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経済サスペンス小説『禁断の航路(サンクション・ルート)』  作者: 如月妙美


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第一章 書類の迷宮

小章① 番人たちの憂鬱

 六月、梅雨の湿気が東京・大手町のオフィス街を重く包み込んでいた。  地上三十五階建て、ガラス張りの威容を誇る『五代ごだい商事』本社ビル。その二十三階の北西の角に、社内でも特に異質とされる部署がある。  『安全保障貿易管理室』。通称、安貿管あんぼうかん。  総合商社という巨大な物流の心臓部において、彼らは「ブレーキ」の役割を担っている。武器や軍事転用可能な技術が、テロ支援国家や懸念国へ流出するのを防ぐための社内審査機関だ。  営業マンたちが「稼ぐ」ためにアクセルを踏み続けるのに対し、彼らは常に冷ややかな目で書類を精査し、疑わしき取引に「待った」をかける。ゆえに、社内で最も嫌われる部署でもあった。

 室員の海堂 健介かいどう・けんすけは、デスクに積み上げられた輸出承認申請書(EAR)の山を前に、深いため息をついた。  三十八歳。かつてはエネルギー・プラント部門のエースとして中東を飛び回っていたが、三年前に起きたあるプロジェクトの失敗の責任を取らされ、この窓際とも言える管理部門へ異動となった。  無精髭が目立つ顎をさすりながら、海堂は一枚の申請書をピックアップした。

「……またか。機械プラント本部」

 申請者は、中近東・アフリカ機械部の課長、石動いするぎ。  案件名は『UAE(アラブ首長国連邦)向け建設機械補修部品の輸出』。  一見すれば、何の変哲もない日常的な商売だ。ドバイにある現地の建機ディーラーへ、日本製ショベルカーの交換パーツを送るだけのこと。  だが、海堂の長年の勘が、微かな違和感を訴えていた。

 彼は添付されているパッキングリスト(梱包明細書)に目を走らせた。  油圧シリンダー、フィルター、ガスケット……。ありふれた消耗品が並ぶ中に、一つの型番が紛れ込んでいた。  『高精度ジャイロセンサー Model-X99』。

「ジャイロ……?」

 海堂は眉をひそめた。  確かに、最近の高度な建設機械には、車体の傾きを検知し、作業を自動化するためにジャイロセンサーが搭載されている。ICT建機と呼ばれる分野だ。  しかし、この『Model-X99』という型番は、民間用にしてはスペックが高すぎる。  海堂は端末を叩き、メーカーの仕様書をデータベースから引き出した。  『角速度検出範囲:±1000deg/s』『バイアス安定性:0.1deg/h』。  極めて高性能だ。これだけの精度があれば、無人航空機ドローンや、あるいは巡航ミサイルの姿勢制御にも転用できる。  いわゆる『デュアルユース(軍民両用)品』だ。

 経済通商省(経産省に相当する架空省庁)が定める『輸出貿易管理令』のリスト規制には引っかからないギリギリのライン。だが、これを大量に、しかも中東へ輸出するとなれば話は別だ。  UAEのドバイは、中東の物流ハブであると同時に、イランや北朝鮮への『迂回輸出』の中継地点としても悪名高い。

「おい、佐々木。このドバイの取引先、『アル・サハラ・トレーディング』について、信用調査レポートを出してくれ」

 海堂は隣の席の若手社員に声をかけた。  佐々木は眠そうな目をこすりながらキーボードを叩いた。

「アル・サハラですね……。はい、出ました。設立は五年前。ドバイのフリーゾーン(自由貿易地域)に登記されています。主な取扱品目は建機、自動車部品。代表者はパキスタン人のアリ・カーン。……特にブラックリストには載っていませんね。D&ダン・アンド・ブラッドストリートのスコアも平均的です」

「実態はどうだ? オフィスは? 倉庫は?」

「えーっと……ホームページはありますけど、実体があるかどうかまでは。ドバイのフリーゾーンなんて、私書箱だけのペーパーカンパニーが山ほどありますからね」

 海堂は指でデスクを叩いた。  怪しい。  ジャイロセンサーの数量は五十個。補修用在庫にしては多すぎる。  それに、このセンサーは単価が高い。一個三十万円としても、千五百万円。他の消耗品と合わせれば、総額五千万円近い取引になる。  それを、実績の浅い商社がいきなり買い付けるか?

「ストップだ。この案件、保留にする」

 海堂は申請書のステータスを『審査中』から『要確認』へと変更した。  その瞬間、フロアの入り口から怒鳴り声が響いた。

「おい! 海堂! どういうつもりだ!」

 足音荒く近づいてきたのは、申請者の石動課長……ではなく、その上司である機械プラント本部の部長、神崎かんざき隆二りゅうじだった。  四十五歳。色黒の肌に、イタリア製の高級スーツを着こなし、野心的な眼光を放つ男。同期の中でも出世頭であり、次期役員の椅子を約束されていると言われる「稼ぎ頭」だ。  そして、海堂にとっては、かつて同じチームで競い合ったライバルであり、彼をこの部署に追いやった張本人でもあった。


小章② エースの恫喝

 神崎は海堂のデスクの前に仁王立ちになり、モニターを指差した。

「UAE向けのパーツ案件、なぜ止めた? 船積みの期限(カット日)は明日なんだぞ。今日中に承認が下りなければ、船に乗り遅れる。違約金が発生したら、お前が払ってくれるのか?」

 営業マン特有の、相手を威圧するような大声。周りの室員たちが萎縮して顔を伏せる。  だが、海堂は動じなかった。ゆっくりと椅子を回し、神崎を見上げた。

「船積みなど知ったことか。俺の仕事は、会社のコンプライアンスを守ることだ。この案件には疑義がある」

「疑義だと? ただのショベルカーの部品だぞ。メーカーの該非判定書も『非該当』で出ているはずだ」

「形式上はな。だが、このジャイロセンサーは性能が高すぎる。ドバイの『アル・サハラ』という会社が、本当にこれを建機の修理に使うのか、エンドユーザー(最終需要者)の確認が取れていない」

 神谷は冷ややかに言った。

「ドバイはザルだ。そこから第三国へ流れたらどうなる? もしこの部品が、イランのドローンや、テロリストのミサイルから見つかったら、五代商事は国際的な制裁を受けることになる。アメリカのブラックリストに入れられたら、ドル取引が停止される。会社が潰れるぞ」

「妄想も大概にしろ!」

 神崎がデスクを拳で叩いた。

「アル・サハラは俺が開拓した優良顧客だ。社長のアリ・カーンとも何度も会って飯を食っている。彼らは真面目な商人だ。お前のその『疑り深さ』が、会社の利益を損ねているんだよ」

 神崎は顔を近づけ、声を潜めた。

「……いいか、海堂。これはただの部品売りじゃない。この裏には、サウジアラビアでの巨大インフラ・プロジェクトの受注がかかっているんだ。このパーツを迅速に納入することで、向こうの信頼を勝ち取る必要がある。邪魔をするな」

 政治的な案件か。  海堂は鼻で笑った。

「大きな商売の呼び水にするために、リスクを無視しろと言うのか? それがお前のやり方か、神崎」

「ビジネスにはスピードが必要だと言っているんだ。管理部のハンコ屋風情が、現場の足を引っ張るな」

 神崎の目に、侮蔑の色が浮かんだ。  三年前。ある資源開発プロジェクトで、地元の反政府勢力への賄賂疑惑が持ち上がった際、責任者だった神崎は上手く立ち回り、すべての責任を部下だった海堂に押し付けた。その結果が、今のこの席だ。

「……エンドユーザー証明書(EUC)を追加で提出しろ。現地の建機に取り付けられた写真と、シリアルナンバーの照合リストもだ。それがなければ承認印は押さん」

 海堂は毅然と言い放った。  神崎は顔を真っ赤にして、ギリギリと歯ぎしりをした。

「……覚えておけよ、海堂。このツケは高くつくぞ」

 捨て台詞を残し、神崎は踵を返して去っていった。  嵐が去った後のフロアに、再び静寂が戻る。  だが、海堂の胸のざわめきは収まらなかった。

 神崎のあの焦りよう。単なる納期の遅れを心配しているだけではない。  何かもっと大きな、触れてはいけない何かが、この案件の裏に潜んでいる気がした。

「佐々木、ドバイ行きのチケットを取れ」

 海堂は立ち上がった。

「えっ? 海堂さんが行くんですか?」

「ああ。現地現物ゲンチゲンブツだ。書類の上だけで判断するから騙される。俺が直接、その『アル・サハラ』って会社を見てくる」

 これは、単なる業務ではない。  三年前の雪辱戦だ。神崎が隠そうとしている闇を暴き、引きずり下ろす。  海堂の中で、眠っていた「商社マン」としての獣性が、静かに鎌首をもたげていた。


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