第14話 勲札を突き返した男
応接室の空気は、さっきまでとまた違っていた。
兵站士官のエルミナが残したのは、鍋と配給表と冬を越えるための現実味だった。
商人サディークが置いていったのは、帳簿と借用証と、風を浴びてきた商隊旗だった。
その二つを抱えたまま次へ進むと、今度の部屋には、きれいすぎる緊張が満ちていた。
椅子の位置。
卓上の茶器の向き。
立っている人間の視線の高さまで、全部が整いすぎている。
蒼汰は扉をくぐった瞬間、ああ、今度は国家側だな、と何となく分かった。
部屋の中央に立っていたのは、女だった。
年齢は四十代半ばほどだろうか。
背が高く、黒い礼装を着ている。布地そのものは喪服に近いのに、肩と襟の線が軍装に寄っていて、立ち姿だけで職業が分かる。灰銀の髪を後ろで束ね、右頬に薄い古傷が一本。左胸には何もつけていない。勲章も徽章も、今日に限っては外してきたのだと分かる空白だった。
彼女の後ろには、若い従者が一人。
両手で、濃紺の小箱と、筒に収められた巻物を持っている。
冬城が静かに告げた。
こちら、北嶺王国近衛儀礼庁筆頭武官、アーデルヘイト・クラウゼ様です
守様へ正式叙勲を打診し、正面から返却されたご当人でもあります
蒼汰は一瞬、何も言えなかった。
正面から、という言い方が妙に具体的だったからだ。
女――アーデルヘイトは、蒼汰を見て、深く、無駄のない礼をした。
きれいすぎて逆に重い。
軍人が国家ではなく、一個人へ下げる頭の角度ではない気がした。
奏多蒼汰殿
声は低く、よく通る。
凛としているのに、硬すぎない。
私は北嶺王国近衛儀礼庁筆頭武官、アーデルヘイト・クラウゼ
そして、守殿より王国最高位戦功章の受領を拒否された者です
蒼汰は眉を寄せた。
その自己紹介、流行ってるんですか
アーデルヘイトの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑いではない。だが、たぶん悪くは思われていない。
守殿に関する説明は、端的な方が伝わると学びました
……なるほど
さっきの借金商人といい、父の周囲の人間は妙に要点の置き方がおかしい。
守が頭の奥でぼそりと言う。
クラウゼか
相変わらず固いな
知ってるのか
三回ほど叱られた
あんた、いろんな相手に叱られてるな
正しいことを言うやつが多かったんだ
蒼汰は軽くため息をついた。
否定しないあたりが父らしい。
冬城に勧められ、蒼汰は椅子へ座る。
両腕にはまだ、兵站局の計算尺と商隊旗がある。
さすがに置いた方がいいのではと思ったが、もう何となく手放しづらかった。
冬城が気を利かせて、机の脇へ丁寧に置いてくれる。
アーデルヘイトは座らなかった。
まっすぐ立ったまま、従者から濃紺の小箱を受け取り、机上へ置く。
まず、本国の現状をお伝えします
北嶺王国は本日夕刻より、王都中央塔および外郭六門に半旗を掲揚しております
守殿への追悼として
蒼汰の指先が、思わず机の縁を押した。
半旗。
国として。
父のために。
アーデルヘイトは続ける。
王都砲兵隊による儀礼砲は、本式の日に合わせて行うべきとの意見もありました
ですが、女王陛下ご自身が仰いました
あの方は待つことを好まない
本日中に、まず弔意を示せ、と
蒼汰は何も言えなかった。
頭の中に、見たこともない王都の風景が一瞬だけ浮かぶ。
高い塔。
石の門。
冷たい空気。
そこに半旗が上がっている。
父のために。
父、奏多守。
冷蔵庫の詰め方に文句を言うだけだったあの人のために。
アーデルヘイトの声は、静かなままだった。
私は本来、守殿ご本人へ三度、叙勲状をお渡しする任を受けました
三度とも失敗しています
本日は、四度目にして初めて、しかるべき相手へお届けに参りました
蒼汰は目を瞬かせた。
三回も断られたんですか
はい
一度目は謁見の場で
二度目は戦後の医務室で
三度目は橋の補修現場で
場所がおかしいな
思わずそう漏れる。
だがアーデルヘイトは真顔で頷いた。
まったくです
守が頭の奥で小さく言う。
一度目は派手すぎた
二度目は眠かった
三度目は忙しかった
全部理由になってないだろ
蒼汰が心の中で返すと、守は少しだけ沈黙した。
反省はしていない沈黙だった。
アーデルヘイトは小箱へ手を置いた。
北嶺王国最高位戦功章、白銀獅子大勲章
ならびに付属勲札、叙勲証明書、王家親署状です
従者が今度は、巻物を机へそっと置く。
封蝋には白い獅子の紋章。
それだけで、国家の重みが見える。
蒼汰は喉を鳴らした。
あの人、そんなの断ったんですか
はい
アーデルヘイトは迷いなく答えた。
しかも、かなり正面から
なにそれ、さっきから気になるんですけど
そこで初めて、アーデルヘイトの目にごくわずかに、人間らしい温度が宿った。
ご覧になりますか
小箱が開かれる。
中に収められていたのは、銀と白金でできた勲章だった。
派手ではない。
だが静かに重い。
白い獅子を象った中央意匠の周囲に、細かな氷花の彫金が巡り、王冠を模した留め具から淡い青の綬が下がっている。装飾は美しいのに、むやみに華美ではない。雪と鉄の国の勲章だと、見ただけで分かる気がした。
蒼汰は息を呑んだ。
きれいだ。
そう思ったのと同時に、父がこれを胸につけている姿はまったく想像できなかった。
アーデルヘイトはその反応を見て、小さく頷く。
守殿も最初に、美しいとは仰いました
蒼汰は顔を上げる。
じゃあ、なんで
その次に、こう仰いました
これを今もらうと、あとで死人が増える、と
部屋が静かになる。
蒼汰は一瞬、意味が分からなかった。
だがアーデルヘイトの顔は冗談のものではない。
北嶺王国が守殿へ最高位戦功章を授与した場合
その時点で、守殿は我が国に極めて近い立場の英雄として歴史に刻まれます
それは名誉です
ですが同時に、他国や他勢力から見れば、守殿が北嶺側へ寄ったと解釈されかねない
蒼汰は、ようやく少しだけ分かってきた。
つまり
守殿個人への礼が、国家間の均衡を崩す可能性があったのです
アーデルヘイトは、そこで初めてほんの少しだけ息を吐いた。
当時の我が国は、救われた直後でした
王都北壁は持ち直し、王女殿下もご無事だった
国中が守殿を称えたがった
ですが、守殿は謁見の間の中央で勲章箱を閉じ、私に返されました
蒼汰は、小箱の中の勲章を見たまま尋ねた。
なんて言ったんですか
アーデルヘイトの返答は、即座だった。
何年も反復した言葉なのだろう。
ありがたい
だが今これを受けると、お前たちが助かった話が、お前たちが私を抱え込んだ話に変わる
それは駄目だ
礼なら、壁の修繕予算を通せ
兵の靴を換えろ
寒冷地の干し豆を増やせ
蒼汰は数秒、完全に黙った。
そして、あまりにも父らしくて、額に手を当てたくなった。
……うわあ
はい
その場にいた全員が、ほぼ同じ顔をしました
アーデルヘイトの声に、今度こそ少しだけ苦笑が混じる。
王も女王も将軍も、勲章より先に靴の話をされたのは初めてだったかと
守が頭の奥で言う。
靴は大事だ
そこじゃないんだよなあ……
蒼汰は小さく呟いた。
でもたぶん、父にとっては本当にそこなのだろう。
アーデルヘイトは机上へ、勲章と巻物のほかに、薄い板状のものを置いた。
勲札だった。
銀の縁取りがあり、北嶺の王紋と受章者欄が刻まれている。
ただし、受章者名のところだけが空白ではない。
一度記されたものを削った跡がある。
蒼汰は目を止めた。
これ……
はい
いったん刻みました
守殿へお渡しする直前まで、授与は決定しておりましたので
しかし返却の際、守殿ご本人が、その場で削らせました
その場で?
はい
しかも工具の角度が悪いと、私の職人へ三度ほど口を挟みながら
蒼汰は思わず噴き出しかけた。
不謹慎だと思うのに、もう無理だった。
なんでそんな細かいんだよ
守が即座に返す。
雑な削り方をすると金属が荒れる
そこじゃないって言ってるだろ
冬城が壁際で、ほんの少しだけ肩を揺らしている。
たぶん笑っている。
アーデルヘイトは、ごく静かに続けた。
ですが、本日こちらを持参したのは、守殿の意思に逆らうためではありません
守殿は三度目の返却のあと、私へこう申し送りました
従者が巻物の下から、小さな紙片を出す。
蒼汰は一目でそれが守の字だと分かった。
乱暴で、少し右上がりの字。
ご子息が受け取れるようなら、勲章も勲札も持っていけ
私が受けなかった記録ごと渡せ
そっちの方が、たぶん話が早い
蒼汰はしばらくその紙片を見つめた。
ほんと、そういう言い方するよな
はい
ひどく守殿らしいかと
アーデルヘイトは深く頷いた。
ですから本日は、勲章そのものより
守殿がなぜ受けなかったか、その記録ごとお預けします
蒼汰は勲章をそっと持ち上げた。
重い。
見た目以上に重い。
きれいな細工の下に、国家の事情と、父の判断と、その場で起きた交渉全部が詰まっている気がした。
アーデルヘイトが静かに言う。
守殿は、北嶺王国では英雄として知られています
ですが、王国のものとはされなかった
それは、守殿が拒んだからです
蒼汰は勲章を見つめたまま、低く尋ねた。
……あの人、他の国でもこういうの断ってたんですか
はい
少なくとも我々が把握しているだけで、いくつか
やっぱりか
そう思うと同時に、少しだけ救われる。
父が国家規模の称賛を嫌ったのではなく、その称賛が生む重さまで見ていたのだと分かったからだ。
アーデルヘイトは続ける。
ただし、本国では今夜から、この勲章の複製章のみ王城の弔意卓へ置かれています
原章はここへ
複製はあちらへ
守殿が王国の所有物ではないことを示すためです
蒼汰はゆっくり顔を上げた。
そこまで
はい
女王陛下のご判断です
その一言の重さを、蒼汰は完全には測れない。
でも少なくとも、父が一国の王にそこまでさせる存在だったのだということだけは、嫌でも伝わった。
アーデルヘイトは最後に、机上の勲札を蒼汰の前へ押し出した。
この削り跡も含めて、お受け取りください
これは栄誉の証というより、守殿が国家へ線を引いた痕跡です
そして我々が、その線を今も尊重している証でもあります
蒼汰は静かに頷いた。
……預かります
アーデルヘイトの表情はほとんど変わらなかった。
だが、その肩の緊張だけが少しだけほどけた。
ありがとうございます
これで私は、四度目にしてようやく任を果たせます
蒼汰は勲章、小箱、勲札、巻物、守の走り書きを見た。
兵站局の計算尺。
商隊旗。
そこへ今度は国家の勲章と勲札が加わる。
父の遺したものは、剣でも王冠でもない。
配給表であり、商隊旗であり、拒絶された勲章だった。
蒼汰は少しだけ苦く笑う。
……父さん、あんた本当に受け取らない人なんだな
守が頭の奥でぼそりと返す。
受け取ると面倒になるものはな
面倒の範囲が広すぎるんだよ
それは否定しない
アーデルヘイトは一礼し、去り際に一つだけ付け加えた。
なお、本式の日
北嶺王国の代表団は帰還前に、会館の外で最敬礼を行います
その際、女王名義の弔砲十九発が、王国側時刻に合わせて本国で撃たれる予定です
蒼汰は顔を上げた。
十九発
はい
本来なら、それでも足りないとの意見もありました
ですが守殿は王ではない
ゆえに王の数では撃たない
それでも、王に準ずる礼で送る
そう決まりました
蒼汰は、その数字の意味を完全には知らない。
だがそこにある配慮と重みだけは伝わった。
アーデルヘイトは静かに言い切る。
我々は、守殿を囲い込むことには失敗しました
ですが、敬意を払うことまでは諦めません
そのまま深く頭を下げ、部屋を出ていく。
従者も音を立てずに続いた。
扉が閉まる。
応接室に残ったのは、またしても妙に重い沈黙だった。
蒼汰は机へ並んだものを見つめる。
兵站局の計算尺。
砂海回廊の商隊旗。
白銀獅子大勲章。
削られた勲札。
守の走り書き。
父の知らない顔が、また一枚増えた。
いや、知らないというより、父の外で起きていたことの重さが、少しずつ輪郭を持ち始めている。
冬城が静かに近づいた。
お疲れではありませんか
疲れてるに決まってるでしょ
そうですね
即答だった。
蒼汰は小さく息を吐いた。
でも
はい
ちょっとだけ、分かってきたかも
何がでしょう
父さんが、どうして家ではあんなだったのか
冬城は答えなかった。
だが急かしもしない。
蒼汰は勲札の削り跡を指でなぞった。
外でこんなの全部受けてたら
そりゃ、家では飯と靴と冷蔵庫の話しかしないかもなって
冬城の目がほんの少しだけやわらいだ。
……守様らしい解釈かと
似たくねえなあ
もうかなり似ておられます
蒼汰は思わず顔をしかめた。
だが否定しきれないのが嫌だった。
冬城が机上の品々を順に見た。
次の方まで、少し時間があります
一度、守様のおそばへ戻られますか
蒼汰は頷いた。
うん
ちょっと、顔見たい
守が頭の奥で、珍しく何も返さなかった。
たぶん、気まずいのだ。
気まずがるぐらいなら最初からちゃんとしろよ、と蒼汰は思う。
でも、その気まずさごと少し分かってしまう自分もいた。
蒼汰は兵站局の黒箱を持ち上げる。
商隊旗を抱える。
勲章と勲札の小箱も受け取る。
両手がふさがる。
重い。
でも、不思議と嫌ではなかった。
冬城が扉を開ける。
次はどんな人ですか
蒼汰が歩き出しながら聞くと、冬城は少しだけ考えた。
守様に、婚約書類を破られた王族の方です
蒼汰はその場で立ち止まった。
……は?
父さん
頭の奥へ呼びかける。
守は、今度ははっきりと沈黙した。




