第一章 その5 漆黒の恐怖
ギルド《鉄の絆》での生活にも慣れてきたある日——。
ギルドホール内で、クロエが難しい顔をして壁に貼られた依頼書を眺めていた。
「何かあったんですか?」
俺が声をかけると、クロエは険しい表情のまま振り返る。
「最近、ソリス王国方面で謎の魔物が暴れてるらしい。行商人や街の人々が次々襲われてるんだとよ」
「謎の……魔物?」
俺の肩で、リーネがピクリと耳を立てた。
「ま、今んとこアタイらには関係ねぇ話だけどな」
クロエはそう言ったが、胸騒ぎがした。
数日後、状況が一変する。
謎の魔物はヴァルクライン連邦に近づき、小さな村が全滅したという報せがギルドに届いた。
「こりゃ放置できねぇな」
クロエの声には深刻さが宿っている。
「魔物は連邦にまっすぐ向かってる。次の村を守るために連邦全体で強力な討伐依頼が出された」
ギルドホールに重苦しい空気が漂った。俺たちもまた、その依頼に参加することになった。
討伐隊が展開する村に着くと、他のギルドのメンバーたちがすでに陣形を整えていた。
「相手が何者か分からん以上、油断するなよ!」
クロエが叫ぶ。緊張感が高まり、俺の手も汗ばむ。
「……来た」
ルカスの静かな声が響いた瞬間、森の奥から強烈な負の気配が現れる。
その魔物は全身が漆黒に染まり、周囲の光を吸い込み闇を纏っている。どこか禍々しい、異様な姿だった。
魔物の漆黒の姿が森を蝕みながら現れた瞬間、リーネの瞳はかすかに揺れた。そのしっぽが震えているのが、俺の肩越しに伝わる。
「リーネ……?」
「アキト……ダメ……本当に、ダメなんだってば……」
彼女の声は、震えていた。かつて見たことのない怯えと、焦り——。
「ボクの力じゃ、まだ……無理なんだし……あんなの、勝てるわけない……」
リーネは、俺の袖をぎゅっと掴む。
「逃げよ……お願いだから……」
彼女の目には明らかに迷いと、苦しみが浮かんでいた。
「見捨てるなんてしたくないよ……ボクだって……でも……でも……」
その声は、壊れそうなほど細く。
「リーネ」
安心させるよう優しく声をかけ頭をなでる。
「大丈夫だよ」
カッコ悪いことに声も手も震えている。
皆の顔色も険しい。
依頼で何度も戦闘を繰り返すうちに相手がどれだけ危険なのか分かるようになってきた。長年冒険者として生きてきた皆は自分以上にそれを感じているはずだ。
それでも逃げない。
それが冒険者だからだ。
それが俺が憧れ尊敬し目標にした冒険者の背中だ。
どこの誰かもわからない俺をクロエとギルドの皆は受け入れてくれた。家族と呼んでくれる。
会社と自宅の往復、仕事して仕事して空いた時間でゲームしてまた仕事して…、そんな温度のない人生をすごしてきた俺にとってギルドは温かかった。
ギルドの皆を見捨てることなんて俺にはできない。
だったら戦って勝って皆で生きてやる!
それは“魔物”と呼ぶにはあまりにも異質で、不吉の具現だった。
まず目がない。
本来そこにあるはずの顔は、漆黒の仮面のように滑らかで、穴も口もなく、ただただ“空虚”を抱えた黒。
その表面は微かに蠢き、光を呑み込み、影そのものが染み出しているように見える。
身体は人とも獣ともつかない不定形。
骨と肉がねじれ、歪み、歩くたびに関節の位置すら変わる異様さ。
指はあり得ないほど長く、刃のように尖り、指先からは闇の瘴気が揺らめきながら零れ落ちる。
皮膚は黒曜石のような鈍い黒にひび割れが走り、そこから溢れるのはどす黒く濁った光。
それは光ではなく、負の輝き。見る者の心を腐らせ、死を囁く毒そのもの。
そして何よりも、存在そのものが“音”を喰らっていた。
足音が消え、風が止まり、世界が妙に静まり返る。
遠くで誰かが叫んでいても、その声は霞んで届かない。
ただ、ぬるり……と迫るその気配だけが、肌を粟立たせ、魂の奥底まで冷たく蝕んでいく。
それは死の匂いではない、“消滅”の匂いを放っていた。
「遠距離隊武器構え!撃て!!」
焼けた肌に刻まれた無数の傷痕。片目を失いながらも鋭く光る隻眼。今回の討伐隊の隊長の号令が響く
号令に合わせティナは銃杖から風の刃を放つ。
「裂けろ——風刃!」
鋭い風の刃が魔物めがけて放たれる。空気そのものを裂く鋭さ、並の魔物なら一息で両断されていたはずだった。
だが——。
魔物の周囲を覆う黒き霧が、風の刃を阻む。
切り裂くはずの力は、霧を裂いたものの本体に傷をつけることはなかった。
続けざまに放たれる雷撃も、氷の刃も、炎の槍も——届かない。
全てが“霧”に阻まれ、跡形もなく消える。
それは煙でも影でもない、“闇”そのもの。
魔物が纏う黒霧は、生きた瘴気のように揺らぎ、侵入する魔力を全て防いでしまう。
「——ッ!? そんな……効かない……!」
叫びは震え、指先が強張る。
魔法は絶対の力ではない。そう、知らされた瞬間だった。
奴は一歩、また一歩と音もなく近づく。
闇の霧を引き摺りながら——何の感情も宿さない虚ろな“仮面”を揺らし——確実に、静かに、死を運ぶ。
ぬるりと魔物が加速した。
音が遅れ、風が消える。
次の瞬間、黒き残像が胸元を貫いた。
「——ッ!」
肉が裂ける湿った音とともに、血が弾ける。
呻きも叫びも追いつかず、ただ身体が跳ね上がる。
だが、終わりはそれだけではなかった。
魔物は、貫いた指をそのまま引き抜くと、ぶらりとだらしなく垂れた肉片を掴み、その顔——顔とも呼べぬ漆黒の仮面——を近づける。
ぐちゃ……。
ぬるりとその口元が開いた。
裂けることなく、ただ“歪み”が生まれる。
そして、指ごと——肉も、骨も、魂までも——喰らい始めた。
ゴキ、ガリ、ジュル……。
耳にまとわりつくような、湿った異音。
血の気の引いた目の前で、魔物は淡々と喰らい、咀嚼し、飲み込む。
その間、何も感じていない。
感情も、喜びも、空腹さえもない。
ただ、“喰らう”という行為だけがそこにあった。
見ている者の全てが凍りつく。あれは生き物ではない——
あれは虚無だ。
この世界を喰い尽くす“終わり”そのものだった。
――魔物は、突如として蠢いた。
漆黒の霧を纏いながら、鈍く歪んだ身体がじり……じり……と前へ出る。
「来るぞ!」
歴戦の冒険者——傷だらけの隊長が咆哮する。
鋼の大剣が一閃、重く鋭い風切り音が響き渡る。
それは幾多の戦場を生き抜いた、渾身の一撃だった。
刃は、確かに奴の肉を裂いた。
黒霧ごと斬り裂く。斬撃は深く、肉を割き、骨すら噛み砕くはずだった——
——だが、止まらない。
「なっ……!?」
隊長の隻眼が驚愕に染まる。
斬られながら、血も流さず、魔物は微動だにせず、ただその顔なき仮面を彼に向けたまま一歩……一歩……。
「効いてるはずだ、だが——!」
呻く隊長に、すかさずクロエの声が飛ぶ。
「援護する!押し込め!」
重斧が空気を切り裂き、唸りを上げる。
その刹那、銀の残像が横を駆け抜ける。
ルカス——黒マントを翻し、無言のまま影のように疾駆する。
双剣が光を裂き、滑るように霧を斬りつけ裂目を空ける。
「ティナ、頼む!」
ルカスの声に呼応し、少女は杖を構えた。
「風よ——切り裂け!」
ティナの魔力が解き放たれる。
烈風の刃がうねり、魔物へと襲いかかる。鋭利な風は、裂目を潜り肉体を削り取る。
「おおぉっ!」
リーネの力を宿したアキトの炎刃が追撃し、クロエの重撃が叩き込まれる。
怒涛の波状攻撃。
火、風、鋼、影——
だが、奴は崩れない。
裂けたはずの肉は、黒く濁った瘴気に満たされ、瞬く間に元に戻る。まるで傷が“最初から存在しなかった”かのように。
「くっ……マジか……」
ティナが息を呑む。
ルカスは無言のまま双剣を構え直す。冷静な眼差しの奥で、ほんの僅かに歯噛みする。
「まだ、やれる……!」
アキトは剣を握り直す。
指輪の中、リーネの震える声が胸に響く。
『負けないで……一緒に、絶対倒そう……!』
その時だった——。
魔物が、意図もなく振り下ろした腕が、アキトを捉えた。
鈍い衝撃音。空気が爆ぜる。身体ごと吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
『アキトっ!!』
リーネの悲鳴が響く。クロエが駆け寄る間もなく、アキトの意識は深く沈み込んでいく——。
視界が黒く染まる。
仲間たちの声が遠ざかり、魔物の咆哮も、ただ霞の向こうに揺らぐだけだった——。




