第20話 国境線が消えた朝
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は腕の中の荷物を見下ろした。
兵站局の黒箱。
砂海回廊の商隊旗。
白銀獅子大勲章。
削られた勲札。
翠嶺王家の宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈と祭壇布。
学監棒と教育日誌の複写。
夜紋と盟約写し。
もう完全に、遺族の持ち物ではない。
父が死んだ夜に、見知らぬ世界の一部がひとつずつ蒼汰の腕へ載せられていくみたいだった。
その横には、リュシエラが静かに立っている。
夜の姫。
吸血公爵家の嫡女。
しばらくは蒼汰のそばに置かれる存在。
異様なはずなのに、広間へ戻る道の途中で彼女が隣にいることへ、蒼汰は少しずつ慣れ始めていた。
冬城が先を歩きながら言う。
次の方は、少し毛色が違います
いまさら毛色が違わない人の方が珍しいだろ
そうかもしれません
今度は何ですか
冬城は少しだけ振り返った。
守様に、国境線を一本消された方です
蒼汰は数秒、何も言えなかった。
……は?
守
頭の奥で低く呼ぶ。
何した
守は一拍置いてから答えた。
消した
そのまま言うなよ
事実だからな
魔法で?
ああ
武力行使じゃないですか、それ
必要だった
蒼汰は額を押さえたくなった。
必要の範囲が本当におかしいんだよなあ……
リュシエラが横で小さく言う。
国境線を消すのは、吸血種の感覚でもかなり大きい方です
参考にならない慰めだな、それ
慰めてはいませんので
蒼汰は少しだけ天井を見た。
もう怒るより先に、呆れが先へ来る。
応接室の扉が開く。
今度の部屋の空気は、紙と土の匂いがした。
紙だけではない。
乾いた土、石粉、インク、革袋、古い木箱。
まるで測量小屋か記録庫の一角を、そのまま葬儀場へ運び込んだみたいな匂いだった。
中央に立っていたのは、女だった。
年は六十代前半だろうか。
痩せていて、背は高い。
黒の礼装の上から灰青色の長い外套を羽織っているが、その仕立ては軍人でも貴族でもなく、明らかに実務者のものだった。袖口は擦れていて、指先にはインク染みが薄く残っている。髪は白に近い灰色で、一本に束ねられていた。右目に細い単眼鏡をかけているせいか、視線が妙に鋭い。
後ろには若い従者が二人。
ひとりが細長い木箱を、もうひとりが大きな筒と、黒布に包まれた平たい板を持っている。
冬城が静かに告げる。
旧ベルム=エルド境界連署、首席地図師、イザベル・ハルデン様です
守様に、魔法の武力行使によって国境線を一本消されたご当人でもあります
イザベルは蒼汰を見て、深く礼をした。
軍人の礼でも、貴族の礼でもない。
長く記録と事実に仕えてきた人間が、個人へ払う最大限の礼だった。
奏多蒼汰殿
声は低く、乾いている。
だが冷たくはなかった。
私はイザベル・ハルデン
三十七年かけて引いた国境線を、守殿に一朝で消された地図師です
蒼汰はしばらく黙ってから言った。
その自己紹介、だいぶ重いですね
はい
ですので、最初に申し上げました
守が頭の奥でぼそりと言う。
イザベルは怒ると長い
先に結論を言わせた方がいい
先に言われてる時点で十分長いんだよ
冬城に促され、蒼汰は椅子へ座る。
イザベルも向かいへ腰を下ろした。
座り方まで無駄がない。机上の地図がずれていたら、すぐ直しそうな座り方だった。
イザベルは、まず筒ではなく黒布の包みを受け取った。
机の上へ置き、ゆっくりと布をほどく。
現れたのは、一枚の古い地図だった。
大きい。
羊皮紙ではなく、何か繊維を重ねた丈夫な素材に描かれている。山脈、河川、砦、古道、村落、鉱脈、関所。緻密すぎるほど緻密だ。
そして中央を斜めに走るはずだった一本の国境線だけが、途中で途切れていた。
いや、途切れているのではない。
消えている。
そこだけ、紙そのものが白く焼かれたみたいに抜けているのだ。
墨を削った跡ではない。魔法か熱か、何かもっと直接的な力で「線だけが存在できなくなった」みたいな痕だった。
蒼汰は息を呑んだ。
これが……
はい
消された線です
イザベルの指先が、白い断裂をなぞる。
旧ベルム=エルド共同係争地、霧裂盆地境界線
両国の間に百二十年残った紛争線でした
蒼汰は地図を見たまま尋ねる。
……何があったんですか
イザベルは一拍だけ黙った。
記憶の順番を整える人の沈黙だった。
盆地の底には、魔力脈がありました
浅く、広く、誰でも使える
それゆえ農地に向き、水路に向き、簡易結界にも向く
だから両国とも欲しがった
そして百二十年、線だけが引かれ続けた
イザベルの声は静かだった。
だがそこに積もった年月の重さは、蒼汰にも分かる。
戦争にはならなかったんですか
なりきれなかった、という方が正しいでしょう
彼女は淡々と答える。
大戦争を起こすほどの価値ではない
しかし譲るには近すぎる
そこで両国は、線を細かく引き直し続けた
測り、揉め、書き換え、また揉める
地図師と測量官と魔導工兵だけが老いていく類の紛争です
守が頭の奥で言う。
一番たちが悪い
分かるのか
ああ
人が少しずつ死ぬ
でも誰も大きな戦争だと認識しない
蒼汰は黙った。
その言い方は、妙に重かった。
イザベルは続ける。
守殿が現れたのは、その最後の年です
本来は両国間の中立監査役という、曖昧極まりない立場で呼ばれました
私は正直、最初から嫌っていました
蒼汰は少しだけ眉を上げる。
はっきり言うんですね
事実ですので
イザベルは即答した。
外から来た男が、地図と境界の積み上げを理解できるはずがない
しかも守殿は、最初の会議で地図を見てこう言いました
この線、もう人の都合じゃなくて意地で残してますね、と
蒼汰は思わず地図を見下ろした。
……言いそう
はい
ひどく言いそうでした
リュシエラが横で小さく言う。
守殿は、線そのものへ執着している匂いを嫌いますので
匂いで分かるのか
だいたいは
参考になりそうでならないな……
イザベルは筒の方を受け取り、中からもう一枚の図面を取り出した。
今度は簡易な軍用地図らしい。
砦位置と結界塔、魔導砲台の印が書き込まれている。
守殿が来た年、霧裂盆地の両端に新型の魔導砲が配備されました
互いに牽制のためです
ですが守殿は、それを見て会議の席を立ちました
そして二時間後、盆地の中央へ降りました
蒼汰は嫌な予感しかしなかった。
……止めなかったんですか
止めました
両軍が
両国の監理官が
私も止めました
イザベルの単眼鏡越しの目が、少しだけ遠くを見る。
守殿は聞きませんでした
線が人を食い始めたなら、線を残す方が武力だ
そう言って、中央の境界石へ向かった
境界石。
蒼汰の背中に、少し冷たいものが走る。
たぶんそれは、百年以上の争いの象徴みたいなものだったのだろう。
守が頭の奥で、低く言う。
あの石は駄目だった
あそこを残す限り、両国は永遠に引き返せなかった
だから消したのか
ああ
簡単に言うなよ……
イザベルは、そこで初めて少しだけ表情を崩した。
怒りとも呆れともつかない、長く付き合わされた人間の顔だった。
守殿は境界石の前で、最後に一度だけ両国へ確認しました
この線が欲しいのか
この土地で生きてる人間の朝が欲しいのか、と
蒼汰はその言葉を胸の中で繰り返す。
まただ。
父は、線や制度や誓いや形式の先にある「朝」を聞いてくる。
誰も答えられなかったんですか
答えました
両軍とも、自国の権利だと
自国の正当性だと
だから守殿は、納得したような顔で頷いて
それから魔法を使いました
イザベルの声が、そこだけ少し沈んだ。
大規模な地形魔法でした
攻撃ではない
しかし明確に武力行使です
蒼汰は思わず身を乗り出す。
何したんですか
盆地の中央に走っていた魔力脈を、地表へ引き上げたのです
イザベルの指が、白く消えた国境線をなぞる。
その瞬間、境界石列は全部吹き飛び
中央の地盤は沈み
霧裂盆地は、半日で湖になった
蒼汰は数秒、完全に黙った。
……は?
線の争点そのものが消えたのです
湖上の水利は共同管理
両端の砦は撤去
境界線は、湖岸線を共有境界とする形へ改定
結果として、百二十年の紛争線は消えました
守が頭の奥で補足する。
戦争になる前に、争点そのものを地形ごと変えた
そんなこと、やっていいのかよ
よくはない
守は即答した。
だが、そのままなら五年以内に本戦だった
イザベルは静かに続ける。
私は怒りました
当然です
三十七年の測量記録、百二十年分の補線、境界査定の積み上げ、その中心線が一日で消えたのですから
蒼汰は思わず聞く。
でも、礼を言いに来た
はい
イザベルは一切迷わず頷いた。
国境線は消えました
ですが、その年から両国の死者はほぼゼロになった
湖は争点ではなく共有資源になり
両国の市場がつながり
国境警備兵は半分へ減った
私の地図は壊されました
だが、私が守りたかった人命の方は守られた
蒼汰は地図の白い痕を見た。
荒々しい。
乱暴だ。
でも、そこから先が静かになったのなら、父のやり方は間違いきれないのかもしれない。
イザベルは細長い木箱を開いた。
中に入っていたのは、羅針儀だった。
銀と青銅でできた古い測量用のもので、蓋裏には細かな目盛りと、境界連署の紋章が刻まれている。針はまだなめらかに動いた。
これは、霧裂盆地の改定地図を最初に引く時に使った主測羅針儀です
本来なら連署の資料館に納めるべきものですが、本日はお持ちしました
そんな大事なものを
はい
大事なものです
イザベルは静かに答える。
守殿は境界を愛した人ではありません
ですが、人が無意味に死ぬ境界を嫌った
ですから勲章より、こちらの方が近い
さらに、彼女は黒布の平板を開いた。
中には、白く消えた線の入った原地図の複写と、もう一枚、改定後の湖を含む新地図が並んでいた。
こちらが、守殿に消された線
こちらが、そのあと私が引き直した新しい線です
蒼汰は二枚を見比べる。
古い地図の線は細く険しい。
新しい地図は湖の輪郭が中央に大きく入り、線そのものが柔らかくなっている。
イザベルの声は乾いていたが、その奥に確かな感情があった。
私は今でも、守殿のやり方を美しいとは思いません
乱暴です
記録官泣かせです
地図師としては、できれば二度と会いたくない手法でした
蒼汰は少しだけ口元を緩めた。
でも?
でも、あの一日でしか消せなかった線があったことも認めます
イザベルは一度、棺の方角へ視線を送った。
守殿は、線を引く人ではなく
引かれた線のせいで死ぬ人間を見ていた
だから私は、怒りながらも礼を言いに来ました
蒼汰は、父の残した私信や旗や道具の並びへ目を落とした。
兵站。
商隊。
勲章。
宮旗。
聖灯。
学監旗。
そして今度は、消された国境線。
父は、いろんな世界のいろんな場所で、同じようなことをしていたのだろう。
形式や線や制度の向こう側で、ちゃんと生きられるかどうかばかり見ていた。
イザベルは最後に、封書を一通差し出した。
これは、旧ベルム=エルド共同連署の現共同代表からの書簡です
本式の日、国旗ではなく、境界連署旗を半旗にする旨が記されています
また、霧裂湖畔の旧境界石跡地では、明朝、哨戒兵ではなく測量官たちが守殿のいた方角へ最敬礼を行います
蒼汰は受け取った。
国旗ではなく、境界連署旗。
哨戒兵ではなく、測量官。
それが妙に、父への礼としてしっくりくるのが悔しかった。
守
頭の奥で呼ぶ。
何だ
あんた、本当に国境線消したのか
ああ
その返事が軽すぎるんだよ
重く言っても事実は変わらん
蒼汰は深く息を吐いた。
イザベルは、そこでほんの少しだけ目元を緩めた。
守殿は、たぶんご自宅では
地図より先に冷蔵庫の中身を気にされたのでしょうね
蒼汰は思わず笑いそうになった。
……なんで分かるんですか
線より先に、食えるかどうかを聞く方でしたから
それは、たしかに
イザベルは静かに立ち上がる。
礼は最初より少しだけ短かった。
もう必要なことは全部言い終えた人の礼だった。
奏多蒼汰殿
私は守殿に、三十七年の地図を壊され
ようやく一枚の正しい地図を引けた者です
ですから礼を申し上げます
蒼汰は、真鍮の羅針儀と二枚の地図を見てから、ゆっくり言った。
……預かります
ありがとうございます
イザベルは一礼して去る。
扉が閉まる。
応接室に残るのは、また新しい沈黙だった。
机の上には、羅針儀。
消えた線の地図。
引き直された線の地図。
そして境界連署の書簡。
蒼汰は白い痕の残る地図を見つめる。
父さん
何だ
あんたさ
本当に線とか制度とか国とかの向こうにいる人間ばっか見てたんだな
守は少しだけ黙った。
それから低く返す。
向こうにいる、というより
たいていそっちの方が先に死ぬからな
蒼汰は返事をしなかった。
冬城が静かに近づく。
かなりお疲れかと
うん
でも、ちょっとだけ
父さんのやってたことの基準が見えてきた
どういう基準でしょう
蒼汰は羅針儀へ指先で触れる。
引くかじゃなくて
残していい線かどうか、見てるんだろうなって
冬城が小さく頷く。
……ええ
守様はだいたい、そこを見ます
リュシエラが横で静かに言う。
境界そのものを嫌ったのではなく
死に方の決まる境界を嫌ったのでしょうね
蒼汰はその言葉を胸の中で反芻した。
たぶんそうなのだ。
父は秩序を壊したかったのではない。
壊れた秩序のまま人が死んでいくのを嫌った。
冬城が机上の品を整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
戻りたい
蒼汰は新しく増えた羅針儀と地図を抱え直した。
重い。
でもやっぱり、置いていけない。
扉へ向かいながら、何となく聞く。
次は?
冬城は少しだけ考えた。
守様に、一つの公用語を壊された通訳官の方です
蒼汰はその場で止まった。
……今度は何だよそれ
守が頭の奥で小さく言う。
壊したんじゃない
通じるようにした
もうその言い方信用ならないんだよ
蒼汰は深く息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、世界の線だけでなく、言葉の境目まで勝手にいじった痕を並べていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。
なろう読者の皆さまの「いいね」こそが一番の執筆燃料です。
↓↓↓ 応援、ここでお待ちしています ↓↓↓




