5
白薔薇の香りが、風に乗って広がっていた。
庭の一角に設けられた天蓋付きのティーテーブルでは、薄紅のポットから注がれる紅茶が湯気を立て、静かに優雅な世界を満たしている。
突然の呼び出しで始まったお茶会は、紅茶とお菓子のにおいに占領されていて、一見物々しさは感じない。
だが、招待状を受け取ったアイリーンが警戒しているのを見ている文月は、曖昧にほほ笑んで場を持たせるのに必死だった。
「どうぞ、お気に召しますかしら」
王妃ヴァレリアの声は、春先の陽光のように柔らかだった。
文月は、小さくうなずく。
「はい……とても、おいしいです」
「それはようございました」
王妃は微笑んだ。
その唇の端には、ほんのかすかな陰りのようなものが差していた。
アイリーンは文月のすぐ隣に控え、無言のまま、完璧な所作でティーカップを持つ。
何も言わないのに、彼女の存在は文月にとって心強かった。
王妃は、ちらりと視線を薔薇のアーチの向こうへ向け、ささやくように言った。
「この国は……長い年月、戦火にさらされてまいりましたの。けれど今は、ようやく安定の兆しが見えております」
文月は、言葉を選びながら返す。
「……平和が、続くといいですね」
「ええ、ほんとうに。――そのためには、“正しい未来”を選ばねばなりませんの」
ふと、その瞳が文月を射抜いた。
「世話役のユリウスに不足はありませんか?あの子は、小さいころから静かな子でした。感情を表に出すことが少ない、けれど……とても優しい子」
文月はその言葉に、小さく笑った。
「はい。優しい方です。私……助けられてばかりです」
「そう……そう思ってくださるのね」
王妃の微笑みが、すこしだけ深くなった。
「ユリウスは第二王子ですから、優しすぎるのも良いのです。ただ、王太子エミリオにとっては……王の座というのは、時に重すぎるもの。伴侶となる者が、どれほど大切か――おわかりになりますか?」
文月ははっとして、言葉を失う。
「私……そういうことは……」
とまどう彼女の隣で、アイリーンが静かに口を開く。
「王子殿下には、すでにご婚約者がおります」
「ええ、もちろん。ハルトマン家は我が国の支柱ですもの。オーレリアはエミリオをよく支えてくれていますわ」
王妃は微笑んだ。
だがその眼差しは、まるで品定めをするように、文月の細部を見つめていた。
「ただ……時に、運命というものは、静かに未来を塗り替えることもございます」
文月は指先をきゅっと握った。
アイリーンの指が、ごくわずかに震えるのを、王妃は見逃さなかった。
そのとき、遠くからひらりと、紅い影が差し込んだ。
「おや、王城の庭園に、素敵な花が3輪も咲いているようだ。華やかでよろしいですね」
王太子エミリオの軽い声が、お茶会の空間に滑り込んだ。
彼はまるで花に群がる蝶のように近づいてきて、文月を見つめた。
色素の淡い金の髪が揺れて、本当に王子様といった風貌だが、彼は女性には目がないことで有名である。
「あなたが例の“聖女様”……たしかに異国の花というのは、香りが違う」
「エミリオ」
王妃が名を呼ぶ声には、わずかな鋭さがあった。
「ふふ、失礼しました。グレイスフィール嬢も、お変わりなく――美しい」
彼は目だけで文月とアイリーンをなぞり、軽く会釈して去っていった。
王妃は、残されたカップを揺らしながら、こともなげに言った。
「王というものは、民の象徴。妃となる者もまた、国の顔です。あなたがどのような未来に立つのか……楽しみにしておりますわ、文月さん」
風が、白薔薇の香りをさらっていった。
文月は微かにうつむき、返事の言葉を見つけられなかった。
アイリーンの横顔だけが、静かに緊張に張り詰めていた。
王城の南庭に面した回廊。
陽の傾きが磨かれた石床に長く伸び、季節を告げる鳥の声が遠くかすれていた。
ユリウスは、柱にもたれながら何度目かのため息をついた。
胸元の飾りボタンを指でいじる癖が、ここしばらく抜けない。
心は、静かに、けれど確かに波立っていた。
(お茶会……王妃様の。あのひとが、何を語るか)
それは文月のことだけじゃなかった。
むしろ――アイリーンのことが気がかりだった。
彼女は、自分よりもよほど王城に詳しく、どんな言葉をも柔らかくいなし、誰よりも早く先を読むことができる人間だった。
けれど、それでも。
彼女は時々、まるで自分の本心だけを、どこかに置き忘れてしまったような顔をする。
気づいていた。
いつも気づいていたのに、言葉にするには遅すぎた。
(どうか、傷ついていませんように)
「殿下」
侍女の声が廊下の向こうから響いた。
振り返ると、二人の女性の影が並んでいた。
文月は少し疲れていたが、顔を上げたとき、その表情に曇りはなかった。
アイリーンは無言のまま、静かに一礼する。
ユリウスは小さく息を吐くと、微笑みを浮かべた。
「ご無事でよかった。……二人とも」
その言葉に、文月が少し目を見開いた。
王妃のお茶会の帰りに言うおかえりなさいにしては、どうも物騒な言葉だ。
アイリーンは、視線をそっと逸らしたまま、口を開かなかった。
ユリウスは、ほんのわずかに近づき、どちらにも聞こえるように、けれどまっすぐアイリーンを見つめて言った。
「……今日は、ありがとう。いてくれて」
アイリーンはふと顔を上げ、わずかに目を見張った。
それは、どこか彼女の仮面の奥に触れるような、静かな言葉だった。
文月がそっと空気を読み取るように笑った。
「アイリーンさんがいてくれて、ほんとうに心強かったんです。ありがとうございました」
アイリーンは小さく微笑み、深く首を振った。
「お気になさらず。私も……同じでしたわ」
春の光が、三人の影をやわらかく重ねていた。
「庭を歩いて行こうか。離宮まで」
「まあ。いいですね!」
文月が嬉しそうに手を叩く。
たまには散歩もいいかもしれない。
三人はゆっくりと歩き出した。
庭を抜けると、小さな森がある。
といっても石畳の小道が整備されていて、歩くのに支障はない。
良い散歩コースといえるだろう。
小さいころ、アイリーンの父はよくここで狩猟大会や鷹狩の演習に参加していて、アイリーンもよく連れてこられた。
狩りの間は、森の中の平地にテーブルがセットされて、子ども同士の交流の場にもなる。
父としては、そこで王族や高位貴族とのつながりを作れということだったのだろう。
三人は慎重に歩きながら、奥へ、さらに奥へと足を進める。
少し開けた平地を抜けると、また小道が続く。
離宮に近づいてきたころ、森の中でひときわ大きく、幹をねじらせるように空へ向かって伸びた巨木が現れた。
その姿を見た瞬間、アイリーンの胸に、ふとした痛みが走った。
「この木……」
呟いた声は、誰に向けたものでもなかった。
遠い、昔の記憶が呼び覚まされる。
――あれは、初めてこの森に連れてこられたとき。
王宮主催の狩猟大会で、いつもよりも少し規模の大きな大会だった。
森に張られたテント、煌びやかな衣装、大人たちの華やかな笑い声。
あの日、アイリーンは迷子になった。
どれだけ歩いても、どこにも辿り着けなかった。
広がる森の匂い。高くそびえる木々。
誰も自分を探しに来ないのではないかという恐怖。
(帰れないかもしれない)
その思いに、小さな胸が押しつぶされそうになった。
父の顔が浮かんだ。
冷たく、厳しく、怒りに満ちた目。
ああ、叱られる。
きっと、叱られる。
叱られて、罵られて、――もしかしたら、捨てられるかもしれない。
不意に、ぽろりと涙が落ちた。
静かな森の中、誰にも気づかれないように、声をひそめた泣き声が響く。
そのときだった。
「君は?」
不意にかけられた声に、アイリーンは顔を上げた。
そこに立っていたのは、同じくらいの年頃の少年。
金茶色の髪。
琥珀色の瞳。
少し乱れた服を着ているが、良質であることはすぐにわかる。
彼は困ったように笑っていた。
アイリーンは、怯えたように彼を見た。
王宮の森を歩き回るだなんて、不審者だと思われてしまうかもしれない。
「テントまで送っていこうか」
少年は、そっと手を差し出した。
アイリーンは、その手を見つめた。
戸惑いが胸に満ちる。
自分なんかの手を取っていいのだろうか。
手を取ったら、また叱られるかもしれない。
期待して、また傷つくかもしれない。
だから、震える声で言った。
「……わたしが、帰らないほうが、みんな……喜ぶかもしれません」
そうしたら、きっと、誰も怒らない。
誰も失望しない。
誰も、わたしを責めない。
少年は首を傾げた。
「そうなのか?」
ただ、それだけ。
非難も、呆れも、なかった。
アイリーンは思わず、顔を伏せた。
「……はい」
小さな声で答えた。
けれど、それが本当なのかどうか、自分でもわからなかった。
帰りたいのか。
帰りたくないのか。
どちらでもないのか。
胸の奥は、ぐしゃぐしゃに絡まっていた。
そんなアイリーンを見て、少年は、ぽつりと呟いた。
「同じだ」
アイリーンは顔を上げた。
少年は、少し笑った。
「ぼくも……帰りたくないんだ」
その顔は、ひどく寂しそうで――けれど、どこか、あたたかかった。
ふたりの間に、そっと春の風が吹いた。
その風は、何も言わずに、二人の小さな影をつなげた。
たとえ言葉にしなくても。
たとえ忘れてしまったとしても。
「帰りたくない」と言った、あの日のことを。
切ないなあと思っていただいた方は、応援していただけますとうれしいです^^