第7話 母が遺した拒否権
黒い箱の前で、蒼汰はしばらく動けなかった。
帰還室の空気は静かだ。
電気ケトルも、壁の運動会のプログラムも、守が雑に残した生活の欠片も、何一つ変わっていない。なのに、自分だけが別の温度の中へ放り込まれたみたいだった。
巴の死について、私は一つだけ、お前に嘘をついた。
その言葉だけが、頭の中で嫌に鮮明だった。
蒼汰は箱の表面へ手を伸ばし、寸前で止めた。
冬城
はい
これ、開けたら戻れない感じですか
冬城は少しだけ考えた。
正確に言うべきか、やわらかく言うべきか迷っている顔だった。
戻れない、というより
知らなかった頃と同じには戻れない、という方が近いかと
最悪だな
はい
かなり
守は黙ったままだ。
蒼汰が何か言うのを待っているのか、あるいは言葉を選んでいるのか。
蒼汰は胸ポケットから巴の手紙を取り出した。
白い便箋は少し皺になっていたが、まだしっかりしている。
普通でいていいんです。
その言葉が、いまは逆に問いみたいだった。
本当に普通でいていいなら、母はなぜこんな場所の鍵になっている。
父はなぜ、旧校舎の裏にこんな帰還室を作り、母の認証まで仕込んだ。
蒼汰は手紙を箱の上にそっと置いた。
すると、箱の表面に淡い光が走った。
白い線が手紙の輪郭をなぞるように広がり、蓋の中央へ小さな円環を描く。
巴認証片を確認
第二条件を要求します
暫定管理者、開示への同意を表明してください
蒼汰は息を吸った。
喉の奥が少し痛い。
……同意する
音もなく、箱の留め具が外れた。
開いた中には、二つだけ入っていた。
一つは、細い銀の指輪。
もう一つは、小さなガラス板みたいな薄片だった。名刺より少し大きいくらいの透明板で、角に細かな文字が刻まれている。
蒼汰はまず、指輪を見た。
見覚えがある。
というより、見覚えがありすぎる。
母さんの……
巴がよくつけていた結婚指輪だ。
飾り気のない細い輪で、蒼汰が子供の頃、台所で生地をこねるときだけ外していたのを覚えている。流し台の端へちょこんと置かれたその輪を、何となく神聖なものみたいに感じていた。
どうしてこれがここに
守の声が、低く返る。
巴が、自分で置いていった
蒼汰は顔を上げた。
帰還室の静けさの中で、その答えだけがひどく異質だった。
自分で?
ああ
死ぬ前に?
死ぬ前にだ
蒼汰の指先が、指輪のすぐ手前で止まる。
冬城が慎重に言葉を挟む。
蒼汰様
その指輪は、認証補助具かと思われます
巴様ご本人の意思が強く残っている可能性がありますので、持たれる際は
最後まで言い終わる前に、蒼汰はもう指輪を取っていた。
冷たい。
なのに、その冷たさが数秒もしないうちに体温へ馴染む。
同時に、ガラス板の方へ白い文字が浮かび上がった。
巴記録片を検出
音声再生を開始します
次の瞬間、部屋の空気が少しだけ震えた。
聞こえてきた声に、蒼汰は息を呑む。
もしこれを蒼汰が聞いているなら、たぶん守さんは順番をだいぶ間違えています
巴の声だった。
やわらかくて、少し困ったような、でも芯のあるあの声。
死んでから何年も経つのに、一音目で分かる。
守の気配が頭の中でわずかに縮こまる。
本当に順番を間違えている自覚はあるらしい。
蒼汰、まず先に言っておきます
私は、この記録を残すことを自分で選びました
守さんに無理やりやらされたわけではありません
そこは誤解しないでください
蒼汰は無意識に指輪を握り込んでいた。
巴の声は続く。
それから、もし守さんがあなたに、私の死について一つ嘘をついた、と言ったなら
それは半分だけ正しいです
嘘をつかせたのは、私です
帰還室の空気が、さらにひんやりした気がした。
蒼汰の目が見開く。
何だよ、それ
小さく漏れた声に、巴は当然答えない。
記録だからだ。
でも、まるで今この場で会話しているみたいに、言葉は一つずつ刺さってくる。
あなたには、私が病気で亡くなったと伝えました
それ自体は本当です
でも、病気になった理由の全部までは、伝えていません
蒼汰はその場で固まった。
守が息をするような気配が、頭の奥でかすかに揺れる。
だが何も言わない。
私はね、蒼汰
自分で選んで、少しだけ無理をしました
音声の向こうで、巴が少し笑う。
困ったときにだけ出る、あの静かな笑い方だった。
守さんを責めないで、と言うつもりはありません
あの人はたぶん、あなたに話すのが遅すぎました
でも、全部を一人で決めたわけでもありません
蒼汰の喉が詰まる。
頭の中に、母の最期の病室がよみがえった。
白いカーテン。消毒液の匂い。痩せた指。眠っている時間の長くなった顔。
あれが病気だったのは知っている。
知っているが、その理由の全部までは知らない。
巴の声は、あくまで穏やかだった。
守さんは、世界の境目を渡る人でした
そういう人のそばにいると、たまに、こちら側の人間にも小さな影響が出ます
本来なら、きちんと距離を取れば避けられることも多いです
でも私は、距離を取りたくありませんでした
蒼汰は、指輪を握る手に力を入れた。
父のせいだったのか。
そう思いかけて、すぐ次の言葉がそれを止める。
正確には、守さんのせいというより、守さんの生き方のそばにいた私の選択です
私はあの人に、あなたを普通の世界で生かしてほしいと頼みました
その代わり、自分は最後まであの人の事情ごと引き受けると決めました
冬城がわずかに目を伏せた。
彼女も初めて聞く部分があるのかもしれない。
巴は少しだけ声を落とす。
私はね、蒼汰
守さんを一人にしておくのが、たぶん嫌だったんです
その言葉で、蒼汰の胸の奥が痛んだ。
あの人は強く見えて、肝心なところでひどく危なっかしいから
放っておくと、自分のことを後回しにして、何でも一人で抱えて、そのくせ家の台所の火加減で真剣に悩むでしょう
蒼汰の口元が、ほんの少しだけ歪む。
母らしい言い方だった。
そして、父らしすぎる内容だった。
だから私は、そばにいました
それで少しずつ、よくない影響を受けたことも知っていました
知っていて、やめませんでした
巴の声には後悔より、静かな納得があった。
病気の進み方が普通より早かったこと
医師にも説明しづらい変化がいくつかあったこと
それを私は守さんに、蒼汰には全部言わないでほしいと頼みました
蒼汰は歯を食いしばる。
何でだよ
今度ははっきり声が出た。
録音に向かってだと分かっていても、止められない。
何でそんなの
言えよ
ちゃんと
巴の声は、そんな蒼汰をなだめるみたいにやわらかい。
あなたが、守さんの世界を背負う理由にしてしまう気がしたからです
蒼汰は黙った。
私は病気になった
それは事実です
でもその理由をあなたが知ったとき、あの子は自分のせいだと思うかもしれない
守さんのせいだと思うかもしれない
あるいは、父の世界を憎むか、逆に背負わなきゃいけないと思うかもしれない
それが嫌でした
指輪がじんわり熱くなる。
母の体温を錯覚してしまうくらいに。
だからこれは、私が選んだ拒否権です
あなたに、知る時期を選ばせるためのもの
守さんには隠させました
でも、ずっと隠したままにもさせませんでした
ずるいでしょう
そこで初めて、巴の声が少しだけ笑った。
蒼汰は思わず目を閉じた。
ずるい。
本当にずるい。
父も母も、どうしてこう、肝心なことを回りくどく残すんだ。
守の声が、頭の奥でようやく低く入る。
……私は、最後まで話すつもりだった
遅いんだよ
蒼汰の返事は短かった。
だが守は否定しない。
ああ
本当に遅かった
巴の記録はまだ続く。
ここまで聞いた蒼汰へ
一番大事なことを言います
部屋の空気がすっと静まる。
私の死を、誰か一人のせいにしないでください
守さんのせいでも、あなたのせいでもありません
私は、自分で選んで生きて、自分で選んであの人のそばにいました
苦しいこともありました
でも、それだけではありませんでした
蒼汰の視界が少し滲む。
守さんといた時間は、ちゃんと幸せでした
あなたが生まれてくれたことも、育ってくれたことも
私は一度も後悔していません
その言葉だけで、胸の奥のどこかが崩れそうになる。
だから蒼汰
もしあなたがこれから守さんの遺したものに触れるなら
義務じゃなく、自分の意思で選んでください
知りたいから知る
許せないから問いただす
腹が立つから文句を言う
それでいいんです
最後の方で、巴の声は少しだけやさしく笑った。
それと、守さん
もしあなたも聞いているなら、変なところで格好をつけないで、ちゃんと謝ってください
頭の中で、守が小さく息を呑んだ気配がする。
蒼汰は、こんな状況なのに少しだけ笑いそうになった。
本当に最後まで、母は母だ。
音声が終わる。
部屋に静けさが戻る。
だが今の静けさは、さっきまでと違った。
何も分からないままの沈黙ではない。
知ってしまったあとの沈黙だ。
蒼汰はしばらく何も言えなかった。
指輪を握ったまま、机の端へ片手をついて、呼吸だけを整える。
冬城が少し離れた位置から口を開く。
……巴様らしい記録でした
蒼汰はうなずきかけて、途中で止まった。
母さん、知ってたんだな
はい
自分が、普通じゃない形で病気になってたことも
はい
おそらくは
それでも、父さんのそばにいた
冬城は答えなかった。
答えなくても分かった。
そうだ。
母は知っていて、その上で選んだ。
蒼汰は目元を手の甲で押さえた。
泣くほどでもないと思っていたのに、思ったより息が荒れている。
守
ああ
何で教えなかった
言っただろう
巴に頼まれたからだ
それだけじゃないだろ
短い沈黙。
守の声が、今度はひどく正直だった。
……怖かった
お前が、私のせいだと思うのが
お前が、私の世界ごと嫌うのが
あるいは逆に、巴の分まで背負おうとするのが
蒼汰は返事をしない。
守は続ける。
それに私は
巴が自分で選んだことだと分かっていても
半分は私のせいだと思っていた
その言葉で、蒼汰はようやく顔を上げた。
頭の奥の守の気配は、さっきまでよりずっと小さい。
英雄でも賢者でもなく、ただ後悔している男の声だった。
巴は強かった
私よりずっと
分かっていて、一緒にいることを選んだ
だからこそ、余計に私は止めきれなかった
蒼汰は唇を噛んだ。
怒るべきなのかもしれない。
実際、腹は立っている。
何で誰も言わなかった。何で自分だけ何も知らなかった。
そう叫びたい気持ちはまだある。
でも同時に、今の母の声を聞いたあとでは、誰か一人を悪者にするのも違うと分かってしまった。
巴は、自分で選んだ。
守は、それを止めきれなかった。
そして二人とも、蒼汰を普通の側へ残そうとしていた。
蒼汰はゆっくり息を吐いた。
最悪だな、ほんとに
守が少し遅れて答える。
ああ
でも
蒼汰は指輪を見下ろした。
細い輪が、手のひらでかすかに温かい。
母さん、怒ってなかった
その一言が、自分でも不思議なくらい重かった。
蒼汰はずっと、どこかで恐れていたのかもしれない。
父の世界のせいで母が苦しんだのだと知れば、母は本当は後悔していたのではないかと。
でも違った。
少なくとも、今聞いた声は違った。
守が、小さく答える。
怒ってはいたよ
私に対しては、何度も
蒼汰は少しだけ目を細めた。
そりゃそうだろ
かなり叱られた
想像つく
ほんの一瞬だけ、部屋の空気が緩む。
でも、すぐに冬城が表情を戻した。
蒼汰様
もう一つ、記録片の末尾に追加反応があります
蒼汰がガラス板へ目を向けると、消えたはずの文字がもう一度浮かび上がっていた。
巴記録片の閲覧を確認
第二封鎖解除条件を達成
次区画への通行を許可します
またそれかよ……
蒼汰が呟くと、守が頭の奥で気まずそうに言う。
すまん
順番に見せたかった
順番に面倒を増やしてるだけだろ
否定はしない
冬城が部屋の奥、本棚のさらに向こうを見た。
そこにはさっきまでなかった細い扉が、壁の一部みたいに浮かび上がっている。
第一居室の先に第二区画があるのは聞いていました
ですが、解除条件が巴様側の記録閲覧だったのですね
蒼汰はガラス板を見つめた。
第二区画。
その先にもまた、父の秘密があるのだろう。
きっと、もっと面倒で、もっと知りたくなくて、でも知りたいものが。
蒼汰様
冬城が控えめに呼ぶ。
進まれますか
蒼汰はすぐには答えなかった。
指輪を箱へ戻そうとして、やめる。
代わりにそっとポケットへ入れた。
巴の手紙とは反対側の、胸に近い場所へ。
普通でいていい。
義務じゃなく、自分の意思で選んでください。
母の言葉が、今度は少しだけ足場になっていた。
蒼汰は扉を見た。
それから、壁に貼られた運動会のプログラム、駄菓子の袋、守のノート、散らかった帰還の記録も見た。
父はずっと帰ってきていた。
ちゃんと現実へ戻ろうとしていた。
でも戻りきれずに、母に支えられて、母を失って、それでも何かを遺そうとしていた。
全部遅い。
本当に遅い。
けれど、ここでやめたら、また分からないままになる。
蒼汰は短く息を吐いた。
行く
冬城が静かにうなずく。
守は何も言わない。
言えないのかもしれない。
蒼汰は第二区画へ続く扉の前まで歩いた。
扉の中央には、今度は鍵穴ではなく、小さなくぼみがある。
指輪がぴたりと収まりそうな形だ。
蒼汰は嫌な予感しかしなかった。
冬城
はい
これ、まさか
その、まさかかと
守
今度は何だよ
頭の奥で、守がひどく言いづらそうに言う。
第二区画は
巴と私の、共同保管区画だ
蒼汰は扉の前で固まった。
共同?
ああ
そこに何がある
今度の沈黙は、さっきまでより長かった。
やがて守が、低く答える。
お前が生まれる前に、私と巴で一度だけ決めて
最後まで、お前に話さなかった約束の記録だ
蒼汰の指先が、ポケットの中の指輪に触れる。
お前が生まれる前に。
私と巴で一度だけ決めて。
最後まで話さなかった約束。
嫌な予感と、どうしようもない知りたさが同時にせり上がる。
蒼汰はゆっくり、指輪を取り出した。
その瞬間、第二区画の扉の向こうから、かすかに子供の笑い声が聞こえた。




