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「アイリーンお嬢様。旦那様がお呼びです」


侍女の低い声に、アイリーンは無意識に膝の上で手を組んだ。


が、すぐにさっと椅子から立ち上がると、淡いクリーム色のドレスを直し、静かに廊下を歩く。

足音を立てないのは、幼い頃から染みついた教育の賜物だ。


執務室に入るのは、年に数度。

呼ばれる時は、いつも重苦しい気持ちになる。

重たい扉の前で、一度だけ深く息を吸う。


「失礼いたします」


ノックの後、礼儀正しく告げて中へ入ると、広い部屋には冷たい空気が満ちていた。

積まれた書類の奥、公爵閣下ら机に向かい、ペンを走らせたままアイリーンを一瞥した。


「来たか」


父は机から目を離さぬまま、淡々と言葉を落とす。


「今日の予定は?」

「はい。本日は、王城にて妃教育を受け、その後、殿下にご挨拶を……」

「……そうか」


ペンの音が止まる。

ゆっくりと顔を上げた父の目には、興味も期待もなかった。


「ユリウス殿下は、あの聖女にうつつをぬかしているらしいな」


アイリーンの指先がわずかに震えた。


「……お話されているのを拝見いたしましたが、殿下の役割を考えますとおかしなことはないかと……」

「何をしている」


声に怒気はなかった。

それが、かえって彼女の胸を締めつけた。


「もっと、殿下の心をつかめ」


命令だった。

助言ではない。

ましてや、励ましでもなかった。


「……申し訳ありません」


アイリーンは静かに頭を垂れた。


「次の国王妃の座を確実なものにしろ。あの聖女とやらに惑わされて、我が家の立場を損なうようなことがあれば――」


続きはなかった。

けれど、十分だった。


アイリーンは腰を折り、裾を払う所作さえ完璧に、退出の許しを待った。


「下がれ」


冷たく切り捨てるような言葉に、アイリーンは静かに頭を下げ、背を向けた。

一度も、父は彼女の目を見なかった。


扉を閉めたあと、廊下に立ち尽くす。

冷たい石の床の感触だけが、確かだった。


(わたくしは……)


胸の奥で、言葉にならない思いが揺れる。

けれど、それを誰にもぶつけることはできない。


だから、アイリーンはまた静かに歩き出す。


王城へ。

与えられた役割を演じるために。


たとえ、その先で待っているのが、

自分を「知らない」という婚約者だったとしても――





王城は、静かな熱気に包まれていた。

どの廊下でも、どのサロンでも、耳にするのは同じ噂だった。


「離宮に……聖女が現れたらしい」

「異界の言葉を話す少女だと」

「やがて、消えるのだろう。聖女とは、元の世界に還る運命にあるというし」


人々は噂に胸を高鳴らせ、新しい話題に期待していた。

貴族というのは、噂が大好きで、そしてそれらは時として大事な情報をもたらす。


そして噂を作ることもまた、貴族の十八番である。






彼は王宮の西翼、静かな執務室で机に向かっていた。

窓から差し込む昼下がりの光が、書類の上に淡く広がっている。


そこへ、控えめなノック。


「失礼いたします」


アイリーンが入室すると、ユリウスが顔を上げる。

彼は少年のような、どこかくったくのない笑みを浮かべた。


「この体が、記憶を覚えてるのかなあ。なんか、仕事はできるんだよね。文字も読めるし。変な感じ」


まるで、他人事のような口ぶりだった。

アイリーンは、胸の奥に刺さるものを感じながらも、顔には出さずに応じた。


「……お困りごとがないなら、よかったですわ」


ユリウスは小さく笑った。


「そろそろ、離宮に行こうか」


その言葉に、アイリーンの心が静かに揺れた。


(また……あの方のところへ)


ほんの一瞬、躊躇うように、彼女は口を開いた。


「……聖女様は、いつかお国に帰られる方です」


その声音は、静かだった。

けれど、その奥に、どうしようもない痛みが滲んでいた。


ユリウスの手が、止まる。


「だから?」


彼の声は、少しだけ低かった。


「だから、あまり……深入りなさいませんように」

「君には関係ないだろ」


吐き捨てるようなその言葉に、アイリーンの指が小さく震えた。


「……婚約者であるわたくしに、関係ないと?」

「……ごめん。そういう意味じゃない」


ユリウスは顔を背けた。


けれど、謝罪の言葉は、すでにアイリーンの胸に届かないところへ落ちていた。


「殿下が……お好きになられたなら、それも仕方のないことですわ」

「勝手に決めつけないで」


ユリウスがにらむように言った。

その目は怒りではなく、戸惑いと、哀しみで揺れていた。


「……差し出口を申しましたわ。申し訳ございませんでした」

「こちらこそごめん……」

「いえ。無神経でしたわ」

「違うんだ。その……近頃おかしな噂があるのは知っている。けれど、俺は聖女の世話係を命じられているわけだし、その、同郷だから」

「……そうですわね」


静かな同意に、ユリウスは少し表情を緩ませた。


「……ねえ、アイリーン」


アイリーンは顔を上げ、そっと目を細める。


「はい」


ユリウスは、すこしだけためらい、けれど言葉を続けた。


「アイリーン。俺って、ユリウスってどんな人だったの。家族ともあまり仲良くないみたいだし……」


少し迷ってから、アイリーンはゆっくりと語り始めた。


「ユリウスの母上は、側妃様でした。――お優しい方だったと、聞いておりますわ」


ユリウスは、黙って耳を傾ける。

どこか、遠い昔話を聞く子どものように。


「ユリウスが幼いころ、病に倒れられて……そのまま、お亡くなりになったと」


アイリーンの指が、無意識にドレスの裾を撫でた。

彼女自身、その話を詳しく知ることは許されていなかった。

けれど、王宮に根付く噂や、侍女たちの囁きから、断片的に知っていた。


「王妃殿下はすべての王族の、いえ、全国民の母と呼ばられる方ではありますが、戸籍上のことでいえばあなたの継母にあたる方です」


ユリウスは、小さく頷いた。


「そんなに、家族らしい感じはなかったんだね」


ぽつりと、淡々とした口調。

けれどその裏に、ぽっかりと開いた穴のようなものが、確かに見えた。


アイリーンは、言葉を選びながら続ける。


「王族には、古くから伝わる不思議な力があるとも聞きますわ。女神様から祝福を受けているからこそ、この国の頂点にいるのだと」


ユリウスが、ふと目を丸くした。


「不思議な力?」

「ええ。この国の王族は、その昔、女神様ご自身が召喚した異世界人の血を引いていると言われていて、女神様からの加護が特別厚いのです。ですから、王族は不思議な力を持っているですわ」


ユリウスは、窓の外を見た。

梢の向こうに、淡い春の空が広がっている。


「それが本当なら、ユリウスにも、異世界の人の血が流れているのか……」


小さく笑ったその横顔は、どこか寂しげだった。

アイリーンは、そっと手を組んだ。


言葉にはしなかったけれど、心の奥で、静かに祈った。


――どうか、あなたに居場所が見つかりますように。



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