6
森の奥、ひときわ大きな古木の下に、静かな影が落ちていた。
その幹はねじれ、空へ向かって伸び、太い枝はあのころと同じように春の陽光をうすく受け止めている。
葉の隙間からこぼれる光が、三人の足元を淡く染める。
アイリーンが小さなころを思い出していたちょうど同じとき、文月は、その木を見上げていた。
何の前触れもなく、文月の頬に涙が滑り落ちた。
「……文月さん?」
アイリーンが小さく呼びかけた。
けれど、文月は、答えなかった。
ただ、まるで迷子の子どものように、静かに泣きながら、言葉をこぼした。
「……お母さんと、喧嘩したままだったの」
かすれた声。
「たいしたことじゃなかったのに……あんなに、怒ったりしなければよかった」
小さな拳をぎゅっと握りしめる。
「家を飛び出して、階段で足を滑らせたの。気づいたら……ここにいて」
空を仰ぎ、震える声で、ぽつりと呟く。
「もしかしたら、わたし……もう死んじゃってるのかも」
「そんなことは……」
「ここは……死後の夢の中なのかもって」
頬を伝う涙が、ひとしずく、地面に落ちた。
風が、枝を鳴らす。
それが、誰かのすすり泣きのように、森に響いた。
ユリウスは、そっと文月に歩み寄った。
何も言わず、ただそっと、彼女の肩に手を置く。
優しく。
軽やかに。
それでいて、確かにそこにいることを伝えるように。
文月は、小さく肩を震わせながら、それでもその手を振り払うことはなかった。
アイリーンは、その様子を見ていた。
遠くから、まるでガラス越しに眺めるように。
胸の奥が、きゅうと縮んだ。
ユリウスとアイリーンの思い出の木の前で。
いたたまれなくなったアイリーンは、そっと足音を殺してその場を離れた。
木々の間をすり抜ける風の中、ひとり、小道を辿る。
自分がいてはいけない気がした。
あのあたたかさは、わたしのものではないから。
顔を上げると、遠く高く、森の空。
その向こうに、本当に帰るべき場所があるのなら――
わたしは、どこへ帰ればいいのだろう。
アイリーンは、そっと目を閉じた。
春の光が、ひとすじ、まぶたを透かして差し込んでいた。
木々の間を、春の風が走り抜ける。
その中を、ユリウスは焦るように歩いていた。
「アイリーン……?」
森に声を落とす。
返事はない。
彼はなおも奥へと進む。
文月を慰めたあと、ふと目を向ければ、アイリーンの姿がなかった。
あの凛とした彼女が、音もなく消えることが、どうしてか怖かった。
だから、慌てて探しに来た。
ひとりでこの森を歩かせたくなかった。
理由なんて、自分でもよくわからなかった。
細い道の先、白いドレスの裾がふわりと揺れるのが見えた。
「――アイリーン!」
ユリウスは、思わず駆け寄る。
そして、息を弾ませながら、彼女の前に立った。
「勝手に行くなよ。危ないだろ」
少し怒ったような声。
でもその声色には、怒りよりも、どこか滲むような心配の色があった。
アイリーンは一歩引いて、静かに言った。
「……わたくし、何も危険なことなどしていませんわ」
「でも、君はすぐに迷子になるんだから」
困ったように、ユリウスが言った。
アイリーンの眉が、ぴくりと動く。
そして、少しだけ、怒ったように、けれど寂しそうに言葉を返した。
「……あなたの前で迷子になったことなんて、ありませんわ」
その声には、ふとにじむものがあった。
ユリウスは、きょとんとした顔をした。
「あれ? そうだね。……いや……」
首をかしげ、不思議そうに考える。
まるで、記憶のどこかに引っかかるものを探すように。
「君と……森に来たことなんてないよね?」
指先で額を押さえながら、曖昧に呟く。
けれど、結論は出なかった。
胸の奥にある微かな違和感は、まだ霧に包まれていて、
あと少しのところで、つかめない。
アイリーンは、そんな彼を見つめた。
胸の奥が、ちくりと痛む。
それでも、微笑んだ。
誇り高く、凛として。
「……迷子になることなど、未来の妃たる者にあってはなりませんもの」
「そっか」
ユリウスは、少し寂しそうに笑った。
それきり、二人の間に風が吹き抜ける。
春の、やわらかな、けれど少し肌寒い風。
ふたりは、その中にただ立ち尽くした。
言葉も、想いも、まだ、すれ違ったまま。
森の光が、ふたりを淡く包んでいた。
けれど、そのあたたかさは、皮膚の奥にまでは届かなかった。
アイリーンは、胸の奥で渦巻くものを抑えきれず、言葉を吐き出した。
「……文月さんと、お似合いですわね」
意図しなかった棘が、声ににじんでいた。
ユリウスがぴたりと動きを止めた。
その顔に、驚きと、何か別の感情が浮かぶ。
「違う」
低く、抑えた声で言う。
「そういうんじゃないって……わかってるだろ」
けれど、その言葉が、今のアイリーンには、遠くの誰かの弁解のようにしか響かなかった。
「……それに、君のことは……その、婚約者なんて、いきなり言われても」
ユリウスの声が、ふと漏れた。
その瞬間、胸の奥で、何かが音を立ててひび割れた。
アイリーンは、まっすぐに彼を見た。
「いきなり、ではありませんわ」
静かな声だった。
けれど、そこに込めた想いは、あまりにも重かった。
「私にとっては、いきなりではありません。――あなたとは、八年前から、婚約者ですわ」
息を呑む音が、森の静寂の中に微かに響いた。
ユリウスは、何も言えなかった。
琥珀の瞳が揺れる。
その手が、かすかに宙で震えた。
アイリーンは、微笑んだ。
完璧な、貴族令嬢としての微笑みを浮かべた。
自分の痛みを、誰にも悟られぬように。
そのとき、ぱたぱたと駆け寄る足音がした。
「アイリーンさん!」
文月が、森の小道の向こうから姿を現した。
「よかった、見つかって!迷子かもって、ユリウスさんがすごく慌てて探しに行ったんですよ。……あの?」
近づいた文月が、ふたりの間に漂う空気に気づいて、戸惑ったように首を傾げた。
ユリウスは、顔を伏せたまま、短く言った。
「……帰ろうか」
森の梢を揺らす風の音だけが、静かに三人を包みこんでいた。
夜の底に沈んでいた。
森でもなく、宮でもなく、どこでもない、冷たい闇のなか。
ユリウスは、幼い自分を見下ろしていた。
動けなかった。
声も出せなかった。
誰かの声が、頭上から降ってくる。
「……あの子さえ、いなければ」
低く、冷たく、鋭い声。
それは、かつて王宮の片隅で、
誰にも聞かれないように吐き捨てられた本物の言葉だった。
(僕は……いらなかったんだ)
(生まれてこなければよかったんだ)
子どもの頃、理解できなかった痛みが、今さらになって胸を引き裂いた。
闇に閉じ込められる。
冷たい手に押さえつけられる。
(いなくなれ、って……)
(消えろ、って――)
必死に逃げようとした。
けれど、どれだけもがいても、世界は黒い網を編み続ける。
息が、できない。
「――っ」
はっとして、ユリウスは目を覚ました。
眩しい光が、薄く差し込んでいる。
白い天蓋のベッド。
澄んだ朝の空気。
さっきまでの冷たさが、まだ胸にまとわりついて離れなかった。
「おはようございます。ユリウス殿下」
ノックの後、控えめな声がして、侍女が入室した。
駒のついた大きな銀のトレイに、洗顔用機と、ティーセットが置いてある。
ユリウスの習慣だという、目覚めの紅茶だ。
カップを受け取ると、ふわりと、やさしい茶葉の香りが広がる。
ユリウスは、ぼんやりとその香りを吸い込んだ。
温かいのに、胸の奥が冷たかった。
「……そうだね。僕は、この茶葉が好きだった」
思わず、呟いていた。
幼い頃から、唯一好きだった香り。
王宮のどこにも優しさがなかった中で、たったひとつ救いだった味だ。
侍女は、不思議そうにユリウスを見た。
「ユリウス殿下……?」
ユリウスは、はっと我に返り、ぎこちなく微笑んだ。
「いや、なんでもないよ」
ティーカップを受け取り、そっと口元に運ぶ。
温かい液体が喉を潤すのに、
胸の奥はまだ、ざらりとした冷たい痛みを抱えたままだった。
(僕は……)
誰のために生きてきたのだろう。
誰に、何を証明しようとしてきたのだろう。
朝の光は、何も知らないふりをして、白いカーテンを透かしていた。
ユリウスは、静かに目を伏せた。
なぜ今、たったひとりの誰かの手を――探してしまうのだろう。