第15話 婚約書類を破られた王族
次の応接室へ向かう廊下で、蒼汰は一度だけ立ち止まった。
兵站局の黒箱。
砂海回廊の商隊旗。
白銀獅子大勲章と削られた勲札。
抱えるものが、もう普通の遺族の量ではなかった。
しかも全部、父が受け取らなかったものか、父が使い潰したものか、父が置いていったものばかりだ。
冬城が一歩先で振り返る。
お疲れでしたら、少し間を空けますか
いや
蒼汰は小さく首を振った。
変に止まると、たぶん余計きつい
承知しました
次の方は
少しだけ、守様への感情が複雑です
婚約書類を破られたから?
はい
ですが、感謝の方が強いはずです
普通、そんなことある?
守が頭の奥で低く言う。
ある
政治の話だ
あんたが言うと不穏なんだよな
たいてい不穏だったからな
否定しないあたりが腹立たしい。
応接室の扉が開く。
今度の部屋は、静かというより張りつめていた。
軍の整然さとも、商人の計算高さとも違う。
もっと薄く、よく磨かれた刃物みたいな緊張だ。
部屋の中央に立っていたのは、若い女だった。
年は蒼汰より少し上だろうか。
二十代半ばか、後半に見える。
喪服に近い黒の長衣を着ているが、布地そのものはとても上質で、袖口と裾にだけ深い緑の細い刺繍が走っている。宝石はつけていない。だが髪を留める銀の小さな飾りだけで、ただ者ではないと分かった。
顔立ちは整っている。
整いすぎて冷たく見える一歩手前で、その目だけが思っていたよりずっと生身だった。
彼女の後ろには、侍従らしき老女が一人。
両手で細長い黒箱と、平たい書類箱を抱えている。
冬城が静かに告げる。
翠嶺連邦王家第二位継承者、セレスティア・アルヴェイン殿下です
守様に婚約書類を破棄されたご当人でもあります
蒼汰は一瞬、何も言えなかった。
破棄、ではなく、前は破られたって
はい
物理的にもです
冬城が淡々と補足する。
蒼汰は思わず目を閉じたくなった。
守
頭の奥で呼ぶ。
何だ
何したんだよ、あんた
守は数拍黙ってから答えた。
必要なことをした
その言い方の時点で大抵ろくでもない。
セレスティアは蒼汰を見て、一歩前へ出た。
深く一礼する。その所作は美しいが、見せるための美しさではない。幼い頃から叩き込まれた礼なのだと分かる。
奏多蒼汰様
声は澄んでいた。
高すぎず、静かで、妙に耳に残る。
本日は、お悔やみを申し上げると同時に
どうしても先に、あなたへ礼をお伝えしたく参りました
蒼汰はぎこちなく頭を下げ返す。
……奏多蒼汰です
次の言葉を探して少し迷う。
だが結局、一番気になっていることが先に出た。
あの
うちの父が何かとんでもないことしたみたいで
セレスティアの目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
ええ
かなり
そこで初めて、蒼汰はこの人が怒っていないのだと分かった。
冬城に勧められ、蒼汰は椅子へ座る。
セレスティアも今度は向かいへ腰を下ろした。
王族、と聞いて勝手に遠い相手を想像していたが、座り方は意外なほど自然だった。背筋は伸びているのに、肩だけは少し力を抜いている。人前に立つことに慣れている人間の座り方だ。
セレスティアが書類箱へ手を伸ばす。
私は十五の頃、婚約が内定しておりました
相手は隣邦の第一王子
国境紛争の終結と、鉱山利権の再配分を円滑にするための婚姻でした
蒼汰は黙って聞いた。
さっきまでの兵站や商隊の話より、ずっと遠い世界のはずなのに、言葉の重さだけはすぐ分かる。
望んでたんですか
蒼汰がそう聞くと、セレスティアは数秒だけ考えた。
望む、という言葉を使える立場ではありませんでした
王家の者は、小さい頃からそう教わります
嫌かどうかより、必要かどうかを先に考えろと
守の気配が頭の奥で少し硬くなる。
あの時代の翠嶺は、そうだった
セレスティアは続けた。
私は当時、それを当然だと思っていました
嫌ではありましたが、嫌だと言ってよいとも思っていなかった
ですから婚約書類に署名する日も、ただ順番が来たのだと考えていました
侍従の老女が、静かに目を伏せる。
その仕草だけで、その日の記憶がこの場にいる二人にとって軽くないことが分かった。
そして、守殿が来たのです
蒼汰は少しだけ身を乗り出す。
その場に?
はい
招かれてはいませんでしたが
やっぱりそうだろうな、と蒼汰は思った。
招かれた場で大人しく座っている父が想像できない。
セレスティアは、そこから先を少しだけ淡々と語った。
たぶんその方が、当時を話しやすいのだ。
婚約の最終調印式でした
両国の証人、法務官、王家の署名官、将軍、宗主教、各派閥の立会人
全てが揃っていた
私も相手方も、署名の直前でした
そこへ、守殿が入ってきた
どうやって
窓から
蒼汰は顔を覆いたくなった。
やっぱりか
冬城が壁際で小さく目を閉じている。
たぶん、知っていたのだ。
セレスティアの声に、かすかに温度が乗る。
しかも窓を割らずに
先に鍵を開けてから入ってきました
そこだけ妙に丁寧でした
守が頭の奥で言う。
ガラスは高い
そこじゃないんだよな
蒼汰は小さく呟いた。
セレスティアは黒衣の袖口を少しだけ握った。
感情を押さえる癖なのだろう。
守殿は最初に、誰にでもなく言いました
これはまだ間に合うな、と
それから私の前に来て、たった一つだけ尋ねました
お前はこれに自分の名前を書きたいのか、と
蒼汰は目を瞬かせる。
セレスティアは少し笑った。
苦い笑いだった。
あまりにも直接的で
私は、その時初めて、自分が何も考えていなかったことに気づきました
答えられなかったんですか
はい
守殿は、答えられない時点で駄目だと言いました
そのまま?
そのままです
王の前で
将軍たちの前で
宗主教の前で
蒼汰は深く息を吐いた。
父ならやる。
やるだろうが、やってほしくはない。
セレスティアが書類箱を開ける。
中には、古い書類が布に包まれて収められていた。
これが、その時の婚約書類です
蒼汰は目を見開いた。
残ってるのか
ええ
残りました
ただし
布がほどかれる。
現れた羊皮紙は、中央から鋭く裂けていた。
一枚ではない。
調印本、副本、宗教署名用控え、両国保管用原紙。
それら全部が、同じように裂かれている。
物理的に、です
蒼汰は数秒、完全に黙った。
守
何だ
本当に破ったのか
ああ
ちょっと待てよ
そんな重要書類を?
重要だからだ
守の答えは低かった。
重要なのに、当人の意思確認が空だった
だから止めた
セレスティアが静かに言う。
守殿は、私が答えられないのを見て
それならこれはまだ成立していない、と言いました
そして署名台の上の書類を全部集めて
私の目の前で裂いたのです
蒼汰は天井を見た。
笑っていいのか、駄目なのか分からない。
でも場の想像だけで頭が痛い。
そのあと、どうなったんですか
王宮警護が動きました
隣邦側は激怒しました
宗主教は卒倒し
父王は守殿へ剣を向けさせかけました
だろうなあ……
しかし守殿は引きませんでした
セレスティアの目が、少しだけ遠くを見る。
引かなかったどころか
私と相手方の王子を並ばせて
お前たちは相手の名前を呼んだことがあるか、と聞いたのです
蒼汰は思わず眉を寄せた。
名前を?
はい
肩書でも国名でもなく
個人の名前を
その問いに、私は答えられませんでした
相手の王子も同じでした
セレスティアの声は静かだった。
だが、その静けさの下で何かが深く動いているのが分かる。
すると守殿は、ほら見ろと言いました
国境のために人を結ぶなら、せめて当人同士の会話ぐらい先に済ませろ
名も呼ばれない婚約は契約であっても縁ではない、と
蒼汰は、そこでようやく分かった。
父がやったのは、単なる乱暴ではなかった。
乱暴だが、筋がある。
しかもその筋が、父らしいくらい生活に近い。
守がぼそりと足す。
顔もまともに見てなかった
あれは駄目だ
あんたの基準、そこなんだな
大事だろうが
守は本気だった。
たぶん本当に、そこが我慢ならなかったのだ。
セレスティアは少しだけ姿勢を正した。
当然、式は中止になりました
両国の交渉は一度破綻しかけました
私も当初は、自分が何をされたのか理解できませんでした
ただ、怖かった
王族として叱られるより先に
あの場で初めて、私個人として見られた気がして
蒼汰は黙っていた。
父はたぶん、人を個人として扱う。
身分や国や立場の前に、台所に立てるか、飯を食えるか、名前を呼べるかで見てしまう。
だから厄介で、だから救われる人もいるのだろう。
その後、どうなったんですか
蒼汰が問うと、セレスティアの口元がほんの少しだけやわらいだ。
守殿は式を壊したあと
壊した責任は取る、と言いました
そして両国の境界沿いに残っていた未整理の山道と物流路を、三か月で通し直したのです
蒼汰は目を瞬かせた。
また道かよ
はい
しかも今度は道だけではありません
交易配分、鉱山税、越境診療所、冬季避難路
婚姻一件で無理やり繋ぐはずだった利害を、別の形で全部結び直しました
守が頭の奥で言う。
あれはかなり大変だった
だろうな
相手方の王子は?
今は隣邦で、子どもを三人持つ父親です
非常に温厚な妃殿下と結ばれました
私は、別の形で政務に残りました
セレスティアはそこで少しだけ肩を抜く。
つまり守殿は、婚約書類を破っただけでは終わらず
婚約で塞ごうとしていた穴を、全部別の方法で埋めたのです
大変迷惑でした
最後の一言だけ、少しだけ強く言った。
だが同時に、その目には明らかな感謝があった。
蒼汰は思わず聞いていた。
それで、父さんに礼を?
はい
セレスティアは迷わず答えた。
私はあのとき、初めて自分の名前を自分で使いました
守殿に、お前はどうしたいと聞かれて
答えられなかったのが悔しくて
そのあと、自分の言葉を持つようになった
だから、王家としてだけではなく
個人としても礼を申し上げます
侍従の老女が、そこで黒箱を差し出した。
セレスティアはそれを受け取り、机の上へ置く。
こちらは、翠嶺王家の宮旗です
正確には、私の宮にのみ掲げる旗
箱が開く。
中には、深い緑と銀で織られた小さな旗が収められていた。
国旗よりずっと個人的だ。
だが上質で、刺繍は細かく、重みがある。
守殿が婚約書類を破った夜
父王は三日間、この旗の掲揚を禁じました
王家の恥だと
ですが、婚約破棄ではなく政策再編が成立した日、私は初めてこの旗を自分の意思で掲げました
セレスティアは旗を見つめる。
まるで、長い時間をその布越しに見返しているみたいだった。
ですから今日、これをお持ちしました
国旗ではありません
王家の総意でもありません
けれど、私個人が守殿へ捧げるには、いちばん正しい旗です
蒼汰は言葉を失った。
兵站局の計算尺。
商隊旗。
国家の勲章。
そして今度は、一人の王族の宮旗。
父が残したものは、全部違う顔をしている。
でもどれも、父にしか繋がらない。
セレスティアはさらに、裂かれた婚約書類の一番上だけを取り出した。
こちらも、本来なら焼却されるはずのものです
ですが私は保管していました
守殿を恨むためではなく
あの日、自分が何も答えられなかった証拠として
蒼汰は、その裂け目を見た。
まっすぐで、迷いのない破れ方だった。
ためらいなくやったのだと分かる。
守
頭の奥で呼ぶ。
何だ
あんたさ
こういうの、いつもこんな感じだったのか
いつもではない
守は少し間を置いた。
必要だと思った時だけだ
必要だと思う範囲が広いんだよ
それは否定しない
蒼汰は小さく息を吐いた。
もう怒る気にもなれない。
この父は、多分、本当にこういう男なのだ。
セレスティアは静かに続ける。
本式の日、翠嶺王家は帰還前に会館の外で宮旗を半旗にいたします
国旗ではなく、私の宮旗を
それが、私個人から守殿への弔意です
蒼汰は目を上げる。
どうしてそこまで
セレスティアは一拍置いた。
それから、王族の顔ではなく、ひどく個人的な顔で答えた。
あの日、守殿が書類を破らなければ
私はたぶん、自分の人生を自分の言葉で選ぶことを知らないままだったからです
部屋の空気が静まる。
蒼汰は宮旗を見た。
勲章や商隊旗とはまた違う、個人の誇りと記憶が織り込まれた旗だった。
それからゆっくり頷く。
……預かります
セレスティアの表情が、そこで初めて少しだけやわらいだ。
ありがとうございます
侍従の老女も深く頭を下げる。
その礼には、王家への形式だけではない、年長者としての静かな感謝も混じっていた。
去り際、セレスティアは一度だけ立ち止まった。
奏多蒼汰様
はい
守殿は、たぶんあなたに嫌われたくなくて
家ではこういう話をほとんどしなかったのでしょう
蒼汰は返事をしない。
セレスティアは少しだけ目を細めた。
でも、あの方は人の人生を勝手に背負う方でした
そのくせ、自分のことは後回しにする
ですから、あなたがもし今後あの方に文句を言うなら
遠慮なく言って差し上げてください
蒼汰は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
最近、同じこと言われるの二回目なんですけど
適切な助言かと
そう言って、彼女は本当に少しだけ笑った。
それは王族の笑みではなく、一人の女の、ようやく自由に使える顔だった。
扉が閉まる。
応接室には、また新しい重さが残った。
兵站局の黒箱。
砂海回廊の商隊旗。
白銀獅子大勲章。
削られた勲札。
宮旗。
裂かれた婚約書類。
蒼汰は机の上のそれらを見下ろし、ゆっくり息を吐く。
……父さん、本当にろくでもないな
守が頭の奥で小さく返した。
そうかもしれん
否定しないんだな
あの件については、わりと自覚がある
珍しいな
珍しい
そこで二人とも少しだけ黙った。
冬城が静かに近づく。
お疲れでしょうか
うん
でも、思ったより大丈夫
それはよかったです
たぶん
蒼汰は裂かれた婚約書類へ指を伸ばしかけて、やめた。
父さんって
人の人生の、やばいところで急に出てくるんだな
守は少し考えるように黙った。
……そういう時にしか、呼ばれなかったとも言える
その返事が妙に生々しくて、蒼汰は何も言えなくなった。
冬城が机上の品を順に整える。
次の方まで、少し時間があります
一度、守様のおそばへ戻られますか
蒼汰は頷いた。
うん
それから少しだけ迷って、冬城を見る。
次は?
冬城は本当に少しだけ考えた。
そして、いつもの落ち着いた声で答える。
守様に、三回も命を助けられたのに
一度も礼を言わせてもらえなかった聖職者の方です
蒼汰は数秒、黙った。
……少しだけ、軽めの人いないの
今のところ難しいかと
だろうな
蒼汰は宮旗をそっと抱え直した。
父、奏多守の知らない顔が、また一つ増えた。
いや、知らない顔というより、知らないままではいられない顔が増えたという方が近かった。




