第二章 砂漠の蜃気楼
小章① フリーゾーンの幻影
UAE、ドバイ。 六月の気温は摂氏四十度を超えていた。照りつける太陽が、砂漠の中に林立する摩天楼を白く焼き尽くしている。 ドバイ国際空港に降り立った海堂は、熱風に包まれながらジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくった。 レンタカーを借り、『ジェベル・アリ・フリーゾーン』へと向かう。世界最大級の人工港を擁するこの自由貿易地域には、七千社以上の企業がオフィスを構えているが、その多くは倉庫と看板だけの存在だ。
GPSを頼りに、目的の住所へたどり着く。 そこは、広大な倉庫街の一角にある、プレハブのような粗末なオフィスビルだった。 看板には、いくつもの社名が連なっている。その中に、『AL SAHARA TRADING LLC』の文字を見つけた。
海堂はビルに入り、受付のインド系男性に声をかけた。
「ファイブ・ジェネレーション・トレーディング(五代商事の英語名)の海堂だ。アリ・カーン社長に会いたい」
受付の男は怪訝そうな顔をして、内線電話をかけた。 しばらくして、奥のドアから小太りの男が現れた。口髭を蓄え、安っぽいスーツを着ている。
「ミスター・カイドウ? アポイントは聞いていないが」
「急な出張でね。どうしても御社の施設を確認したくて来たんだ」
海堂は男と握手をした。手は湿っていた。 男はアリ・カーンと名乗った。英語には強いアクセントがある。
「倉庫を見せてくれないか。今回注文をもらったジャイロセンサーの保管環境を確認したい。精密機器だからな」
「倉庫? ああ……今は満杯でね。見せるほどのものじゃない」
カーンは視線を逸らした。 海堂は構わずに歩き出した。
「ここが倉庫だろう? 開けてくれ」
強引にドアを開けようとする海堂を、カーンが慌てて制止しようとする。 だが、海堂は止まらなかった。 ドアを開けると、そこには――何もなかった。 空っぽだ。 広々とした倉庫の中には、埃を被った数台のパレットと、フォークリフトが一台あるだけ。建設機械の修理工場としての設備も、在庫パーツの山もない。 ただの空箱だ。
「……これが、年間数億円を取引する優良ディーラーの実態か?」
海堂はカーンを振り返った。 カーンは額の汗を拭いながら、早口で言い訳を始めた。
「こ、ここはただの登記上のオフィスだ! 実務は別の場所でやっている! シャルジャの方に大きなヤードがあって……」
「嘘をつくな」
海堂はカーンを壁際に追い詰めた。
「お前はただの名義貸しか? それとも仲介屋か? 今回発注したジャイロセンサー、本当の行き先はどこだ。イランか? シリアか?」
「知らん! 私はただ、荷物を受け取って、指示された船に積み替えるだけだ!」
「誰の指示だ?」
カーンは口をつぐんだ。その目は恐怖に泳いでいる。 これ以上問い詰めても無駄か。海堂は手を離した。 だが、収穫はあった。 『アル・サハラ』は完全なダミーだ。商品はここには留まらず、即座に「どこか」へ再輸出されている。 迂回輸出の拠点は確定だ。
海堂は倉庫の奥に見えた、出荷伝票の束を素早くスマホで撮影した。 カーンが「何をする!」と叫ぶが、海堂は無視して事務所を出た。
灼熱の太陽の下、海堂は撮影した伝票の画像を拡大した。 アラビア語と英語が混じった殴り書き。 仕向け地(Destination)の欄に、見慣れない港の名前があった。 『Bandar Abbas』。 イラン南部の港湾都市だ。
「……ビンゴだ」
やはり、イランへの横流しか。 経済制裁下のイランに、軍事転用可能な部品を輸出する。それが露見すれば、五代商事は国際的な制裁対象となり、破滅する。 神崎は、これを知っていてやっているのか?
小章② 砂漠の追跡者
ホテルに戻った海堂は、すぐに東京の部下、佐々木に連絡を入れた。
「証拠を掴んだ。アル・サハラはイランへの迂回輸出拠点だ。バンダル・アッバス行きの船荷証券(B/L)の控えも撮った」
『マジですか……。部長はこれを知っているんでしょうか?』
「知らなきゃこんな危ない橋は渡らない。……佐々木、頼みがある。神崎部長の過去の取引履歴を洗ってくれ。特に中東向けの機械部品だ。今回が初めてじゃないはずだ」
『分かりました。でも、アクセス権限が……。部長クラスのデータを見るには、リスク管理部長の承認がいりますよ』
「俺のIDを使え。ログが残っても構わん。どうせクビを覚悟の上だ」
電話を切ると、海堂はシャワーを浴びた。 冷たい水が、火照った頭を冷やしてくれる。 だが、その時。 部屋のドアが激しくノックされた。 ルームサービスではない。乱暴な叩き方だ。 海堂はタオルを腰に巻き、ドアスコープを覗いた。 誰もいない。 いや、ドアの下に、白い封筒が差し込まれている。
海堂は慎重にドアを開け、封筒を拾い上げた。 中には、一枚の写真が入っていた。 東京にいる、海堂の別れた妻と、七歳になる娘が公園で遊んでいる写真だ。 そして、裏には下手な英語で一言。
『Don't look too deep. Or you will lose everything.(深入りするな。さもなくば全てを失う)』
背筋が凍った。 脅迫だ。それも、最も卑劣なやり方で。 神崎の手の者か? それとも現地のブローカー組織か? どちらにせよ、敵は本気だ。 海堂が嗅ぎ回っていることは、既に筒抜けになっている。
海堂は震える手で封筒を握りつぶした。 恐怖がないわけではない。だが、それ以上に怒りが込み上げてきた。 家族を巻き込むとは、商社マンの風上にも置けない。 「……上等だ」
海堂は服を着替えた。 逃げ帰るわけにはいかない。 ここで引けば、娘の安全も保障されないだろう。敵の正体を暴き、息の根を止めるまで、このゲームを降りることはできない。
海堂はノートパソコンを開き、現地の調査会社にアクセスした。 『バンダル・アッバス』の港で、日本の部品を受け取っている組織を特定する必要がある。 そして、神崎と「アル・サハラ」の間を取り持っている黒幕の存在も。
夜のドバイ。窓の外には、世界一高いビル『ブルジュ・ハリファ』が煌めいている。 その光の陰で、国際的な陰謀と、男たちの欲望が渦巻いていた。 海堂は、ウィスキーの小瓶を開け、ストレートで流し込んだ。 胃の腑が焼けるような感覚と共に、覚悟が決まった。 禁断の航路。その闇の奥へと、踏み込む時が来た。




