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森の奥、ひときわ大きな古木の下に、静かな影が落ちていた。


その幹はねじれ、空へ向かって伸び、太い枝はあのころと同じように春の陽光をうすく受け止めている。

葉の隙間からこぼれる光が、三人の足元を淡く染める。


アイリーンが小さなころを思い出していたちょうど同じとき、文月は、その木を見上げていた。

何の前触れもなく、文月の頬に涙が滑り落ちた。


「……文月さん?」


アイリーンが小さく呼びかけた。


けれど、文月は、答えなかった。

ただ、まるで迷子の子どものように、静かに泣きながら、言葉をこぼした。


「……お母さんと、喧嘩したままだったの」


かすれた声。


「たいしたことじゃなかったのに……あんなに、怒ったりしなければよかった」


小さな拳をぎゅっと握りしめる。


「家を飛び出して、階段で足を滑らせたの。気づいたら……ここにいて」


空を仰ぎ、震える声で、ぽつりと呟く。


「もしかしたら、わたし……もう死んじゃってるのかも」

「そんなことは……」

「ここは……死後の夢の中なのかもって」


頬を伝う涙が、ひとしずく、地面に落ちた。

風が、枝を鳴らす。


それが、誰かのすすり泣きのように、森に響いた。

ユリウスは、そっと文月に歩み寄った。

何も言わず、ただそっと、彼女の肩に手を置く。


優しく。

軽やかに。

それでいて、確かにそこにいることを伝えるように。


文月は、小さく肩を震わせながら、それでもその手を振り払うことはなかった。


アイリーンは、その様子を見ていた。


遠くから、まるでガラス越しに眺めるように。

胸の奥が、きゅうと縮んだ。


ユリウスとアイリーンの思い出の木の前で。


いたたまれなくなったアイリーンは、そっと足音を殺してその場を離れた。


木々の間をすり抜ける風の中、ひとり、小道を辿る。

自分がいてはいけない気がした。


あのあたたかさは、わたしのものではないから。


顔を上げると、遠く高く、森の空。


その向こうに、本当に帰るべき場所があるのなら――

わたしは、どこへ帰ればいいのだろう。


アイリーンは、そっと目を閉じた。


春の光が、ひとすじ、まぶたを透かして差し込んでいた。






木々の間を、春の風が走り抜ける。

その中を、ユリウスは焦るように歩いていた。


「アイリーン……?」


森に声を落とす。


返事はない。


彼はなおも奥へと進む。


文月を慰めたあと、ふと目を向ければ、アイリーンの姿がなかった。

あの凛とした彼女が、音もなく消えることが、どうしてか怖かった。


だから、慌てて探しに来た。


ひとりでこの森を歩かせたくなかった。

理由なんて、自分でもよくわからなかった。


細い道の先、白いドレスの裾がふわりと揺れるのが見えた。


「――アイリーン!」


ユリウスは、思わず駆け寄る。

そして、息を弾ませながら、彼女の前に立った。


「勝手に行くなよ。危ないだろ」


少し怒ったような声。

でもその声色には、怒りよりも、どこか滲むような心配の色があった。


アイリーンは一歩引いて、静かに言った。


「……わたくし、何も危険なことなどしていませんわ」

「でも、君はすぐに迷子になるんだから」


困ったように、ユリウスが言った。

アイリーンの眉が、ぴくりと動く。


そして、少しだけ、怒ったように、けれど寂しそうに言葉を返した。


「……あなたの前で迷子になったことなんて、ありませんわ」


その声には、ふとにじむものがあった。

ユリウスは、きょとんとした顔をした。


「あれ? そうだね。……いや……」


首をかしげ、不思議そうに考える。

まるで、記憶のどこかに引っかかるものを探すように。


「君と……森に来たことなんてないよね?」


指先で額を押さえながら、曖昧に呟く。


けれど、結論は出なかった。


胸の奥にある微かな違和感は、まだ霧に包まれていて、

あと少しのところで、つかめない。


アイリーンは、そんな彼を見つめた。


胸の奥が、ちくりと痛む。

それでも、微笑んだ。


誇り高く、凛として。


「……迷子になることなど、未来の妃たる者にあってはなりませんもの」

「そっか」


ユリウスは、少し寂しそうに笑った。

それきり、二人の間に風が吹き抜ける。


春の、やわらかな、けれど少し肌寒い風。

ふたりは、その中にただ立ち尽くした。


言葉も、想いも、まだ、すれ違ったまま。


森の光が、ふたりを淡く包んでいた。

けれど、そのあたたかさは、皮膚の奥にまでは届かなかった。


アイリーンは、胸の奥で渦巻くものを抑えきれず、言葉を吐き出した。


「……文月さんと、お似合いですわね」


意図しなかった棘が、声ににじんでいた。


ユリウスがぴたりと動きを止めた。


その顔に、驚きと、何か別の感情が浮かぶ。


「違う」


低く、抑えた声で言う。


「そういうんじゃないって……わかってるだろ」


けれど、その言葉が、今のアイリーンには、遠くの誰かの弁解のようにしか響かなかった。


「……それに、君のことは……その、婚約者なんて、いきなり言われても」


ユリウスの声が、ふと漏れた。

その瞬間、胸の奥で、何かが音を立ててひび割れた。


アイリーンは、まっすぐに彼を見た。


「いきなり、ではありませんわ」


静かな声だった。

けれど、そこに込めた想いは、あまりにも重かった。


「私にとっては、いきなりではありません。――あなたとは、八年前から、婚約者ですわ」


息を呑む音が、森の静寂の中に微かに響いた。

ユリウスは、何も言えなかった。


琥珀の瞳が揺れる。

その手が、かすかに宙で震えた。


アイリーンは、微笑んだ。

完璧な、貴族令嬢としての微笑みを浮かべた。


自分の痛みを、誰にも悟られぬように。


そのとき、ぱたぱたと駆け寄る足音がした。


「アイリーンさん!」


文月が、森の小道の向こうから姿を現した。


「よかった、見つかって!迷子かもって、ユリウスさんがすごく慌てて探しに行ったんですよ。……あの?」


近づいた文月が、ふたりの間に漂う空気に気づいて、戸惑ったように首を傾げた。

ユリウスは、顔を伏せたまま、短く言った。


「……帰ろうか」


森の梢を揺らす風の音だけが、静かに三人を包みこんでいた。






夜の底に沈んでいた。


森でもなく、宮でもなく、どこでもない、冷たい闇のなか。


ユリウスは、幼い自分を見下ろしていた。


動けなかった。

声も出せなかった。


誰かの声が、頭上から降ってくる。


「……あの子さえ、いなければ」


低く、冷たく、鋭い声。


それは、かつて王宮の片隅で、

誰にも聞かれないように吐き捨てられた本物の言葉だった。


(僕は……いらなかったんだ)


(生まれてこなければよかったんだ)


子どもの頃、理解できなかった痛みが、今さらになって胸を引き裂いた。


闇に閉じ込められる。

冷たい手に押さえつけられる。


(いなくなれ、って……)


(消えろ、って――)


必死に逃げようとした。

けれど、どれだけもがいても、世界は黒い網を編み続ける。


息が、できない。


「――っ」


はっとして、ユリウスは目を覚ました。


眩しい光が、薄く差し込んでいる。

白い天蓋のベッド。

澄んだ朝の空気。


さっきまでの冷たさが、まだ胸にまとわりついて離れなかった。


「おはようございます。ユリウス殿下」


ノックの後、控えめな声がして、侍女が入室した。

駒のついた大きな銀のトレイに、洗顔用機と、ティーセットが置いてある。

ユリウスの習慣だという、目覚めの紅茶だ。


カップを受け取ると、ふわりと、やさしい茶葉の香りが広がる。

ユリウスは、ぼんやりとその香りを吸い込んだ。

温かいのに、胸の奥が冷たかった。


「……そうだね。僕は、この茶葉が好きだった」


思わず、呟いていた。


幼い頃から、唯一好きだった香り。

王宮のどこにも優しさがなかった中で、たったひとつ救いだった味だ。


侍女は、不思議そうにユリウスを見た。


「ユリウス殿下……?」


ユリウスは、はっと我に返り、ぎこちなく微笑んだ。


「いや、なんでもないよ」


ティーカップを受け取り、そっと口元に運ぶ。


温かい液体が喉を潤すのに、

胸の奥はまだ、ざらりとした冷たい痛みを抱えたままだった。


(僕は……)


誰のために生きてきたのだろう。

誰に、何を証明しようとしてきたのだろう。


朝の光は、何も知らないふりをして、白いカーテンを透かしていた。


ユリウスは、静かに目を伏せた。


なぜ今、たったひとりの誰かの手を――探してしまうのだろう。



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