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離宮の図書室は、昼の光に満たされていた。


窓から差し込む光は柔らかく、埃の舞う空気さえ金色に染めている。

壁一面に積まれた本棚。

その奥の一隅に、文月は静かに腰掛け、本をめくっていた。


彼女の手にあるのは、古びた文献。

そこには、この国の文字とは異なる、見慣れない“日本語”が並んでいた。


かつてこの世界に迷い込んだ誰かが、残した手記。

文月は指先で文字をなぞりながら、かすかに笑った。


「……だいたい、どれくらいで帰れるのかしら」


問いかけに、ユリウスが答える。


「その時々で、滞在期間は違うみたいだよ。記録が正しければ、すぐに消えた人も、何年も滞在した人もいるって」

「……ここでおばあちゃんになっちゃったら、もう誰も私のこと、わかってくれないわね」


冗談めかして笑う文月。

その肩が、小さく震えた。


「私、母子家庭だから、私がいなくなってお母さんびっくりしてると思う。……1人にしたくないな」


それからそっと手記を撫でて、ぽつりと呟いた。


「お母さんに会いたいなぁ」


図書室の窓辺。

春の光が、ゆるやかに漂っていた。


古い書物の香りに混じって、乾いた木の床の匂い。

その中で、ユリウスは遠い目をして、静かに語り出した。


「俺も母子家庭だったよ」


ユリウスは、ふわりと笑った。

その笑みには、懐かしさと、かすかな痛みが滲んでいた。


「母さんは、朝から晩まで働き詰めだったから、小さい頃は、ほとんどおばあちゃんと一緒にいた」


頭の中に蘇る、あたたかな光景。


畳の上で遊んだ午後。

ちゃぶ台の上に並んだ、小さな湯飲み。

縁側に座り込んで食べた、甘い麦茶と干し柿。


「……優しい人でね」


ユリウスの瞳が、柔らかく細められる。


「若い頃、事故で左手を怪我したらしくて、細かい作業はあんまり得意じゃなかったんだ。縫い物とか、編み物とか、ちょっと苦手でさ。針を持つと、手が震えちゃうから、すぐに『あーもう!』って笑ってた」


ふわりと風が吹いた。

図書室のカーテンが、柔らかく揺れる。


どこか、懐かしい香りが、ほんの一瞬だけ漂った気がした。


「でも、料理は……すごく上手だった」


ユリウスは、遠いものを見つめながら続ける。


「朝は、炊きたてのご飯と、だしをちゃんと取った味噌汁。梅干しと、焼き魚と……冬は、おでんを作ってくれた。大根がとろとろで美味しかった」


指先が、無意識に宙をなぞる。

まるで、その温かな湯気を、もう一度掬い取ろうとするかのように。


「寒い日は、台所がすごくあったかくて、おばあちゃんの後ろから、ぎゅって抱きついて……」


ユリウスは、少しだけ目を伏せた。

声が、かすかに震えていた。


「そういうのを思い出すと、すごく帰りたくなるんだよね」


アイリーンは、胸の奥がきゅうっと締めつけられるのを感じた。

文月も、そっと息を呑んでいた。


その図書室には、もう誰もいないはずの、どこか懐かしい、湯気の匂いが、確かに漂っている気がした。

あたたかくて、やさしくて、そして少しだけ、切ない匂いだった。


ユリウスは雰囲気を変えるようににっと笑って、文月を見た。


「日本では……桜は、もう咲いていた?」

「いいえ。まだ、蕾でした」

「桜が咲くまでに、帰れればいいね」


その会話に、アイリーンは静かに耳を傾けていた。


遠い。

二人の声が、ひどく遠くに思えた。


自分にはわからない話。

自分には届かない場所。


「……私も、文献を読みますわ!」


アイリーンは、ぱっと顔を上げた。


「この国の文字まではお分かりにならないでしょう?この国の本は、私が調べます!」


その声に、文月とユリウスが一瞬、驚いたようにこちらを見た。

けれどすぐに、にこやかに頷く。


「ありがとう、アイリーンさん」


文月が微笑む。

ふんすとやる気を見せて拳を握ると、アイリーンは奥の机へ向かう。


誰もいない静かな隅。

重たく埃の匂いのする古い本を、一冊、また一冊と引き寄せる。


文字を追う。

必死で、必死で、読み進める。


けれど、

指先が震え、視界が滲んだ。


離れた場所で聞こえる、ふたりの笑い声。

ふたりだけの、アイリーンには分からない言葉。


心が軋む。

壊れそうになる。


けれど声には出せなかった。


だから、アイリーンは、ただ、うつむいた。


弱気になっていると、自分でも思うのに、止められない。

こんなのは自分じゃない。


ページの文字が歪み、にじむ。

本に涙のしみを作らないよう、必死に顔を伏せる。


泣いていることを、誰にも悟られないように。


声も、震えも、すべて飲み込んで――

アイリーンは、静かに、静かに泣いた。


あたかも最初から何もなかったかのように。






しばらく本に没頭していた。

これまでは異世界人の語る異世界を語る本ばかりを読んでいたのだが、ふとこの国での異界の人々の功績が気になった。


本棚の奥の一番古そうな文献を手に取ってみる。

革張りの表紙はひび割れ、金の箔押しはかすれて読めない。

中の状態は良く、ぱらぱらとめくっていたアイリーンは、はっと顔をあげて談笑している2人の元へ歩き出した。


「……これ、見つけましたわ」


アイリーンがページをめくり、文月とユリウスに差し出す。

三人は肩を寄せ合い、文献を眺める。

読めない文月のために、アイリーンが朗読した。


そこには、王家の古い伝承が記されていた。


――王家が危機に瀕したとき、異界より来たる者あり。

彼らはこの地の理に縛られず、救いの手を差し伸べる。



ある時、国が戦争の炎に包まれた。


王は絶望の淵に立たされ、

そのとき、ひとりの男が、異世界より現れた。


男はこの世界には存在しない奇妙な武器を持ち、戦術を授け、王を勝利に導いたという。



また、ある時、王子が暗殺されかけた。


ひとりの剣士が、どこからともなく現れ、変わった片刃の剣を振るい、王子を守り抜いた。


その剣は、この国のどの鍛冶師も知らない製法で作られたものだったと、文献は伝えている。



さらに、ある時、王の魔力が暴走し、城中が崩壊の危機に瀕した。


ひとりの少女が、まるで風に乗るように現れた。


彼女は手をかざすだけで、王の魔力を鎮め、国を守ったという。



最後に、文献はこう締めくくられていた。


――これらの奇跡は偶然ではない。


王族が、無意識のうちに、異世界より「求めた者」を呼び寄せる。


心が、魂が、望んだとき――

門は開かれ、異界より来る者たちをこの地へと導くのだ。


ページの最後に、震えるような筆跡で、こう付け加えられていた。


彼らは救いの手であり、また、試練である。


王家にとって、真に必要なものだけが、呼び寄せられる。



静かな図書室に、ページをめくる音だけが響く。


文月は、そっと手を胸に当てた。

ユリウスは、難しい顔で黙り込む。


アイリーンは、ページにそっと触れながら、思った。


(今回、命の危機に瀕した王族はーー)


かたりと音を立てて、文月が椅子にもたれかかった。

そして、ぽつりと呟く。


「……私は、だれかに呼ばれたのかな」


その声は、驚くほど掠れていた。



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