第三章 黒い錬金術
小章① 裏帳簿のパズル
帰国した海堂を待っていたのは、社内での徹底的な「干し上げ」だった。 出張から戻ると、彼のデスクのパソコンはネットワークから遮断され、IDカードのアクセス権限も最低レベルに落とされていた。 名目は「情報セキュリティ規定違反の疑い」。神崎が先手を打ったのだ。
「海堂さん……大丈夫ですか?」
昼休み、ビルの非常階段の踊り場で、部下の佐々木が缶コーヒーを差し出した。 彼だけは、まだ海堂を見捨てていなかった。
「ああ。むしろ好都合だ。あいつらが俺を警戒している証拠だからな」
海堂はコーヒーを受け取り、周囲を警戒しながら小声で尋ねた。
「頼んでいたデータは?」
「……これです」
佐々木は震える手で、一枚のマイクロSDカードを渡した。
「神崎部長の過去五年分の決裁履歴と、関連する経理データです。リスク管理部の同期に頼み込んで、ログに残らないように抜いてもらいました」
「恩に着る。……何か分かったか?」
「ええ。奇妙なパターンがあります」
佐々木はタブレットを取り出し、グラフを見せた。
「機械プラント本部が中東で大型案件を受注する直前、必ずと言っていいほど、ドバイやトルコの商社向けに『小口の機械部品』が輸出されています。今回のジャイロセンサーのように、高単価で、転用可能な部品ばかりです」
「つまり、裏金作りか」
海堂は推測を口にした。 イランやシリアなどの制裁対象国は、喉から手が出るほど日本の精密部品を欲しがっている。正規ルートでは買えないため、闇市場では定価の五倍、十倍で取引される。 神崎は、ダミー商社を通じてそれらの国へ横流しし、差額の利益をプールしているのだ。
「でも、海堂さん。神崎部長が私腹を肥やすためだけに、こんなリスクを冒すでしょうか? 彼は次期役員候補ですよ。金なら十分持っているはずです」
「個人の金じゃないとしたら……」
海堂の脳裏に、ドバイで神崎が言っていた言葉が蘇った。 『この裏には、サウジアラビアでの巨大インフラ・プロジェクトの受注がかかっている』
点と点が繋がった。 サウジアラビアの大型案件。受注競争は熾烈だ。勝つためには、現地の王族や高官への「実弾(賄賂)」が必要になる。 だが、コンプライアンスが厳しくなった昨今、本社から巨額の機密費を引き出すことは不可能に近い。 ならば、どうするか。 帳簿外で金を作るしかない。
「……錬金術だ」
海堂は呻いた。 イランへ禁輸品を売って得た「汚れた金」を、ドバイで洗浄し、そのままサウジアラビアの賄賂として流し込む。 敵国同士を利用した、あまりにも皮肉で、あまりにも危険なスキーム。 会社のため、国益のためという大義名分の下で、神崎は国際法を踏みにじっている。
小章② 決戦前夜
その夜、海堂は別れた妻の実家に電話を入れた。
「……もしもし、健介です。夜分にすみません」
元妻の驚く声が聞こえたが、海堂は手短に用件を伝えた。 「仕事でトラブルに巻き込まれた。娘と君に危険が及ぶかもしれない。しばらくの間、実家を離れてホテルかどこかに身を隠してほしい」 詳しいことは言えない。だが、切迫した様子は伝わったようだ。彼女は「分かったわ。気をつけて」とだけ言って電話を切った。 守るべきものは遠ざけた。これで心置きなく戦える。
海堂は、佐々木から受け取ったデータを整理し、一つの報告書を作成した。 タイトルは『中東向け輸出案件における重大なコンプライアンス違反及び不正資金流用について』。 宛先は、社長およびコンプライアンス委員会。 通常のルートで提出すれば、神崎の息のかかった人間に握りつぶされる。 提出する場所は一つしかない。 明日行われる、全社的な「経営戦略会議」の場だ。




