感じです。まだ、ちょっと実感がなくて』

『落ち着いたらでいいので、また聞かせてください』


 先に寝てしまうお詫びを添えると、『もちろんです。おやすみなさい』と返ってきた。

 その返事に安心して、パソコンを閉じた。

 次の夜も、その次の夜も、開かなかった。



 久しぶりにログインしたのは、五月の連休が明けた日曜日だった。

 繁忙期の山を越えたあとも、溜めていた家事を少しずつ片づけては眠る休日が続いていた。その日、机の上の郵便物を分けていたら、下からパソコンの姿が現れた。

 充電の切れた画面は、ボタンを押しても点かなかった。

 机の奥に落ちていたコードを拾い、電源をつなぐ。起動を待つ間に、窓を開けた。外では誰かが布団を叩いていて、もう夕方なのに、風は少しも冷たくなかった。

 チャットの部屋には、書き込みがいくつか残っていた。


『忙しそうですね。ちゃんと寝てますか』


 三月半ばの日付だった。

 その下には、近所の桜が咲きそうだという話。コーンスープが自動販売機からなくなっていたという報告。どれも数日ずつ間が空いていて、一番新しいものは、三月の終わりに届いていた。

 それだけが、画面に収まりきらなかった。


『こんばんは。お仕事、お疲れさまです。


 何度も書き直していたら長くなってしまいました。お時間のある時に読んでもらえたらうれしいです。


 前に少しだけお話しした引っ越しのことなのですが、四月から大学に進学することになりました。家を出て、一人暮らしをします。

 実は、高校生でした。驚かせてしまったらすみません。会社のお話を聞いている時、分からない言葉をこっそり検索していたこともあります。


 ここには、もう来られなくなります。

 家の古いパソコンで、何年もログインしたまま使っていたので、パスワードが分からなくなってしまいました。登録した時のメールも、使い捨てのメールアドレスで、今はそれも覚えていません。

 このパソコンは、親も使っているので持っていけません。

 新しく登録し直すことも考えました。でも、向こうでも「帰ったらここで話せばいい」と思って、話しかけるのをやめてしまいそうで。

 だから、いったん、この部屋を離れてみます。

 本当は、直接お話しできたらよかったのですが、明日には出発するので、書いておきます。


 今まで、たくさんお話ししてくださって、ありがとうございました。


 学校では、あまり人とうまく話せませんでした。

 ひどいことをされたわけではないんです。ただ、教室にいても、今日は誰かと話したかな、と考える日がよくありました。話したいことがあっても、帰る頃にはもう、誰かに聞いてもらうほどのことじゃなかった気がしていました。

 でも、ここでなら、そんな話をしてもいいんだと思えました。

 続きがあるんですか、と聞いてもらえて、うれしかったです。次の日にも、その次の日にも、覚えていてもらえたことが、思っていたよりずっとうれしかったです。


 毎日、今日はどんなお話が聞けるかなと思っていました。

 仕事をして、一人で暮らして、ご飯を用意して、疲れていても返事をくれる人がいる。その人が明日も会社に行くなら、自分も学校に行ってみようと思えました。

 愚痴ばかりですみません、と何度か謝っていましたよね。あのたびに、うまく返せなかったのですが、お話を聞けるのが楽しみだったんです。


 鞄には、あのゴリラをつけて行きます。

 まだ耳は取れていません。白い糸、案外丈夫でした。


 向こうでは、自分から誰かに話しかけてみようと思います。まずは隣の部屋の人に挨拶をします。何を話すか分からなくなったら、自動販売機の話をしてみます。


 どうか、ご飯を食べてください。

 眠れる時には、寝てください。

 ゴリラに言われたくないと思いますが、人間も体が資本です。


 今まで、本当にありがとうございました。

 お元気で』


 窓の外で、また布団を叩く音がした。

 私はいったん文章の先頭に戻り、日付を確かめた。もう一か月以上前だった。読み返すうちに画面が暗くなって、慌ててマウスを動かした。

 大学に進学したのか、と思った。

 ゴリラさんを、何年も働いている人だと思って、私はメール一つに悩んだ話を聞いてもらっていた。


『お返事が遅くなって、すみません』


 書き込み欄に打って、指を止めた。

 進学、おめでとうございます。もっと早く言いたかった。引っ越しの話も聞きたかった。ご飯は食べれてますか。隣の部屋の人には、挨拶できましたか。

 聞きたいことはいくらでも出てきたのに、何から書けばいいのか分からなかった。


 『落ち着いたら、また聞かせてください』


 自分の最後の書き込みを、上へたどって見つけた。

 私が落ち着くまで、同じところにいてくれると思っていた。忙しくなくなったら、いつものように愚痴を聞いてもらって、森の出来事を教えてもらうつもりだった。

 私は入力していた謝罪を消した。

 代わりに、進学を祝う言葉と、自分も毎晩話すのが楽しみだったことを書いた。何度か直したあとに、『こちらこそ、ありがとうございました』と送信した。

 自分の文章が一番下に加わり、しばらく待ったけれど、当然ながらその下には何も増えなかった。



 月曜日には、会社へ行った。

 机の上には確認する書類があり、昼前には取引先から電話があった。スーパーでは卵の値段を見比べ、帰宅したら洗濯機を回した。

 チャットを開けば、私の送った文章が変わらず一番下にあった。


 ある晩、米を炊いたつもりが、予約の時刻を朝に設定していたことがあった。

 おかずを並べたあとで炊飯器を開け、水に沈んだ米を見た。時計を見て、早炊きのボタンを押してから、私は机へ向かっていた。

 パソコンの前に座って、伝える相手がいないことを思い出して手が止まった。

 温めたおかずにラップをかけ直し、その日は先に風呂へ入った。湯船の中で何もすることがなくなって、今日の失敗をまだ誰にも話していないことを考えた。


 ログインする回数は、少しずつ減った。

 保存したキーホルダーの写真は、そのままにしてあった。別の画像を探している時に目に入ると、懐かしくなってときどき開いた。

 ゴリラのキーホルダーは、まだ鞄につけているだろうか。もう、外してしまっただろうか。

 答えのない問いを浮かべ、画像を閉じてから、一人で笑う。


***

 三年後の秋、会社の指示で、社会人六年目の私と今年入社した後輩で、大学へ企業説明会に行くことになった。

 十月のよく晴れた朝だった。駅で待ち合わせた後輩は、印刷した資料を何度もめくっていた。どのページも念入りに読んだのか、端の方が折れている。


「質問されたら、ちゃんと答えられる気がしなくて」

「そうなったら、こっちに視線送って。俺も出来るだけ助けるから」


 大学へ向かうバスの時刻を確かめてから、私は資料を鞄へしまうように促した。後輩は頷いたものの、乗り場へ歩く間も表紙を指で撫でていた。


「学生の頃、説明会に来る社員って、みんなすごく大人に見えたんですよね」

「カッコよく見えるよなぁ……実際、その立場になると自分の出来なさ具合に落ち込むけど」


 説明会は、講義棟の一室で行われた。

 私たちは会社の事業を紹介し、それぞれの一日の仕事を話した。後輩は最初こそ声を詰まらせたが、配属されてから覚えたことを話し始めると、少しずつ顔を上げるようになった。

 質疑応答では、学生の一人が、入社前に勉強しておくべきことを尋ねた。

 必要な知識について答えてから、私は手元の資料に一度目を落とし、再び顔を上げた。


「それと、仕事と関係のない話をできる相手がいると、助かることもあると思います」


 後ろの席で、ペンを動かしていた学生が顔を上げた。


「私も、そういう人にずいぶん助けてもらったので」


 そこで言葉を切り、ほかに質問はないかと尋ねた。

 会社案内のどこにも載っていない答え。後輩は私を見て何か言いかけるように口を開いたけれど、次の質問が出るとそちらへ顔を向けた。


***

 片づけを終えて廊下へ出ると、窓から入る日差しが、床の半分まで伸びていた。

 後輩は担当の職員に忘れ物がないか確認すると言って、教室へ戻った。私は二人分の紙袋を窓際へ寄せ、鞄から携帯電話を出そうとした。

 その時、通り過ぎていく学生のリュックで、小さなものが揺れた。


 灰色の、ゴリラだった。


 黒いリュックの脇で、長さの違う腕が跳ねていた。フェルトには細かな毛玉ができて、頭の輪に通された金具も、写真で見た時より鈍い色になっていた。

 学生が隣を歩く友人のほうへ体を向けると、ゴリラの右耳がこちらを向いた。

 白い糸で作られた小さな縫い目。


 携帯電話を探していた手を、鞄から出した。

 もう一度確かめたくて、半歩、廊下の真ん中へ出る。ゴリラの左腕が、リュックの布に引っかかっていた。


「それで、どうなったの?」


 学生が、隣の友人に尋ねた。

 聞いたことのない声だった。

 当然なのに、そのことに驚いた。何度も『おかえりなさい』を読んだ相手の声を、私は一度も聞いたことがなかった。

 学生は友人の話に顔を向けたまま、背中に手を回した。慣れた仕草でキーホルダーの腕を外し、リュックの肩紐を掛け直した。


 ゴリラさん。


 すぐそこにいる。あと二歩で追いつける。声をかければ、振り返ってくれるかもしれない。

 長いあいだ返せなかったお礼を、今なら言えると思った。

 友人が何か言い間違えたらしく、学生が小さく吹き出した。何かを答えると、隣の友人が耳を近づけ、歩調を緩めた。

 学生はもう一度、今度は手を動かしながら話し始めた。友人は顔を向けたまま、その続きを聞いていた。

 私は口元を緩め、伸ばしかけた手を下げた。

 写真の中で寝かされていたゴリラが、人の歩く速さで遠ざかっていく。


「お待たせしました」


 後輩の声に振り返ると、窓際に寄せていた紙袋を一つ持ち上げているところだった。


「あの、さっきのお話なんですけど」

「うん」

「助けてもらったっていうのは、会社の方ですか」


 廊下の向こうで、二人が角を曲がろうとしていた。

 学生が友人の話に何か答え、リュックの端のゴリラがもう一度揺れた。


「友達」


 そう答えると、後輩は「いいですね」と言って、私の隣に並んだ。

 私は頷いてから、角の向こうへ消えていく背中を見送った。

 今朝、ちゃんと朝ご飯を食べてきました。夜も、前より眠れています。仕事は相変わらず難しいけれど、今日は後輩と、ここまで来ました。

 胸の中で近況を並べかけて、まずは挨拶からだと思い直した。

 聞き覚えのない笑い声が、廊下の先からもう一度届いた。


 お久しぶりです、ゴリラさん。

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― 新着の感想 ―
 これは距離感の話ですね。  親しいようでいてそれでもやはり見知らぬ他人。しかし交流は失われても絆だけは残る。  社会における人間関係の微妙さ。これはSNS以前からある公私のけじめな的ものですかね………
 榊さん、こんにちは。 「画面の向こうのゴリラさん」拝読致しました。  チャットで、ゴリラさんとお話。  まだまだ、お仕事は大変。  まだまだ、一人暮らしは大変。  癒しは、ゴリラさんとのチャット…
良かったです(•ᵕᴗᵕ•)⁾⁾ぺこ
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