第17話 王太子教育を壊された男
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は廊下の窓へ映る自分をちらりと見た。
兵站局の黒箱。
砂海回廊の商隊旗。
白銀獅子大勲章と削られた勲札。
翠嶺王家の宮旗。
裂かれた婚約書類。
銀の燈と祭壇布の一片。
もう遺族というより、どこかの保管係だ。
しかも中身は全部、父が受け取らなかったものか、父が壊したものか、父が使い込んだものばかり。
蒼汰は小さく息を吐いた。
父さんさ
何だ
あんた、外で何やってたんだよ本当に
守は少しだけ間を置いた。
必要だと思ったことを
その必要の範囲が広すぎるんだって
それは最近よく言われるな
そりゃそうだろ
冬城が一歩先で振り返る。
次の方は、少しだけ特殊です
もうだいたい全部特殊なんだけど
その中でも、蒼汰様が父親としての守様を理解しやすい部類かと
王太子教育を壊したって、全然理解しやすそうに聞こえないんだけど
冬城は珍しく少し考えてから言った。
守様が、単に王太子殿下を甘やかしたのではない
という意味では、比較的分かりやすいかと
守が頭の奥で低く言う。
あれは教育を壊したんじゃない
矯正しただけだ
もっと不穏になったぞ
応接室の前へ着く。
冬城が扉を開けた。
今度の部屋の空気は、妙に静かだった。
整っているのに、軍のような硬さはない。祈りの部屋のような清さとも違う。
紙と木とインクの匂いがする。
長く閉じた書斎を開けたときみたいな匂いだった。
部屋の中央に立っていたのは、男だった。
年は五十代後半か、六十に近いかもしれない。
長身で痩せている。黒の礼装を着ているが、仕立ては軍装でも宮廷服でもなく、教師や文官のそれに近い。銀髪はきっちりと撫でつけられ、眼鏡の縁は細い。右手には杖を持っているが、威圧のためではなく、長く使い込んだ癖の一部のように見えた。
その後ろには従者が一人。
持っているのは、古い革表紙の分厚い書物と、細長い箱。
冬城が告げる。
旧アルトライン王国学監府、王太子教育主席監督官、レオポルト・フェルナー卿です
守様に、一国の王太子教育を壊されたご当人でもあります
レオポルトは、蒼汰を見て、深く礼をした。
その礼は軍人の敬礼ではない。だが、教師が最上級の敬意を示すならこうするのだろうと思わせる、静かな重みがあった。
奏多蒼汰殿
声は低く、よく整っていた。
一言一言が、紙へ書かれる前提で話されているみたいな声だ。
私はレオポルト・フェルナー
王太子教育を二十七年司り
その集大成を、守殿に三か月で台無しにされた者です
蒼汰は黙った。
少ししてから、ようやく言う。
それ、礼を言いに来た人の自己紹介ですか
はい
最も正確ですので
まただ。
父の周りには、要点の置き方がおかしい人が多すぎる。
守が頭の奥でぼそりと言う。
フェルナーは真面目すぎる
悪いやつじゃない
聞く限り、だいぶ被害者っぽいけど
半分はそうだな
半分なんだな
冬城に促され、蒼汰は椅子へ座った。
レオポルトも向かいへ腰を下ろす。
その動作は無駄がない。老いてもなお、授業の開始時間ぴったりに席へ着く人の座り方だった。
レオポルトは従者から革表紙の書物を受け取り、机上へ置いた。
私は旧アルトライン王国で、王太子ユリウス殿下の教育を任されておりました
統治学、軍略、修辞、儀礼、法、歴史、語学、信仰、財務
王たる者に必要とされる一切を、順序立てて教える役目です
蒼汰は小さく頷く。
それはまあ、そうだろうと思う。
ユリウス殿下は、非常に優秀な方でした
記憶力、理解力、礼法、忍耐
いずれも高水準で、誰もが良き王になると信じていた
レオポルトはそこで一度だけ言葉を切った。
ただし、完璧すぎた
蒼汰は少しだけ眉を寄せた。
完璧すぎると駄目なんですか
王になるには、時に駄目でしょう
レオポルトの声は、冷たいというより乾いていた。
何度も考えた末に、ようやく認めた結論の響きがある。
殿下は、期待される答えを常に正しく返されました
怒るべきところで怒り
赦すべきところで赦し
民に見せるべき顔を正確に作れた
あまりに正確で、我々は長く、それを美徳だと思っていた
蒼汰は少しだけ、嫌な予感を覚えた。
守が来たんですか
はい
レオポルトは迷いなく答える。
最悪のタイミングで
守が頭の奥で反論する。
最良だった
あれ以上遅いと固まっていた
何がだよ
蒼汰が心で返すと、守は少しだけ黙った。
レオポルトは続けた。
当時、王都では内乱寸前の政治危機がありました
先王の病が長引き、王太子殿下へ実務の一部が移り始めていた
その時期に、守殿は外交顧問とも救援顧問ともつかない立場で出入りしていたのです
またよく分からない肩書だな
蒼汰がぼそりと漏らすと、レオポルトはわずかに頷いた。
まったくです
しかも本人は、そんなものは知らん、と言いながら王城の台所へ先に入るような方でした
父だなあ、と蒼汰は思った。
ある日、王太子殿下の模擬裁定が行われました
農地争い、徴税、兵站再編、宗派間の仲裁
複数案件を短時間で処理する訓練です
殿下は完璧でした
誰も反論できないほどに
レオポルトの指先が、机上の革書物へ触れる。
守殿だけが、終わった直後に言いました
こいつ、まだ一回も腹を立ててないな、と
蒼汰は目を瞬かせた。
腹を立てる?
はい
私は意味が分かりませんでした
裁定に私情を挟まなかったのですから、むしろ優秀だとすら思った
ですが守殿は、まるで納得しない
守が頭の奥で言う。
怒るべき時に怒れないやつは、結局どこかで人間を数として処理する
蒼汰は少しだけ黙る。
その言葉は妙に重かった。
レオポルトは声を落とした。
守殿は、その日の午後、王太子殿下の予定を全部壊しました
やっぱり壊してるじゃないですか
蒼汰が思わず言うと、レオポルトの目元がほんの少しだけ動いた。
笑っているのか、呆れているのか分からない。
はい
比喩ではなく、実際に壊しました
何したんですか
まず、教育予定表を燃やしました
蒼汰は数秒、止まった。
……燃やした?
暖炉で
守が頭の奥で即座に言う。
必要な一枚だけ残した
そこじゃないだろ!
蒼汰は心の中で叫ぶ。
だがレオポルトは淡々と続ける。
次に殿下を城下へ連れ出しました
護衛も減らし
行き先も告げず
市場、工房、外れの施療院、徴税で揉めている農村、兵の靴修理場
そこを一日で回った
王太子をそんな雑に連れ出すなよ……
私も同意します
当時の私は卒倒しかけました
レオポルトの声に、わずかに本音が混じった。
ですが、その日の守殿は聞きませんでした
王になる奴が、自分で値切られたことも、舌打ちされたことも、靴が破れて困る感覚も知らずにどうする、と
蒼汰は父の言いそうな声が頭に浮かんで、思わず額を押さえた。
さらに守殿は
施療院で、空腹の子どもに出す粥を先に殿下へ食べさせました
塩が薄いと言った瞬間、そこで初めて怒鳴りました
レオポルトの目が少しだけ遠くを見る。
この薄さで腹を立てるなら、お前はまだ王になれる
だが、何も感じないまま飲み込むなら、お前は数字の上手い死人になる
そう言ったのです
応接室が、少しだけ静かになる。
蒼汰は、その言葉を胸の中で反芻した。
数字の上手い死人。
父が言いそうで、ひどくて、でも忘れられない言葉だ。
王太子殿下は、どうしたんですか
怒りました
レオポルトは即答した。
初めて、教育係でもない相手に
しかも王族としてではなく、一人の若者として怒った
無礼だ、勝手だ、何も知らずに踏み込んでくるな、と
それで?
守殿は、ようやく一回生きた顔をしたな、と笑いました
蒼汰は思わず目を閉じた。
ひどい。
でも、父らしい。
本当にひどく父らしい。
レオポルトの指先が、革書物の表紙を撫でる。
その日以降、殿下の教育は大きく変わりました
予定通りの正答を返す訓練ではなく
なぜ怒るのか、何に耐えられないのか、自分の言葉で語らせる訓練が増えた
私が二十七年かけて積み上げた整然さを
守殿は三か月で壊したのです
三か月で……
はい
見事に
レオポルトは、そこで初めてほんの少しだけ笑った。
そして、おかげで殿下は王になれました
蒼汰は顔を上げた。
なれた?
即位後のユリウス陛下は、優しい王ではありませんでした
温厚でもない
ですが、怒るべき時に怒り
譲れない線を自分の言葉で示せる方になった
結果として、旧アルトライン王国は分裂を免れました
レオポルトは木箱ではなく、その革書物を蒼汰の前へ少し押した。
こちらは、当時の王太子教育日誌です
正確には、そのうち守殿が書き込みを入れた期間の複写
蒼汰は思わず聞き返す。
あの人、教育日誌に書き込んだんですか
はい
勝手に
レオポルトは静かに答えた。
最初は赤字で
途中から余白に
最後は私の筆記欄を奪って
守が頭の奥でぼそりと言う。
余白が一番効率よかった
聞いてない
レオポルトが頁を開く。
整った文字列の中に、明らかに異質な走り書きが混じっていた。
蒼汰は一目で分かった。
守の字だ。
礼法 優
法解釈 優
語学 優
だが全部、人に嫌われない答えへ寄せすぎ
一回、自分が嫌われる前提で考えさせろ
別の頁には、こうある。
殿下は賢い
だが空腹で判断させたことがない
昼を抜け
ただし水は飲ませろ
倒れられると面倒
蒼汰はとうとう、少しだけ吹き出した。
何だよこれ……
レオポルトの目が少し和らぐ。
ええ
当時の私も、ほぼ同じことを思いました
さらに別頁。
王族教育は綺麗すぎる
市場で値切らせろ
靴屋で待たせろ
理不尽なやつを一人は見せろ
正しいだけでは王に足りん
蒼汰は、その頁から目が離せなかった。
知らない父だ。
でも、何となく分かる。
父はたぶん、立場や格式の前に、人が生きる時の摩擦みたいなものを重く見ている。
レオポルトは細長い箱を開いた。
中に入っていたのは、古い指揮棒のようなものだった。
木製で、先端だけに王家の小さな紋章が入っている。儀礼用というより、教師が黒板を指すための棒に近い。だが握りの部分には手の脂が染みていて、何十年も使われてきたことが分かった。
これは、学監府の主席監督棒です
本来は後任へ渡すものですが
本日は、こちらをお持ちしました
蒼汰は少し驚いた。
そんな大事なものを
はい
大事なものです
レオポルトは頷いた。
守殿は王の冠を望まなかった
勲章も好まなかった
ですが、もし守殿が受け取るとすれば、おそらくこちらの方だったでしょう
どうして
守殿は、王を飾ることには興味がありませんでした
ですが、王がどう育つかには、異様な執着を見せた
ですから、王位の象徴より、教育の道具の方が近いのです
蒼汰は、指揮棒を見た。
華やかではない。
勲章のような分かりやすい重みもない。
でも、確かに父には似合う気がした。
レオポルトはさらに、薄い封書を一通出した。
こちらは、現国王ユリウス陛下の私信です
弔辞ではなく、ご子息宛てですので先に
蒼汰は受け取る。
封はされていない。
開くと、中は短い便箋だった。
守へ礼を言う機会を、私は戴冠の日にも逃した。
だから代わりに、その息子へ言う。
あの男は私の王太子教育を壊した。
だがそのおかげで、私は王の顔だけではなく、怒る顔を持てた。
国を継がせたのではなく、人として立たせた借りがある。
ゆえに我が国は、本式の日、王城学監塔の旗を半旗とする。
王旗ではない。
学びの旗で送る。
それが、あの男へのいちばん正しい礼だ。
蒼汰は便箋を見つめたまま、しばらく動けなかった。
王旗ではなく、学びの旗。
そこまで含めて、父への礼になっている。
レオポルトが静かに言う。
守殿は、私の仕事を壊しました
ですが同時に、私の教育を完成させた
ですから、私は被害者であり、恩人を失った者でもあります
蒼汰は少し考えてから、正直に言った。
……その言い方、分かる気がします
レオポルトは初めて、はっきりと目元を和らげた。
それは良かった
そして、深く頭を下げる。
奏多蒼汰殿
私は守殿に、自分の職を壊される痛みと
その先にある正しさを教わりました
それゆえ、礼を申し上げます
蒼汰はゆっくり頷いた。
……預かります
ありがとうございます
レオポルトは指揮棒と教育日誌の複写を残し、静かに立ち上がった。
去り際、ほんの少しだけ振り返る。
守殿は、たぶん家では説教を長くしなかったのでしょう
蒼汰は目を瞬かせる。
何で分かるんですか
人を育てる言葉と、人に嫌われたくない言葉を、あの方は最後まで混同していたからです
蒼汰は返事ができなかった。
レオポルトは続ける。
ですから、ご子息へだけは、教育者の顔を向けきれなかったのだと思います
そこだけは、少しだけ
王太子より難しかったのでしょう
その一言だけ残して、彼は去っていった。
扉が閉まる。
応接室に静かな沈黙が戻る。
机の上には、新たに学監棒、教育日誌の複写、国王の私信が加わっていた。
蒼汰はしばらく、その筆跡の混ざった複写を見つめる。
父さん
何だ
あんたさ
王太子までいじってたのか
矯正だと言っただろう
あんたの矯正、規模がおかしいんだよ
必要な時はな
必要が多いんだってば
守は少しだけ黙った。
そして珍しく、低く言う。
……多かったかもしれん
蒼汰は、その返事に少しだけ力を抜かれた。
完全に開き直るかと思っていたからだ。
冬城が静かに近づいてくる。
かなりお疲れかと
うん
でも、ちょっと慣れてきた自分が嫌だ
適応が早いのは、悪いことではありません
父さん似ってことだろ、それ
否定は難しいかと
蒼汰は小さく呻いた。
でもさ
はい
何か、ちょっとだけ分かる
何がでしょう
蒼汰は教育日誌の余白に残る守の字を見た。
あの人、偉いとかすごいとかより先に
ちゃんと立てるかどうか、そこばっか見てるんだな
冬城はほんの少しだけ目を細めた。
……ええ
守様は、だいたいそこを見ます
だから王太子でも、商人でも、聖職者でも
同じぐらいの距離で面倒くさいこと言うんだ
はい
そこも含めて、守様かと
蒼汰は深く息を吐いた。
怒るに怒れない。
でも褒めきれない。
本当に面倒くさい父だ。
冬城が机上の品々を丁寧に整える。
少し棺のおそばへ戻られますか
うん
それは戻りたい
蒼汰は新しく増えた学監棒と複写を抱え直す。
もう腕の中がいっぱいだ。
それでも不思議と、降ろしたいとは思わなかった。
扉へ向かいながら、ふと思い出したように聞く。
次は?
冬城はほんの少しだけ間を置いた。
それから、落ち着いた声で答える。
最高位の吸血公爵家より
当主代行の姫君が来られています
蒼汰は数秒、黙った。
……父さん
何だ
今度は何やった
守は珍しく、答えまで少し時間がかかった。
……盟約だ
嫌な予感しかしないんだけど
私も、少しだけそう思う
少しだけで済む話かよ
冬城が珍しく視線を逸らした。
たぶん、次は本当に少し毛色が違うのだ。
蒼汰は応接室の扉を出ながら、小さく息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからもなお、人の人生の分岐点を抱えたまま列を作らせていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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