8
離宮の図書室は、午後の陽に照らされていた。
棚に並ぶ古書の背表紙に、窓から射し込んだ光が帯のように落ちている。
ユリウスは、文月の横にある長椅子に静かに腰を下ろした。
無言のまま、指先で膝をなぞる。
ふと文月が顔を覗き込むようにして尋ねた。
「……もしかして、アイリーンさんと喧嘩でもしましたか?」
それだけの言葉で、胸の内がずしりと重くなった。
口を開けば、どろりと溶けた自己嫌悪がこぼれてしまいそうで、ユリウスは言葉を探すのをやめた。
「うん。……多分、そうなんだと思う」
力ない答えに、文月は小さく眉をひそめた。
そして、そっと笑ってみせる。
「なら、明日ちゃんと仲直りしないとですね」
「……明日は、俺が一緒に行くよ。王妃様から、お茶会のお誘いが届いたんだ。本当ならアイリーンが同行するはずだったけど、今のままじゃ……ちょっと、無理だ」
文月は軽く目を見開いた。
「ええっ、お茶会!?また私が行くんですか?」
「まあ……君が断っても、王妃殿下は“来ること”を前提にされてたしね。ドレスはすでに用意されてるって、アイリーンが言ってた。以前仕立てたものに、いくつか追加して」
驚きとともに、小さなため息をつく文月に、少しだけ、空気が緩んだ。
やがて、文月がふと手元の本を掲げる。
「これ……この“百合亜”さんって人、すごいなって思ってたんです。医者で、しかも女性で。異世界で疫病を止めるなんて」
ユリウスは軽く肩をすくめた。
「まあ、昔は少なかったかもしれないけれど、最近は女性の医者も多いからね。逆に看護師は男性も多い。職業によっての性差のない社会っていうのが理想だよね」
「そ、そうなんですか……」
文月の声が、少し遠くに聞こえた。
「私の周りじゃ、お医者様ってだいたい男の人で……女の人は看護婦さんか、産婆さんぐらいで……」
その言葉に、ユリウスの眉がぴくりと動いた。
「……産婆さん?」
「え? 赤ちゃん取り上げる人です。家に来てくれて」
「いや、それは知ってるけど……。え、待って、文月……」
言いかけて、ユリウスはふと沈黙した。
疑問がいくつも頭の中を駆け回る。
ひとつずつ拾い上げるように、問いを口にした。
「テレビは……知ってるんだよね?」
「親戚の家にありますよ。あんな高価なもの、うちはないですけど。たまに近所の子ども達が観にきてますね」
「……洗濯機は?」
「ありますよ。うちのは脱水する時、手で取っ手をぐるぐる回すんです。前に隣のおばちゃんが使ってたのを、譲ってもらって。便利ですよね、ほんと」
ユリウスは、一瞬言葉を失った。
体温がすっと引いていくような感覚がした。
「……それ、昭和、何年?」
「え?私は昭和三十五年生まれです。女学校の二年生です」
答えた文月は、まるで当たり前のことを言うように、柔らかく笑った。
だが、ユリウスはその場に座り込むようにして、目を伏せた。
「……うそだろ。俺は……令和だった。ネットもあるし、スマホもあった……」
文月はきょとんとした顔をしている。
「すまほ……?」
返答がないまま、ユリウスは口元を押さえた。
何かが崩れる音が、頭の奥で響いていた。
「……じゃあ、俺たち……同じ“日本”から来たけど、時代が……違う……?」
その言葉に、文月がようやく事情を察したように、少しだけ驚いた顔を見せた。
それでも、彼女は静かに頷いた。
「どういうことでしょうか?」
「いや、俺は平成生まれなんだけど……」
「へいせい?」
文月が心底困ったように首を傾げた。
それを見ながら、ユリウスはどくどくと大きな音を立てる自分の鼓動の音を聞いていた。
春の風が庭園を撫で、小径に白い花びらが舞っていた。
王妃が催す特別なお茶会は、離宮の温室の奥、光に満ちたガラス張りの広間で行われるという。
「緊張する……」
文月が、レースの手袋の端をそっと握りしめながらつぶやいた。
本日の装いは優しい桃色のデイドレスで、癖一つない黒髪に似合っていて初々しい。
ユリウスはそんな彼女の様子に、口元だけで微笑んだ。
「十分、立派な“聖女様”に見えるよ」
文月はうっすら頬を赤らめた。
ユリウスは、いつものように柔らかく笑って見せるが、その胸の奥には昨日の残響がまだ渦を巻いていた。
ガラスのドームに入ると、既に王妃と数人の貴婦人たちが揃っていた。
ユリウスが頭を下げると、王妃がやわらかく手を振った。
「よく来てくださいました、聖女様。そして……ユリウス」
優しい声音だったが、彼女の瞳の奥に宿る観察の光を、ユリウスは見逃さなかった。
文月は慣れぬ貴族の言葉遣いに戸惑いながらも、丁寧に応じた。
ひとしきり挨拶が交わされ、貴婦人たちが会話に花を咲かせ始めた頃。
ユリウスと文月は、少し離れた席に並んで腰を下ろした。
温かい紅茶が注がれ、細やかな焼き菓子が並べられる。
文月が緊張を解くように小さく笑った。
「ねえ、なんだか……今日の私たちって、まるで“婚約者”みたいじゃないですか?」
その言葉に、ユリウスはふと手を止める。
「それは……」
少し間を置き、けれど迷いなく続けた。
「それはどうでしょうか。私には――アイリーンがいる」
まるで自分に言い聞かせるような声だった。
その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。
ふと、あの時の映像が浮かび上がった。
ああ、そうだ。
――あの日。
王城の執務室で、差し出された紅茶の香り。
金色の液体が揺れるその器を、義母が笑みをたたえて差し出した。
飲もうとしたとき、微かに違和感があった。
香りが、かすかに甘すぎた。
「これは……」
そう言いかけたとき、義母が言った。
「殿下。これからも、あの子を……どうかお支えくださいね」
その言葉が妙に胸に残った。
毒の味は、すぐにわかった。
けれど――飲んだ。
「……あの時、死んだと思った」
ユリウスが、今そこにいる文月ではなく、まるで独り言のように呟いた。
文月は紅茶を持ち上げかけた手を止め、そっと彼を見つめた。
「ユリウスさん?」
「でも、死ねなかった」
隣にいる文月にしかわからないくらい、小さな、静かな声だった。
それでも、想いは鋭く深く、湯気の立つ紅茶より熱かった。
文月は、微笑んだ。
「……じゃあ、生きててよかったんですね」
ユリウスは目を伏せる。
「わかんない」
文月は小さく頷き、窓の向こう、花びらの舞う庭に視線を送った。
「……帰れるといいですね。あなたも。アイリーンさんの元に」
ああ、そうか。
ユリウスは納得して、そっとカップをソーサーに戻した。
紅茶の香りが甘く、静かに満ちている。
揺れるカップの向こう側、王妃はひとつ笑みを浮かべていた。
その微笑は春の陽だまりのようで、けれど、どこか張り詰めた空気があった。
「文月様。あなたのお噂は、この国でもずいぶんと広まっていますのよ」
「もったいないお言葉です」
「礼節も知識もおありで、お育ちも申し分ない」
「……あの……」
「でも――何より、ユリウスととても、相性が良いように思えて。心配だわ」
言葉のひとつひとつは柔らかだった。
しかし、その奥にある意図を、ユリウスは理解していた。
「……過分なお言葉です、母上」
少し間をおいて、王妃はまた紅茶を一口含み、ふと、視線を遠くに向けた。
「この国も、時代が変わろうとしております。しきたりや形式ばかりに囚われていては、王家は時代に取り残されてしまう。――血筋だけではなく、“国に必要な妃”を、選ばねばなりません」
テーブルに静かに置かれたカップが、かすかに音を立てた。
その音が、ユリウスの胸を冷たく打つ。
「……アイリーンは、優れた人です」
王妃は目を細め、わずかに首を傾けた。
「ええ。教育は行き届いておりますし、公爵家の名も申し分ない。でも――あの子に“あなたを支える力”があるかしら?」
“あの子”――アイリーン。
まるで、駒としての価値を静かに測るような物言いに、ユリウスの内に、静かな怒りと警戒が広がっていく。
支える能力不足?
違う。
義母は、アイリーンが家柄本人の資質ともに申し分ないから、嫌なのだ。
王太子と張り合えてしまうような後ろ盾のある婚約者は、第二王子には必要ない。
彼女は、ユリウスにとってただの“政略結婚の相手”じゃなかった。
幼い頃に、誰より先に笑いかけてくれた少女。
誇り高く、決して泣き言を言わず、それでも誰より寂しがり屋な――唯一の婚約者。
だが、かつて彼が口にした紅茶に忍ばせられていたものとは、違う種類の毒が、王妃の口から洩れでる。
これは、“彼女を切り捨てろ”という静かな命令。
「母上。……私は、自分で選びたいと思っています」
その言葉に、王妃は小さく目を伏せた。
「そう――ご自由に。けれど、国の未来に関わること。どうか、賢明な選択を」
そのまなざしは、なお穏やかだった。
だがユリウスは、確かに見た。
王妃の瞳の奥に、氷のように透き通った“支配”の光が宿っていたことを。
そして、確信する。
――このままでは、アイリーンが危ない。
「母上。大変申し訳ございませんが、私達はここで退席させていただきます」
「え?ちょっ、ユリウスさん?」
軽く退席の礼をすると、驚く文月の手を引いて、サンルームを後にする。
だんだん、だんだんと足が速くなるのを止められない。
――あの日、あの春の午後。
王宮の執務室には、わずかに花の香りが漂っていた。
アイリーンが差し入れた花瓶の花の匂いだ。
ユリウスは、机に向かい、報告書に目を通していた。
そのとき、扉が静かに開く音がした。
「失礼しますわね」
現れたのは、彼の義母だった。
ふわりと香水の匂いを纏い、柔らかく微笑みながら、彼のために紅茶を淹れてくれる。
(なぜ、今?)
ふと、そんな違和感が胸をかすめた。
最近、第一王子――ユリウスの兄は、評判が悪い。
慢心、浪費、素行不良。
ここ最近、王宮の空気は徐々に変わりつつあった。
「第二王子のほうが、いっそ……」そんな声が、宮廷のあちこちで囁かれている。
王宮は、ふたつの派閥に割れていた。
亡き側妃の血を引くユリウスを推す者たちと、第一王子を支持する者たち。
「しっかり、王太子を支えるのですよ」
義母は、紅茶を差し出しながら、柔らかく言った。
「はい」
ユリウスは、機械的に答えた。
カップを受け取った瞬間、微かな異臭に気づいた。
義母が問答無用で砂糖を入れた甘いはずの紅茶に、鋭く鼻を突く匂い。
あまり平和とはいえない長い王族の歴史の中、毒に慣らされて育てられてきた彼には、それがすぐにわかった。
(この毒は……即死はしない。けれど、後遺症が残るかもしれない)
指先が、微かに震えた。
義母は、何も知らない顔で微笑んでいた。
(いや、知っているのだ)
(知った上で、微笑んでいる)
ユリウスは、ゆっくりと目を伏せた。
ここで自分がこれを飲まなければ、この人の悪意は、どこにいくのか、それは手に取るようにわかる。
実家の強い後ろ盾がある王妃がすることだ。
誰の仕業かわかっていても、誰も口を出せない。
それはきっと、ユリウスの父である王さえも。
ユリウスはあまり実権のない家出身の即妃の子で、後ろ盾は婚約者であるアイリーンの実家のみ。
義母からすれば、アイリーンは邪魔で邪魔で仕方がないだろう。
では、どうすればよいか。
要は、ユリウスが王太子としての資格を失えばいい。
例えば、後遺症で麻痺などが残れば、それですべての問題は解決する。
ユリウスは薄っすらと笑みを浮かべた。
義母がはっと息をのんで、ぐっと顔をゆがめた。
ユリウスは何も言わず――その紅茶を飲み干した。
カップが、かすかに震える音を立てた。
次の瞬間。
視界が歪み、世界がぐらりと傾いた。
ユリウスは、椅子から転がり落ちた。
身体が、自分のものではないみたいだった。
胸が焼けるように熱い。
喉がひりつき、呼吸ができない。
這うように床に手をついた。
義母の濃い青のドレスの裾が扉の向こうに消えていくのを、黙って見送る。
(アイリーン……)
苦しみの中、ふと脳裏に浮かんだのは、婚約者の姿だった。
それも、初めて会ったときのあの小さな頃の。
まだ幼かったあの日。
森で迷子になり、泣きそうになりながら、それでも気丈に立っていた少女。
まだ、婚約も決まっていなかった頃。
ユリウスが差し出したてに、小さな手を、そっと乗せた彼女。
(あの子も……味方など、どこにもいないのに)
(私と婚約してしまったせいで、もう、ほかに嫁ぐこともできないだろう)
(……もし私が死んだら)
(彼女は、どうなるのだろう)
目の奥に、泣き虫で、誇り高くて、それでも誰よりも強く、あたたかかったアイリーンが浮かんだ。
心のどこかで、戦友のように思っていた。
一緒に戦ってくれる、そんな相手だと。
――守ってあげられたらよかったのに。
ユリウスの目から、熱い涙が一筋、零れた。
口を動かして名前を呼ぼうとしたが、息苦しさでもう声も出なかった。
世界が、白く滲んでいく。
最後に、彼は心の中で、必死に願った。
(あの日に、帰りたい)
まだ、何も失っていなかった、
まだ、誰の手も取っていなかった、
あの森の、春の午後に。