「離縁なさるなら菓子折りはご無用でございます」と女中頭が笑った朝、四年叱り役にされた私は算盤ひとつで町の信用ごと頂きます
「あっ」
甲高い声に続いて、染付の皿がぱりんと割れた。白い床を藍の千鳥が八つに分かれて滑ってゆく。あれは一羽につき銀何匁でしたかしら、と考えたところで、客人の膝へ煮汁が跳ねた。
痛い。わたくしの懐が。
下働きの娘は青い顔で欠片を拾おうとした。客人は濡れた裾を浮かせ、旦那様は笑った。誰も怪我をしていないのだから大事ではない、という、たいそう優しい旦那様のお顔である。
「まあ、悪気はないのだから」
出ましたわね。旦那様の「まあ」。これで皿が元へ戻るなら、瀬戸物屋はとうに潰れております。
わたくしは算盤を伏せて立った。
「素手で触れてはなりません。箒と塵取りを。先にお客様のお召し物へ水をお持ちしなさい。欠片を一つでも残したら、今夜は皆で床を洗い直します」
娘の背が縮んだ。宗一郎の笑みは深くなった。ほらね、妻は少し厳しいけれど、私は奉公人にも寛大なのです——と、言わずとも頬に書いてある。旦那様のお顔は帳面より読みやすくて助かりますわ。
「志乃、そこまで言わずとも」
「お客様のお足に刺さってからでは遅うございます」
「怖がらせては、かえって手が震えるだろう」
では旦那様が拾えばよろしいのに、とは申し上げなかった。客前で夫を叱れば、あとで大奥様から叱られる。叱り一回を減らすために、頭を下げる先を二つ増やすなど大赤字である。
「わたくしの言い方がきつうございました。けれど、まずはお召し物を」
娘は何度もうなずいた。宗一郎は客人へ「不調法な者で」と詫びたものの、その腰は座布団から一寸も浮かなかった。軽い。羽毛より軽いお詫びだこと。菓子の一つも包めませんわ。
客人が帰ると、わたくしは割れた皿の値と染み抜き代を書きつけた。皿一枚なら詫びは三日ぶん。いえ、あの絵付けでしたら七日ですわね。割った本人より先に勘定できる自分が、少々恐ろしくなってまいりました。
「志乃、お前から先方へ出向いてくれないか」
宗一郎は茶を飲みながら言った。わたくしが伏せた算盤は、まだ伏せたままである。
「旦那様もご一緒に?」
「私はこれから人と会う約束がある。お前なら先方も納得するだろう」
おや。先ほどまで怖がらせるなとおっしゃっていた妻が、急に頼もしくなりました。わたくしの厳しさ、持ち運びができて便利ですこと。
菓子屋で詫びの品を選び、客人の好む餡を包んでもらった。値は皿の半分、日持ちは五日、頭を下げる回数は玄関と座敷で二回。帰り際にもう一回。合計三回。先方の機嫌が直らなければ翌月の寄合でもう一回。
包みの紐が指へ食い込んだ。持ち替えれば菓子が傾くので、そのまま歩いた。わたくしの草履が鳴るたび、紅い筋が一本ずつ深くなった。
お詫びを終えて戻ると、宗一郎はもう夕餉を済ませていた。
「先方は?」
「お許しくださいました」
「そうか。お前は話が早くて助かる」
夕餉の膳には、蓋をした椀が一つ残されていた。蓋を取っても湯気はない。旦那様の「まあ」よりは重いので、ありがたく頂くことにした。
* * *
「あなたが厳しいから、あの子たちも粗相を隠すのよ」
大奥様は茶飲み友達の前で、親しげに笑った。わたくしはその横で羊羹を切っていた。大奥様の分だけ一分厚くする。口へ入っている間は、わたくしの評判が下がらないからである。砂糖で買える平穏なら安いものですわ。
「志乃さんは、しっかりした奥方ですものねえ」
「ええ。しっかりしすぎて、宗一郎がいつも間へ入るの。あの子は昔から人を責められないでしょう?」
多賀が目を細めると、客たちはうなずいた。わたくしも微笑んで羊羹を配る。ここで包丁を置けば話が長くなる。切り続ければ、羊羹が尽きたところで茶会も終わる。家政とは実に奥深い戦である。
下働きが水甕を倒した時も、針仕事を預かったまま忘れた時も、宗一郎は誰も責めなかった。その代わり、わたくしが叱り、品を整え、詫びに出た。大奥様はそのたび「志乃さんは家のためを思っているのよ」と優しく締めくくった。
便利な締めくくりである。わたくしが悪者になり、大奥様は物分かりのよい姑、旦那様は心優しい当主になる。一人ぶんの悪評で三人ぶんの善人が出来上がるのですから、たいそう歩留まりがよろしい。
寄合の席でも、宗一郎は褒められていた。
「旦那様は奉公人にもよく目をかけておられる」
「声を荒らげるところを見たことがないな」
「奥方が厳しいぶん、ちょうどよいのでしょう」
末席のわたくしは、にこやかに頭を下げた。声を荒らげる必要などない。宗一郎が笑えば、わたくしがあとから走るのだから。
旦那様の羽織は今年仕立てたばかりで、あの裏地なら菓子折りが十二、いえ十五。大奥様の帯は染め直しまで含めれば二十七回。お二人の見栄をすべて頭を下げる回数へ換えたところで、数えるのをやめた。百を越えると、さすがに首が痛くなる。
「志乃、笑ってばかりいないで、皆様へ酌を」
「はい、旦那様」
旦那様はわたくしに杯を持たせ、自分は「家の者にはのびのび働いてもらいたい」と語った。その朝、味噌を焦がした女中へ注意したのはわたくしで、焦げ臭い鍋を磨いたのはお常である。のびのびしているのは、旦那様の舌だけでは?
帰り道、多賀は上機嫌だった。
「皆さん、宗一郎を褒めてくださったわね。あなたも、もう少し柔らかくなれば完璧なのだけれど」
「善処いたします」
善処。なんと便利な言葉でしょう。旦那様の「まあ」と並べて店へ出したい。何の役にも立たない品を売るのは心苦しいので、開店は見送りますけれど。
屋敷へ戻ると、台所口に草履が揃えてあった。わたくしが詫びへ出るたび、お常が出してくれる草履である。雨の日は鼻緒に油紙、寒い日は足袋を温めて。四年で何度、そこへ足を入れたか。途中から数えるのをやめたものは、たいがい高くついている。
「本日は、どちらへ?」
お常が尋ねた。
「どちらへも参りません」
そう答えると、お常は草履を引っ込めた。音も立てず、何も聞かずに。
わたくしはその背を見送ってから、開き癖のついた算盤を棚へ戻した。明日は帳面を三冊締めなければならない。首が痛かろうが、勘定は待ってくれない。金は人より正直ですもの。足りなければ、きちんと足りない顔をする。
* * *
朝餉のあと、宗一郎が受けるはずだった頼まれ事が放り出されているのを見つけた。寄合へ貸す座布団二十枚が、蔵の前に積まれたままである。届ける刻限はとうに過ぎていた。
わたくしは帳面を開き、座布団の数を確かめた。二十枚、紐は四本、運び手を頼めば銭がいくら。詫びの菓子まで入れるなら、頭を下げる回数は最低二回。
指が算盤へ触れた。伏せて、立って、草履を履く。それで家は回る。昨日までなら、そうしていた。
「奥様」
お常が茶を置いた。いつもの無表情ではなく、ほんの少し口元を緩めている。三十年この家にいるお常が笑うと、床柱まで身構える。これは只事ではございませんわね。
「離縁なさるなら菓子折りはご無用でございます」
わたくしの指が、算盤の縁で止まった。
「お常。朝からずいぶん景気のよいお話ですこと」
「四年で百十七折。うち、先様の門前で二度お待ちになったのが九度。雨が十一度でございます」
「数えておりましたの?」
「回数と義理は、間違えてはなりませんので」
お常は座布団の山を見もしなかった。わたくしの草履にも手を伸ばさない。
「わたくしが行かなければ、先方へ失礼になります」
「詫びは町へ届きません。届いていたのは、奥様の草履の音でございます」
庭で雀が一羽、飛び石を蹴った。算盤の珠は一つも動かなかった。
わたくしは両手を膝へ置いた。右の人差し指には、もう消えたはずの紅い筋があるように見えた。
「わたくし、あの包みの紐を、四年、家の紐だと思うて握っておりました」
お常は何も言わなかった。茶から上がった湯気が細くなり、座布団の紐が朝の光を吸っていた。
やがてわたくしは算盤から手を離した。座布団は宗一郎が受けた頼みで、数も刻限も伝えてある。届ける手も銭も用意してある。わたくしの仕事は、そこまでだ。
「茶が冷めます」
「ええ」
久しぶりに、熱い茶が喉を通った。
翌朝、帳場へ向かう途中で菓子屋の前を通った。蒸し上がった皮と餡の匂いが、戸の隙間から追いかけてくる。いつもなら品を三つ見ただけで、先方の人数、値、日持ち、詫びる回数まで頭に並んだ。
何も浮かばなかった。
わたくしの足は止まらない。菓子屋の暖簾をくぐらず、そのまま屋敷へ戻った。
帳場では、昨日の算盤が開いたまま待っていた。座布団二十枚は蔵の前に残り、宗一郎の受けた頼まれ事も残っている。わたくしは家中の買い入れを確かめ、奉公人の給金を揃え、昼餉の人数を書き足した。
珠の音はいつも通りだった。
悪役が一人降板したくらいで、勘定は狂わない。あら。やめても家が回るものを、仕事と呼んでよろしかったのでしょうか。
* * *
三日後、また皿が割れた。
今度は普段使いの小皿で、被害は一枚。下働きの娘は青くなり、宗一郎は廊下から顔を出した。わたくしは帳面へ小皿一枚と書き入れ、次の買い入れ数を一枚増やした。
「まあ、悪気はないのだから」
宗一郎が笑った。
娘はわたくしを見た。わたくしは算盤を開いたまま、米の残りを数えた。叱らない。詫びない。ただ、次の膳に足りるよう補う。それで家政は一分も止まらない。
「奥様……」
「欠片を拾う前に、手袋をなさい。怪我をすれば薬代が増えます」
娘は慌てて手袋を取りに走った。宗一郎は廊下に立ったまま、誰も責めなかった。誰も責めなかったので、割れた理由も、棚へ皿を詰め込みすぎた者も、その日はわからないままだった。
一月後、仕入れの払いが遅れた。
宗一郎が受け取った請求を、書き物机へ挟んだまま忘れていたのである。店の使いが帳場へ来た時には、約束の日を二日過ぎていた。わたくしは帳面と現金を照らし、過不足なく支払った。
「まあ、悪気はないのだから」
宗一郎は使いへ穏やかに笑った。
使いは受け取った銭を数えた。わたくしは受領の印を確かめ、払いの日付を二日遅れで記した。以前なら菓子折りを添え、店先でもう一度頭を下げていた。今日は銭だけ。銭は詫びの真似をしないので、たいへん清々しい。
「奥方様から、何か……」
使いが言い差した。
「勘定に間違いがございましたか」
「いえ。ございません」
使いは宗一郎を見たが、宗一郎はもう別の話を始めていた。使いの草履が廊下を離れ、門の外へ消えるまで、あとを追う足音はなかった。
さらに半月後、寄合の当番が抜けた。
必要な茶も炭も座布団も、わたくしは前日までに揃えてあった。誰へ声をかけ、何刻に始めるかは当主である宗一郎が決める。わたくしは二日前に一度伝え、前日の朝にも予定を置いた。それでも宗一郎は昼から客と碁を打ち、そのまま夜になった。
「まあ、悪気はないのだから」
宗一郎は翌朝、集まれなかった者たちへ笑ってみせた。
わたくしは開いた算盤の向こうから、その笑顔を見た。以前なら、当日の夕方に草履を履き、家々を回り、茶と炭を無駄にした分まで自分の不手際として頭を下げただろう。
今日は茶を戻し、炭を蔵へ入れ、座布団を日に当てた。家の損は三割で収めた。お見事、わたくし。旦那様の評判まで損切りする義理はございません。
三度とも、宗一郎の言葉のあとに足音は続かなかった。
それでも夕餉は刻限通りに並び、給金も買い入れも遅れなかった。旦那様は首をかしげた。家は回っている。外から来る笑顔だけが減っている。
* * *
店の使いは、次の月にも来た。
約束の日を念押しし、宗一郎の返事を聞き、わたくしの帳面を覗いて帰った。二度目は玄関から上がらず、用件だけを告げた。わたくしはどちらにも、決められた日に決められた額を渡した。
三度目には来なかった。
品も来なかった。こちらから頼みに行けば、「先約がございます」と返された。旦那様が笑って待っても先方の先約は消えない。おや、世の中は旦那様のお屋敷ほど優しくできていないようですわ。
仕立て職人も、宗一郎の羽織を受けなくなった。
「急ぎで頼みたい。これまでの付き合いがあるだろう」
「あいにく、手が空きませんので」
職人は針を止めずに答えた。以前なら大奥様の帯を優先した者である。手は空いている。旦那様のために空ける手がなくなっただけだ。
寄合の客も、茶を飲みに来なくなった。宗一郎が顔を出せば挨拶はするが、次の当番も品の融通も頼まれない。善人の顔はそのままなのに、顔を映してくれる鏡が一枚ずつ片づけられてゆく。
「このところ、皆がよそよそしいと思わないか」
宗一郎がわたくしへ尋ねた。
「買い入れと給金に遅れはございません。家中の差配にも滞りはございませんわ」
「そういう話ではない」
「では、どの帳面をお持ちしましょう」
旦那様は答えず、扇子を開いた。扇子の風が、帳面の端だけをめくった。
寄合で、宗一郎へ一人の客が言った。
「奥方が厳しいのではない。奥方が来なくなっただけだ」
それだけだった。ほかの者は杯を置き、次の用件へ移った。誰も否まなかった。
帰宅した宗一郎は、わたくしの前へ座った。
「しばらく好きにすれば、気も済むだろう。だが、家の外へまで意地を張る必要はない」
「離縁をお願いいたします」
四年の目録も読み上げず、婚家の財を求めることもなく、自分の着物と、手元の金と、働いた分の覚えだけを持って出ると告げた。
宗一郎は鼻で息をつき、わたくしから目を逸らした。
(放っておけば、志乃は前のように戻る。家を出て困るのはあちらなのだから。)
なぜか、その一文だけは顔に書かれていなかった。けれど、離縁を承知する声があまりに軽くて、読めてしまった。旦那様、最後まで帳面より易しいお方でしたわね。
* * *
多賀は、わたくしを引き留めなかった。
「宗一郎には家格があるのよ。町の者も、じきに頭を冷やすわ」
そう言って、翌朝には自分の実家へ相談に走った。家格はあるのに、助けは実家から借りるらしい。大奥様の帯を頭を下げる回数へ直せば二十七回。実家へ下げる頭は、さて何回にお値引きなさるのかしら。
宗一郎は店へ人をやり、家の名を告げさせた。返ってきたのは、納められる日と値だけだった。以前のような融通も、余分な一品も、玄関先の世間話もない。
「うちをどこの家だと思っている」
宗一郎が声を強めても、使いは帳面を閉じるだけだった。
「ご注文は、そちらで全部でございますか」
家格を包む菓子折りは売っていない。残念でしたわね。
宗一郎はお常へ、先方へ話をつけてこいと命じた。お常はわたくしの荷をまとめる手を止めず、畳んだ着物の角を揃えた。
「お前なら昔からの付き合いがあるだろう。志乃も意地を張っているだけだ。連れ戻してこい」
「あいにく、手が塞がっておりますので」
お常は風呂敷の結び目をきゅっと締めた。品のよい奉公人が三十年分の義理を一言で畳むと、たいそうよい音がする。わたくし、危うく拍手するところでした。
「お常。お前まで出ていくつもりか」
「奥様の草履を出す者が要りますので」
宗一郎の声が痩せた。反対に、お常の背は少しも曲がらない。大奥様は実家、旦那様は家格、お常はわたくしの草履。皆それぞれ、信じるものの後ろへ立っただけである。
わたくしは最後の日まで帳面を締めた。米と炭の残り、支払い、給金、次の買い入れ日。誰が見ても引き継げるよう印をつけ、算盤の珠を零へ戻した。
宗一郎には、家の財も地位も残した。大奥様には、お好きな帯も茶器も残した。評判だけは、置こうにも棚に見当たらなかった。最初からこの家の持ち物ではなかったのでしょう。
新しい家で使う炭と鍋を頼みに行くと、店の者はすぐ帳面を開いた。
「志乃様のお頼みなら、明日の朝にお届けいたします」
婚家の名を告げていないのに、話は早かった。わたくしは値を聞き、支払日を決めた。頭は一度も下げなかった。必要な礼を述べるだけで品が届くとは、なんと便利な世の中でしょう。わたくし、四年ほど別の国に住んでいたのかしら。
離縁の日、お常が門前へ草履を揃えた。
今度の草履は、どこの詫び先にも向いていない。鼻緒へ足を入れると、お常が荷を持ち、わたくしが先に歩き出した。
後ろで誰かが呼ぶかと思った。
呼ばれなかった。
それで足は止まらなかった。
* * *
ひと月ほどして、宗一郎が台所口へ来た。
表の玄関ではなく台所口である。客として迎えられる自信はなく、夫の顔なら入れると思ったらしい。どちらの顔も、こちらでは品切れでございます。
朝餉の汁が鍋で煮え、焼いた魚から脂が落ちていた。お常は黙って二人分の膳を整えている。宗一郎は湯気を見てから、わたくしを見た。
「家へ戻ってくれ」
「家でしたら、こちらにございます」
「言葉遊びをしに来たのではない。母も困っている。店との付き合いも、寄合も、前のように戻してくれ」
謝罪はなかった。四年の礼も、悪かったの一言もない。戻してくれ。旦那様がお求めなのは妻ではなく、笑顔の後ろで走る草履ですわね。
「旦那様が、皆様へお話しになればよろしいのでは?」
「私が頭を下げれば、かえって家の面目に関わる。お前はそういうことが得意だっただろう」
得意。皿を割るのが得意な者はいないのに、割れたあとの欠片を拾う者だけは得意と呼ばれる。ずいぶん都合のよい褒め言葉である。
宗一郎は一歩、台所へ近づいた。
「前のように戻ってくれ」
わたくしは、その足元を見た。宗一郎の草履は乾いている。雨の日も、雪の日も、先方の門前で濡れたのはいつも別の草履だった。
「詫びは町へ届きません」
宗一郎の口がわずかに開いた。
「旦那様の言葉のあとに、四年間、どちらの草履が鳴っていたか。それだけでございます」
宗一郎は返事をしなかった。お常も膳を運ぶ手を止めない。汁の湯気が、二人の間をまっすぐ上がった。
やがて宗一郎は台所口を出た。
わたくしは追わなかった。お常も草履を出さなかった。門の閉まる音がして、それきりだった。
「奥様。魚が冷めます」
「いけませんわ!」
わたくしは膳の前へ座った。せっかく脂の乗った魚である。旦那様の後始末のために冷ますなど、魚に対して申し訳が立たない。もっとも、そのお詫びにも菓子折りは要りませんけれど。
朝餉を食べ終えると、菓子屋へ向かった。あの日は素通りした暖簾が、今日は朝の風に揺れている。戸を開けると、蒸した黒糖と餡の匂いが頬へ当たった。
「ご進物でございますか」
店の者が箱を出しかけた。
「いいえ。わたくしが食べます」
口にした途端、胸のあたりが妙に広くなった。箱は要らない。飾り紐も要らない。今日中に食べるのだから、日持ちも先方の好みも考えなくてよい。
「志乃様のお頼みなら、蒸したてをお包みいたします」
黒糖饅頭を八つ頼んだ。値を聞いた途端、頭の算盤が久しぶりにぱちぱち鳴った。この値なら十でもよかった。いえ、十二でも。離縁した女が最初に覚える自由が買い食いとは、我ながら見上げた志でございます。
包みの紐はゆるく結ばれていた。指へ食い込まない。わたくしは片手で提げ、もう片方で一つ取り出した。
家へ戻るまで待てず、店先でかじった。熱い餡が舌へ乗り、黒糖の香りが鼻へ抜ける。誰へ詫びるためでもない菓子は、こんな味がするらしい。
「お常、八つ買ってまいりましたわ」
新しい家へ戻ると、お常が茶を淹れていた。
「半分ずつでございますね」
「これですわ。菓子は自分で食べるものですのよ。お常、半分では足りませんでしょう?」
「奥様が五つ、わたくしが三つで結構でございます」
「逆ではなくて?」
「店先で、すでに一つお召し上がりでしょう」
お常、恐ろしい女。三十年の目はごまかせない。わたくしは観念して包みを開いた。
茶にはまだ湯気が立っている。朝餉も、今日は冷める前に食べた。誰の顔色も、次の詫び先も、頭を下げる回数も数えなくてよい。
黒糖饅頭は残り七つ。
お常が三つなら、わたくしが四つ。
勘定はぴたりと合った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




