1
短めのお話です。
王城の奥――西翼の一室の前には、衛兵が2人立っていた。
取り次ぎを頼むと、しばらくして、部屋から侍女が出てきて頭を下げて中に促してくれる。
ユリウスの部屋は、いつ訪れても、王族の名に似合わず、どこまでも質素だった。
絵画のひとつもない洒落っ気のない壁に、色の抜けた絨毯。
窓辺に置かれた一鉢の観葉植物が、唯一の彩り。
大きな机には書類が整然と積まれているが、そこには誰かの温もりがあるようには思えなかった。
窓際のベッド。
半身を起こして寄りかかるユリウスの姿が、すっとこちらを見た。
白い寝衣の上から肩掛けをかけている。
額にわずかな汗、頬の色はまだ浅く、毒の余韻が残っているようだった。
いかにも王子様といった風情の金茶色の髪に、琥珀のように透き通る瞳。
いつも温度の感じられない微笑を浮かべているはずの
その顔には、いまは困惑が浮かんでいた。
「えーと……こんにちは」
10年一緒にいたはずの婚約者は、まるで他人への挨拶のように軽く頭を下げた。
「……寝ぼけていらっしゃるのかしら。とりあえず、殿下のお好きなラカの実を持ってきましたわ。まだ体調は万全ではないでしょうけれど、よければお召し上がりくださいませ」
ラカの実は栄養があり、風邪の時などにはよく食べられる一般的や果実だ。
が、ユリウスは「ら、らか……」と曖昧な表情を浮かべた。
それから、意を決したように体ごとアイリーンに向き直った。
「……君の名前を教えてくれるかな?」
「……アイリーンですが……殿下?本当に大丈夫ですの?まだ安静にされていたほうが……」
「いや、アイリーンさん、君とユリウスは親密なようだし、あの、慌てずに聞いてほしい」
「……ええ。もちろん、何でもお聞きしますが……」
ごくりと彼の喉仏が膨らんで萎むのを、アイリーンは訝しげに見守る。
一泊置いて、ユリウスは言った。
「俺はユリウスじゃないんだ」
婚約者が毒に倒れたと知らせを受けたのは5日前の夕食後のことだった。
王族は例外なく、幼少の頃より毒に耐性を作るので大事はないとの報告だったが、アイリーンがやっと面会を許可されたのは今日のことだ。
倒れた次の日には目を覚ましたらしいユリウスは、すでに回復しているとのことで、公務に復帰することができると言われ、病み上がりの彼の公務をいくつか貰い受けようかという算段を付けながら、アイリーンは登城した。
なので、まさか、ユリウスがアイリーンに向かって「君は誰」というような反応をすることなど、想定外のことだった。
陽気を理由な開けた窓の外では、藤の花が咲いていた。
淡く、儚げな紫が風に揺れ、香りが静かに辺りを包んでいる。
夕暮れの光は黄金色の斜光となって石畳を照らし、よく一緒にお茶をする白亜の東屋に影を落としていた。
いまのユリウスは、そんな記憶はないと言いそうだが。
アイリーンは紅茶のカップを手にして、目の前の婚約者をじっと見つめていた。
彼――ユリウス・セイラン・アルフレート第二王子殿下が、困ったような笑みを浮かべている。
無遠慮にこちらを伺う視線も、どこか違和感がある。
アイリーンは紅茶のカップを傾けながら、さりげなくユリウスを見た。
「えーと、アイリーン…さん」
「……なんでしょう」
「……俺、ユリウスじゃないんだ」
名前に付いた「さん」に驚く間もなく、なんだかすごいことを言われた気がする。
カップの中の紅茶がかすかに揺れた。
アイリーンは一瞬、その言葉の意味が分からず、目を瞬かせた。
「……何を、仰っているの」
「ごめん、本当に混乱してるんだけど……俺、自分でもよく分からないんだ」
彼は少しうつむき、テーブルの木目に視線を落とす。
その瞳には、怯えのような、あるいは諦めのような、名付けようのない感情が揺れていた。
「朝起きて、気がついたら……ここにいた。俺、仕事から帰る途中でトラックに轢かれて……目を覚ましたらこの体の中にいたんだ」
アイリーンは黙って彼の告白を聞いた。
「俺の名前は……蓮見悠真。日本っていう世界の、ごく普通の……まあ、ちょっとオタク寄りの男だった。年は三十五で、特別なことなんて何もない。ただ……死んだんだと思う。だけど、“死んだ”という確かな感覚もなくて……本当に、気づいたら、ここにいたんだよ」
アイリーンは息を呑んだ。
目の前の青年は、見た目も声も確かにユリウスで――けれど、その語る言葉の端々には、確かに“知らない人”の匂いがした。
「俺は、この体に憑依してしまったんだ」
風が吹き抜けた。
結い上げたアイリーンの青みがかった黒い後毛が揺れる。
藤の花が二、三、舞い落ちたところで、アイリーンははっと我に帰った。
危ない。
あまりに意味が分からなくて、一瞬意識が飛んでいた。
「帰りたいんだ」
彼の声は、かすかに震えていた。
「日本に。家族に会いたい……もしかしたら死んでいないかもしれないし。あの世界に戻りたい……」
家族に会いたい。
それをアイリーンは不思議な気持ちで聞いていた。
家柄の良い貴族は、小さなころから乳母や世話役に育てられる。
親兄弟との繋がりなど、ほとんどないといって良い。
それはアイリーンもユリウス殿下も同じだ。
アイリーンは小さな頃、王宮の庭で2人で話したことを思い出した。
「うそつき」
「え?」
「……本当に帰りたいのですか?」
彼は本当に、この世界の人間では、ないのかもしれない。
ふとそんな気持ちが沸き上がる。
アイリーンは小首を傾げた。
もしも彼がいうことが本当だというのなら、本物のユリウス殿下はどこに行ったというのか。
アイリーンは慎重に言葉を選んだ。
「確かに、異世界から人が来るというのはたまにある現象だそうですわ。そういった方は、この世界では聖人や聖女と呼ばれますわ」
「それじゃあ……」
「ただ、聖人や聖女は、肉体ごと時空を超えますわ。……他人の体に入るといったことは聞いたことがございません」
「……そうか。じゃあ、信じてもらえないよね……」
ユリウスは肩を落とした。
見慣れない仕草に、また違和感を覚える。
彼がこんな冗談を言うとは思えないが、それでも信じるには謎が多すぎる。
「……あなたがユリウスではないと言うのなら、ユリウスはどこへ行ってしまったの?」
ぽつんとつぶやくと、ユリウスははっと顔を上げた。
初めて考えたといった表情だ。
「……分かりましたわ」
アイリーンの中にあるのは、もし彼は本当に彼ではないと仮定した時の恐れだ。
彼はこの国の第二王子。
この国を支える人柱となるため、もしくは第一王子のスペアとして育てられた存在だ。
そして、彼を支えるために育てられたのがアイリーン。
この人がいなくなれば、アイリーンの存在意義はない。
「私が、あなたをもとの場所へ返して差し上げましょう」
その声は澄んでいて、強く、まるで誓いのようだった。
「元いた世界に戻りたいのでしょう?異界の魂が迷い込み、特定の時が満ちることで他人の体に憑依することができるのか。私、調べてみます。あなたが、本当に……この世界の人間ではないのなら」
アイリーンの瞳は、強く静かに輝いていた。
困るのだ。
彼がいなくなれば、アイリーンには何もなくなってしまう。
ユリウスは、返す言葉を失っていた。
この世界の人間ではない――そう名乗った自分に、彼女は恐れるでも、軽蔑するでもなく、ただ「帰してあげる」と告げた。
その真っ直ぐさが、かえって苦しかった。
藤の香りが、少しだけ甘くなった気がした。
王城を出たのは、夕刻をわずかに過ぎたころだった。
空の端が赤く滲みはじめ、馬車の窓越しに揺れる街の灯りが、どこか現実味のない幻のように見えた。
妃教育の指南役は厳しいと有名な夫人だ。
ずっと厳しく躾けられてきたが、最近はあまり怒られることはない。
言葉遣いも所作も褒められ、刺繍の手つきさえ「美しい」と評された。
アイリーン・グレイスフィールは、背もたれに静かにもたれかかり、
窓の外に視線を投げたまま、何も言わなかった。
屋敷に到着したとき、門番がかすかに頭を下げた。
けれどその表情は無表情で、彼女の顔を見ることもなかった。
御者が頭を下げたまま手を差し出し、彼女が馬車を降りるのを手伝う。
扉が開かれ、屋敷の中へと足を踏み入れる。
広い玄関。
きちんと磨かれた床。
冷えた空気。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
背後から執事が静かに声をかけた。
機械のような丁寧さ。
毎日繰り返される儀礼的なやり取りだ。
「明日は朝9時に登城するわ」
「かしこまりました。お部屋のほうへお茶を――」
「いいえ。いらないわ」
ぴたりと返す。
執事はわずかに目を伏せ、恭しく一礼すると、そのまま物音も立てず去っていった。
アイリーンが廊下歩き出すと、少し後ろを侍女が付いてくる。
この家に生まれて16年。
この屋敷のすべての柱と絨毯の端と、どの窓からどんな風が吹くかまで覚えてしまった。
それでも、ここに“誰かが待っていてくれる”という感覚だけは、一度も得たことがなかった。
兄の部屋の前を通ると、扉の隙間から淡い明かりが漏れていた。
けれど、音はしない。
彼がそこにいるかどうか、いつもわからない。
たとえ目の前に立っても、兄の視線はアイリーンを素通りする。
それは“存在しないもの”として扱うような、凍てつく拒絶だった。
この家の婦人が死んだのは、アイリーンを産んですぐのことだったらしい。
元来あまり体が丈夫なほうではなかったらしいが、産後の肥立ちが悪かったそうだ。
おそらく今夜も、父と兄は二人で夕食を取るだろう。
グレイスフィール家の未来と、国政について語りながら。
アイリーンがその席に呼ばれるのは、半年に一度、王家から妃教育の進捗状況の書類が届くときだけだ。
書類片手に、進捗状況について父に問い詰められるあの時間は、食事の味などまったくしないもので、アイリーンはあまり好きではなかった。
部屋に戻ると、既に火が入れられていた。
けれど、誰かが「お疲れさま」と声をかけてくれるわけではない。
準備された室内も、用意されたナイトドレスも、どこか冷たく無機質だった。
アイリーンは鏡の前でそっと髪をほどいた。
黒い巻き髪が肩に落ちる。
金髪が美しいとされるこの国では、美人の部類に入らない色だ。
「……明日も、登城するわ」
その言葉を、誰もいない部屋にもう一度だけつぶやいた。
小さく。
まるで呪文のように。
それが、この家での“わたし”を保つための、ただひとつの意思表示だった。
王城の中でも、あまり使われることのない西塔の図書室。
夕方になると光が斜めに差し込んで、壁いっぱいの書棚を柔らかく照らし出す。
その空間に、アイリーンの笑い声が響いた。
「そんなわけないでしょう?魔王なんて、いるわけないわ」
彼女は顔を伏せて肩を震わせながら、ひとつの古書を閉じた。
それは、異界の門に関する資料だ。
異世界からくる人間は、必ずこの門を通ると言われている。
「異世界があって魔法もあるのに、魔王も勇者もいないなんてなぁ……」
「あなたの世界には、魔王と勇者がいるのですか?」
「いないいない。魔法すらないよ」
「魔法がないなんて、不便ですわねぇ」
「いやいや。ここのほうが不便じゃないかなぁ。洗濯機も冷蔵庫も電子レンジもないわけだし」
アイリーンは首を傾げた。
「洗濯機?」
「自動で洗濯しくれる機会だよ」
「魔道具かなにか?」
「魔法ではないなぁ。電気で動くんだよ」
「電気」
アイリーンは一生懸命電気を想像してみたが、魔法石くらいしか頭に浮かばなかった。
たぶんだが、違う気がする。
「アイリーンのおかげでここの生活もなんとかやっていけてるよ。最近はなんか楽しいかも」
アイリーンは少しだけ呆れた顔をして、それからふっと笑った。
「あなたって、変わった人ですわね」
「え、そうかな? 元の国では平均的な一般人のオタクだったんだけど。でも、こうやって話せるようになって嬉しいよ。最初のころ、君ずっと俺を見て“こいつ誰?”みたいな顔してたもん」
「……今でも、ときどきそう思います」
そう言った彼女の声音は、けれどとてもやわらかかった。
敵意も警戒も、もうそこにはなかった。
この数日、ふたりは一緒に過ごしていた。
教会の書庫、古文書の部屋、忘れられた聖堂。
「帰る方法を探す」という目的のもと、共に動く中で――少しずつ、言葉が増えていった。
「アイリーンさ」
「……なんでしょう?」
「君って、頭良いんだってね。語学も完璧だし、
正直、俺がこの世界で王子のフリしてるの、バレないの君のおかげだよ」
「それは、ありがたく受け取っておきます」
「あと……意外と、話しやすいんだね」
「……それ、どういう意味かしら」
「え、いや、ごめん。違うんだ。親しみやすいというか、優しいというか、空気感が落ち着くというか?」
「……もういいわ。怒っていません。ちょっと……呆れていますけど」
そう言いながら、アイリーンは目を伏せた。
けれどその口元には、小さな笑みが残っていた。
今の彼は、たしかにユリウスではない。
けれど、心を閉ざす必要がない人だと、今では思える。
それだけで、どこか胸が軽くなった気がした。
「……本当は」
アイリーンはふいに口を開いた。
「こんなふうに話せるなんて、思ってなかったのです。ユリウスとも、あなたとも。ユリウスは無口な人ですし、私もこの通り口下手なものですから」
ユリウスは、少しだけ目を見開く。
「ユリウスとは、10年くらい婚約しているけれど、プライベートな話をしたことはありませんでした。出会ったばかりのころはそうでもなかったのですけれど、王子や妃教育が始まってからは交流どころではなかったし、決められた月に一度のお茶会でも政策や今後の公務の話とか。あの人、私の好きな花さえ知らないんじゃないかしら」
その証拠に、誕生日に義務的に送られてくる花束が、アイリーンの好きな花だったことは一度もなかった。
「……そっか」
「でも、今は少しだけ、違う気がします。あなたは……誰かの体に憑依してきたと言うけれど……話しているうちに、たまに……本当に、昔の、とても小さかった頃のユリウスと話しているような気がする瞬間があるんですよ」
その言葉に、ユリウスの瞳が少し揺れた。
「それは……」
「あなたが元の場所に無事に帰ることができたら、ユリウスも帰ってきてくれるかしら……」
「……うん」
ふたりの間に、長い静寂が落ちた。
それは心地よい沈黙だった。
何かを急かすものではなく、ただ、そっと隣に佇むような時間。
「アイリーン」
「はい?」
「ありがとう」
その言葉は、とても真っ直ぐだった。
彼女は驚いたように顔を上げ、けれど何も言わずに、ただ頷いた。
――そう、この時間が続いてくれたらいい。
そう思った瞬間。
胸のどこかが、ひどく痛んだ。
心のどこかでわかっている。
この穏やかな時間は、きっと永遠ではないと。
そしてその痛みは、数日後、“聖女”の名とともに、現実となって訪れることになる――