第5話 守の番人
番人は、音もなく剣を抜いた。
細身の刃だった。
だが刀身の長さは人間が扱うものよりわずかに長く、青白い光を帯びている。装甲の継ぎ目から低い駆動音のようなものが漏れ、通路の空気そのものが張り詰めた。
蒼汰は反射的に一歩下がった。
だが背中はまだ旧校舎側の入口に近く、完全に逃げられる位置ではない。
冬城が前へ出る。
認証番号、冬城真琴。守様承認下の同行者として通過を申請します
番人は答えない。
青い光だけが冬城の顔をなぞり、それから蒼汰の胸元へ落ちた。鍵だ。
やはり鍵を見ている。
冬城が低く言う。
蒼汰様、その鍵を見える位置に。手放さないでください
言われた通りに、蒼汰は鍵を握ったまま前へ出した。
掌の中で冷たかったはずの金属が、今はわずかに熱を持っている。
番人の青い目が、微かに明滅した。
認証確認
管理権限継承候補を検出
最終照合を開始します
人の声ではない。
硬質なのに、妙に聞き取りやすい声だった。
継承候補?
蒼汰が呟くと、冬城が視線だけで制する。
まだ返答しないでください
番人は一歩、こちらへ進んだ。
床の刻線が淡く光る。
その足取りに敵意は感じない。だが安全とも言い切れない。少しでも判断を誤れば、その細身の剣が振り下ろされると本能で分かる。
最終照合項目一
奏多守との関係性を確認します
回答してください
あなたは何者ですか
蒼汰は一瞬、言葉に詰まった。
何者ですか。
そんなの、決まっているはずなのに、今はその答えがひどく曖昧だった。
父のことを何も知らなかった息子。
たまに帰ってきて変な話ばかりする男を、よく分からないまま見送ろうとしていた人間。
遺された鍵と手紙と録音に引きずられて、旧校舎の裏側へ来てしまっただけの、ただの一般人。
だが番人が求めているのは、たぶんそういう答えではない。
冬城が口を開きかける。
だがその前に、蒼汰は絞り出した。
……奏多蒼汰だ
番人の光が一度だけ揺れた。
照合継続
質問の意図と不一致
再回答を要求します
あなたは奏多守にとって何者ですか
蒼汰は息を止めた。
父にとって何者か。
そんなこと、本人にすら聞けなかった。
聞けるわけがないと思っていた。
父親としては不在で、でも嫌いにはなれなくて、何を考えているのか最後まで分からなかった男。そんな男にとって、自分が何だったのかを、死んだあとで金属の番人に問われる。
答えられるわけがない。
……息子だよ
それでも、ようやくそう言った。
たぶん
一応
戸籍上は
血の繋がりとしては
余計な言葉が喉まで出かかったが、飲み込んだ。
番人の青い目が、数秒間点滅を繰り返す。
通路の奥で何かの歯車が噛み合うような低音がした。
照合継続
質問の核心に未到達
再回答を要求します
しつこいな
蒼汰の声が少し荒くなる。
だが番人はそれに反応しない。
あなたは奏多守にとって何者ですか
同じ問い。
同じ声。
逃がす気がない。
蒼汰の中で何かがざらついた。
知らないよ、そんなの。
叫びたくなった。
そんなの、こっちが知りたい。
家にいなくて、何してるかも教えなくて、世界だの異界だの言ってばかりで、でも運動会に来られなかったことを少しだけ気にしてるような顔をして、図工の箱を勝手に直して、熱を出したとき変な石を持ってきて、母さんが死んだあとも何も話さずふらふらして、死んでから全部押しつけてきたあの人にとって、自分が何者だったのかなんて。
分かるわけがない。
分からないまま、ここまで来たんだ。
蒼汰様
冬城の声が低く入る。
落ち着いてください、ではない。
ただ名前を呼んだだけだ。
その一呼吸で、蒼汰は自分が奥歯を噛み締めていたことに気づく。
父の録音。
母の手紙。
魔王の言葉。
守さんは、あなたが生まれてからずっと、あなたのことが大好きでした。
困るくらい、不器用なくらい、どうしていいか分からなくなるくらいに。
嫌われるのが、怖かった。
帰る場所を、忘れないためだそうです。
蒼汰は鍵を握りしめた。
冷たいはずの金属が、今ははっきり熱い。
……俺は
声が掠れる。
俺は、あの人が守ろうとしたものだ
番人の光が止まる。
蒼汰は続けた。
止められなかった。
たぶん、あの人にとっては、そういうやつだった
大事だったくせに、どう扱えばいいか分からなくて
近づいたら壊しそうで、離れたらそれはそれで駄目で
だから黙って、誤魔化して、格好つけて、でも結局何もちゃんとできなくて
喉が痛い。
胸の奥も痛い。
それでも言葉は出る。
……それでも、たぶん
あの人にとって俺は、いちばん守りたかったものだ
沈黙が落ちた。
番人の青い目が、今度は穏やかに一度だけ明滅した。
照合項目一
認証
蒼汰はその場で膝から力が抜けそうになった。
だが番人はまだ剣を下ろさない。
最終照合項目二
継承候補の意思を確認します
回答してください
あなたは奏多守が保有していた管理権限の一部継承を望みますか
蒼汰は顔を上げた。
管理権限って、何を
質問への回答を優先してください
番人は一切説明しない。
蒼汰は舌打ちしそうになるのを堪えた。
父の遺したものは何から何まで順番が悪い。いや、順番を決めたがるくせに、肝心の説明が遅い。
冬城
蒼汰様、これは蒼汰様ご自身が答えなければなりません
継承って、何を継ぐんですか
具体項目は認証後に開示されます
順番が逆だろ
まったくもってそう思います
冬城が珍しく同意した。
蒼汰は番人を睨んだ。
青い目は揺れない。人ではないのに、妙に父に似ている気がした。大事なことを言う前に、一段階面倒な仕組みを挟んでくるところが。
望むか、と問われても困る。
知らない世界だ。
旧校舎の裏にこんな通路があって、魔王が弔問に来て、父が勇者だの賢者だの本当だったらしいとしても、自分はそこへ行くと決めたわけではない。
普通でいていいんです。
母の手紙が胸ポケットで重い。
帰ることもできる。
たぶん、ここで手を離せば。
番人に継承を拒否すると言えば。
守の残した通路を閉じて、葬儀を終えて、父のことは分からないままでも、それなりに生きていく道はある。
ある、はずだ。
だがそのとき、蒼汰の脳裏に守の黒板の文字がよぎった。
私はそのとき、何も答えられなかった。
答えられないくせに、お前の箱だけは直して、少しは格好がつくと思っていた。
蒼汰はゆっくり息を吸った。
望む、とは違う
番人は沈黙したまま聞いている。
でも
知りたいとは思ってる
自分でも驚くほど、声は静かだった。
あの人が何をしてたのか
何で家にいなかったのか
何で最後までちゃんと話さなかったのか
それを知って、それから決めたい
質問への回答として不十分です
継承意思の有無を示してください
蒼汰は小さく笑いそうになった。
本当に融通が利かない。
守はこういう面倒なものをわざと残したのか、それとも似た者同士なのか。
知らないまま切るのは、もう嫌だ
誰に言うでもなく、吐き出すみたいに言ってから、蒼汰は番人をまっすぐ見た。
……一部なら継ぐ
ただし全部はまだ決めない
それが答えじゃ駄目か
番人の青い目が、強く光った。
条件付き継承意思を受理
妥当性照合を開始
床の刻線が一斉に輝く。
通路の壁に埋め込まれた灯りが、青白さから柔らかい金色へと変わった。
番人の剣がゆっくり下がる。
そのまま終わるかと思った次の瞬間、番人の胸部装甲が開いた。
中から現れたのは、拳大の透明な球体だった。
水晶に似ているが、内部には星のような光点がいくつも瞬いている。
冬城の目がわずかに見開かれる。
初期核……守様、そこまで前倒しで……
蒼汰様、受け取ってください
何を
説明は後です。今は早く
冬城の声音が少しだけ切迫する。
同時に、通路の奥から別の音が響いた。
さっきの番人とは違う。もっと重い、引きずるような音。複数いる。
番人が低く告げる。
継承候補への初期権限付与を実行します
警告
封鎖群が再起動を開始しました
管理者権限未接続のため、防衛行動の保証は限定されます
限定って何だよ
その間にも奥の闇で赤い光が点った。
青ではない。
赤だ。
冬城が短く息を吸う。
守様の保管路に、別系統の番人までいるなんて聞いていません
守が全部説明してたことなんて一度もないだろ
蒼汰が半ば反射で返すと、冬城が一瞬だけこちらを見て、それから苦笑に近いものを浮かべた。
それは、そうですね
番人の胸から浮かんだ透明球が、蒼汰の前へ来る。
逃げる暇はない。
球体はそのまま鍵へ吸い込まれた。
熱い。
蒼汰は思わず息を呑んだ。
鍵全体が白く発光し、手の中で脈打つ。まるで生き物の心臓だ。手放そうとしても、指が離れない。
同期開始
初期管理権限を奏多蒼汰へ接続
接続名を設定します
接続名?
蒼汰が問い返した瞬間、頭の奥に声が響いた。
おい、聞こえるか蒼汰
聞こえてたら最悪の順番になってるな。悪い
守の声だった。
録音機の声じゃない。
もっと近い。耳ではなく、頭の内側に直接響く声。
蒼汰の目が見開く。
な……っ
よし、聞こえてるな
本当はもう少し穏やかに説明する予定だったんだが、保管路の番人が起きたなら仕方ない
まず落ち着け。お前の持ってる鍵は、ただの鍵じゃない。簡易管理核だ
今からお前に最低限の権限を渡す
嫌ならあとで叩き返していい。とりあえず今だけ借りてくれ
蒼汰は呆然と立ち尽くす。
頭の中で守が勝手に喋っている。
死んだ父が。
最悪のタイミングで。
今から言う言葉を、心の中でそのまま言え
難しくない
開門権限、仮承認
蒼汰様!
冬城の声と、守の声が重なった。
通路の奥から赤い目をしたものが二体、いや三体現れる。
青い番人より大きい。装甲は黒ずみ、片腕が異様に長い。守るための番人ではなく、閉じるための何かに見えた。
蒼汰は鍵を握りしめ、半ばやけくそで叫んだ。
開門権限、仮承認!
白い光が弾けた。
鍵から放たれた線が床の刻線を一気に走り、通路全体に巨大な紋様を描く。
金色だった灯りが一瞬で白へ変わり、青い番人が剣を構え直した。
仮承認を確認
奏多蒼汰を暫定管理者として登録
第一保管路の防衛権限を部分開放します
同時に、蒼汰の目の前へ半透明の文字列がいくつも浮かんだ。
第一保管路
暫定継承率 7%
認証安定度 61%
使用可能権限
開閉
簡易封鎖
一時照明
閲覧制限Lv1
何だよこれ……
説明してる場合じゃありません!
冬城の叫びと同時に、赤い番人が床を抉って走った。
速い。
重いくせに速い。
青い番人が前へ出て剣を受ける。
金属同士がぶつかり、耳を刺す音が通路に炸裂した。火花ではなく、青白い粒子が飛び散る。
蒼汰様、封鎖を!
どうやって!
頭の中で守の声が返る。
右だ
一覧の右下にある
簡易封鎖を意識しろ
できる、たぶん
たぶんでやらせるな!
叫びながらも、蒼汰は浮かぶ文字列の一つへ意識を向けた。
簡易封鎖。
触れていないのに、それが分かる。
鍵と繋がっている感覚がある。
実行。
その瞬間、通路の床から透明な壁が立ち上がった。
一体目の赤い番人を青い番人ごと巻き込み、二体目と三体目の足を止める。
やればできるじゃないか
うるさい!
頭の中の守へ怒鳴る。
こんな状況でなければ、たぶん泣いていた。
死んだ父に、最悪の形で再会させられている。
だが赤い番人たちは止まりきらない。
透明な壁にひびが入り、嫌な音を立てる。
冬城が短い刃物のようなものを袖口から引き抜いた。
ただのナイフではない。細い杭のような銀色の道具だ。
十五秒、保たせてください!
誰に向けた言葉か分からないまま、冬城が走る。
ヒールのない靴音が鋭い。彼女は一体目と青い番人の交差点に滑り込み、銀杭を床の刻線へ突き立てた。
白い火花が跳ねる。
床の紋様が一部だけ反転し、赤い番人の動きが鈍った。
すご……
感心してる場合じゃない!
蒼汰、もう一回封鎖だ
今度は通路の天井側、左から二番目
どこだよ!
でも見える。
本当に見えてしまう。
頭の中へ、通路の構造が薄く重なるみたいに。
蒼汰は息を荒げながら、二度目の封鎖を実行した。
天井から格子状の光が落ち、残る二体を押さえ込む。
赤い目がぎらりとこちらを向いた。
まずい、と理解するより先に、一体が腕を振り上げた。
長すぎる片腕の先端が槍のように伸びる。
蒼汰様、下がって!
冬城の声。
だが間に合わない。
その瞬間、巴の手紙が胸ポケットから滑り落ちた。
偶然だったのか、必然だったのか。
便箋が宙を舞い、白い紙片が赤い槍の前をかすめる。
次の瞬間、鍵が勝手に光った。
蒼汰の意思じゃない。
鍵の中で何かが反応した。
白い光が半円を描き、蒼汰の前に薄い膜のような盾を作る。
赤い槍がそれにぶつかり、激しい音を立てて弾かれた。
守の声が、頭の奥でほんの少しだけ低くなる。
巴か
……まったく、お前は最後まで先回りする
蒼汰は息を呑んだ。
いまの反応は、手紙に。
冬城もそれに気づいた顔をした。
だが尋ねる余裕はない。
青い番人が一体目の胸を貫く。
赤い光が消え、金属の巨体が崩れた。
残る二体も封鎖の中で動きが鈍り、冬城の銀杭と青い番人の連撃で次々と沈黙していく。
やがて通路に静けさが戻った。
蒼汰の耳には、自分の荒い息だけが残る。
膝が震えている。
鍵の光はまだ消えない。
手紙は床に落ち、少しだけ端が折れていた。
冬城がまず蒼汰の前へ来た。
お怪我は
……たぶん、大丈夫です
そうですか
いつもの静かな声なのに、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。
青い番人は剣を納め、こちらへ向き直る。
第一保管路防衛行動を終了
暫定管理者の生存を確認
先行障害の排除完了
蒼汰は言いたいことが山ほどあった。
だが最初に出たのは別の言葉だった。
父さん
頭の中の守へ向けて。
守の声は少しだけ間を置いてから返ってきた。
ああ
生きてるわけじゃ、ないんだよな
ない
残響みたいなものだ
権限核に残した私の思考の一部だよ
便利だろ
便利なわけあるか
蒼汰の声は怒っていた。
怒っているはずなのに、少し震えていた。
なんで
なんでこういう形なんだよ
なんで死んでからこんなの寄越すんだよ
短い沈黙。
それから守の声が、今まででいちばん人間らしく低くなった。
会って話す勇気がなかったからだ
蒼汰は言葉を失った。
守の声は続く。
すまん
本当に、そこは言い訳できん
冬城がこちらを見ている。
青い番人も動かない。
通路の奥にはまだ暗闇が続いているのに、この一瞬だけ世界が止まったみたいだった。
蒼汰は床に落ちた巴の手紙を拾い上げた。
白い紙は少しだけ皺になっていたが、破れてはいない。
母さんまで、こういうの分かってたのかよ
守は答えない。
いや、答えられないのかもしれない。
代わりに、鍵に浮かぶ文字列の端へ、新しい表示が加わった。
保護条件を検出
巴認証片 確認
防衛補助権限 一時解放
冬城がそれを見て、はっきりと眉を上げた。
巴様の認証まで組み込まれていたんですね
それ、そんなに変なことなんですか
変、というより
守様にしては珍しく、最初から共有前提の設計です
蒼汰は乾いた笑いが出そうになった。
父は母と一緒に、ここまで準備していたらしい。
なのに本人は肝心なことを話せないまま死んだ。
本当にどうしようもない。
ただ、少しだけ分かったこともある。
守はこの通路を、ただの秘密基地みたいに作ったわけじゃない。
蒼汰を近づけたくないと思いながら、それでももし来てしまったときには、最低限守れるようにしていた。
巴の言葉も、認証も、保護も、そのために。
青い番人が通路の奥へ向き直る。
第一障害を排除
暫定管理者に次区画への進行を推奨します
まだあるのかよ
はい
守様の保管路ですので
冬城が何でもないことのように言う。
蒼汰は額に手を当てたくなった。
だが鍵はまだ離れないし、頭の奥には守の残響がいる。
なあ、父さん
何だ
十倍面倒って、さっき言ってたよな
言ったな
いま何倍くらいだ
守は少し考えるような間を置いてから答えた。
まだ三倍くらいだ
蒼汰は心の底から嫌そうな顔をした。
最悪だ
その反応は正しい
なぜか少しだけ、守が笑った気がした。
通路の奥で、次の灯りが順番に点いていく。
白い石壁の先に、まだ見ぬ部屋がある。
父の秘密があり、たぶんまた面倒があり、自分の知らない守の人生の欠片がある。
蒼汰は巴の手紙を胸ポケットへ戻し、鍵を握り直した。
行きます
冬城が静かにうなずく。
青い番人が先導するように歩き出す。
その背を見ながら、蒼汰は小さく吐き捨てた。
あとで絶対文句言うからな、父さん
できれば手短にな
無茶言うな
そう返したとき、蒼汰はほんの少しだけ気づいた。
怒っている。
腹も立っている。
まだ許せるわけでもない。
それでも、自分はもう完全に、父の遺した世界の入口へ足を踏み入れてしまっている。
そしてその最初の鍵は、皮肉なことに、父が自分をどう思っていたかという、いちばん知りたくて、いちばん知りたくなかった答えだった。




