第24話 喪鐘が遅れた夜
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰はまた一度だけ立ち止まった。
腕の中にあるものが、もう完全に普通ではない。
兵站局の黒箱。
商隊旗。
大勲章。
削られた勲札。
宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈。
祭壇布。
学監棒。
教育日誌の複写。
夜紋。
盟約写し。
羅針儀。
消えた線の地図。
銀の主席笛。
規定集。
巨大な解除鍵。
河渠院旗。
帰還優先灯の運用標。
統制塔旗。
物の重さより、そこへ載っている意味の方が重かった。
父が死んだ夜に、こんなに多くの誰かの人生の断片を、息子が腕いっぱいに抱えて歩くことになるなんて、少し前の自分なら想像もしなかった。
蒼汰は深く息を吐く。
冬城さん
はい
次、喪鐘の時刻を一刻ずらされた礼楽卿って言ってたよな
はい
もう、何を聞いても驚かないつもりだったんだけど
時間までいじるのはだいぶ嫌な予感する
そうでしょうね
否定しないの、やっぱりやめません?
難しいかと
守が頭の奥でぼそりと言う。
あれは、ずらした方が弔いとして正しかった
正しかったって、あんたの基準だろ
そうだな
それをあっさり認めるなよ
リュシエラが横で静かに言う。
弔いの時刻は、夜の側でも重いです
誰を待つのか、誰を切り捨てるのかが出ますので
その言い方やめてくれ
すごく嫌な方向に納得しそうになる
納得は、だいたい嫌な方から来ますので
蒼汰は小さく呻いた。
たしかに今夜ずっとそうだった。
応接室の扉が開く。
今度の部屋の空気は、音が少なかった。
静か、ではない。
むしろ音があるのに、全部が磨かれて角を落としている感じだ。
古い木、蝋、香、薄く張られた皮、真鍮の匂い。
大広間の隅にある楽器庫か、鐘楼の内部に近い匂いだった。
中央に立っていたのは、男だった。
年齢は五十代後半ほど。
長身で、痩せている。黒の礼装の上から、深い紫を帯びた外套を重ねていた。軍装でも宮廷服でもない。だが一目で、宮廷の儀礼に属する人間だと分かる静かな威厳があった。
白に近い銀髪を後ろへ撫でつけ、左手には薄い手袋。右手の指先だけ、わずかに色が違う。長く鐘槌や指揮棒を握ってきた人間の手だった。
後ろには随員が二人。
一人が細長い木箱を、もう一人が黒布に包まれた平たい板と、巻かれた紙束を抱えている。
冬城が告げる。
王宮礼楽院筆頭礼楽卿、セヴェリン・アルカディオ様です
守様に、王宮の喪鐘時刻を一刻ずらされたご当人でもあります
男――セヴェリンは、蒼汰を見て深く一礼した。
優美なのに、儀礼用の空礼ではない。
本当に大切な場でしか使わない礼だと、それだけで分かる。
奏多蒼汰殿
声は低く、澄んでいた。
鐘の余韻みたいな響きをしている。
私はセヴェリン・アルカディオ
王宮礼楽院にて、喪礼と祝礼の時刻を守る者です
そして、守殿にその時刻を一刻ずらされた男でもあります
蒼汰は一拍置いてから言う。
……だいぶ大事な仕事ですよね、それ
はい
非常に
セヴェリンは即答した。
だが怒ってはいなかった。
むしろ、その重大さを自分でよく知っているからこその、落ち着いた声だった。
冬城に促され、蒼汰は椅子へ座る。
セヴェリンも向かいへ腰を下ろした。
無駄がない。けれど軍や行政とは違う。長く「時間そのものを司る役」にいた人間の座り方だった。
セヴェリンは、まず黒布に包まれた板を机上へ置いた。
布がほどかれる。
現れたのは、時刻板だった。
黒曜石のような板に、金線で刻が区切られ、下部には小さな可動片がはめ込まれている。時計ではない。だが王宮儀礼の進行を、どの刻に何を鳴らし、何を始め、何を終えるか示す板なのだろう。
その中央、喪鐘第一打の位置だけ、金線が一度削られ、新しく少し右へ刻み直されていた。
これが、ずらされた時刻です
蒼汰は少しだけ眉を寄せた。
何があったんですか
セヴェリンは静かに答えた。
北門外で崩落がありました
王都北方防壁の一部が雪解け水で緩み、礼式の前日に外壁通路が落ちたのです
現場には、巡察隊、工兵、礼送列の先導兵がいました
死者も出た
さらに何人かが、瓦礫の向こう側に取り残された
喪鐘と関係あるんですか
大いに
セヴェリンの声が一段低くなる。
その日は王宮大喪礼の日でした
先王妃の追悼礼
喪鐘第一打は、日の出から数えて第三刻ぴたり
一国の礼は、時刻がずれてはならない
そういうものです
守が頭の奥でぼそりと言う。
だから私は嫌な顔をした
嫌な顔で済ませてないだろ、どうせ
そのあと、少しな
セヴェリンは続ける。
私は礼楽卿として、喪鐘の遅延は認められませんでした
先王妃への礼が揺らぐ
王宮の秩序が揺らぐ
何より、王都全域へ伝わる喪鐘時刻は政治そのものです
ずらすわけにはいかなかった
蒼汰は小さく頷く。
たぶん、それは正しい。
少なくとも、その立場ならそう言うしかない。
守殿だけが違いました
またか、と思う。
でも今さら驚きは薄い。
守殿は、崩落の報告を聞いたあと、最初にこう言いました
まだ向こうに人がいるのに、先に終わりの鐘を鳴らすのか、と
蒼汰は小さく息を呑んだ。
セヴェリンは目を伏せた。
私は答えました
喪鐘は先王妃のためのものだ、と
現場救助とは別に動くべきで、礼は礼として守らねばならない、と
すると守殿は、たいそう不機嫌な顔で言いました
王妃だろうが兵だろうが、帰ってくるやつを待たずに鳴らす終わりの鐘は、たいてい生きてる方の都合だ、と
蒼汰は目を閉じたくなった。
また父だ。
本当にどこでも同じことを言う。
で、どうしたんですか
守殿は鐘楼へ行きました
止めなかったんですか
止めました
礼楽院の守衛も
鐘守も
私自身も
セヴェリンは、そこで初めてほんの少しだけ苦笑した。
ですが守殿は、止まらない
鐘楼の最上段まで上がり、喪鐘の自動刻機へ手を入れたのです
蒼汰は思わず前のめりになる。
刻機って、勝手に鳴る仕掛けですか
はい
王宮喪鐘は、人の手だけではありません
誤差を出さぬため、星儀盤と魔力刻機で時刻を固定します
守殿はそこへ魔法で干渉し
喪鐘第一打を、一刻だけ遅らせた
武力行使じゃないですか
蒼汰が思わず言うと、セヴェリンは頷いた。
ええ
礼楽院の分類でも、明確な強制介入です
攻撃ではない
ですが儀礼時刻を外部から改変するなど、本来あってはならない
守が頭の奥で言う。
だが、向こう側の瓦礫はまだ動いていた
蒼汰は心の中で返す。
それで、間に合ったのか
セヴェリンが先に答えた。
間に合いました
その一言だけで、蒼汰は少しだけ肩の力が抜けた。
崩落の向こう側にいた先導兵三名と工兵二名が、喪鐘第一打の前に北門をくぐった
そのうち二名は、自力で歩けない状態でした
もし規定通りの刻に鳴っていれば
王宮外門は一時閉鎖され、礼送列が優先され、彼らは間に合わなかった可能性が高い
蒼汰はしばらく何も言えなかった。
父はまた、時間の向こうで死ぬ側を見ていたのだ。
セヴェリンは続ける。
私はその場で激怒しました
礼は順序で成り立つ
王宮の喪鐘は、誰か一人の判断で遅らせてよいものではない
そう申し上げた
すると守殿は、珍しく少しだけ言葉を選んで返しました
セヴェリンの目が、少しだけ遠くを見る。
礼が死者のためなら、帰る者を一刻待て
待てぬ礼は、たいてい残った側の綺麗好きだ
部屋が静かになる。
蒼汰は息を吐いた。
ひどい言い方だ。
でも、そこに父の嫌な正しさがある。
セヴェリンは平たい紙束から、一枚の譜面を取り出した。
譜面、というより、鐘の打刻順を記した礼式譜だ。
第一打、第二打、沈黙、再打。そういう順序が整然と並んでいる。
ただ、第一打の箇所だけに、濃い赤の筆で別の書き込みが入っていた。
待て。
まだ戻る。
守の字だ。
蒼汰は思わず少し笑いそうになる。
譜面に書く言葉じゃないだろう、と。
セヴェリンは細長い木箱を開けた。
中に入っていたのは、小さな鐘槌だった。
儀礼用の喪鐘を打つための補助槌らしい。柄は黒木、先端は白銀で巻かれ、側面に礼楽院の紋章と微細な星刻が刻まれている。
派手ではない。
だが丁寧に扱われてきた物の重みがある。
これは、喪鐘第一打の確認槌です
本来、礼楽院の外へ出ません
王宮の喪礼において、第一打が正しく落ちるかを人の手で最後に確かめるためのものです
そんな大事なものを
はい
大事なものです
セヴェリンは頷く。
守殿は勲章や勲札には興味を示されなかった
ですが鐘や水や灯や、そういう終わりと始まりの境目にはうるさい方でした
ですから、これが近い
さらに、随員が深い紫の布包みを開く。
現れたのは旗だった。
王旗ではない。礼楽院旗だ。
深い紫地に、銀糸で鐘楼と波紋のような紋が刺繍されている。
王宮の高い場所へ掲げる、時間と儀礼を司る側の旗なのだろう。
本式の日
王宮礼楽院は、この旗を半旗とします
また喪鐘は、本来の時刻ではなく
守殿が一刻ずらしたあの刻へ合わせて、一度だけ鳴らす
礼楽院としては異例です
ですが、あの方を送るには、それが正しい
蒼汰は、その言葉を聞いて少しだけ目を伏せた。
父がずらした時刻が、そのまま弔いの時刻になる。
すごく父らしい。
そして、すごく重い。
セヴェリンは最後に、もう一枚の紙片を差し出した。
守の字だった。
鐘は終わりを知らせるもんじゃない
戻ったやつに、まだ間に合ったと教えるためにも鳴る
蒼汰は、その一文をしばらく見つめた。
やっぱり父は、どこでも帰る人のことを見ていたのだ。
守
何だ
あんた、本当にそういう人なんだな
守は少しだけ黙った。
それから低く返す。
たぶん、な
セヴェリンは静かに立ち上がる。
奏多蒼汰殿
私は守殿に、王宮の喪鐘時刻を一刻ずらされました
ですがそのおかげで、帰る者を切り捨てずに済んだ
ゆえに礼を申し上げます
蒼汰は、鐘槌と礼楽院旗、譜面と紙片を見てから、ゆっくり頷いた。
……預かります
ありがとうございます
去り際、セヴェリンは一度だけ棺の方角を見た。
それから蒼汰へ向き直る。
守殿は、たぶんご家庭でも
時間に厳しいのではなく、待つべき相手を見誤らない方だったのでしょう
蒼汰は少しだけ目を瞬いた。
……どうかな
でも、帰ってくる時間より
帰ってくるかどうかの方を、よく気にしてた気はする
でしょうね
セヴェリンの口元が、ほんのわずかに和らいだ。
あの方は、時刻を守るより
時刻を何のために置くかの方を見ていた
それだけ言って去っていく。
扉が閉まる。
応接室に戻った静けさの中で、蒼汰は新しく増えた鐘槌をそっと持ち上げた。
軽い。
だが、その軽さの中に、ずらされた一刻の重みが詰まっている気がした。
冬城が静かに近づく。
かなりお疲れかと
うん
でも、父さんの見てる順番、だいぶ分かってきた
どういう順番でしょう
蒼汰は鐘槌の銀を指でなぞる。
礼とか規約とか線とか制度とか
そういうのは大事だけど
そのせいで帰れないとか、朝を越えられないとか、間に合わないとか
そうなるなら、あの人は躊躇なく壊すんだなって
冬城が小さく頷く。
ええ
守様は、ほぼ間違いなくそうします
リュシエラが横で静かに言う。
守殿は、秩序を好まなかったのではなく
命より先に立つ秩序を嫌ったのでしょうね
蒼汰はその言葉を胸の中で反芻した。
たぶんそうだ。
父は無秩序な人ではない。
むしろすごく順番にうるさい。
ただ、その順番が、いつも人の都合や制度の前に、生きて帰れるかどうかへ置かれていた。
蒼汰は小さく息を吐いた。
本当に、どこでも同じだな
父さん
守は何も返さなかった。
でも否定しない沈黙だった。
冬城が机上の品を整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
戻りたい
蒼汰は新しく増えた鐘槌と旗を抱え直す。
もう本当に腕の中がいっぱいだ。
それでも、やっぱりどれも手放したくない。
扉へ向かいながら、何となく聞く。
次は?
冬城はほんの少しだけ考えた。
守様に、王立図書院の禁書分類を一つ消された司書長の方です
蒼汰はその場で止まった。
……また何か消したのかよ
守が頭の奥で低く返す。
消した方が、人が死ななかった
その理屈、もう怖いんだよ
蒼汰は深く息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、世界の大事なものを勝手にずらし、開き、消し、それでも礼を言われ続けていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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