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リディアは庭園の前に立ち尽くす。
目の前には、かつて自分が座っていた場所にリアが座り、その隣にはラルフがいた。
もうこの光景を見て、大きく傷つくことはない。傷を感知出来ないほど、リディアの心は傷つききっていたから。
ラルフがこちらに気がつき、警戒しながら立ち上がる。
「ここに来るときに衛兵がいたはずだが?」
ラルフの問いに、リディアは静かに答えた。
「皇后を止められるものは、この城にはあなたしかいません」
「……権力を使うのは、国のために動く時だけだと教えられていただろう?」
「えぇ、ですがそれを使わないとあなたと話せない」
感情は希薄で、今にも倒れそうなリディアの様子にラルフは気圧される。
大丈夫か、と声を掛けようとした時に、場違いな声が響いた。
「今ってお仕事の時間じゃないですよね!?」
そう言って、ラルフの腕に抱きついてきたのはリアだ。皇族に対する態度ではないが、ラルフは顔を緩めてリアの頭にキスをしていた。
「リディア様に皇后の立場は譲ってるのだから、ラルフのプライベートな時間は私だけのものです!」
そう言って、かわいくむくれて見せた。
まるでリディアは皇后と王だけの公的な関係と言っているようなものだが、いまは実際そうなのでリディアは何も言えない。むしろ、リアに対して何か言うつもりはなかった。
異世界から来ているということもあり、彼女の価値観や言動はリディアには理解出来ないものだった。
貴族制度が無い国のようなので、立場というのものを理解しておらず、この国で最も敬意を払わなければいけないラルフに対しても慣れ慣れしく振る舞う。
そして、それをラルフがすべて許すので、リアの態度はは誰にも注意も怒られもしないので当たり前になってしまっていた。
リアはラルフの腕にしなだれかかったまま、ふとリアの持っているレースに目をとめた。
「うわ~!なんですか?それ!」
レースをあっという間につかんで、自分の前に広げて見せた。
自分の手からラルフに渡したかったため、リディアは初めてリアに怒りの声を上げる。
「お返しください。それは王にお渡しするものです」
そう言って、レースをリアから奪い返した。すると、リアはわざとらしく悲しい声をあげる。
「わぁ……すみません。100均でおばあちゃんに買ったレース思い出しちゃって、前の世界が懐かしくなっちゃって」
100均というのが何を表すのかはわからないが、前の世界を懐かしむリアを不憫に思ったのかラルフはリアを抱きしめた。
「すまない、私が番を求めたばかりに家族から引き離してしまって……」
「いいんです。私、前の世界で家族と仲が悪くて、いつも姉がひいきされてたんです。学校でも居場所がなくて寂しくて。そんなときに、こうしてラルフが喚んでくれた。だから、あなたは私を助けてくれたの」
リアもラルフを抱きしめ返す。
目の前にリディアがいるのに、二人だけの世界を作っていた。
リアがちらりとリディアを見ながら続けた。
「リディアさんって私のお姉さんみたいで。いつも冷静で勉強とかも出来て。だから、もしかしたらこの世界のお姉さんとして今度こそ仲良くなれるんじゃ無いかって馴れ馴れしくしちゃって……ごめんなさい」
リアの目から涙がこぼれた。
途端に、ラルフから怒りの感情があふれ出る。獣人にとって番の幸せが第一だ。そして、番を悲しませるものには容赦しない。
「たいした用がないなら帰ってくれないか?」
リディアを射殺さんばかりににらみつけながら言った。
リディアはそれでもひるまなかった。こうなることなんて想定していた。どんなに怒鳴られたって、これだけはとやってきたのだ。
最後の賭けだった。それに勝つことなんて限りなく無いだろうことは分かっている。
でも、奇跡を信じたのだ。
「これをラルフ様に渡しに来たのです。昔、この庭園で過ごしたときに互いに掛けたレース、初めてラルフ様に褒めていただいた時のレース、そんな私とあなたの思い出の柄をすべて編み込みました。……受け取っていただけますか」
ラルフはため息をつきながら、少し考え込んだ。
その表情には冷徹なものが浮かんでいた。リディアは突き返されるのを覚悟した。しかし。
「わかった、受け取ろう」
そう言って、ラルフはリディアからレースを手に取った。
レースにはすべての思い出を詰め込んでいる。もしかしたら、ラルフが記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。
リディアの中に、ほんの少し光りが見えた。だが、次の瞬間、希望の光は打ち砕かれる。
ラルフはレースを足下に落として踏みつけたのだ。
それを見て呆然とするリディアにラルフは言った。
「今まで、君は皇后としてこの国に尽力してくれた。だから君が私の番だという世迷い言を聞き逃してきたが、リアを傷つけるのなら話は違う。……今まで私が甘い態度をとっていたからだろう。こうでもすれば、私の気持ちが伝わるか?」
レースを踏みつけながら、ラルフはリアを連れ立って去っていった。
残されたのは、薄汚れたレースだけ。
リディアは自分の心が壊れるのを感じた。
リディアは二人の後ろを追いかけた。庭園を出る間際、談笑している二人が見える。
こちらを駆けてくるリディアの様子がいつもと違うのか、ラルフがリアをかばい、衛兵が前を塞ぐように立ち塞がった。
けれど、リディアの目的は二人では無かった。
立ち塞がった衛兵が帯刀していた剣を抜き取り、自分の首筋に当てる。
「目の前であなたが他の人と幸せになる姿は見たくない」
そう言って、涙を流しながらリディアは微笑んだ。けれど、弱っていた彼女の力では、重い剣を正確に扱うことは出来なかった。
重さに任せて首に滑らせて自害しようとしたが、手元が狂ってしまう。衛兵はそれを見逃さず、リディアから剣を取り上げて彼女の動きを制した。
地面に伏して、頭を押さえられる。その姿は皇后とはほど遠い姿だった。