第1話 父の葬儀は静かに始まるはずだった
父、奏多守が死んだ。
その一文だけ切り取れば、きっとどこにでもある話だ。
病院からの連絡を受けて、必要な書類を揃えて、葬儀屋に電話を入れて、親族に連絡して。そういう現実的な手順の中に、人の死は淡々と押し込まれていく。
蒼汰は、そういうものなのだろうと思っていた。
守は、父親としてはよく分からない人だった。
家庭にいないことが多く、ふらりと帰ってきたかと思えば、手土産もなく、金回りがいいのか悪いのかも曖昧で、食卓に座ると妙なことばかり言っていた。
昔は異世界で勇者をやっていた。 魔王とは案外、話の分かるやつでな。 向こうじゃ賢者なんて呼ばれてた。 空の向こうの星でも、少しばかり人助けをしたことがある。
子供の頃は笑って聞いていた。 思春期にはうんざりした。 大人になってからは、ああ、また始まった、くらいにしか思わなくなった。
母の巴は、そんな守の話を止めなかった。 笑いもせず、呆れもせず、ただ静かに聞いていた。
どうして止めないの、と蒼汰が聞いたことがある。 巴は少しだけ困った顔をして、それでも柔らかく言った。
守さんは、嘘をつくのが下手だから。
その意味は、結局よく分からないままだった。
母が先に死んで、家には蒼汰と守だけが残った。 残った、とは言っても、守は相変わらず不在がちで、同じ家に住んでいるはずなのに、たまに知らない人と暮らしているような気分になることがあった。
それでも、嫌いにはなれなかった。 父親らしいことをしてくれた記憶は薄いのに、完全に切り捨てられない程度には、蒼汰の中に守の体温が残っていた。
だからだろうか。 病院の白いベッドの上で、守が二度と起きないと告げられたとき、蒼汰は泣かなかったくせに、妙に腹の奥だけが冷えた。
これでもう、あの人の言っていたことが何だったのか、確かめようもなくなった。
それが最初に浮かんだ感想だった。
冷たい息子だな、と自分でも思う。 だが本当にそうだった。 悲しいより先に、分からないまま終わった、という感覚が来た。
通夜と葬儀は、町の小さな会館で済ませる予定だった。 派手にやるつもりはない。親族も多くない。母方の親類に何人か声をかけ、守の知り合いがどれほど来るのかも見当がつかない。
どうせ少ないだろう、と蒼汰は思っていた。 あの人は、誰にでも話しかけるくせに、誰とも長くは繋がらない人に見えたからだ。
葬儀屋の担当者は丁寧な男で、必要な段取りを一つずつ説明してくれた。 祭壇の規模、花の種類、会葬礼状、食事の手配、僧侶の依頼。 どれも現実的で、値段がついていて、ちゃんとこちら側の話だった。
蒼汰はそれに少しだけ安心した。 父が死んだとしても、世界はちゃんと常識の中で回る。 それでよかった。
だが、通夜の前日。 会館に安置された守のもとで、蒼汰が線香の香りをぼんやり嗅いでいたときだった。
入口の外に車が止まる音がした。 一台ではない。 二台、三台、まだ増える。 低く抑えられたエンジン音が、会館の静けさをゆっくりと削っていく。
やがて、黒いスーツの男女が入ってきた。 全員、喪服というには輪郭が鋭すぎた。姿勢が良すぎて、歩き方に隙がない。葬儀に来た人間というより、どこかの重要施設を警備しに来た人間の群れに見えた。
先頭にいた女性が、まっすぐ蒼汰の前まで来て一礼した。 年齢は三十代くらいだろうか。黒髪をきっちりとまとめ、表情は柔らかいのに、目だけが妙に冷静だった。
奏多蒼汰様でお間違いありませんか
はい
お父様、奏多守様のご葬儀について、以後はこちらで引き継がせていただきます
意味が分からず、蒼汰は数秒黙った。
は?
ご安心ください。費用、警備、来賓対応、儀礼、祭壇構成、供花の受け入れ、全てこちらで行います
何を言ってるんですか。もう葬儀屋とも話はついてますけど
その件も含め、既に調整済みです
調整済み、という言葉が嫌に耳に残った。 まるで蒼汰の知らないところで、もっと上の段階の話が終わっているような口ぶりだった。
蒼汰が担当者を呼ぼうとすると、女性はそれを静かに制した。
申し訳ありません。まずはお願いがございます
お願い?
お父様のそばにいて差し上げてください
そこで初めて、蒼汰は少し怒った。
意味が分からないんですけど。あなたたち、何なんですか
守様に恩義のある者たちの、窓口のようなものです
ふざけているようには見えなかった。 だから余計に不気味だった。
蒼汰は守の顔を見た。 白布の向こうで、父は信じられないほど静かだった。生きていた頃は、黙っていてもどこか胡散臭いのに、死んでしまうとただの疲れた男に見える。
異世界の勇者だの、魔王の友人だの、星を救っただの。 そんな大層な話をしていた本人が、いまは細い箱の中で眠っている。
蒼汰はため息をついた。
……父が何言ってたか、知ってるんですか
ある程度は
じゃあ、あの人の話、信じてるんですか
女性は一拍置いた。
守様は、ほらを吹くのがお上手ではありませんでしたから
その言い回しに、蒼汰の心臓が変な跳ね方をした。
まるで巴と同じことを言う。
蒼汰は喉の奥が少し乾くのを感じながら、低く返した。
母も同じこと言ってましたよ
そうでしょうね
女性はそれだけ言って、もうそれ以上踏み込まなかった。 代わりに周囲の黒服たちへ短く指示を飛ばし始める。会館の出入口、通路、祭壇周辺、控室。まるで葬儀場ではなく、要人の迎賓館でも整えるみたいな手際だった。
十分もしないうちに、会館の空気が変わった。
花が増えた。 しかも町の花屋が急いで追加した程度ではない。見たことのない青白い花弁を持つ花、夜なのにわずかに光を宿しているように見える百合、香りがするのに鼻に残らない花。
何だこれ、と呟くと、近くにいた黒服の若い男が困ったように視線を伏せた。
供花です
見れば分かる。そうじゃなくて、どこから持ってきたんだよ
……各所より
各所、で済ませるな。 そう言いかけて、やめた。 男の顔色が妙に悪い。緊張しているというより、この場で余計な説明をしたくない顔だった。
蒼汰は仕方なく、父の棺のそばに椅子を引いて座った。
お父様のそばにいてほしい。
あの女はそう言った。
意味は分からない。分からないが、追い払うほどの力も、もう蒼汰の中にはなかった。
静まり返った部屋で、蒼汰は棺に向かってぼそりと口を開いた。
……何したんだよ、あんた
返事はない。
どうせまた適当な話なんだろ。実は国を一個潰したとか、月の裏側に別荘持ってたとか、そういうの
返事はない。
小さい頃、一回だけ覚えてる。俺が熱出したとき、珍しく家にいたよな
蒼汰は自分でも意外なほど、ぽつぽつと言葉が出るのを止められなかった。
あんた、氷枕の代わりに変な石持ってきてさ。これ、火山竜の涙石だから熱が引く、とか言って。母さんに台所から追い出されてた
あれ、何だったんだよ
少し笑うつもりで言ったのに、声はうまく笑いの形にならなかった。
結局、あんたのこと何も知らなかったな
仕事も、友達も、金の稼ぎ方も、どこ行ってたのかも。 何も知らないまま、死んだ。
そこまで言って、蒼汰は口を閉じた。
会館の外が、にわかに騒がしくなってきたからだ。
車の数がまた増えている。 一台や二台ではない。規則的に並ぶライトが、曇ったガラス越しにも分かる。誰かの怒鳴り声はない。だが抑えた緊張が、建物そのものを張り詰めさせていた。
黒服の一人が控室へ駆け込み、女性に耳打ちする。 女性はわずかに目を閉じ、それから頷いた。
予定より早いですね
その言葉を聞いてしまった気がした。
何の予定だ。
蒼汰が立ち上がるより先に、会館の扉が開いた。
入ってきたのは、見覚えのある顔だった。 テレビで見たことがある。 ニュースの中でしか見ない種類の人間。現職の大臣だった。
その後ろに、制服組の上層部らしき男たち。 さらに、海外の要人めいた一団。 通訳らしき人物、宗教者の装束を着た老人、胸に勲章をいくつも付けた白髪の男。
蒼汰は一歩、後ずさった。
なんで。
それしか出なかった。
黒髪の女性が、蒼汰の横に立つ。
申し訳ありません。ここから先、弔問はさらに増えます
さらに?
はい。今夜中に、国内主要関係者。明朝以降、国外の代表者と、向こう側の弔問団も到着予定です
向こう側?
蒼汰が聞き返すと、女性は静かに守の棺を見た。
守様が救われた方々です
救われた、じゃない。 救った、だ。
喉の奥でその言葉が引っかかった。
蒼汰は棺を見た。 白い花、青い花、知らない香り。増え続ける足音。扉の向こうに並ぶ黒い車列。
父のほら話が、一つずつ現実の形を取って、自分の目の前に積み上がっていく。
異世界の勇者だった。 魔王と友人だった。 賢者と呼ばれていた。 空の向こうの星を救った。
まさか。 いや、でも。 そんなはずが。
蒼汰の視界の端で、また一人、いや一組の弔問客が入ってくるのが見えた。
長身の男だった。 黒い礼服を着ているのに、足元の影が二つある。 その隣の女は、喪章の代わりに淡く赤い石を胸元に差していた。人間ならざる整いすぎた顔立ちが、一目で分かるほど異様なのに、誰もそれを不自然だと思っていないように歩いてくる。
女は棺の前で静かに頭を垂れ、低い声で言った。
我らが旧き友へ、深き哀悼を
聞き慣れない響きだったのに、蒼汰にはなぜか意味が分かった。
その瞬間、蒼汰の中で何かが音を立てて崩れた。
父は、本当に。
蒼汰は棺の縁に手をついた。 指先が震える。
守。 あんた、何者だったんだよ。
答えの代わりに、棺の横へ一つの古びた鍵が置かれた。 いつの間に現れたのか分からない、銀とも鉄ともつかない色の鍵だった。 持ち手には見覚えがある。
子供の頃、守が首から下げていた。 絶対に失くすなよ、これだけはお前に渡す日が来るからな、と笑っていた、あの鍵だ。
黒髪の女性が蒼汰を見た。
守様から、お預かりしていました
何を
次を知るためのものです
会館の外で、さらに重い車両の音が止まる。 サイレンは鳴らない。だが、空気だけが完全に変わった。
町の小さな葬儀場で始まるはずだった父の葬儀は、もう蒼汰の知っている常識の中にはなかった。
そして蒼汰はまだ知らない。 父、奏多守が遺したものは、思い出でも遺産でもなく、世界と世界の境界そのものだったことを。




