画面の向こうのゴリラさん
清坂 正吾様主催の『ゴリラパーティー』企画参加作品です。
企画して頂き、ありがとうございます。
『人間、今日も労働してきたんですか』
コートを着たままパソコンを開くと、そんな文字が届いていた。
膝に置いたコンビニの袋から、温めてもらった弁当の熱が伝わってくる。私は手に持っていた鞄を床に置き、冷えた指をキーボードに載せた。
『してきました。ゴリラさんは?』
『森の見回りを少々』
『平和でしたか』
『冷蔵庫のプリンがなくなっていました』
袋から割り箸を出そうとして、少し笑った。会社を出てから初めて、自分の顔が動いた気がした。
『それは重大事件ですね』
『群れの中に裏切り者がいます』
四月に新卒として就職して、一年余りが過ぎていた。
二年目になれば自然にできると思っていたことの大半が、まだうまくできなかった。電話が鳴ると一度息を止めてしまうし、上司の「ちょっといい?」には、心当たりを探してから振り返る。帰宅して洗濯機を回したのに、干す前に眠ってしまうこともあった。
実家にいた頃には勝手に補充されていた洗剤も、勝手に片づいていた流し台も、一人暮らしの部屋ではいつまでも私を待っている。
パソコンを少し奥へ押し、手前に弁当を置く。
『今日は何かありましたか』
ゴリラさんから届いた次の一行を見て、私は割り箸を割った。
あった。説明し直すほどのことでもないのに、電車の中で何度も思い返してしまうくらいには。
『取引先に送るメール、送信する前に先輩に見てもらってるんですけど』
そこまで打って、先にご飯を一口食べた。自分でも嫌になるくらい細かい話を、ゴリラさんは急かさずに待ってくれた。
ゴリラさんと知り合ったのは、就職して初めての夏だった。
学生の頃に登録したチャットサイトを、眠れない夜に何となく開いた。雑談部屋に日記のような書き込みを残していたら、ある日、ゴリラのアイコンから返事が来た。名前まで『ゴリラ』だった。
何度か話すうちに、私たちは二人用の部屋を使うようになった。
それ以外のことを、私はほとんど知らなかった。
年齢も、性別も、住んでいる場所も。ときどき家族の話が出るから、誰かと暮らしているのだろうと思っていた。夜はたいてい家にいて、少し難しい話になると、その場で調べてから返事をくれた。
落ち着いた人だと思った。少なくとも、毎日何かしらで狼狽えている私よりは。
『件名が長すぎるって言われて直したら、今度は内容が分かりづらいって言われました』
私は弁当を半分ほど食べたところで、話の続きを送った。
『短くて分かりやすいのが、一番難しいんですよね』
『そうなんです。毎回、見てもらうのも申し訳なくて』
返信を待つ間に、机に溜まっていたレシートをまとめた。生活費を記録しようとして取っておいたものだったけれど、一枚目に触れた時点で諦め、そのままごみ箱へ放り投げる。
『ゴリラなら、件名はウホで通します』
『絶対に怒られます』
『本文で丁寧にウホウホします』
声を出して笑うと、隣の部屋を思って口を押さえた。
ゴリラさんは私の仕事を代わってくれないし、明日使えるメールの書き方も教えてくれない。それでも、さっきまで何度も頭の中で聞こえていた先輩の声が、少し遠くなった。
『今日、ちゃんと食べていますか』
『今、弁当を食べてます』
『それならよかった。こちらは鍋でした』
具は何だったのか尋ねると、白菜、豆腐、きのこ、と一つずつ届いたあとに、『肉は遅刻しました』と続いた。買い忘れたのだという。
私は食べ終わった容器を袋に戻し、口を結わいていく。
***
仕事を終え、家に帰るとチャットを開く日々はそれからも続いた。
朝、会社へ向かう電車の窓に疲れた顔が映っていても、帰ったらゴリラさんにこの話をしようと思うと、一日頑張れた。
昼休みに買ったパンの袋がきれいに開かなかったこと。駅で前を歩いていた人の鞄から、長ねぎが二本出ていたこと。私が持ち帰るのは、たいていその程度の話だったけれど。
ゴリラさんの話も、だいたい同じだった。
『自動販売機でコーヒーを買ったら、コーンスープが出ました』
そんな書き込みの翌日には、リベンジしてまたコーンスープが出て来たという報告が来た。ボタンの上に貼られた商品見本が、隣と逆になっていたらしい。
『明日はきっと、コーヒーを買えると思います』
『応援してます』
私は流し台に持っていこうとしていたマグカップを、もう一度机に置いた。聞いてほしいことがある夜はもちろん、何もなかった夜にも、ここを開くようになっていた。
たまにゴリラさんがいないと、書き込み欄を開いたまま、ほかのことをして待った。風呂から上がって『遅くなりました』の文字が増えていると、それだけで少し得をした気分になった。
冬のある晩、珍しく返事が途切れたことがあった。
その日の私は仕事で大きな失敗もせず、スーパーで半額の刺身を買って帰っていた。夕食の報告を送ってから二十分ほど経って、ようやくメッセージが現れた。
『ゴリラ、今日は群れに入れませんでした』
私は箸を置いた。
いつもなら、森で何があったのかと返すところだった。けれど、続けて出てきた文章には、ゴリラも森も出てこなかった。
『話すタイミングが分からなくて。何か言おうとした頃には、次の話になっているんです』
どういう人たちと、どこにいたのかは書かれていなかった。
私は『私もよくあります』と打ってから消した。それだけでは、自分の話を始めてしまいそうだった。
『今日は、何の話をしようとしたんですか』
今度の返事も、少し待った。
『コーンスープです』
画面を見ながら、私は刺身のつまを箸で寄せた。自動販売機の前で、缶を二本持って立っている、顔の分からない人を思い浮かべた。
『あれ、まだ続きがあったんですか』
『今日、貼り直されていました』
『じゃあ、ようやくコーヒーを』
『いえ。コーンスープにしました』
どうやら、コーンスープが気に入ってしまったらしい。
私は笑って、『今度、私も買ってみます』と送った。ゴリラさんは銘柄を教えてくれたあと、底に残る粒をどうやったら全部飲めるかという話を始めた。
しばらくして、もう大丈夫なのかと聞きかけたけれど、やめた。うまくできるか分からない缶の振り方を読みながら、残っていた刺身を食べた。
数日後、帰り道の自動販売機で同じ缶を見つけた。
部屋に着いてから写真を送り、教えてもらった通りに試したが、どうしても最後の一粒が出てこなかった。
『ゴリラさん、一粒残りました』
『ゴリラも残ります』
『できないんですか』
返ってきたのは、両手を上げたゴリラのスタンプだった。
私は空になった缶を振り、微かに鳴るコーンの音を聞いた。次に買った時こそ、と思いながら、流し台に置いた。
***
二月の終わりに、ゴリラさんが写真を送ってくれた。
机の上に、小さなゴリラが寝かされていた。灰色のフェルトでできた、手のひらに収まりそうなキーホルダーだった。左右の腕の長さが違っていて、右耳の付け根だけ、白い糸の縫い目が見えた。
『自作なんです』
写真の下に、少し間を置いて文字が増えた。
『なかなかのゴリラではないでしょうか』
私は画像を大きくした。目は黒いビーズで、口は一本の刺繍糸だった。眉がわずかに傾いていて、困っているようにも、こちらの話を聞いているようにも見えた。
『上手ですね。耳のところだけ、白い糸なんですね』
『実は──』
ゴリラさんによると、綿を詰めたあとに耳が取れかけたのだという。黒い糸を使い切ってしまい、裁縫箱にあった白い糸で縫いつけたらしい。
『明日、糸を買って縫い直そうかと思ってます』
左腕が長くなったのも、裁断の失敗だと教えてくれた。左右を合わせて切ったつもりが、下の一枚がずれていたらしい。
私は写真をもう一度眺めてから、返事を打った。
『私は、このままのほうが好きです』
『傷だらけですが』
『もしお店にほかのゴリラが並んでいても、この子なら一発で分かりますから』
送ってから、実物を見てもいないのに大げさだったかもしれないと思った。けれど、ゴリラさんからはすぐに『では、このままで』と届いた。
『明日から鞄につけます』
その日の会話が終わってから、私は写真を保存した。
ファイル名は、ゴリラさんのゴリラ。付けてみると妙におかしくて、ほかに誰もいない部屋で、また少し笑った。
三月に入って、帰宅する時間が遅くなった。
二度目の年度末だった。去年は先輩の指示通りに手を動かしていればよかった仕事に、今年は自分で確認しなければならないことがいくつも増えていた。
一つ片づけている間にメールが届き、返信を書いていると電話が鳴った。昼休みに買ったおにぎりを、夕方になって引き出しから出す日もあった。
最初のうちは、深夜でもチャットを開いた。
『ただいまです。今日はもう寝ます』
『おかえりなさい。おやすみなさい』
それだけのやり取りでも、帰ってきた感じがした。
けれど、いつの間にか机の前に座ることも減っていった。パソコンの上に郵便物を載せ、その上に会社から持ち帰った封筒を置く。
朝になると会社へ行き、帰宅すると眠る。休みの日は洗濯を二回動かし、気付けば一日が終わっていた。
最後に開いた夜、ゴリラさんは『春から、少し遠くに行くことになりそうです』と書いていた。
私は歯ブラシをくわえたまま、それを読んだ。
『引っ越しですか?』
『そんな感じです。まだ、ちょっと実感がなくて』
『落ち着いたらでいいので、また聞かせてください』
先に寝てしまうお詫びを添えると、『もちろんです。おやすみなさい』と返ってきた。
その返事に安心して、パソコンを閉じた。
次の夜も、その次の夜も、開かなかった。
久しぶりにログインしたのは、五月の連休が明けた日曜日だった。
繁忙期の山を越えたあとも、溜めていた家事を少しずつ片づけては眠る休日が続いていた。その日、机の上の郵便物を分けていたら、下からパソコンの姿が現れた。
充電の切れた画面は、ボタンを押しても点かなかった。
机の奥に落ちていたコードを拾い、電源をつなぐ。起動を待つ間に、窓を開けた。外では誰かが布団を叩いていて、もう夕方なのに、風は少しも冷たくなかった。
チャットの部屋には、書き込みがいくつか残っていた。
『忙しそうですね。ちゃんと寝てますか』
三月半ばの日付だった。
その下には、近所の桜が咲きそうだという話。コーンスープが自動販売機からなくなっていたという報告。どれも数日ずつ間が空いていて、一番新しいものは、三月の終わりに届いていた。
それだけが、画面に収まりきらなかった。
『こんばんは。お仕事、お疲れさまです。
何度も書き直していたら長くなってしまいました。お時間のある時に読んでもらえたらうれしいです。
前に少しだけお話しした引っ越しのことなのですが、四月から大学に進学することになりました。家を出て、一人暮らしをします。
実は、高校生でした。驚かせてしまったらすみません。会社のお話を聞いている時、分からない言葉をこっそり検索していたこともあります。
ここには、もう来られなくなります。
家の古いパソコンで、何年もログインしたまま使っていたので、パスワードが分からなくなってしまいました。登録した時のメールも、使い捨てのメールアドレスで、今はそれも覚えていません。
このパソコンは、親も使っているので持っていけません。
新しく登録し直すことも考えました。でも、向こうでも「帰ったらここで話せばいい」と思って、話しかけるのをやめてしまいそうで。
だから、いったん、この部屋を離れてみます。
本当は、直接お話しできたらよかったのですが、明日には出発するので、書いておきます。
今まで、たくさんお話ししてくださって、ありがとうございました。
学校では、あまり人とうまく話せませんでした。
ひどいことをされたわけではないんです。ただ、教室にいても、今日は誰かと話したかな、と考える日がよくありました。話したいことがあっても、帰る頃にはもう、誰かに聞いてもらうほどのことじゃなかった気がしていました。
でも、ここでなら、そんな話をしてもいいんだと思えました。
続きがあるんですか、と聞いてもらえて、うれしかったです。次の日にも、その次の日にも、覚えていてもらえたことが、思っていたよりずっとうれしかったです。
毎日、今日はどんなお話が聞けるかなと思っていました。
仕事をして、一人で暮らして、ご飯を用意して、疲れていても返事をくれる人がいる。その人が明日も会社に行くなら、自分も学校に行ってみようと思えました。
愚痴ばかりですみません、と何度か謝っていましたよね。あのたびに、うまく返せなかったのですが、お話を聞けるのが楽しみだったんです。
鞄には、あのゴリラをつけて行きます。
まだ耳は取れていません。白い糸、案外丈夫でした。
向こうでは、自分から誰かに話しかけてみようと思います。まずは隣の部屋の人に挨拶をします。何を話すか分からなくなったら、自動販売機の話をしてみます。
どうか、ご飯を食べてください。
眠れる時には、寝てください。
ゴリラに言われたくないと思いますが、人間も体が資本です。
今まで、本当にありがとうございました。
お元気で』
窓の外で、また布団を叩く音がした。
私はいったん文章の先頭に戻り、日付を確かめた。もう一か月以上前だった。読み返すうちに画面が暗くなって、慌ててマウスを動かした。
大学に進学したのか、と思った。
ゴリラさんを、何年も働いている人だと思って、私はメール一つに悩んだ話を聞いてもらっていた。
『お返事が遅くなって、すみません』
書き込み欄に打って、指を止めた。
進学、おめでとうございます。もっと早く言いたかった。引っ越しの話も聞きたかった。ご飯は食べれてますか。隣の部屋の人には、挨拶できましたか。
聞きたいことはいくらでも出てきたのに、何から書けばいいのか分からなかった。
『落ち着いたら、また聞かせてください』
自分の最後の書き込みを、上へたどって見つけた。
私が落ち着くまで、同じところにいてくれると思っていた。忙しくなくなったら、いつものように愚痴を聞いてもらって、森の出来事を教えてもらうつもりだった。
私は入力していた謝罪を消した。
代わりに、進学を祝う言葉と、自分も毎晩話すのが楽しみだったことを書いた。何度か直したあとに、『こちらこそ、ありがとうございました』と送信した。
自分の文章が一番下に加わり、しばらく待ったけれど、当然ながらその下には何も増えなかった。
月曜日には、会社へ行った。
机の上には確認する書類があり、昼前には取引先から電話があった。スーパーでは卵の値段を見比べ、帰宅したら洗濯機を回した。
チャットを開けば、私の送った文章が変わらず一番下にあった。
ある晩、米を炊いたつもりが、予約の時刻を朝に設定していたことがあった。
おかずを並べたあとで炊飯器を開け、水に沈んだ米を見た。時計を見て、早炊きのボタンを押してから、私は机へ向かっていた。
パソコンの前に座って、伝える相手がいないことを思い出して手が止まった。
温めたおかずにラップをかけ直し、その日は先に風呂へ入った。湯船の中で何もすることがなくなって、今日の失敗をまだ誰にも話していないことを考えた。
ログインする回数は、少しずつ減った。
保存したキーホルダーの写真は、そのままにしてあった。別の画像を探している時に目に入ると、懐かしくなってときどき開いた。
ゴリラのキーホルダーは、まだ鞄につけているだろうか。もう、外してしまっただろうか。
答えのない問いを浮かべ、画像を閉じてから、一人で笑う。
***
三年後の秋、会社の指示で、社会人六年目の私と今年入社した後輩で、大学へ企業説明会に行くことになった。
十月のよく晴れた朝だった。駅で待ち合わせた後輩は、印刷した資料を何度もめくっていた。どのページも念入りに読んだのか、端の方が折れている。
「質問されたら、ちゃんと答えられる気がしなくて」
「そうなったら、こっちに視線送って。俺も出来るだけ助けるから」
大学へ向かうバスの時刻を確かめてから、私は資料を鞄へしまうように促した。後輩は頷いたものの、乗り場へ歩く間も表紙を指で撫でていた。
「学生の頃、説明会に来る社員って、みんなすごく大人に見えたんですよね」
「カッコよく見えるよなぁ……実際、その立場になると自分の出来なさ具合に落ち込むけど」
説明会は、講義棟の一室で行われた。
私たちは会社の事業を紹介し、それぞれの一日の仕事を話した。後輩は最初こそ声を詰まらせたが、配属されてから覚えたことを話し始めると、少しずつ顔を上げるようになった。
質疑応答では、学生の一人が、入社前に勉強しておくべきことを尋ねた。
必要な知識について答えてから、私は手元の資料に一度目を落とし、再び顔を上げた。
「それと、仕事と関係のない話をできる相手がいると、助かることもあると思います」
後ろの席で、ペンを動かしていた学生が顔を上げた。
「私も、そういう人にずいぶん助けてもらったので」
そこで言葉を切り、ほかに質問はないかと尋ねた。
会社案内のどこにも載っていない答え。後輩は私を見て何か言いかけるように口を開いたけれど、次の質問が出るとそちらへ顔を向けた。
***
片づけを終えて廊下へ出ると、窓から入る日差しが、床の半分まで伸びていた。
後輩は担当の職員に忘れ物がないか確認すると言って、教室へ戻った。私は二人分の紙袋を窓際へ寄せ、鞄から携帯電話を出そうとした。
その時、通り過ぎていく学生のリュックで、小さなものが揺れた。
灰色の、ゴリラだった。
黒いリュックの脇で、長さの違う腕が跳ねていた。フェルトには細かな毛玉ができて、頭の輪に通された金具も、写真で見た時より鈍い色になっていた。
学生が隣を歩く友人のほうへ体を向けると、ゴリラの右耳がこちらを向いた。
白い糸で作られた小さな縫い目。
携帯電話を探していた手を、鞄から出した。
もう一度確かめたくて、半歩、廊下の真ん中へ出る。ゴリラの左腕が、リュックの布に引っかかっていた。
「それで、どうなったの?」
学生が、隣の友人に尋ねた。
聞いたことのない声だった。
当然なのに、そのことに驚いた。何度も『おかえりなさい』を読んだ相手の声を、私は一度も聞いたことがなかった。
学生は友人の話に顔を向けたまま、背中に手を回した。慣れた仕草でキーホルダーの腕を外し、リュックの肩紐を掛け直した。
ゴリラさん。
すぐそこにいる。あと二歩で追いつける。声をかければ、振り返ってくれるかもしれない。
長いあいだ返せなかったお礼を、今なら言えると思った。
友人が何か言い間違えたらしく、学生が小さく吹き出した。何かを答えると、隣の友人が耳を近づけ、歩調を緩めた。
学生はもう一度、今度は手を動かしながら話し始めた。友人は顔を向けたまま、その続きを聞いていた。
私は口元を緩め、伸ばしかけた手を下げた。
写真の中で寝かされていたゴリラが、人の歩く速さで遠ざかっていく。
「お待たせしました」
後輩の声に振り返ると、窓際に寄せていた紙袋を一つ持ち上げているところだった。
「あの、さっきのお話なんですけど」
「うん」
「助けてもらったっていうのは、会社の方ですか」
廊下の向こうで、二人が角を曲がろうとしていた。
学生が友人の話に何か答え、リュックの端のゴリラがもう一度揺れた。
「友達」
そう答えると、後輩は「いいですね」と言って、私の隣に並んだ。
私は頷いてから、角の向こうへ消えていく背中を見送った。
今朝、ちゃんと朝ご飯を食べてきました。夜も、前より眠れています。仕事は相変わらず難しいけれど、今日は後輩と、ここまで来ました。
胸の中で近況を並べかけて、まずは挨拶からだと思い直した。
聞き覚えのない笑い声が、廊下の先からもう一度届いた。
お久しぶりです、ゴリラさん。




