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第四章 その11  歪む空間

 突如、足元に眩い魔法陣が展開された。


「なっ——!」


 光が炸裂し、空間がねじれたかと思うと、セリス=アストリアの意識が強引に引きずられるようにして歪む。


 次の瞬間、彼女はまるで夢の底に叩き落とされるような感覚と共に、異なる空間へと投げ出されていた。


 そこは、目を開けた瞬間から現実が揺らぐ異質な空間だった。


「これは……」


 セリスは、周囲を見回しながら慎重に歩を進める。壁があるはずの場所に床があり、天井だったはずの場所に扉が浮かんでいる。空間そのものが捻じれ、歪み、常識が通用しない。


『セリス、この空間は危険です。現実と虚構の境界が曖昧になっています』


 角笛のペンダントから、アリエルの声が響く。銀製の小さな角笛は、淡い光を放ちながら主を守護していた。


「ええ、分かっているわ。でも進まなければ」


 一歩踏み出すごとに、景色が変わる。王城の謁見の間、幼い頃に遊んだ庭園、そして——偽物の自分が玉座に座る光景。


「また、この景色……」


 それは、王位を奪われた時の記憶。偽セリスが冷たい笑みを浮かべながら、臣下たちに命令を下している。誰も本物の自分に気づかない。声を上げても、誰にも届かない——


「いいえ、これは幻」


 セリスは首を振り、前を向いた。過去に囚われている場合ではない。


 そして、回廊の最深部に辿り着いた時——


「ようこそ、真実の王女様」


 声が響いた。どこからともなく、いや、あらゆる方向から同時に。


「私はエルネス。虚空の司教にして、真実と虚構の狭間に立つ者」


 空間が歪み、人影が現れた。否、人影"たち"が。


 無数のエルネスが、セリスを取り囲んでいた。老人、少女、騎士、商人——あらゆる姿をしたエルネスたちが、同じ虚ろな笑みを浮かべている。


「さあ、王女様。あなたの"真実"を見せていただきましょう」


「これが、虚空の司教の力……」


 セリスは警戒を強めながら、エルネスたちを見据えた。


『セリス、どれも本物のように見えますが、全て虚構です。惑わされないで』


「分かっているわ、アリエル」


しかし、次の瞬間——


「本当に、分かっているの?」


 エルネスの一人が、セリスと全く同じ姿になった。王女の装束、王家の紋章、そして——慈愛に満ちた微笑み。


「私こそが、本物のセリス=アストリアよ」


 もう一人のセリスが、優雅に一礼する。


「あなたは誰? 本当に自分が本物だと言い切れる?」


「くだらない幻術ね」


 セリスは毅然と言い放った。しかし——


「幻術? いいえ、これは可能性の提示です」


 空間が再び歪み、新たな光景が広がった。


 そこでは、セリスが民衆を弾圧していた。泣き叫ぶ人々を前に、冷酷な命令を下す自分の姿。


「これも、あり得た未来。少し違う選択をしていれば、あなたはこうなっていた」


「違う! 私は民のために——」


「本当に?」


 別の光景。今度は、セリスが偽物の座を奪い返すために、罪なき人々を犠牲にしている場面。


「王座を取り戻すため、あなたは何人の血を流すつもり?」


「それは……」


 セリスの心が揺らいだ。確かに、王国を取り戻すための戦いで、犠牲は避けられない。それは正義なのか、それとも——


『セリス!』


 アリエルの声が、迷いを断ち切った。


『惑わされてはいけません。あなたの信念を思い出して!』


「そうね……ありがとう、アリエル」


 セリスは深呼吸をし、しっかりと前を向いた。


「確かに、私も迷うことがある。正しい選択なんて、誰にも分からない」


エルネスたちが、興味深そうに耳を傾ける。


「でも、だからこそ——」


 ペンダントが輝き始めた。それは、アリエルとの絆の証。


「だからこそ、一人で背負わない。支え合い、共に考え、共に歩む。それが私の理想」


『その通りです、セリス。完璧な支配者なんていない。でも、皆で支え合えば——』


「より良い未来を創れる」


 二人の声が重なった瞬間、銀の角笛が眩い光を放った。


「エルネス、あなたは間違っている。真実は一つじゃない。人の数だけ真実があり、それらが重なり合って世界ができている」


 光の中で、何かが共鳴し始めた。それは、セリスとアリエルの魂の響き。


『セリス、私たちは——共に新しい国を創りましょう。誰も取り残さない、皆が手を取り合える国を』


「ええ、アリエル。エルネスの虚無も、偽物の支配も——全て終わらせて、本当の平和を」


 決意が固まった時、角笛から神々しい光が溢れ出した。


 光の中から、アリエルが姿を現した。


 それは、もはや獣の域を超えていた。アリエルの真なる姿——その純白の肢体は、星の残光を織り込んだような繊細な輝きを放ち、額から伸びる角は天の理そのものを象徴するかのように、静かに光を揺らめかせていた。二枚の翼は、まるで黎明を裂いて舞い降りた神霊のように広がり、揺れるたび空間の歪みすら整えていく。

 その姿は、世界に祝福と審判をもたらす存在に他ならなかった。


「……あなたは、こんなにも美しかったのね」


 その隣に立つ少女の姿もまた、変わっていた。


 淡く金属の光を宿す鎧装は夜明けの空を模した蒼を基調に、流れる意志のごとく身体に沿ってしなやかに形成されている。肩を覆う銀の紋飾は風の加護を象り、胸元の装飾には誰かの祈りのかけらのような微細な光が脈打っていた。

 そして背に展開された二枚の光翼は、威風と気高さを具現したものであり、剣ではなく槍を携えるその姿には、戦場を越えた使命を背負う者の影が重なる。


 彼女の手にある槍は、ただの武具ではない。

 数多の願い、痛み、そして歩んできた答えが結晶となった、魂の光柱。


 それは希望を穿ち、虚構を裂き、真実の在処を示すための槍。

 夜を裂き、曇り空に風穴を開けるように——彼女は光を携えて立っていた。

 

「美しい……」


エルネスたちが、初めて動揺を見せた。


「なぜだ……なぜ虚構に惑わされない……」


「簡単なことよ」


 セリスは槍を構えた。その姿は、まさに戦女神——気高く、美しく、そして強い。


「私には、信じてくれる仲間がいる。支えてくれる民がいる。そして——」


 アリエルが寄り添い、その額の角がセリスの槍と共鳴する。


「共に歩む、かけがえのない相棒がいる」


 二人の力が完全に同調した時、槍から放たれた光が虚構の空間を貫いた。


「ぐあああああ!」


 エルネスたちが苦悶の声を上げる。虚構で作られた無数の姿が、次々と消えていく。


「馬鹿な……真実の光だと……」


 最後に残った一体——恐らくそれが本体——が、よろめきながら後退した。


「虚構こそが……人を幸せにする……辛い現実から……目を背けることこそ……」


「違うわ」


 セリスは静かに、しかし力強く否定した。


「確かに現実は辛いことも多い。でも、その中にこそ本当の幸せがある。仲間と笑い合うこと、共に涙すること、支え合うこと——」


 槍を掲げると、その切っ先から温かな光が広がっていく。


「それらは全て、現実だからこそ価値がある」


「うわあああああ!」


 エルネスの体から、黒い霧が噴き出した。虚核が、限界を迎えている。


「マクシミリアン様……申し訳……ございません……」


 最後にそう呟いて、エルネスは光に包まれて消滅した。


 歪んでいた空間が、元に戻っていく。ただの石造りの回廊が、そこにはあった。


「終わったのね……」


 アリエルが、セリスの隣に降り立つ。今もまだ、神々しい本来の姿のままで。


「セリス、見事でした。あなたの信念は、どんな虚構にも負けない」


「いいえ、アリエル。あなたがいてくれたからよ」


 セリスは優しく微笑み、アリエルの首を撫でた。


「でも、これで分かったわ。この教団の目的が」


「ヴォイド……ですね」


 司教たちが口にしていた名前。そして、マクシミリアンが仕えているという存在。


「急ぎましょう。アキトさんたちも——」


 その時、聖堂の奥から轟音が響いた。激しい戦闘の音。


「アキトさん!」


 セリスは槍を手に、回廊を駆け出した。アリエルもその後に続く。


 虚構を打ち破り、真実の光を手にした戦女神は、最後の戦いへと向かっていく。


 その瞳に宿るのは、揺るぎない決意。そして、仲間たちへの信頼だった。


「待っていて、皆。必ず——全てを終わらせるわ」


 光の槍を携えて、真実の王女は走り続けた。

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