第16話 三度救われ、一度も礼を言えなかった聖職者
棺のある広間へ戻る前に、蒼汰は一度だけ応接室の扉の前で立ち止まった。
兵站局の黒箱。
砂海回廊の商隊旗。
白銀獅子大勲章。
削られた勲札。
翠嶺王家の宮旗。
裂かれた婚約書類。
ほんの短い間に受け取ったものとしては、あまりにも重すぎる。
物の重さではない。
それぞれに、父が別の世界で別の顔を持っていた証拠が詰まっている。
守が頭の奥でぼそりと言った。
少し休むか
珍しいな
気遣うんだ
たまにはな
蒼汰は小さく息を吐いた。
休んでも次が消えるわけじゃないだろ
消えん
だよな
冬城が静かに口を挟む。
次の方は、比較的、言葉がまっすぐです
その比較的、もう信用してないんだけど
それでも、今夜の中ではかなりましな方かと
守が低く足す。
あれは……たぶん、本当に礼を言いに来るだけだ
蒼汰は少しだけ眉を上げた。
礼を言いに来るだけ、って
それが一番重いやつじゃないの
否定はしない
だったら同じだろ
そうかもしれん
父はやっぱり父だった。
話しているだけで、少しだけ普通に戻る。
戻るのが妙に悔しい。
冬城が扉を開ける。
応接室の空気は、またしても今までと違っていた。
香の匂いがする。
葬儀場の線香の香りとは違う。もっと澄んでいて、乾いた草花と薄い樹脂が混ざったような、静かな祈りの匂いだった。
部屋に入った瞬間、声を潜めたくなるような空気がある。
中央に立っていたのは、一人の女だった。
年は三十代前半だろうか。
長い金茶の髪を低くまとめ、喪に服した黒の長衣を着ている。だがその衣は修道服とも法衣とも少し違う。胸元にだけ銀糸の細い刺繍が入り、肩から垂れる短い布には、白い灯火のような紋が織り込まれていた。
顔立ちはやわらかい。
だが表情は静かで、ひどくよく耐える人間の顔をしていた。
その後ろに立つ従者はない。
代わりに、彼女自身が両手で細長い包みと、小さな木箱を抱えていた。
冬城が告げる。
燈枝聖堂連盟、巡礼監督司祭、ミレイア・ノル・フェリス様です
守様に三度命を救われ、一度も正式な謝意を受け取っていただけなかったご当人でもあります
蒼汰は、少しだけ目を瞬いた。
一度も、という言葉が妙に引っかかったからだ。
ミレイアは深く頭を下げた。
礼は静かで、けれど今まで会った誰よりも長かった。
奏多蒼汰様
声は穏やかだった。
よく通るのに、押しつけがましさがない。
私はミレイア・ノル・フェリス
守殿へ、本来ならば三度申し上げるべき感謝を、いまだ一度も届けられなかった者です
ですから今夜は、ご子息へ先にお伝えしたく参りました
蒼汰はぎこちなく頭を下げ返す。
……奏多蒼汰です
それから少し迷って、結局一番素朴なことを聞いてしまった。
三回も助けられたのに
一回も礼を言えなかったんですか
ミレイアの目元が、ほんの少しだけやわらいだ。
はい
一度目は、礼を言う前に消えられました
二度目は、礼を言った瞬間に話を逸らされました
三度目は、礼を言おうとした私が先に叱られました
蒼汰は、そこで少しだけ天を仰ぎたくなった。
ああ、父だ。
ものすごく父だ。
守が頭の奥でぼそりと言う。
二度目は礼を受けた
ただ、長くて面倒だったから途中で切っただけだ
それを世間では受けてないって言うんだよ
世間は厳しいな
あんたが緩すぎるんだよ
冬城に勧められ、蒼汰は椅子へ座る。
ミレイアも向かいへ腰を下ろしたが、その姿勢はどこまでも静かだった。
王族のような訓練された美しさとは違う。
祈る時に背を伸ばす習慣が、そのまま残っている感じだ。
ミレイアが木箱をそっと机上へ置く。
最初にお話しするのは、一度目です
そう言って、彼女は自分の胸元へ指を当てた。
そこにあるはずの何かを確かめるような仕草だった。
私は当時、まだ司祭ではありませんでした
巡礼路の下位案内役で、辺境の小さな燈堂を回っていた頃です
ある年の冬、北の巡礼路で雪崩がありました
私はそこへ、避難民のための簡易祭壇と薬草を届ける任を受けていた
蒼汰は黙って聞く。
雪崩、という言葉だけで、白い景色が頭の奥に浮かぶ。
雪崩そのものでは死にませんでした
問題は、そのあとでした
避難路が埋まり、燈堂も半壊し、負傷者と子どもが動けなくなった
私は祈ることしかできなかった
ミレイアは少しだけ目を伏せた。
そのとき、守殿が来たのです
またか、と思う。
でも今さら驚きは薄い。
父はそういう時に現れる人なのだと、少しずつ学習してきてしまっている。
どうやって来たんですか
蒼汰が尋ねると、ミレイアは静かに答えた。
屋根の上から
蒼汰は数秒、黙った。
……窓よりはましか
守が頭の奥で言う。
あの時は屋根の方が早かった
早さの問題なのか
大事だろう
だろうな、と少しだけ思ってしまうのが悔しい。
ミレイアは話を続ける。
私は最初、奇跡か何かだと思いました
雪の中、真っ先に崩れた燈堂の梁へ飛び移って
中にいた子どもを二人抱えて下ろして
次に入口ではなく、暖炉側の壁を壊したからです
なんで壁
蒼汰が問うと、ミレイアは少しだけ口元をゆるめた。
入口を掘るより、その方が早い
それに暖炉の余熱が残っている側から空気を通せば、まだ持つ
守殿はそう仰いました
蒼汰は目を閉じたくなった。
言いそうすぎる。
そのあと守殿は、燈堂の祭具箱を勝手にひっくり返して
灯油、布、薬草、供物の乾燥果実を分け
これは食うな、これは煮ろ、これは燃やすな、と全部指示しました
ひどいな……
はい
当時の私はひどい人だと思いました
ミレイアの声は穏やかだった。
怒っているわけではない。
ただ、当時の感想として正しいのだろう。
ですが、その三時間後には
負傷者全員に温かい湯が回り、灯りが確保され、雪の外へ道筋が一本ついていました
私が礼を言おうとした時には、守殿はもういなかった
蒼汰は小さく息を吐いた。
それが一回目か
はい
二回目は、流行病の隔離堂でした
病気もやるのか、あの人
蒼汰がぼそりと呟くと、守が頭の奥で言う。
やるというか、ほっとけなかった
ミレイアは続けた。
隔離堂で水系統が壊れ、井戸が使えなくなった時
守殿は聖職者より先に水桶を担ぎました
しかも、祈祷の順番が悪い、隔離線の引き方が甘い、煮沸の時間が短い、と
私を含めて全員を叱りました
蒼汰は思わず顔を覆いたくなる。
うわあ……
ですが、あの叱責のおかげで死者数は半分以下で止まりました
そこで私は、きちんと礼を申し上げたのです
ありがとうございます、と
そして?
蒼汰が聞くと、ミレイアはほんの少しだけ困った顔をした。
守殿は、なら次からは祈る前に手を洗え、と仰って
そのまま薬草倉庫の在庫計算へ行かれました
蒼汰は、少しだけ笑いそうになった。
ひどいなそれ
はい
本当に
けれどミレイアの目は笑っていた。
たぶんそのひどさも含めて、もう大事な記憶なのだ。
そして三度目。
ミレイアは、ここでほんの少しだけ声を落とした。
三度目は、私自身の命です
部屋の空気が少し変わる。
さっきまでの、父の妙な現実感のある逸話とは違う重さが入る。
七年前、巡礼街道の南端で、燈堂同士の教義対立が武装衝突に変わりかけたことがありました
私は調停使の補佐として入ったのですが、甘かった
言葉で止められる段階を過ぎていたのです
蒼汰は黙って聞く。
守の気配も、いまは口を挟まない。
矢が飛びました
誰を狙ったものかは、最後まで分かりません
ただ、私の方へ来た
ああ、死ぬんだと思いました
ミレイアの手が、机上でわずかに重なる。
指先だけで祈る人の手だ。
その時、守殿が間に入りました
間に入って、矢を折った
折って、そのまま私にこう言ったのです
祈るのはあとだ、まず下がれ、と
蒼汰は目を瞬いた。
矢を、折った?
はい
とても嫌そうな顔で
守が頭の奥で小さく言う。
嫌だった
痛かったし
そこなのかよ
蒼汰は半ば呆れて返す。
でも同時に、少しだけ救われてもいた。
あまりにも父らしすぎて、英雄譚として消化しきれないからだ。
ミレイアは続けた。
そのあと守殿は、双方の代表をひとりずつ殴りました
蒼汰は思わず固まった。
はい?
等しく一発ずつです
そのうえで、祈りも教義も人が死んだあとでは遅い、と仰った
ひどく乱暴でした
ですが、その場は止まりました
冬城が壁際で静かに補足する。
記録上も、その件は守様個人の強制介入として処理されています
ただし死者は出ていません
処理って……
蒼汰は小さく呻いた。
父は本当に、あらゆる方面で後始末込みの厄介者だったのだろう。
ミレイアは木箱を開けた。
中に入っていたのは、小さな銀の燈だった。
手のひらに乗るくらいの大きさで、揺らめく炎を象った形に透かし彫りがしてある。古びてはいるが、磨かれている。使われ続けてきたのだと分かる。
これは、燈枝聖堂連盟の巡礼監督章です
本来は司祭叙任の際、私個人へ渡されたものですが
今日はこちらをお持ちしました
蒼汰は目を上げた。
個人の章を?
はい
ミレイアは迷わなかった。
守殿は、公の顕彰も大きな礼も嫌われました
ですから連盟章や聖印旗ではなく
私個人の側から、いちばん長く持っていたものをお渡しするのが正しいと思いました
蒼汰は銀の燈を見つめた。
小さい。
勲章よりもずっと小さい。
でも、そこへ三度の救いが重なっている気がした。
さらにミレイアは、細長い包みをほどく。
現れたのは、白い布だった。
旗、というには細い。だが祭壇の脇へ垂らす奉納布のように見える。端には金糸で、小さな灯火の列が刺繍されていた。
これは、南巡礼路第三燈堂の祭壇布の一部です
雪崩のあと、半壊した燈堂を立て直した際、古い布を切り分けて残しました
本日は、その一片をお持ちしました
蒼汰は思わず聞いた。
それも、大事なものじゃ
はい
大事なものです
ミレイアの声は揺らがない。
ですから、お持ちしました
本式の日、連盟中央大聖堂では、主塔の聖灯を半刻だけ落とします
完全に消すことはしません
守殿が、灯は消すな、と三度も言った方でしたので
蒼汰は小さく息を呑んだ。
灯を落とす。
半旗とは違う、聖堂側の弔意だ。
父のために、祈りの側の灯りが一時だけ弱まる。
守
蒼汰が心の中で呼ぶ。
何だ
あんた、聖職者とも普通に揉めてたんだな
普通ではない
かなり揉めた方だ
自覚あるんだ
ある
だが、ミレイアは話が通じる方だった
ミレイアは、その名前を呼ばれていないのに気づいたみたいに、ごくわずかに目を伏せた。
守殿は、聖職の外にいる方でした
ですが、祈りを軽んじたことは一度もなかった
むしろ逆です
祈りを軽く扱う者を、誰よりも嫌いました
蒼汰は少しだけ顔を上げた。
どういうことですか
祈って終わった気になるな、と
何度も言われました
ミレイアは少しだけ笑った。
それは懐かしさに近い笑みだった。
祈りは終わりではなく始まりだ
人を慰めたなら、次は水を運べ
赦しを説いたなら、次は怪我を縫え
灯を点けたなら、朝まで消すな
守殿は、そういう方でした
蒼汰はその言葉を胸の中で反芻した。
宗教者へ向けた言葉なのに、父らしすぎる。
いつも父は、「その先」の話をするのだ。
鍋が回るまで。
靴が換わるまで。
灯が朝まで持つまで。
ミレイアは最後に、深く頭を下げた。
奏多蒼汰様
私は三度、守殿に生かされました
ですが守殿は、一度も礼を受け取りませんでした
ですから今夜、その礼の向きを少しだけ変えさせてください
蒼汰はしばらく言葉を探した。
だが結局、飾れなかった。
……預かります
ミレイアの肩が、ほんの少しだけ下がる。
ようやく息を吐けた人の動きだった。
ありがとうございます
そして去り際、彼女は一度だけ振り返った。
守殿は、たぶん
あなたに謝るより先に、何か役に立つものを渡そうとする方だったのでしょう
蒼汰は答えずに見返した。
ミレイアは続ける。
でも、それは誠意がないからではありません
誠意の出し方が、少しおかしかっただけです
蒼汰は、そこで少しだけ苦く笑った。
少し、かなあ
ミレイアの目元がやわらぐ。
……かなり、かもしれません
そう言って、彼女は静かに去っていった。
応接室に残るのは、また新しい沈黙だった。
机の上には、銀の燈と祭壇布の一片。
兵站局の黒箱、商隊旗、勲章と勲札、宮旗。
父の知らない顔を証明する品々が、少しずつ増えていく。
蒼汰は銀の燈をそっと持ち上げた。
軽い。
なのに不思議と、いままでで一番手に馴染む気もした。
守が頭の奥で言う。
それは、いいものだ
気に入ってるのか
嫌いではない
蒼汰は少しだけ笑いそうになった。
受け取らなかったくせに
受け取ると、あとで面倒だからな
そこはぶれないんだな
大事なところだからな
冬城が静かに近づいてくる。
かなりお疲れかと
うん
でも、まだいける
守様のおそばへ、少し戻られますか
蒼汰は頷いた。
そうする
それから少しだけ迷って、冬城を見た。
次は?
冬城はほんのわずかに考える。
そして、淡々と答えた。
守様に、一国の王太子教育を壊された方です
蒼汰は数秒、無言になった。
……父さん
何だ
あんた、どこまで行っても人の人生に口出ししてるな
必要だと思った時だけだ
その必要が多すぎるんだよ
守は返事をしなかった。
でも、少しだけ気まずそうに黙った気がした。
蒼汰は銀の燈と祭壇布を抱え直す。
少しずつ、持てる量を超えていく。
それでも手放したくない。
応接室を出ると、広間の方からまた低い気配が流れてきた。
父の棺のある場所。
まだそこには行列が続いている。
自分が知らなかった父の時間が、今夜ずっと並んでいる。
蒼汰は小さく息を吐いた。
父、奏多守は、死んでからも礼を受け取るのが下手だった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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