第五章 その4 海の歌姫の戦い
北の貴族街——そこは比較的被害が少ない地区だった。
貴族たちの屋敷には独自の防衛魔法があり、虚核の魔物も容易には侵入できない。
しかし、街路には逃げ遅れた平民たちがいた。屋敷で働く使用人や、商人たち。
「みなさん、こちらへ!」
ヴァネッサが杖を掲げ、人々を安全な場所へ誘導していた。
「落ち着いて、順番に——」
その時、悲鳴が上がった。
「ぎゃあああ!」
振り返ると、一人の商人が地面に倒れている。
足に、深い切り傷。血が石畳を赤く染めていく。
「誰が……」
ヴァネッサが周囲を見回した時、屋敷の階段を駆け降りる女性使用人が視界に入った。
その影を横切るように、剣閃が閃く。
「きゃああ!」
悲鳴と共に彼女の腕から血が滴り、階段を転げ落ちる。
ヴァネッサの心臓が跳ねた。
朝日を背に立つ影。鎧の輪郭、長剣の形。
「……レオンハルト?」
そこに立っていたのは、王国の騎士だった。しかし、その瞳は虚ろで、表情は能面のように無感情。
杖をついた老人が横切ろうとした瞬間、レオンハルトが地面を蹴った。石畳が弾け、老人へと弾丸のごとく迫る。
刃が閃きーー
カィン!
ヴァネッサの杖が軌道を逸らす。
火花が散り、至近距離で無表情の顔と対峙した。
「なぜ、このようなことを……」
「陛下の命令だ」
レオンハルトが機械的に答える。
「絶望を撒く。それが、私の任務」
「これ以上、民を傷つけさせません」
ヴァネッサが凛とした声で宣言する。
「レオンハルト、正気に戻りなさい!」
しかし、レオンハルトは無表情のまま剣を引く。
「邪魔をするな」
レオンハルトが連撃を繰り出す。
ヴァネッサは杖を薙ぎ、水の鞭で剣を絡め取ろうとするが、鋼の刃が水を裂く。
朝日を受けた水滴が光を弾く中、死の斬撃が迫る。
ヴァネッサは後退しながら杖を回し、水滴を集めて負傷者を包む。
「癒しの水よ、傷を癒せ」
水の膜が優しく光り、切り傷が少しずつ塞がっていく。
そのわずかな動作を見逃さず、レオンハルトの剣に魔力が集中した。
空気を震わす必殺の速度ーー
「ーーっ!」
避けられない。
その瞬間、地面が爆ぜた。
地面から巨大な水柱が立ち上がる。
レオンハルトの斬撃が水柱にぶつかり火花が散る。
「っ!?」
水の中に揺れる影。
そして——
水が割れ、一人の女性が姿を現した。
青緑の髪が流れ出し、白い肩、真珠を飾る胸元、波のようなドレスの裾。
肌は真珠のように白く、瞳は深海のように青い。
女性が降り立つ。脚が石畳に触れた瞬間、周囲の水たまりが波紋を広げた。
「♪ ヴァネッサ〜、ここは私に任せて〜 ♪」
その声は、海の調べのように美しく響いた。
「メロディア……」
ヴァネッサが息を呑む。
セイレーンの精霊核が、人間の姿を取ったのだ。
「♪ 貴女は癒していて〜、戦いは私が歌うから〜 ♪」
メロディアが優雅に前に出る。
「♪ ねぇ〜、ヴァネッサ〜、貴女は優しい水で皆を包んで〜 、この舞台は、私の音で満たしてあげる〜 ♪」
手にしたハープを軽く鳴らす。
その音色と共に、周囲の水が踊り始める。
「♪ 安心して〜、全部私の歌に委ねて〜 ♪」
レオンハルトが剣を構え直す。
「精霊核が人の姿か。だが、それで何が変わる」
「♪ さあ〜、深い海の旋律はどう響くかしら〜? ♪」
メロディアが微笑む。
それは、深海の神秘を秘めた、妖艶な笑みだった。
「♪〜〜♪」
メロディアがハープを奏で始める。
その旋律は、古い海の歌。船乗りたちを惑わせ、海に誘うセイレーンの歌。
すると——
音色が空気を震わせ、水分が粒子となって舞い上がる。
集まる水が形を変え、巨大なクラゲの傘が開く。半透明の体を朝日が透過し、虹色の光が広がった。
レオンハルトが姿を消すような速度で突進。剣がクラゲを両断するが水が再生し、触手がしなる。
石畳を砕きながら鞭のように襲いかかる触手を、騎士は紙一重で避け、剣で千切る
メロディアの歌のリズムが変わる。
空気が震え三つの渦を生む。渦はサメの形を取る。
三体の水のサメが、獰猛に牙を剥いてレオンハルトを取り囲む。
三体のサメが突撃する。
一体目――横跳びで回避。
二体目――下から跳ね上がる顎を剣で両断。
両断と同時、三体目のサメが背後から噛みつく。
鎧が軋む。
「はぁっ!」
レオンハルトが身体から魔力を爆ぜさせ、サメを吹き飛ばす。
息を荒げる騎士の前で、メロディアは新たな曲を優雅に弾き紡ぐ。
八本の巨大触手——クラーケンが水から立ち上がる。
その八本の足が、まるで鞭のようにレオンハルトを襲う。
「はあっ!」
騎士の剣が、クラーケンの足を次々と切り落とす。
しかし、一本が足を絡め取りレオンハルトを空中へと投げ飛ばした。
だが、レオンハルトに焦りはない。上段に剣を構える。次の瞬間、剣が光る。
「はあぁぁぁっ!」
レオンハルトが剣から魔力の刃を放つ。
魔力の刃はクラーケンを両断し消し去った。
しかし、レオンハルトの身体は宙にある。
その隙を、メロディアは見逃さない。
「♪〜〜〜♪」
歌のテンポが上がる。
遥か上空、水の量が、圧倒的に増えていく。
そして——
ザバアッ!
巨大な尾びれが、水面から現れた。
体長十メートルはあろうかという水のクジラが、空中を泳ぐ。
その巨体が、レオンハルトめがけて落下してくる。
「くっ!」
回避不可。
クジラは自身の体ごとレオンハルトを地面に叩きつける。
地面に落下したクジラは爆発し、その水飛沫は辺り一帯に雨を降らせた。
雨が止む。
レオンハルトは落下地点の中心で立っている。その鎧は何箇所もひしゃげていたが闘志に歪みはなかった。
「♪ ふふ、やるじゃない〜、騎士様〜 ♪」
メロディアが感心したように呟く。
「♪ でも〜、次の一曲で幕を下ろすわ〜 ♪」
ハープの弦を、一本一本丁寧に爪弾く。
「♪ まだね〜、最後のクライマックスが残っているの〜 ♪」
その音色は、今までとは違った。
荘厳で、神聖で、そして恐ろしいほどに美しい。
「♪ 遥か古の海に眠る王よ〜、目を覚まして〜 ♪」
メロディアが歌い始める。
「♪ 深淵の王〜、再びその姿をこの舞台に〜 ♪」
周囲の水が、全て一点に集まり、渦を巻く。
ヴァネッサが息を呑む。
「まさか……リヴァイアサン!?」
立ち上がる水の竜巻の中、巨大な影が形を成していく。
二十メートルを超える水の巨躯がレオンハルトを睥睨する。
水で出来ているとは思えないほど、精巧で威厳に満ちた姿。
「伝説の海竜……」
レオンハルトの足が無意識に後退した。
竜が息を吸い、喉が光る。
「♪ これでフィナーレ〜、あなたの幕を閉じるわ〜 ♪」
メロディアが、最後の一節を歌い上げる。
「深海の息吹——海龍覇!」
轟音と共に放たれた水流が、光線のように広場を横切り、石畳を抉り、建物の壁を貫いた。
全てを押し流す破壊の奔流。
「ぐああああああ!」
レオンハルトが、その激流に飲み込まれる。
鎧が軋み、剣が弾き飛ばされ、体が地面に叩きつけられる。
水のブレスが止み、リヴァイアサンが霧散していく。
レオンハルトは、瓦礫の中で動かなくなっていた。
生きてはいるが、もはや戦闘不能。
「ふう……」
メロディアが、ほっと息をつく。
しかし、その体から光が漏れ始める。
「♪ はぁ……もう、歌声が……限界みたい〜…… ♪」
「メロディア!」
ヴァネッサが駆け寄る。
「ありがとうございます。おかげで民を守れました」
「♪ そんなの当たり前よ〜、仲間を守るためだもの〜 ♪」
メロディアの膝が折れた。
ヴァネッサが彼女を抱きとめる。
「お疲れ様、メロディア」
その名を呼ぶと、小さな微笑みと共に、彼女はマーメイドの姿に戻り、ヴァネッサの肩にぐったりと身を預けた。
広場に静寂が訪れる。
朝日だけが、戦いの爪痕を照らしていた。




