第6話 帰るための部屋
通路の奥へ進むほど、旧校舎の気配は薄れていった。
石壁はまっすぐ続いているのに、足音の反響だけが少しずつ変わる。最初は地下通路みたいだったものが、今はどこか大きな建物の内側にいる感じへ変わっていた。天井の高さも、気づけばさっきより少し上がっている。
蒼汰は鍵を握ったまま歩く。
白く光っていた鍵は、戦闘が終わってからは落ち着きを取り戻し、いまは淡く脈打つ程度になっていた。手放そうと思えば離せる。だが離す気にはなれなかった。
前を行くのは青い番人、その少し後ろに冬城。
頭の中には守の声が残っている。
蒼汰は正直、まだこの状況に慣れていなかった。
慣れるわけがない。
父の葬儀の最中に、閉鎖された旧校舎の裏側へ入り込み、父が残した番人と会話し、頭の中で死んだ父に指示を飛ばされている。
普通でいていい。
巴の手紙の一文が、妙に痛かった。
普通でいられるはずがないだろう、と言いたい気持ちと、それでも母は最後までそう願ってくれていたのだという温かさが、胸の中でうまく分かれない。
やがて通路の先に、両開きの扉が現れた。
これまでの石造りの無骨な雰囲気とは違う。
扉そのものは金属製なのに、表面には木目みたいな柔らかな模様が浮いている。真ん中には、守の鍵と同じ形の紋様。その周囲に細かい文字が刻まれていたが、蒼汰には読めなかった。
第一保管路、第一居室
暫定管理者の到達を確認
開錠します
青い番人の声と同時に、扉の紋様が一度だけ光る。
重い音もなく扉が左右へ開いた。
その瞬間、蒼汰は足を止めた。
え
思わず間の抜けた声が出る。
部屋の中が、あまりにも普通だったからだ。
広い。
だが豪奢ではない。
石造りの保管路の先にあったのは、書斎とも、休憩室とも、誰かの私室ともつかない空間だった。
木の机。
背の高い本棚。
壁際のソファ。
小さな流し台と、古い電気ケトル。
丸椅子。
卓上ランプ。
そして壁一面に、雑多なものが並んでいる。
賞味期限の切れた駄菓子の袋。
町内会の夏祭りのうちわ。
小学校の運動会のプログラム。
路線バスの時刻表。
駅前の再開発前の地図。
スーパーのレシート。
古いゲーム機の箱。
ファミレスの紙ナプキン。
商店街の福引券。
どこにでもある、あまりにもどこにでもあるものばかり。
蒼汰は呆然と部屋を見回した。
……何これ
守の声が、頭の奥で小さく咳払いした。
笑うなよ
まだ笑ってない
これには色々と事情がある
どんな事情で駄菓子の空き袋を保管するんだよ
それはあれだ、世界を跨ぐと味覚が狂うことがある
帰ってきたとき、元の感覚を確かめるためにだな
駄菓子で?
優秀なんだ、あの手のものは
甘さと塩気と油の雑さが分かりやすい
冬城が小さく視線を伏せた。
笑いを堪えているのかもしれない。
蒼汰は壁際まで歩いた。
指先で、運動会のプログラムをそっと持ち上げる。
確かに見覚えがある。
自分が小学校四年のときのものだ。表紙の端に小さな折れがあるのまで覚えている。朝、急いでランドセルへ突っ込んだときについた傷だ。
なんで、これがここにある
答えは分かっていた。
分かりたくなかっただけだ。
守は、会場に来ていたのだ。
あの日。
少なくとも、これを手に入れられる程度には近くに。
蒼汰の指先が少し震える。
ここは、守様の帰還室です
冬城が静かに言った。
異界や他世界からこちらへ戻られたあと、最初に使われる部屋でした。守様は長距離移動のあと、感覚がずれることを嫌われていましたので
感覚がずれる
帰る場所を、現実として思い出すためです
時間、匂い、言葉、生活の手触り
そういったものを、ここで繋ぎ直しておられました
蒼汰は壁を見た。
あまりにも生活の残滓ばかりだ。
英雄だとか賢者だとか、そういう華やかな記録は一つもない。
あるのは、近所の現実ばかり。
守の声が少し低くなる。
向こうで長くいると、たまに分からなくなるんだ
こっちの季節とか、電車の音とか、夕方のスーパーの匂いとか
戻ったつもりでも、足の置き方がずれる
だからこんな部屋を?
必要だった
……それに
守が少しだけ黙る。
お前たちのいる世界を、ちゃんと現実として覚えていたかった
蒼汰は返事ができなかった。
机の上には、何冊ものノートが積まれていた。
革表紙のもの、大学ノートみたいなもの、紙質もばらばらだ。だがどれも几帳面に日付が振られている。
蒼汰が一番上を開く。
二〇一七年九月。
最初のページには、守の字で短くこう書かれていた。
帰還後三時間、味覚ずれ大。
麦茶で修正。コンビニおにぎりは有効。
自販機のコーンポタージュは偉大。
……何なんだこれ
必要なんだよ、そういうのは
守の反論がひどく弱い。
蒼汰は次のページをめくる。
二日目、駅前の交差点で信号待ちの人間が全員静かだった。助かる。
三日目、町の図書館はまだ潰れていなかった。安心した。
四日目、蒼汰の中学の体育祭を遠くから見る。背が伸びた。走り方が少し巴に似てきた。
蒼汰の手が止まる。
紙に視線が貼りついたまま動かない。
冬城
はい
これ、いつの
二〇一七年ですので、蒼汰様が中学二年生の頃かと
見に来てたのか
おそらく
蒼汰はノートを閉じた。
雑に閉じたせいで、紙の端が少し鳴る。
来てたなら、来いよ
口から出た声は、思ったより乾いていた。
見てただけで帰るなよ
頭の中の守は、すぐには返さなかった。
その沈黙がかえって腹立たしい。
蒼汰は机の脇にある引き出しへ手をかけた。
一段目には文房具、二段目には薬、三段目には古い携帯電話と充電器。四段目だけが鍵付きだった。
だが蒼汰が鍵を近づける前に、そこはかちりと自動で開いた。
中に入っていたのは、薄いファイルがいくつか。
背表紙にはそれぞれ短いラベルが貼られている。
巴
蒼汰
帰還失敗例
境界異常
要注意友人一覧
要注意友人一覧って何だよ
見なくていい
いや、たぶんそのうち見た方がいいが、今はやめろ
守の反応がやたら早い。
蒼汰は少しだけ眉を上げたが、いまはそれどころではなかった。
一番上にあるのは、蒼汰と書かれた薄いファイルだった。
開いていいんですか
冬城が問う。
蒼汰は少し迷って、それからうなずいた。
どうせ、ここまで来たし
ファイルを開く。
中身は写真ではなかった。
写真も数枚はあったが、ほとんどがメモだった。
学校行事の日付、受験の日、風邪で休んだ記録、巴の通院予定、蒼汰が欲しがっていたゲームの発売日、部活の大会の日程、修学旅行の行き先。
そして、その合間に守の字。
体育館裏で転んで膝を擦りむいた。消毒だけしておいたが、ばれると面倒なので黙る。
巴に叱られた。勝手に保健室へ入るなと言われる。正論。
蒼汰、英語の点数が上がった。褒めるタイミングを逃した。次回に回す。
授業参観、行くべきではなかったかもしれない。後ろで立っているだけで心拍が上がる。帰りに来なくてよかったのにと言われる。そうだな、と答えたが、少しへこんだ。
高熱。境界先で帰還を切り上げる。火山竜の涙石は巴に没収された。納得いかない。
蒼汰はページをめくる手が遅くなる。
何だよ、これ
記録、でしょうね
冬城の声は低かった。
蒼汰様に関する、守様個人の記録かと
個人の、ってレベルじゃないだろ
そう言いながらも、目は離せない。
高校受験当日。会場近辺に異常なし。
昼、巴の緊張の方が蒼汰より強い。帰りに甘い物を買って帰らせるべき。
接触は見送り。
大学の入学式。式場外周のみ確認。
スーツ姿、似合っていた。声をかけるか迷ったが、やめる。
普通でいてほしいという巴の言葉を優先。
普通でいてほしい。
またその言葉だ。
蒼汰の胸ポケットの手紙が、まるで熱を持ったみたいに重くなる。
守は本当に、見ていたのだ。
遠くから。
時々。
たぶん思っていたより、ずっと何度も。
でも近づかなかった。
守の声が、ようやく返ってきた。
気持ち悪いと思うなら、それでいい
蒼汰は顔を上げなかった。
思ってない
思っているかもしれないだろ
思ってないって言ってる
少し強く言ってから、蒼汰は自分の声が震えていることに気づいた。
じゃあ何でだよ
何でそこまで見てて、話しかけなかったんだよ
何で一回ちゃんと来ないんだよ
そんな半端なことされる方が、ずっと
その先は、言葉にならなかった。
ずっと、何だ。
嬉しいのか。
腹が立つのか。
寂しいのか。
全部だった。
守の声は小さかった。
巴に、約束した
お前を普通に生かすって
それに私は、近づくほど下手になる
何を言えばいいか、最後まで分からなくなるんだ
蒼汰は奥歯を噛んだ。
それ、言い訳だろ
ああ
かなり悪い方のな
あまりに素直に認めるから、逆に怒鳴れなくなる。
冬城は少し離れた本棚の前に立ち、何かを確認していた。
たぶん意図的に、こちらへ聞こえないふりをしてくれている。
蒼汰はファイルを閉じようとして、最後の一枚に目を止めた。
そこだけ、メモではなかった。
封のされた小さな紙片。
表には短く、守の字でこう書いてある。
もしここまで読んで、まだ私に文句を言う気が残っていたら開けろ。
蒼汰は乾いた息を吐いた。
文句しかないんだけど
なら開けてくれ
それ用に書いた
最悪だ
本当にそうだと思う
蒼汰は小さな紙片を開いた。
中は、一行だけだった。
ごめんな。見に行くことばかり上手くなって、会いに行くのは最後まで下手だった。
その文字を見た瞬間、蒼汰は目を閉じた。
涙が出るほどではない。
だが、胸のどこかが鈍く痛む。
知ってしまったからだ。
父は、何も考えていなかったわけではない。
むしろ考えすぎて、全部を遅らせていた。
それが余計にたちが悪い。
蒼汰様
冬城の声がした。
本棚の一角に、反応があります
蒼汰は顔を上げた。
冬城が指しているのは、部屋の奥。
一番背の高い本棚、その下段のさらに奥だった。鍵の光がそこだけ強く脈打っている。
蒼汰が近づくと、本棚の奥に薄い箱が見えた。
他の資料に紛れるように置かれている、黒い細長い箱だ。
表面にはラベルが一枚だけ。
巴
さっき引き出しで見たラベルと同じ字だった。
蒼汰の呼吸が浅くなる。
冬城が珍しく、少しだけ表情を硬くした。
その箱は、私も初めて見ます
守様が最深部ではなく、第一居室に置かれていたのですね
鍵が、箱の前でまた熱を持つ。
守
蒼汰が呼ぶ。
今度は少し低い声で。
これ、何
頭の奥で、守がしばらく黙った。
蒼汰はその沈黙だけで嫌な予感がした。
父が黙るときは、大抵ろくなことではない。
やがて守が答える。
……巴に関する、私の記録だ
記録?
正確には
私が、お前にまだ話していないことについての記録だ
蒼汰の手が止まる。
まだ話していないこと?
守の声は、今まででいちばん低かった。
巴の死について
私は一つだけ、お前に嘘をついた
部屋の空気が変わった気がした。
帰還室の雑多な生活の匂いも、壁に貼られた運動会のプログラムも、駄菓子の袋も、全部が一歩遠ざかる。
蒼汰の耳には、最後の一文だけが残った。
巴の死について。
一つだけ。
嘘をついた。
何を
蒼汰の声は、自分でも分かるほど硬かった。
だが守は、今度は答えなかった。
代わりに黒い箱の表面へ、白い線が浮かび上がる。
開封条件確認
巴認証片と暫定管理者の同意を要求します
冬城が小さく息を呑む。
巴様の認証と、蒼汰様の意思確認……
守様、本当にここで開けさせるおつもりだったんですね
蒼汰は箱を見つめた。
胸ポケットの手紙が、やけに重い。
母の死に、父は何を隠していたのか。
それを知れば、たぶん後戻りはできない。
それでも、指先はもう箱から離れなかった。




