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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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第4話 旧校舎の鍵穴

旧校舎だと知った瞬間、蒼汰は思わず手帳を閉じた。


何だそれ、と思った。

もっとこう、異世界の扉とか、秘密基地とか、座標とか、せめて普通じゃない何かが書いてあると思っていたのに、出てきたのは自分が六年間通った小学校の名前だった。


しかも旧校舎。


二年前に完全閉鎖され、今は立入禁止になっているはずの建物だ。

耐震の問題だか何だかで使われなくなり、新校舎の裏に取り残されるようにして残っている。子供の頃は、夜になるとあそこにはまだ昔の先生が見回っているだの、音楽室のピアノが勝手に鳴るだの、よくある怪談の舞台だった。


守の遺した最初の行き先がそこだというのは、妙に腹が立つくらいあの人らしかった。


大事な話をするときほど、どこかふざけた場所を選ぶ。


蒼汰は便箋を箱に戻さなかった。

巴の手紙だけは胸ポケットに入れ、録音機と手帳を手にしたまま、しばらく黙って立ち尽くしていた。


冬城が少し離れた場所で待っている。


行かれますか


静かな声だった。


蒼汰は手帳を見下ろした。

守の字は変わらずそこにある。


蒼汰へ。まず謝る。たぶん、お前の想像より十倍は面倒なことになっている。

なお、最初の行き先は月ではない。安心しろ。もっと近い。お前の通っていた小学校の旧校舎だ。


意味が分からない。

だが、もうここまで来て、分からないからやめるという選択肢もどこか遠かった。


行きます


そう答えると、冬城はうなずいた。


車を回します


今からですか


今夜の方が都合がいいです。明日の葬儀本番が始まると、守様に恩義のある方々がさらに増えます。旧校舎程度なら先に済ませた方が安全です


旧校舎程度って


蒼汰が思わず言うと、冬城はほんの少しだけ言葉を選んだ。


守様の遺したものとしては、比較的穏当な部類です


その基準がもう怖い。


搬入口を出ると、夜の空気は冷えていた。

会館の周辺は相変わらず物々しいのに、不思議と騒がしさはない。規制線の向こうに報道らしき人影は見えるが、まるで分厚い膜が張られているみたいに音が遠い。


黒塗りの車に乗り込む直前、蒼汰は一度だけ振り返った。

会館の明かりの向こうに、守の棺がある。


父の葬儀の最中に、息子が旧校舎へ向かう。

まともじゃない。

まともじゃないのに、もうそこに抵抗するだけの力がなかった。


車は滑るように夜の道を進んだ。

助手席に冬城、後部座席に蒼汰。運転席には無口な黒服の男が座っている。


窓の外に見慣れた町が流れていく。

コンビニ、ドラッグストア、信号機、夜の住宅街。どこまでも普通の景色だ。

その普通の中に、父が異世界だの魔王だの星だのを持ち込んでいたのかと思うと、現実の方が薄っぺらく感じてしまう。


蒼汰様


はい


守様が旧校舎を選ばれた理由、心当たりはございますか


心当たり、ですか


蒼汰は少し考えた。


……一つだけ


何でしょう


小学校の頃、父が一回来たことがあるんです。授業参観じゃなくて、放課後でしたけど


自分でも忘れかけていた記憶だった。

だが旧校舎という言葉で、急に輪郭が戻ってきた。


三年のときだった。

蒼汰は図工で作った木箱を壊してしまって、泣くほどではないがかなり落ち込んでいた。みんなが帰ったあとも一人で旧校舎側の渡り廊下に座り込んでいて、気づいたら守がいた。


どうして来たのかは知らない。

迎えに来ると言われた記憶もない。

ただ守は蒼汰の隣にしゃがみ込んで、壊れた木箱をひっくり返しながら言った。


接ぎ方が甘いな。釘を真っ直ぐ打ち込みすぎた


そんなこと言われて、余計に腹が立ったのを覚えている。


でも守はその場でポケットナイフを取り出して、学校の備品か何かの古い木片を削り、箱の内側に当て木をして直した。

ついでに、見えないところに小さく蒼汰の名前まで彫った。


外から見えない工夫って大事なんだぞ

長く持たせるなら、なおさらな


あの人らしいな、と冬城が静かに言った。


あのあと、守は何か変なことを言ってた気がします。旧校舎はいい。新しい建物より、秘密を置くのに向いてる、とか何とか


秘密、ですか


ええ。子供の頃は意味分からなかったですけど


意味は、今なら分かりますか


蒼汰は窓の外を見た。

夜の町はいつも通りなのに、そこに自分だけ置いていかれている感じがする。


……分かりたくない方だったかもしれないです


冬城は何も返さなかった。

ただ否定もしなかった。


やがて車が小学校の裏門前で止まる。

正門ではない。防犯灯が一つだけついた、普段は閉じられている細い通用門だった。


夜の校舎は、昼間見るよりずっと大きく見えた。

新校舎はまだ新しいコンクリートの白さが残っているが、その奥に立つ旧校舎は暗く、窓の黒さが深い。二階建ての木造部分はとっくに改修されて姿を失ったはずなのに、鉄筋の古い棟だけが、妙に頑固に残っている。


門は施錠されていたが、黒服の男が何かを端末にかざすとすぐ開いた。


学校にも認証とかあるんですか


一応、こちら側の管理下にあります


こちら側って何なんですか、ほんとに


蒼汰のぼやきに、冬城は少し困った顔をした。


それは、守様の手帳をある程度進めていただいたあとで説明した方が早いです


あの人、死んでからも面倒くさいな


はい。非常に


即答だった。


校庭を横切る。

夜風が砂を少しだけ動かし、錆びた遊具がかすかに鳴った。

遠くで犬の鳴き声がする。見上げれば、雲の切れ間に月が出ていた。


旧校舎の前に立つと、蒼汰は足を止めた。

入口には立入禁止の札。ガラス扉の向こうは真っ暗だ。だが、ただの廃校舎の暗さではない。人のいない建物特有の湿り気の中に、もっと別の気配が混じっている。


冬城が小さな懐中電灯を差し出した。


持っていてください。明かりとしてより、目印になります


目印


見失わないための、です


蒼汰は受け取った。

軽いのに、持つと手のひらが少し熱を持つような感覚がある。


入口の錠は、守の鍵では開かなかった。

代わりに黒服の男が別の鍵を使い、中へ入る。


廊下は静まり返っていた。

掲示板には色褪せた標語、外れかけた画鋲、遠足の写真。床はきしむほど古くはないが、夜の学校独特の空気が残っている。

理科室、家庭科室、図書室。

通ったことのある場所ばかりなのに、懐かしいというより落ち着かない。


旧校舎の二階です


冬城が先を歩く。

階段の踊り場に差しかかったとき、蒼汰はふと壁に手を触れた。


落書き防止のためか何度も塗り直された跡がある。

だが一か所だけ、塗装の下に小さな傷が見えた。

三角と丸を繋げたような、子供の悪戯みたいな印。


蒼汰は息を止める。


それ、守様の癖ですか


冬城の問いに、蒼汰は首を横に振った。


俺です


そう答えながら、自分でも驚いていた。

完全に忘れていたのだ。

三年の頃、放課後に守と一緒にここを通って、ポケットのコンパスでこっそり壁を引っかいた。

見つかったら怒られるぞ、と守は言いながら、自分で線を一本足していた。


蒼汰は指先でその傷をなぞった。

父と一緒につけた、ひどく小さな跡。

こんなところに残っている。


旧校舎はいい。秘密を置くのに向いてる。

その言葉が、急に現実味を帯びた。


二階の一番奥まで進む。

そこはかつて音楽準備室だったはずの部屋だった。今は備品も運び出され、扉のプレートだけが斜めに残っている。


守様の鍵を


冬城に促され、蒼汰は鍵を取り出した。

扉の鍵穴に当てるが、形が合わない。


違いますけど


はい。扉ではありません


冬城は準備室の中へ入った。

何もない部屋だ。

埃っぽい床、壁際に寄せられた古い棚、ひびの入った黒板。拍子抜けするほど普通の、使われなくなった教室の残骸だけがある。


だが冬城は迷わず黒板の前に立ち、その下のチョーク受けを指先でなぞった。


蒼汰様。ここに、鍵穴があります


そんなわけ、と言いかけて蒼汰は黙った。


あった。


チョーク受けの端、金属の継ぎ目にしか見えなかった場所に、小さな鍵穴が隠れている。

こんなもの、知っていなければ絶対に気づかない。


蒼汰は守の鍵を差し込んだ。

今度はぴたりと合う。


回してください


息を吸って、回す。

かちり、と乾いた音がした。


その瞬間、黒板に白い線が走った。


蒼汰は思わず一歩下がる。

誰も触れていないはずの黒板に、まるで透明な手がチョークを滑らせるみたいに文字が浮かび上がっていく。


よう、蒼汰。来たな。まず言っておくが学校を選んだのは趣味じゃない。いや、少しは趣味だが、それだけではない。


守の字だった。


蒼汰は呆然と黒板を見つめる。


ここはな、お前が初めて私に本気で怒った場所の近くだ。覚えてるかどうか知らんが、木箱を直したあと、お前は言ったんだ。父さんは何でも知ってるみたいに言うくせに、何で家にはあんまりいないんだ、ってな。


息が止まりそうになる。


そんなことを言った記憶は、ない。

だが言ったのかもしれない。

あの頃の自分なら。


黒板の文字は続く。


私はそのとき、何も答えられなかった。答えられないくせに、お前の箱だけは直して、少しは格好がつくと思っていた。今思えば最悪だ。だが、お前がここを覚えているなら、たぶん私の負け方も少しは覚えていてくれるだろうと思った。


蒼汰の喉の奥が痛んだ。

笑えばいいのか、怒ればいいのか分からない。


守らしい。

本当に守らしい。

肝心な話の前に、こういうどうでもいい照れ隠しを挟む。


文字がそこで一度止まり、次の一文がゆっくり浮かんだ。


この先に、お前へ見せる最初の部屋がある。怖かったら帰っていい。巴にはそうしろと言われている。たぶん、それが正しい。


その下に、少し間を置いて、さらに続く。


だがもし、お前がそれでも知りたいなら、黒板を押せ。心配するな。爆発はしない。今回は。


今回は、って何だよ


蒼汰が思わず声に出すと、冬城が小さく目を逸らした。


前例があるんですか


守様はときどき、検証の過程で


もういいです


聞きたくない。


黒板は何の変哲もない板に戻っていた。

白い文字も消えている。残ったのは、守がそこにいた気配だけだ。


蒼汰は黒板の前に立った。


怖かったら帰っていい。

巴にはそうしろと言われている。


普通でいていいんです。


胸ポケットの手紙が、その言葉をまだ持っている気がした。


帰ることもできる。

本当にできるのかは知らない。だが少なくとも、守は帰る選択肢を残していた。

残してしまうくらいには、最後まで臆病だったのだろう。


蒼汰は黒板に手を置いた。


冷たい。

だが、その奥に微かに脈打つような振動がある。


……ずるいんだよ、ほんとに


誰に言うともなく呟いて、押し込む。


重い板が、音もなく奥へ沈んだ。


次の瞬間、黒板の向こうに空間が開く。


部屋ではなかった。

少なくとも、学校の中にあるはずの奥行きではない。


薄暗い石造りの通路が、ずっと先まで続いている。

壁には見たことのない灯りが等間隔に浮かび、床には古い文字のような線が刻まれていた。空気はひんやりしているのに、土と紙と鉄の匂いが混じっている。

まるで学校の裏側に、別の建物をそのまま差し込んだみたいだった。


蒼汰は立ち尽くした。

現実感が一度、全部剥がれ落ちる。


冬城が懐中電灯を少し上げる。


守様の私設保管路です


私設って規模じゃないだろ……


多くの世界と直接は繋いでいません。ここはあくまで中継点です。守様は学校や図書館や病院のような、日常の記憶に近い場所を入口にするのを好まれました


なんで


帰る場所を、忘れないためだそうです


その答えに、蒼汰は何も言えなくなる。


守は、帰る場所を忘れないために旧校舎を使った。

異世界だの魔王だの星だの、そんな途方もない場所を渡り歩きながら、それでも入口を小学校にした。


胸の奥に、嫌な熱が広がる。

泣きそうな、腹が立つような、どうしようもない熱だ。


通路の奥から、かすかな音がした。


足音ではない。

金属が擦れるような、何かがゆっくりと目を覚ますような音。


冬城の表情がわずかに変わる。


おかしいですね。本来ならまだ休眠状態のはずですが


休眠って、何が


蒼汰が問い返したそのとき、通路の奥の闇の中で、二つの青い光が灯った。


人の目の高さより、少し上。


それが一つではないと分かるまでに、一拍かかった。


青い光はゆっくりと近づいてくる。

金属音が規則的に響く。


冬城が蒼汰の前に一歩出た。


下がってください、蒼汰様。守様の番人が、想定より早く起きています


番人


蒼汰が息を呑む。


闇の奥から現れたそれは、人型だった。

だが人ではない。全身を古びた銀色の装甲に覆われ、胸部には守の鍵穴と同じ形の紋様が刻まれている。顔に当たる部分には口も鼻もなく、青白い光だけが目のように灯っていた。


機械とも違う。

鎧そのものが生きているみたいな、不気味な静けさがある。


そしてその番人は、蒼汰を見た。


正確には、蒼汰の持つ鍵を見た。


次の瞬間、旧校舎の裏側に隠されていた世界が、低い音を立てて動き始めた。

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