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高い天井に光が差し込み、古い書架の間を照らしていた。

午前の図書室はいつも静かで、まるで本たちがそれぞれに夢を見ているかのようだった。


その片隅。

重たげな本を抱えながら、文月が床にしゃがみ込んでページをめくっていた。


「ここの棚の本……アイリーンさんは全部読んだんですよね?」


問いかけは、遠慮がちな声色だった。

それでも確かに、尊敬と驚きが混じっていた。


書架の側に設えられた椅子に、姿勢正しく座るアイリーンは、しばし視線を本のページに落としたまま、答えた。


「ええ。昔の人の本だから、少し読みにくかったけれど。伝承とか異世界についての言い伝えとか、色々あって面白かったわよ」


彼女の指先は、読み込まれたページの角をゆっくり撫でた。


「こんな量、すぐに読んじゃうなんて……アイリーンさんって、すごく読書家なんですね」


文月は感心したように首を傾げた。


「そういえば、そこの棚、何冊か抜けているみたいだけれど……」

「ユリウスさんが持っていきましたよ。お仕事の合間に、執務室で読むんですって。なんか最近、興味を持ってるみたい」

「……そう」


その言葉に、アイリーンのまつげがわずかに揺れた。

瞳を伏せると、そこに差し込む午後の光がひと筋、頬にかかった。


文月は小首をかしげたまま、ふと口を開いた。


「大切な方なんですね、ユリウスさん」


その言葉に、アイリーンはかすかに眉を寄せた。


「婚約者ですから」


淡々とした返答だった。


――情なんて、ない。

――ないはず。

――それほど言葉を交わしたわけでもない。


けれど、あのとき。

彼が「帰りたい」と言ったときの声は、耳の奥に焼きついている。


彼が、あんな寂しそうに帰る場所を探すことはもうなくなるかもしれない。

その一縷の望みにすがりつくように、あの膨大な異世界文献に目を通していった日々。


「この本、面白くて」


文月が、明るい声で本を差し出した。


「“橘 百合亜”さんっていう人の手記なんです。日本語で書かれているから、日本人かと思ったんですけど、もしかしたら、私のいた日本とも違う世界から来たのかな……って。女性だけどお医者さんで、疫病のときにこの国を救ったらしいです」


アイリーンはその名に覚えがあった。

確か100年前にこの離宮の森に迷い込んだ異世界人で、かなり活躍したらしい。


「橘さんの国は医療技術がとても発達していて、注射とか、手術とか……。私なんかよりずっと、すごい世界の人だなって」


文月の瞳は、憧れと一抹の寂しさに染まっていた。


「この人も……帰れたのかしら」


問いは、まるで自分に投げかけるように、宙へ溶けた。


「帰れたわ。……たぶん。この国の文献によると、3か月ほどで、すっと溶けるように消えたらしいわ」

「帰るときは、溶けるんですか?」

「比喩表現だと思うけれど。現れたときと同じように、すっと消えるように異世界に帰っていくらしいわ」


ただ、薄く閉じた唇の奥で、自分の想いだけをそっと噛みしめた。


彼女はただ、ユリウスの望むものを与えたかった。

「帰れる方法なんてない」と言って、彼の目から光を奪うくらいなら、わずかでも希望を灯したほうがよかった。


だから今日も、図書室にいる。

本の重みより重たい想いを、胸に隠したままで。






陽が傾きかけた頃――

本日の妃教育を終えたアイリーンが、軽い足取りで廊下を抜けようとしたそのとき、すぐ先の影に気づいた。


「……ユリウス様?」


石畳の向こう、待つように立っていたのは、第二王子の姿。

いつものように柔らかく微笑んでいたが、今日はその瞳の奥に揺れるものがあった。


「お疲れさま。……ねえ、ちょっとだけ、時間をもらえるかな」

「ええ。文月さんに何かありましたか?朝お会いした時はお変わりありませんでしたが……」

「いや、今日は……テラスで、君とふたりで話がしたい」


アイリーンは一瞬だけ迷ったが、うなずいた。

彼の声が、いつになく静かだったから。


午後の光が透きとおるテラスに、銀のカップと花模様の茶器が並んでいる。

けれど、湯気の立つ紅茶の甘い香りさえ、どこか遠く感じられた。


ユリウスは先に席につき、手元の小さな本を開いた。

革の表紙は柔らかく、年を経ているものだと一目でわかる。


「これ、離宮の図書室から借りた。……君も、読んでいたって聞いたんだけど」


アイリーンは静かに頷く。


「ええ。異世界に関する伝承書ですね」

「そう。そこには、こう書いてあった。“異界より訪れし者は、その身も心も現れる”――魂だけがこの世界に来ることはない、って」


彼の声が、少しずつ低くなる。

心の底から湧き上がるものを、どう表現すればいいのかわからず、探るように、言葉を置いていく。


「でも、僕は……ここにいる。身体はユリウスで、中身は橘悠真――だと思ってた」


彼は自分の手をじっと見つめた。


「でも最近、思うんだ。たとえば文字が読めたり、王族としての礼儀が自然に出てきたり……それって、俺の意識がどうとかじゃなくて、染みついている“記憶”なんじゃないかなって。記憶喪失でも、意味記憶が残るっているのは聞いたことがある」


風が、カーテンをふわりと揺らした。


「魂のみが異世界にくる……これって、ただの転生なんじゃないのか」

「……」

「橘悠真はたぶんあの事故で死んだ。俺は、ユリウスのことを知らない。でも、言葉は話せて、文字も読み書きできて、仕事もできて、王子として扱われて」


握りしめた本ごと、彼の手が震える。


「毒で倒れたって聞いた。俺、記憶喪失の一種なんじゃないか?それで、ユリウスの部分を忘れているだけで、悠真っていう前世の記憶のみ持っているとしたら、辻褄が合う」


アイリーンは何も答えられなかった。

そうではないとも、その通りだとも言えない。


「俺は……ユリウスなんだろ?ごちゃごちゃして、どっちが“本当の俺”かわからない。でも……これだけはわかる。俺には、“帰る場所”なんて、もうないんだ」


彼はアイリーンを見た。

怒っているようにも、泣きそうにも見えた。

けれど、それはどちらでもなく――ただ“困っている人”の顔だった。


「……君は知ってたんじゃないの?俺が、もう帰れないってこと」


アイリーンは息を呑んだ。

胸の奥が痛んだ。

けれど、言葉が出てこなかった。


「どうして、“帰れる方法を探そう”なんて言ったの……?」


しばらくの沈黙。

アイリーンはうつむいたまま、紅茶の香りだけを吸い込んでいた。


その横顔に、ユリウスは短く息を吐き、小さく首を振った。


「……しばらく、君とは会いたくない」


ゆっくりと立ち上がる。

その足音は、心を引き裂くように静かだった。


アイリーンは何も言えなかった。

否――言えなかったのではない。

言わなかったのだ。


ユリウスが立ち去ってから、どれほど時間が経っただろうか。

アイリーンはぽつりと、言葉をもらした。


「……だって、言えるわけないじゃない」


ぐっと、膝の上に置いた手を、ドレスが皺になるのも構わずに握りしめる。

王家の妃にふさわしくない振る舞い。


「あのあなたが……あんなに帰りたがっていたのに。“あなたは、もう帰れない”なんて――私には……言えない」


紅茶の湯気は、もう消えていた。

けれどその香りだけが、彼女の心に、涙のように染みこんでいた。


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