第9話 例外条項、発効
赤い文字は、蒼汰が見ている間にも増えていった。
外縁警戒線異常
第一保管路外部に識別反応
対象照合中
識別完了
対象個体:奏多蒼汰
境界側より観測開始
部屋の温度が一気に下がったような気がした。
見つかった。
守の声がそう言った直後より、文字として突きつけられた今の方が、ずっと重かった。
ただの可能性じゃない。
現実だ。
もう向こう側は、自分を見ている。
冬城が素早く壁際の端末らしき板へ手を伸ばす。
帰還室や第一保管路で見た無機質な仕掛けと違い、第二区画のそれは木枠に収まっていて、この部屋の雰囲気を壊さないように作られていた。たぶん巴の趣味だ。
警戒線、どこで破られました
青い番人が即答する。
旧校舎外周ではありません
観測のみ
直接侵入なし
観測源は境界面の浅層
識別方式は旧式
敵対意思は現時点で不明
不明が一番困るんだよ
蒼汰が思わず言うと、守が低く返した。
そうだな
だが旧式なら、まだ猶予はある
旧式って何だよ
後で説明する
今は封筒だ
お前の手のそれを開けろ
蒼汰は自分の手を見た。
いつの間にか、例外が起きたときだけ開けろと書かれた封筒を握りつぶしそうになっている。
嫌な予感しかしない。
だが、ここで先延ばしにしたらたぶん父と同じになる。
そう思うと、少しだけ腹が据わった。
封を切る。
中に入っていたのは便箋が一枚だけだった。
守の字だ。
けれど最初の一行は、妙にまっすぐで、いつもの誤魔化しがなかった。
蒼汰へ。
これを開ける状況になったなら、私の負けだ。
蒼汰は小さく息を吐いた。
本当に、この人はこういうときだけ変に正直だ。
便箋の続きを追う。
お前が自分で選ぶより先に、向こう側がお前を見つけた。
つまり、巴と決めた約束はここで終わる。
ここから先は、防衛と説明を優先する。
お前に選ばせたかった。
普通の方へ残したかった。
だが間に合わなかった。
すまん。
短い謝罪のあと、すぐに実務が続くのが守らしかった。
まず、慌てるな。
観測だけなら、すぐに襲ってくるとは限らない。
だが観測された事実そのものが厄介だ。
向こうは、お前が私と関係ある個体だと推測する。
推測された時点で、知らないふりは難しい。
次に、第三区画へ行け。
そこにお前の識別情報と、今後こちら側で守るための最低限の手段を置いた。
冬城を信用しろ。
青い番人も、巴の指輪を持っている限りはお前を守る。
最後に。
巴に怒られるかもしれんが、これは書いておく。
もしお前が怖いなら、逃げてもいい。
ただし、何も知らないまま外へ出るのだけは駄目だ。
そこまで読んで、蒼汰は便箋を裏返した。
裏には一行だけ追加されている。
追伸 たぶん、ここから先は私より巴の方が頼りになる。
冬城が小さく息を漏らした。
笑いかけて、すぐに真顔へ戻る。
守様らしいですね
らしいで済ませるなよ
蒼汰が返すと、守が頭の奥で少しだけ気まずそうに言う。
いや、その判断は正しい
部屋の壁へ、また新しい文字が走る。
浅層観測、固定化を確認
対象名称照合を開始
古称との一致率上昇
古称?
蒼汰が顔を上げる。
青い番人が答えた。
境界側における過去識別名を参照しています
過去識別名って何だよ
守が低く言う。
まだ名前が決まる前の、お前の仮称だ
蒼
さっき契約書にあった文字だ。
未出生児一名。
暫定呼称:蒼。
それが、向こう側にも残っている?
生まれる前から?
蒼汰の背筋を嫌な汗が伝う。
どうしてそんなのが向こうにある
守は一拍置いた。
お前が生まれる前、巴の腹の中にいた頃
一度だけ、強く境界が鳴いたことがある
蒼汰は言葉を失う。
私はすぐ閉じた
閉じたが、完全には消えなかったんだろう
痕跡だけ向こうに残った
だから例外条項を書いた
冬城が壁の表示を追いながら補足する。
つまり、蒼汰様は今日いきなり見つかったのではなく、もともと痕跡自体は存在していた
ただ、それが今になって再照合された可能性が高いかと
何で今なんですか
守が答えた。
私が死んだからだ
部屋がまた静かになる。
守の管理下にある間は、ずっと偽装と分散をかけていた
私が死んで、いくつかの層が薄くなった
そこにお前が保管路を開けた
鍵が起きた
巴の認証も使った
全部が重なった
つまり、俺がここに来たから
違う
守の声が、珍しくはっきり強くなった。
お前のせいにするな
遅らせていた私の問題だ
巴も、それを見越して例外条項を入れた
蒼汰は何も返せなかった。
責めるなと言われたばかりなのに、すぐ自分を原因にしそうになる。
そういうところは、もしかすると父に似ているのかもしれなかった。
冬城が第二区画の奥へ目を向ける。
第三区画への扉を開きます
蒼汰様、移動を優先してください
その言葉と同時に、部屋の一角、本棚と壁の境目に細い線が走った。
隠し扉だ。
だが今度の扉は落ち着いた木目ではなく、白い金属でできていた。守の私設保管路にしては珍しく、露骨に機能優先の顔をしている。
蒼汰は動き出しかけて、ふと中央のテーブルへ視線を落とした。
記録の中で巴と守が向かい合っていた場所。
そこに、小さなフォトフレームが一つだけ裏向きに置かれているのが見えた。
蒼汰様
冬城の声には急ぎがあった。
だが蒼汰は、なぜかその写真だけ無視できなかった。
一歩近づき、裏返す。
写っていたのは、見たことのない一枚だった。
まだ幼い蒼汰。
巴に抱かれて笑っている。
その横で守がぎこちなく指を一本だけ差し出し、赤ん坊の蒼汰に握られている。
ただの家族写真だ。
ただの、どこにでもあるはずの。
けれど写真の下には、巴の字で小さく書かれていた。
この子は、守さんの帰る方です。
蒼汰は一瞬、呼吸を忘れた。
守の世界がどうとか、英雄だとか、賢者だとか、そんなものより先に、その一文だけが真っ直ぐ胸に入ってくる。
帰る方。
帰る場所じゃなくて、帰る方角。
向かう先。
戻る目印。
守の声が頭の奥で低く揺れた。
……それ、見つけたか
何だよ、それ
巴が勝手に書いた
私は捨てようとした
何で
気恥ずかしいだろうが
蒼汰は思わず、こんな状況なのに少しだけ笑いそうになった。
でも笑いきれなかった。
写真立てを持つ手が震えていたからだ。
壁の赤い文字が、さらに鋭く変わる。
観測固定化完了
呼称一致を確認
対象:蒼
観測者群、接近傾向あり
接近?
冬城の声が一段低くなる。
旧校舎周辺に出ます
青い番人が区画入口へ向き直った。
外部干渉予測を上方修正
第一保管路外周に防壁展開を開始します
守
蒼汰が呼ぶ。
観測者って何だ
守は短く答えた。
目だ
まず見る
手を出す前に、価値を測る連中だ
敵なのか
大半はな
大半ってことは、違うのもいるのか
いる
だが今は区別する余裕がない
冬城が白い扉の前で操作を進める。
指輪が熱くなり、蒼汰の胸ポケットに入れた巴の手紙まで微かに温かい。
まるで母の残したもの全部が、いま動き出しているみたいだった。
扉が開く。
その向こうは、今までよりさらに明るかった。
石造りではあるが、壁面一帯に半透明の板が並び、地図や文字列が流れている。保管区画というより、本部だ。
中央には円形の卓。周囲には空席ばかりの制御席。人がいないのに、どこかだけが自律して動いている。
第三区画、識別管理室です
冬城が言う。
蒼汰様の外部観測対処と、今後の最低限の偽装はここで行います
最低限って
全部は無理だからです
守様の権限が完全継承されていない以上、いま使えるのは一部だけかと
頼もしいような頼もしくないような
蒼汰が言った瞬間、識別管理室の中央卓に光が集まった。
円卓の上へ、立体の地図が浮かび上がる。
旧校舎。
新校舎。
校庭。
周辺道路。
そして、その外縁に、幾つもの淡い点。
点は三つ。
いや、四つ。
人の形にも見えるが、輪郭が曖昧だ。
霧の中へ細い手足だけを差し込んだような、不安定な影。
蒼汰は息を呑んだ。
これが
守が答える。
観測者だ
一つの影が、校庭の鉄棒のあたりで止まる。
もう一つは裏門。
もう一つは旧校舎屋上。
そして最後の一つだけが、少し離れた新校舎側の渡り廊下にいる。
その最後の影だけ、輪郭が妙に小さい。
冬城の表情が変わる。
子供型……?
何だそれ
蒼汰が問うより早く、中央卓の上に細い音声が流れた。
機械が拾った外部の振動なのか、ノイズが混じっている。
でも、声だった。
いた
やっぱり、蒼だ
子供の声に聞こえた。
男か女かも分からない、幼い声。
けれどその響きには、年齢に似合わない冷たさがある。
守の気配が、頭の奥で硬くなる。
最悪だ
さっきから最悪しか言ってないぞ
今のは本当に質が悪い
冬城、識別できるか
冬城は卓の表示を走るように確認する。
記録照合中です
ただ、古すぎる
守様の初期封印期の資料と一致傾向……
その瞬間、立体地図のうち、渡り廊下にいた小さな影が、顔を上げた。
もちろん本当の顔なんて見えない。
ただの投影だ。
なのに蒼汰は、そいつがまっすぐこちらを見たのだと分かった。
そして、影が笑った気がした。
次の瞬間、識別管理室の壁一面へ赤い警告が走る。
旧称保有個体、対話要求
指定呼称:蒼
拒否時、外縁固定観測へ移行
蒼汰は中央卓を見つめたまま、動けなかった。
向こうは、自分の名前を知っている。
今の名前じゃない。
生まれる前の、両親だけが持っていたはずの呼び名を。




