第3話 父の悪友
魔王。
それが冗談ではないらしいことは、冬城真琴の態度を見れば分かった。
彼女はその男を前にして、警戒はしている。しているが、排除しようとはしていない。 それどころか、通してしまった。 つまり、この場では本当に通していい相手なのだ。
蒼汰は録音機を持ったまま、喉の奥に引っかかったものを無理やり飲み込んだ。
男は長身だった。 喪服のような黒い外套は無駄に仕立てがよく、夜をそのまま布にしたような質感をしている。肩まで流れた暗い髪も、整いすぎた顔立ちも、人間離れしていた。 それなのに、決定的に浮いていない。 この場に来る資格がある者の顔をしていた。
初めまして、奏多蒼汰
男はそう言って、わずかに頭を下げた。 動作に高慢さはない。ないのに、自然と目を逸らせなくなる圧がある。
私はグラディウス
一拍置いてから、口の端だけで笑う。
お前の父が昔、酒の席で勝手に魔王と呼び始めて、そのまま定着した
蒼汰は数秒黙った。
……いや、さっき自分でそう名乗りましたよね
説明を省くためだ
省きすぎだろ
思わずそう返すと、グラディウスの目が少し細くなった。 笑ったのだと気づくまでに一瞬かかった。
守の息子だな
どのへんがですか
初対面の相手に対して、引くべきところで引かないところが
褒めてないですよね、それ
褒めていない
即答だった。
冬城が小さく咳払いをする。
グラディウス様、本日は弔問のみでお願いいたします。守様が遺されたご案内の途中ですので
案内?
ああ、それか
グラディウスの視線が蒼汰の手元、録音機と封筒、革の手帳へ落ちる。 その瞬間だけ、男の目にほんのわずかに懐かしさの色が差した。
面倒な順番まで決めて死んだか。あいつらしい
蒼汰は録音機を握り直した。
知ってるんですか
よく知っている。何しろ、こちらの世界で守が初めて酔いつぶれた夜、介抱したのは私だ
は?
お前の父は酒が弱いくせに、強いふりだけは一流だった。私の城で勝手に最上級の酒樽を開けてな。三杯で床に転がった
蒼汰は思わず冬城を見た。 冬城は否定しない。ほんの少しだけ視線を逸らした。
本当なんだ……
守は酒に弱かった。 それは知っている。知っているが、魔王の城で酔いつぶれた父親、という絵面がすでに意味不明だった。
グラディウスはゆっくりと蒼汰へ近づいた。 ただし、威圧しないぎりぎりの距離で止まる。
まず言っておく。私は今日は喧嘩をしに来たわけでも、忠告をしに来たわけでもない。友を見送るために来た
その言い方に、蒼汰の胸の奥が妙にざわついた。 友。 父をそう呼ぶ声を、蒼汰はほとんど知らない。
……あの人、本当にあんたの友達だったんですか
友達、というには悪縁が過ぎたがな
グラディウスは守の棺がある方角へ一瞬だけ目を向けた。
最初に会ったとき、私はあいつを殺すつもりだった。守も、たぶん私を殺すつもりで来たのだろう。だが途中で、面倒になったらしい
途中で?
ああ。私の城の地下にあった、くだらん酒蔵を見つけてな。これを壊すのは惜しい、と言い出した
蒼汰は何も言えなかった。 それは、父が言いそうだと思ってしまったからだ。
代わりに、呆れた声で冬城が言う。
守様らしいですね
らしいだろう?
グラディウスは本当に少しだけ笑った。
それからあいつは、勇者のくせに三日間、私の城で酒と飯の文句を言い続けた。魔王軍の補給路は無駄が多い、厨房の火加減が雑だ、地下水の硬度が合っていない、兵が履く靴が悪い、とな
蒼汰は目を瞬かせた。
……勇者ってそんなこと言うんですか
普通は言わん。守しか言わん
しかもな、とグラディウスは続ける。
四日目には、敵味方の区別も忘れて炊事場に入り込み、うちの兵に干し肉の戻し方と野菜の切り方を指導していた。あの男は戦場より台所と補給庫の方が目の色を変える
それは、蒼汰の知る守にも繋がっていた。 家にいたとき、守は妙なところだけ細かかった。 カレーを作れば鍋底の火の通り方にうるさく、冷蔵庫の詰め方に文句を言い、包丁の研ぎ方ひとつで小一時間語る。 父親らしい会話は苦手なくせに、そういうどうでもいい実用の話だけは饒舌だった。
あの人……
なんでそんなのが勇者なんだよ、という言葉は最後まで出なかった。
グラディウスは蒼汰の顔色を見ていた。 見透かすような目ではなく、確かめるような目だった。
お前は守を、よく知らなかったのだろう
知りませんでしたよ
蒼汰の声は思ったより低く出た。
家にいなかったし、何してるかも言わなかったし、たまに帰ってきたと思ったら、異世界がどうとか魔王がどうとか、そんな話ばっかりで
そこで息が詰まる。 怒っているのか、悲しいのか、恥ずかしいのか、自分でもうまく分からない。
蒼汰は録音機を一度握りつぶしそうになって、慌てて力を抜いた。
……だったら最初から、ちゃんと話せよ
守に向けた言葉だった。 死者へ向けるには遅すぎる文句だった。
グラディウスはしばらく黙っていたが、やがて淡々と言った。
できなかったのだろうな
何がですか
父親になることが
蒼汰は顔を上げた。 グラディウスの横顔は、意外なほど静かだった。
あいつは、世界を救うことより、自分の大切なものの前で正しい顔をする方が苦手だった。戦場では迷わん。交渉でも迷わん。だが家族の前では、ひどく臆病になる
そんなふうには見えませんでしたけど
見せなかっただけだ
グラディウスは短く言い切る。
守は、敵の刃を前にしても退かなかったが、お前に嫌われるのは怖がっていた
その一言が、妙にまっすぐ蒼汰の胸に刺さった。
嫌われるのが、怖い?
あいつが?
信じられない。 だが、同時に、信じたくなる。
子供の頃の記憶が一つだけ蘇る。 小学校の授業参観に守が珍しく来た日だ。 教室の後ろでずっと落ち着かず、立つ位置を二度も三度も変えていた。帰り道、蒼汰が来なくてよかったのに、と投げつけるみたいに言ったとき、守は笑っていた。 笑っていたけれど、あれはたぶん少しだけ傷ついた顔だった。
あの人、そんなこと……
言わんだろうな、自分では
グラディウスが肩を竦める。
守は、守るために黙る男だ。そういう意味では勇者向きだが、父親向きではない
冬城が静かに補足した。
巴様も、同じことを仰っていました
蒼汰は封筒を見た。 母の字で書かれたそれは、最初からそこにあったのに、存在感だけがどんどん重くなる。
グラディウスはその封筒にも気づいていた。
巴か
知ってるんですか
一度だけ会った
蒼汰は思わず身を乗り出した。
いつ
お前がまだ小さい頃だ
グラディウスは少しだけ目を細める。 遠いものを思い出すみたいに。
守に言われて、こちらの世界の境界近くまで来た。家には入っていない。外で少し話しただけだ。巴は私を見て、驚きはしたが怯えなかった
母さんが……?
強い女だった。 あのとき彼女は私にこう言った。守さんがどれだけ多くのものを背負っているかは分かります。でも、この子にまで背負わせないでください、と
蒼汰の指先が、封筒の端を強く押した。
その言葉を、グラディウスは飾らずに続ける。
自分の夫がどれほど異常か、あの女はよく分かっていた。それでも、あくまで息子を先に置いた。見事だったよ。魔王城の玉座の間でも、あれほど迷わず条件を出せる者は少ない
蒼汰は喉の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。
母は強かった。 知っている。 知っているが、守の世界側の人間からそう言われると、急に輪郭が変わる。 巴はただ優しかっただけではない。 あの父と並んで立ち、取引し、条件を突きつけた人だったのだ。
グラディウスは蒼汰の前でふっと膝を折った。 蒼汰と視線の高さを合わせるためだと気づいて、胸の内側がざわつく。 魔王だか何だか知らない男が、わざわざそうする必要はないのに。
奏多蒼汰
低い声が、思った以上に静かに響く。
私は守の友人として、お前に礼を言いに来た
俺に?
守は最後まで、お前をこちら側へ引きずり込まないようにしていた。それはおそらく、正しい。だが同時に、あいつにとって一番苦しい選択でもあったはずだ
蒼汰は何も返せなかった。
礼を言う理由にはなってないですよ
なるさ
グラディウスは迷わず答える。
お前が普通に生きていたからだ。守が何を投げ捨て、何を誤魔化し、何を黙ったのか、その結果がいまここにある
その言葉は、慰めではなかった。 だからこそ、変に優しく聞こえた。
そして私は、守の失敗についても知っている
失敗?
ああ。あいつはお前を守った。だが、お前の父親になることからは逃げた。だから友人として言っておく。殴ってもいい
蒼汰は思わず、変な声を漏らしかけた。
魔王に勧められることですか、それ
かなり真面目に言っている
そこで初めて、蒼汰の口元がわずかに緩んだ。
おかしかった。 父の棺のすぐ近くで、魔王と呼ばれる男に父を殴っていいと言われて、少し笑いそうになるなんて。
だが、そのおかしさのおかげで息ができた。 泣くのでもなく、怒鳴るのでもなく、ただ苦しくて立ち尽くしていた胸の奥に、少しだけ隙間ができる。
グラディウスは立ち上がった。
私はもう長居しない。弔問客の列というものは、どうにも性に合わん
帰るんですか
まだ他にも来る。私がいると面倒が増える
それは分かる気がした。
去り際、グラディウスは革の手帳へ視線を落とした。
手帳は最後に開け。あれは守の悪癖が詰まっている。先に読めば腹が立つぞ
もう十分腹立ってますけど
なら先に巴を読め。あの女の言葉の方が、お前の足場になる
そう言って男は振り返り、搬入口の暗がりへ向けて歩き出す。 だが三歩目で立ち止まり、背を向けたまま、ぽつりと言った。
守はな、何度か死にかけた
蒼汰の肩が揺れる。
異世界でも、この世界の裏側でも、空の向こうでも。だが最後の最後でしぶとく帰ってきた。帰ってきて、くだらん土産話をして、お前に煙たがられて、それでも少し嬉しそうにしていた
グラディウスはそこでほんの少しだけ笑ったようだった。
だから私は、あいつが本当に終わったのだと、まだうまく理解できていない
その言葉だけ残して、男は去った。
後には、搬入口の薄暗い空気と、妙に重くなった沈黙だけが残る。
冬城が小さく息を吐いた。
あの方なりに、かなり言葉を選ばれていました
そうなんですか
はい。普段はもう少し感じが悪いです
蒼汰は思わず、ふっと息を漏らした。 笑ったというほどでもない。でも確かに、さっきより肩の力が抜けていた。
録音機はまだ守の声を止めたままだ。 巴の封筒も、革の手帳も、目の前にある。
蒼汰はしばらく黙って、それから封筒を手に取った。
母の字は、やっぱりすぐ分かった。 触れるだけで昔の匂いが戻ってきそうで、怖いくらいだった。
開けますか
冬城の問いは控えめだった。 蒼汰は封筒を見つめたまま、ゆっくり息を吸う。
……開けます
指先で封を切る。 中には便箋が二枚。 丁寧に折られていて、少しだけ時間の色がついている。
蒼汰へ。 この手紙をあなたが読むとき、私はもう近くにいないかもしれません。 でも、守さんもきっと、すぐそばにはいないのでしょう。 もしそうだったなら、あの人はまた大事なことを一人で抱え込んで、ちゃんと説明する前に遅れてしまったのだと思います。
そこまで読んだだけで、蒼汰は目を閉じた。
ああ、母だ。 この少し困ったような、でも責めきらない書き方は、巴そのものだった。
便箋を持つ指が震える。
冬城さん
はい
少しだけ、一人にしてもらっていいですか
承知しました
冬城はそれ以上何も言わず、一礼して離れていく。 足音が遠ざかる。 搬入口の外に人の気配はあるのに、この場所だけが切り離されたみたいに静かになる。
蒼汰は便箋を読み進めた。
守さんは、あなたに嫌われたくなくて、たくさんのことを黙る人です。 本当は黙らない方がいいと私も何度も言いました。 でも、あの人は守ることと隠すことを、うまく分けられない人でした。
だから、もしあなたが怒るなら、ちゃんと怒ってください。 悲しいなら、悲しいと認めてください。 許せないなら、すぐに許さなくていいです。
ただひとつだけ、覚えていてください。 守さんは、あなたが生まれてからずっと、あなたのことが大好きでした。 困るくらい、不器用なくらい、どうしていいか分からなくなるくらいに。
蒼汰の視界が滲んだ。
あの人があなたに残すものは、きっと面倒で、回りくどくて、腹の立つものだと思います。 でもその中に、あの人なりの本音もあります。 もし読める日が来たなら、最後まで見てあげてください。
そして、あなたが選んでください。 守さんの背負ってきたものに触れるのか。 それとも、ここで手を離して、あなたの人生を生きるのか。 どちらを選んでも、私はあなたの味方です。
最後の一文は短かった。
蒼汰。 あなたは、普通でいていいんです。
そこまで読んだ瞬間、蒼汰は顔を伏せた。
泣くつもりはなかった。 だが無理だった。 便箋を濡らさないようにするので精一杯で、肩だけがどうしようもなく震えた。
普通でいていい。
その言葉が、いちばん重かった。 父はきっと、普通でいさせるために離れたのだ。 母はきっと、普通でいていいと最後まで言ってくれた。
なのにいま、自分の目の前には魔王が来て、国家の要人が並び、父の遺した鍵と遺品があり、世界はもう普通ではいられない形で揺れている。
蒼汰は濡れた目のまま、棺のある方角を見た。
……ずるいだろ
声は小さかった。 けれど誰に向けたかははっきりしていた。
守にだ。 巴にだ。 自分を守ろうとして、何もかも遅らせた二人にだ。
それでも、便箋を握る指はもう離れなかった。
蒼汰は涙を拭って、残る一つへ手を伸ばす。 録音機でもない。 革の手帳だ。
最初にこれを聞け。 その次に、巴を読め。 最後に、手帳を開け。
守の字が、まだそこにある。
……ここまで来たら、最後まで付き合ってやるよ
吐き出すように言って、蒼汰は手帳の表紙を開いた。
最初のページに書かれていたのは、地図でも呪文でもなかった。 たった一行。
蒼汰へ。まず謝る。たぶん、お前の想像より十倍は面倒なことになっている。
その下に、守らしい少し崩れた字で、さらにこう続いていた。
なお、最初の行き先は月ではない。安心しろ。もっと近い。お前の通っていた小学校の旧校舎だ。




