第9話 マリア
平民街に馬車が着くと、僕とアーデルは馬車を直ぐに降りた。馬車の御者は軽く礼をしてから再び出発して平民街から離れていく。貴族の馬車など平民街に止まることがないからか、余計な注目を集めてしまい、周りに人々が集まってきた。僕がふらついたまま歩くと、アーデルは心配そうに僕に近づいた。
「大丈夫?医院の近くには降ろしてもらったけど……歩ける?」
「………ああ、大丈夫だ……っ!」
僕は大きくふらついてしまい、アーデルの方によろめく。アーデルが驚いて僕を受け止めた。
馬車に乗っている間から症状は出ていたが、身体が異様に熱く目の前はぐらぐらと揺らめいている。アーデルは眉を寄せてから、僕の額に手を当ててきた。
「……っ!?酷い熱よ!?」
「……大丈夫…だ……」
「大丈夫じゃないわ!!!私に捕まって……直ぐに医院に行きましょう!」
アーデルに支えられながら、僕は何とか歩く。集まってきた人々に注目されてしまい、最悪な気分だ。
少しの間歩くと、医院がようやく見えた。アーデルが焦ったように扉を開けて声を上げる。
「酷い熱の人がいるの!!!お願い、助けて!!!」
「……どうしましたか?」
奥の方から老人の男が現れる。僕の方を見て、目を細めた。
「……これはいかんな。誰か来てくれ!!!」
「はい、ただいま!!!」
奥から若い男と女が現れる。男と女に支えられて、僕はゆっくりと歩く。そのままベッドに寝かされて、ようやく僕は息をついた。天井はぐるぐると回っており、とてもじゃないが目を開けていられない。
「……お嬢さん。此方の男性はご友人ですか?このお方に何があったか分かりますか?」
「……友人です。具体的には分かりませんが、酷く精神的なストレスを負っていることは……確かです」
「……そうですか……君!さっき煎じていた薬を持って来てくれ!」
「はい!」
指示された女がバタバタと何処かに走っていく音がする。その後急いで戻ってくる音が聞こえて、僕はゆっくりと起こされる。薄く目を開けると、女が陶器の器を持ち、僕の口元に器を持って来ていた。
「ゆっくりと飲んでください……ゆっくりと……」
薬を飲まされる。何が入っているかは分からないが、酷く苦みを感じた。吐き出しそうになったが、勢いで何とか飲み込むと再び僕は寝かされる。
「熱はこれでひくはずよ……」
「お嬢さん。ご友人ですが、今から身体の方の診察を行います。お嬢さんは向こうの方に行っていて下さい」
「……っ分かりました」
アーデルは頷いて、奥の方へ行く。僕はその後目を閉じたが、直ぐに服を脱がされる感覚がした。老人の声は続く。
「……腹部の打撲跡……手足の跡……何かで抑えられていた?……背中の方にも…っ…君!処置道具を持って来てくれ!!!」
「はい!」
「よし、これで……」
念入りに薬が塗られる感覚がして、うっすらと目を開けると先ほど老人が深刻そうな表情を浮かべながら処置を施していた。この医師は僕に何が起こったのか察したのであろうか。深刻そうな表情は強くなっていく。手足に付く跡と言えば、何かで拘束されない限りはつかないだろう。
僕はそこで目を閉じた。熱でぼやける感覚は強くなっていき、そのまま僕は深い眠りに入っていった。
目が覚めると、再び同じ天井が目に映った。先ほどの歪んだ視界は治っており、僕はゆっくりと身体を起こす。包帯を何重にも巻かれ、簡易的な服に着替えさせられていた。部屋は移動させられたのだろう。診察室ではなく、個室になっている。女は僕を見ると、直ぐに近づいてきた。
「目を覚ましたのね!」
「……あれからどれくらい……経ちましたか?」
「……貴方は昨日の夕方から、ずっと眠っていました……今は次の日の朝です」
「……そう、ですか……」
アーデルは家に帰ったのだろうか。何となく辺りを見回してみると、女はそれを察したのか僕の方を見て優し気に笑った。
「とても優しいご友人をお持ちですね。一度ご自宅にお帰りになっても大丈夫ですとお伝えしたのですが、どうしてもここに居たいと医院の奥で泊まっておられます。そろそろ起きられると思いますよ」
「……っ…わざわざ、泊まったのか?」
「ええ。ご友人の女性は、夜になっても、ずっと貴方を傍で見守っておられましたよ。深夜になってもこの部屋に居たので、私がここから出て奥にある部屋のベッドにご案内したんです」
「……そうか」
僕は女から目線を外して、胸の方に手を当てる。何故か、胸が熱くなり鼓動が早くなる。僕の様子を察したのか、女は優しい笑みのまま「ご友人をお呼びしますね」と部屋から出て行ってしまった。
(アーデルは……何故僕にここまで……)
アーデルにはまだ詳しく聞いていないから分からないが、クロードにマリアのことを伝えたのはアーデルだろう。アーデルは貴族だった。クロードと何らかの関わりがあって、助けを求めたのだろうか?
アーデルは以前、「両親や周りから逃げてきた」と語っていた。合わせてクロードの「逃げるな」とアーデルに言ったあの言葉が示すことは……僕のことをきっかけに、貴族たちに見つかってしまったのではないか?
つまり、アーデルは貴族に見つかることを引き換えに……僕を助けようとした?
「……っ何で……そこまで……」
全てを投げ打ってまでも、アーデルは僕を助けようとしてくれたのではないか?
友人ではあったとしても他人の僕に、アーデルは何故ここまでのことをしたのだろうか。
僕が思考していると、扉のノック音が聞こえる。
「ご友人が目を覚まされましたよ。入ってもよろしいですか?」
「……え?あ、ああ……」
僕が何とか返事をすると、扉が開いて先ほどの女とアーデルの姿が見えた。アーデルは部屋に入ると、心配そうな表情をして僕に近づく。
「セリオン。目を覚ましたのね……本当に良かった。体調は少し良くなったの?」
「……っあ、ああ……大分良くなった……」
僕が曖昧に返事すると、アーデルは眉を寄せてから僕の額に突然手を当てる。それを拍子に僕は大きくたじろいでしまった。胸の鼓動がさらに早くなる。
「……っ!?」
「……まだ熱はあるみたいね……あら?何故だか段々熱く……」
「……っもう、大丈夫だ!」
僕が慌ててアーデルから離れるようにすると、アーデルはきょとんと首を傾げる。僕に分かりやすく顔に心情が出てしまっていたのか、後ろの女は何故か暖かい目を此方に向けると、部屋の扉を開けた。
「……お食事をお持ちしますね。お薬は飲みましたが、ずっと何も食べていないでしょう?まずは白湯とお粥をお持ちします」
ふふっと笑って女は部屋を出て行く。変に笑わないでほしい。アーデルに気づかれるかもしれないだろう。アーデルは僕を見ながら近くに椅子に座った。
「でも顔色大分良くなったわね……本当に良かったわ」
「……ああ。昨日、話していたことなんだが……」
「……ご飯を食べてから話しましょう」
アーデルは目を伏せて呟く。アーデルにとって言いにくいことなのだろう。何となくアーデルを見つめたまま、数分待っていると扉が開く音がした。
「お食事をお持ちいたしましたよ。おひとりで食べられそうですか?もし食べられそうになかったら……お嬢さん、ご友人のお食事を手伝ってあげて下さいね」
「……え?は、はい」
アーデルは目を丸くして女を見る。女は僕の近くの棚に食事の乗ったお盆を置くと何故か僕に向かってニッコリと笑ってきた。一体この女はどういうつもりなのか。
女は「それではお邪魔にならない内に…」とそそくさと扉から出て行く。
アーデルは遠慮がちに、お盆からお粥を取ると僕を見つめた。
「セリオン。1人で食べられそう?その……良かったら、食べさせてあげるわよ?」
僕はアーデルが差し出してきたスプーンに乗った粥を見て、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。僕が無言のまま頷いて口を開いてみると、アーデルは少し驚いた顔をしてから、直ぐに優しい笑みを浮かべた。
「ふふ、さぁどうぞ」
アーデルから差し出されたスプーンをそのまま口に含む。味はあまりしなかったが、飲み込むと身体が少し温かくなる。アーデルは僕の様子を見て、もう一度スプーンに乗った粥を口元へと持ってくる。
繰り返すうちに、気づけば全てアーデルに食べさせて貰ってしまった。アーデルは満足そうに頷いた。
「良かった、全部食べられたわね」
「……腹が空いていたからな」
「ふふ。食べられて良かったわ」
僕は白湯を飲みながらアーデルの笑顔を見る。いつ話を切り出そうかと悩んでいると、その視線に気づかれてしまったのか、アーデルはフッと笑みを見せた。
「……話しましょうか?全てを……」
「……ああ」
僕が頷くと、アーデルは目を伏せた。そのまま口をゆっくりと開く。何処かためらったように話し始めた。
「……まずは私の話ね。私の本当の名前は、アーデル・フローレス。私は貴族で、ずっとお屋敷に閉じ込められていた。そんなある日……結婚が決まったのよ。貴族同士の結婚は避けられないわ。そのお相手が……ベアリング家のクロード公だった。クロード公はどういう訳か私をとても気に入ったらしいの。社交パーティで一度会っただけなのに、どうしてかしらね……ベアリング家から申し建てがあったわ。ベアリング家は代々力を持つ貴族家で…とてもじゃないけれど断ることなんて許されなかった。結婚が決まったと同時に、私は屋敷を抜け出すことを考えたの」
「……クロードが、アーデルを気に入っただって?」
「……ええ。ベアリング家から理由は言われなかったけど、恐らくそうだわ。クロード公は私と会いたがっていたようだから……通常、貴族同士の結婚は政略的なものが多いから、「気に入ったから」という単純な理由はあり得ないんだけど……向こうは明らかに力を持っていたし、結婚を避けられるはずはないわ」
アーデルはそのまま肩を震わせて、両手を膝の上で握りしめる。
「……私はそれから逃げ出すことを計画したの。念入りに絶対にベアリング家にも私の家にもバレないように……結婚なんてしたくはなかった。結婚をしたら、まるで子供のお人形のように扱われることは分かっていたから。私は笑顔を絶やさず、クロード公の横で微笑まなくてはならないことは分かっていた。だから仲の良い屋敷の人たちと計画したのよ。絶対バレないように、国外に逃げることを」
アーデルはそこでようやく顔を上げた。僕をジッと見つめてくる。
「考えてみたら、国外逃亡は無謀だったわ。現実的に考えて出来るはずがなかった。経路を決めることは不可能だった。だから……私はそれを逆手にとってやるって決めたのよ。普通逃げ出すとしたら、遠くに逃げると人は思うじゃない?私は貴族家が最も寄り付かない場所……直ぐ隣の平民街に逃げることにした。そして偽の情報を貴族家に流すことに決めたの。私の家にも、ベアリング家にも」
「……君は賢いな」
「……私も必死だったのよ。どうすれば絶対に見つからないかと考えたの。そして私は無事に平民街に、私をよく慕ってくれた、貴方もよく私の家で会っている使用人のベルと逃げてきたの。わずかな物だけ持って……それから必死に、ベルと一緒に生きていこうとした」
「ベルは……君の使用人だったのか?」
僕が驚いてアーデルを見ると、アーデルはフッと笑って頷いた。
「ええ。そうよ。私をよく慕ってくれて心配もしてくれた。私は1人で逃げるつもりだったけど、どうしても一緒に行くって聞かなかったの。本当に良い友人だわ……私の稼ぎでやっと平民街にボロボロの家を買ったとき、「貴方のお家を必ずお守りします」って言ってくれたわ」
それを聞いて、僕は最初アーデルの家を、ボロ廃屋だと散々馬鹿にしたときのことを思い出してしまった。僕はアーデルの心情を全く知らなかったのだと、初めて気づく。あの家はアーデルにとって、自分の力で成し遂げた、誇りの証だったのだろう。
僕は……僕は、それを馬鹿にしてしまったんだ。
「私は平民としてやっていくことが楽しかったわ……やっと自分自身になれたとさえ思った。家に守られていた時よりも充実していると。でも段々と私は1人で上手くいかなくなって……誰かに頼らなくてはいけない状況になった。貴方と被った公演の時に、「貴族に見せるわ。今の私の姿を。私はやっとアーデルになったのよ」って思ったけれど……結局あの時の公演はローガンのおかげだったし私は披露せず、貴方の演劇を見て……圧倒的な貴方との実力の差を感じてしまった。それほど貴方の演劇は素晴らしかったわ」
アーデルは恥ずかしそうに笑った。自分自身に恥じているのか、自虐的に笑みを見せている。
「今考えてみれば、貴族の中に私の家を知っている人が居たら、歌を披露することで正体がバレてしまったかもしれないのに……あの時の私は自暴自棄だったのね。貴方の公演を見た後に、何人か知っている貴族家の人たちを見つけてしまったから、私は急いで逃げ帰ったのよ……本当、バカみたい」
「……だから君は、僕が公演したあの日、直ぐに帰ったのか……」
「ええ。逃げ帰ったの。貴族たちの集まりだったから、劇場の受付で私の恰好を見た時、受付の人に眉を顰められた時……私は平民になれたのだと、得意な気分にまでなっていたのに……」
「……あの公演の日は平民が1人来ると、僕が受付に話しておいたはずだが」
「貴方の劇団は貴族向けの公演をよくやるのでしょう?特別な思いがあるはずよ。だから……恰好に品がない人はお断りの風習なのね」
僕は劇場の受付がどういう対応をしていたかまでは知らなかった。エキストラ劇団は「高貴」な劇団だと自ら名乗るくらい、品を大事にしていたことは分かっているが……
観に来た観客にまでその対応をしていたのだろう。いや、違う。これは僕が今までやってきたことだ。今更になって気が付いた。
僕は結局、自分を舞台の上に立たせることで“優越感”を得て、観に来る人々を良いカモだと馬鹿にしていただけだ。僕は決してアーデルが言う、「素晴らしい」わけじゃない。
僕はその事実に気づいた途端、咄嗟にアーデルを見たが、アーデルは僕を見て笑顔のままだった。
「大丈夫よ。貴族社会ではよくあることだわ。そしてそれを良く行っていたのは……何よりも私たちの方よ。私は身分の差で相手をけなす貴族たちの姿を見て、それが心底嫌いだった。だから逆の立場に立てたとき、寧ろそれで良かったのだと思ったのよ」
ああ……そうか。僕はその言葉で、気づけば憎い貴族と全く同じことをしていたことに気づいてしまった。
僕は人々を下に見て、そこらの民衆と僕は違うのだと思い、優越感に浸っていた。
それは憎い貴族たちもよく行っていることであり、僕は気づかないうちに、完全に“同じもの”になってしまっていた。
アーデルの言葉が、僕の中にすとんと落ちて行き、気づかされていく。何故かは分からない。ずっと立ち続けていた、優越感の象徴である舞台の上が、酷く狭い場所だったのかもしれないと思えた。
「これで私の過去の話は終わりよ……」
「待ってくれ。君は……クロードと一緒に屋敷に来て、僕を助けようとした……それはまさか……」
「……ええ。私は権力を持ち、警備兵まで管轄に置いているクロード公に助けを求めたわ。言い方は変えてね。「友人が奴隷商売をやっている貴族家の真実を知って、カーライル家に捕まってしまった」と……警備兵に詳しく事情を聞いて、私も聞いたことがあった、カーライル家に捕まったのだと知ったの。それから直ぐに私はクロード公の屋敷に飛び込んで行って……私を見るなりクロード公は本当に驚いた顔をしたわ。それから事情を説明して……それで……」
アーデルはそこで突然口をつぐんだ。首を横に振って、薄い笑みを見せる。
「……クロード公は私に協力してくれると約束してくれた。私が貴族世界に戻ることを条件に。そして私が……クロード公と結婚をすることを条件として」
「……っ」
アーデルは僕を見て笑っていた。瞳の中は確かに悲しみで揺れていて、僕をジッと見つめていた。
「そんな顔をしないで……私は自分で決めたの。貴方を助けたかった。貴方を死なせたくなかった……貴方を……」
「……っどうして、僕の演劇の話を真実だと仮定して行動した?それに……僕を助ける義務は君にはないはずだ」
「仮定も何もないわよ……真実だって、ただ分かったわ。貴方が真実だと言った時の目を見れば……よく分かった。私は貴方の目を見て、放っておけなかった。放っておけるはずがないでしょう?貴方の苦しんだ心を見て……ただ助けたかった」
「……だが、だが君は……僕を助けたことによって貴族に全てがバレてしまった。そのせいで……クロードと結婚をするつもりか?」
「……ええ。もう決めたの。どのみちずっとは逃れられなかった気がするのよ……私は私の運命から、ただ逃げていただけだったから……」
アーデルは傍の窓を見て、遠い目をしたままぼんやりと空を眺める。
……駄目だ。どうしてアーデルは僕を助けたんだ。そんな思いばかり沸き上がる。僕を助けようとしなければ、君は幸せだったろうに。
「何で……何で僕を助けようとしたんだ!!!僕を放っておくべきだった!!!君は……そのせいで、幸せにはなれないだろう。それほど結婚が嫌だったから、家を飛び出してきたんだろう?なのに何で……君は……僕を助けるべきじゃなかったんだ!!!」
「貴方がもし捕まった後に、死んでしまったら……私はちっとも幸せじゃないわ……私があの時、貴方を見捨ててしまったらどうなったと思う?……後悔……ずっと私は後悔をし続けた。私は自分の思いに突き動かされるまま、貴方を助けただけなの。貴方を救いたかったから……余計なお節介って貴方が言いたいのも分かるけれど……でも私は……」
「……僕に、死んで欲しくなかったと?」
僕がアーデルを真っ直ぐに見つめて言うと、アーデルはただ僕の目を見つめて、頷いた。
何故会って少ししか経っていない僕に、ここまでの思いをアーデルは持てるのだろうか。ここまでの感情を僕に持ったのだろうか。
「死んで欲しくはないわ。友達が死にそうになっているときに、私は放っておけない。ただ……自分の感情に突き動かされるの。貴方にただ生きていて欲しいと……」
「………生きていて、欲しい……か」
それは彼女の優しさから来る言葉なのだろう。僕としては、自分が生きようが死のうがどうでも良かった。結局はそれぞれの人生であるし、僕は僕の命など、どうでもよかった。
だが……僕は拷問を受けた直後に、アーデルに会うことを求めたことも確かだ。
僕は、本当は何を求めたのか?何になりたかったのか?どうしたかったのか?
生きたかったのか、ただこの舞台を終わらせたかったのか。答えは見つからない。
「これだけは、覚えていて欲しいの。私は貴方に生きていて欲しい。貴方の苦しみが……あの演劇で分かったから……勿論全て分かったわけではないことは分かっているわ。貴方にしか分からない世界があるとも。それを証拠に、私は最初貴方の演劇が真実だと分からなかった。でも貴方のことを知って、少しだけ分かったような気がするの」
「………そうか」
僕はあの舞台を、僕自身の苦しみを披露しようとしてやったわけではない。だが、アーデルには別の意味で伝わったのだろう。あれこそが僕の苦しみで、誰かにこの苦しみを分かって欲しいのだと、アーデルには伝わった。
最初から、僕は他人に分かってもらおうとも、理解してもらおうともしていない。
僕は……ただ、答えを求めたかった。僕の終着点は何処なのか?僕はただ何処に行くべきなのか?その答え次第で、僕は実際の行動に移すつもりだった。
もしアーデルが僕を否定し、哀れな殺人者と呼んだなら、僕は……この舞台を自らの手で終わらせるつもりだったんだ。
「……アーデル、見せたいものがある。僕がカーライル家で言っていた、奴隷商売の証拠品と……僕が殺そうとした女……マリア・カーライルの日記がある」
「……っ」
アーデルは驚いて僕を見る。僕は無言のままベッドから起き上がると、自分の服を探す。
「まだ寝ていないと駄目よ!」
「……どうしても、今見せたいんだ。君にも意見を聞きたい」
体力は大分回復していた。自分の服を探していると、突然部屋の扉が開く。先ほどお粥を運んできた女が目を丸くして此方を見ている。
「何をしているの!?まだ寝ていてください!貴方は大分体力が弱っていたのよ!」
「もう大丈夫です。治療の値段は幾らですか?」
僕の服を見つけた同時に傍に置いてあった金貨袋を持ちながら聞くと、女は呆れたように僕を見る。
「駄目です。まだ寝ていてください。先生もそろそろ起きられますから、診察を受けて下さい」
「……それなら、少し出かけるのは大丈夫ですか?どうしても今……行かなければならない場所があるんです」
僕が真っ直ぐに女を見ると、女は呆気に取られたように肩をすくめてからため息を大きくついた。
「……はぁ。仕方ないですね。直ぐに戻ってきてください。お代は今はいりませんよ。その代わり、必ずここに戻ってきてくださいね」
「……分かりました。ありがとうございます」
僕が丁寧に礼をすると、女は仕方なしという風に首を振ってから部屋を出て行く。僕はアーデルを見て、微笑んだ。
「……準備をするから、少し外に出ていてくれ。直ぐに行くから」
「……ええ、分かったわ」
アーデルは不安そうに僕を見て、部屋から出て行く。僕は服を着ながら、ふとマリアのことを思い出していた。マリアは僕が殺したはずが生きていて、僕を見て怯えていた。最後にはマリアが愛するクロードの手によって捕まってしまった……彼女自身の終着点は何処なのか?
彼女は必ず最後を選ぶ時が来るはずだ。彼女の思いはクロードには届かないのだから。クロードはアーデルを好きだという事実をアーデルから聞かされた。
彼女の選ぶ最後の場所は何処なのか?僕は捕まった彼女がもし釈放されれば、彼女をまた殺そうとするのだろうか?
僕と彼女の行きつく、終着点は果たして同じか、違うのか?僕たちが目指す場所は……果たして何処なのだろう。僕は……何処に向かえばいいのだろう。
闇の果てに下っていくのか、それとも地上に居たままか。闇にのまれたまま、僕たちは何処に行けばいい?
神よ、もし貴方が死ぬべき時から、僕を助けたというのなら、どうか僕に教えてください。
僕は……僕たちは何処に行くべきなのでしょうか。
………答えは、僕には返ってこない。ただ、室内には沈黙が訪れた。
***
アーデルと共に医院から出ると、空はどんよりと曇っており今にも雨が降りそうだった。
僕はそれを見上げてから、ぽつりと呟く。
「……雨が降るかもしれないな」
アーデルは同じように空を見上げて、少し不安そうに表情を曇らせた。
「……ええ。そうね。大降りにならないといいけど」
「……早めに向かおう。一時間ほど歩くことになるけど、大丈夫か?」
「私は大丈夫だけど、貴方の方が心配よ。体調は大丈夫なの?」
「僕は大丈夫だ。さぁ、行こう」
僕は前を見据えて、早歩きで歩き始める。まだ少し身体は痛んだが、歩けないほどではない。アーデルは心配そうに僕を見つめたが、僕の横についてゆっくりと歩き出す。
僕はもう一度空を見上げる。雨が今にも降りそうだった。雲は太陽を隠していた。冷たい風が流れていた。
歩き始めてから、一時間ほど経ったころ僕はようやく目的地を見つけた。平民街から少し外れた先にある、丘の上だった。そこは殆ど人も寄り付かないが、大きな木が象徴的にそびえたっている。僕は大きな木を指さした。
「あの木だ」
「……木?」
「ああ。僕はあの木の下に……証拠品を埋めた」
それだけを言うと、僕は再び歩き出す。マリアを殺し損ねたあの日の数週間後……僕は奴隷商売の証拠品とマリアの日記をあの木の下に埋めに来た。誰にも見つからないような場所にそれを隠したかった。それでも目立つような場所であって欲しかった。だから僕はあの木を選んだ。
木の下まで行くと、自然と空を見上げる。雨は降りそうだったが、ここに来るまでには降らなかった。
道中で買った、スコップを持って僕は木の下の埋めた部分を見つけた。目印などはつけてはいないが、僕は埋めた場所を鮮明に記憶していた。
「ここだ。少し待っていてくれ」
僕が笑顔のままアーデルを見ると、アーデルはやはり不安そうな表情を浮かべた。
何故僕は笑顔を向けているのに、アーデルがそんなにも不安そうな表情をするかは分からないが、僕は何も言わずにただ木の下を掘り続ける。
土を掘り続け、堅い何かを感触で掴んだ。
「……見つけた」
僕は屈んで、掘った物を取り出す。土に埋もれていたため、念入りに土をはらうと簡素な木箱が現れる。僕は笑顔のまま、木箱を開けた。土埃が少し舞ったが、中は無事で本が二つ入っていた。僕はその中から1つを取り出す。まずは……マリアがつけていた、商品のことが書かれている奴隷商売帳だ。
「これが、マリアの奴隷商売の証拠品だ。見てみるか?」
僕は笑顔でアーデルにそれを手渡した。何でもない物を渡すときのように、さりげなく。アーデルは神妙な表情のまま本を受け取った。
アーデルは恐る恐るページを開く。その瞬間顔を顰めて、口元に手を当てていた。
まだ……そのページは僕のことではない。僕のことが書かれているのは最後のページだ。
アーデルは目を見開いていた。ゆっくりとページをめくり続けて……ようやく最後のページに到達した。
「………っ」
アーデルはそれを見て声にもならない息を吐いた。表情を歪ませてから、それを見つめた。
演劇の内容では詳しくそこは語っていないから、初めて知ったのだろう。あの日の罪の演劇は、マリアを殺した後、商売帳と日記の部分は省いて雨の中の光景で終わらせていた。
その方が、演劇には相応しかったからだ。舞台の上で演じるには、復讐の相手が思っていたことなど、知らなくていいのだから。
アーデルはただそれを見つめた後、何も言わなかった。僕の方を見ることもなかった。ただ奴隷商売帳を見つめる。僕は笑顔のまま、マリアの日記を木箱から取り出した。入れていた木箱は地面に置いた。
「これが、マリアの日記だ。読み上げようか?その方が分かりやすいだろう」
僕は木の下で丁寧にお辞儀した。アーデルは目を見開いて僕を見つめる。僕は大胆に本を持ち上げて、くるくるとその場を回った。まるで豪華な貴族のドレスを纏っている時のように、僕は彼女を演じてみることにした。
「クロード様、愛しております。私はいつも貴方のお傍に居たいのです。貴方の横で眠る姿を見つめていたい。貴方と共に居たいのです………君と結婚したがっているクロードは……マリアに、とても好かれていたようだ」
僕は日記を掲げたまま、ページをめくる。マリアになりきって、クロードに惚れた彼女を演じて見せる。
「なぜ、クロード様は私を見てくれないの?私はこんなにも想いを伝えているというのに。何をしても貴方は私を見ない。あの女ばかり気にしている。貴方の好きな花まで把握した。私はその匂いを纏って、貴方を想い続ける。ああ、クロード様、愛しております!」
僕は大胆に両手を広げて、クロードのことが好きなマリアを演じる。僕は笑顔のまま、恍惚した表情でアーデルを見つめると、アーデルは何も言わずに表情を歪ませて僕を見つめる。
「……あの女ってのはもしかして君のことか?そうだとしたら、君はマリアに嫌がらせをされたんじゃないのか?」
「……カーライル家のご令嬢は有名だったから知っていたけど、特に何もなかったわ」
「……ああ、そうなのか。君がマリアに酷い目に合わされていなくてホッとしたよ」
僕は笑顔のまま、次のページをめくる。それにしてもドレスというものは邪魔なもんだな。動きづらくて叶わない。マリアはいつもこんな格好で歩いていたのだろうか。
「クロード様はあの女と結婚すると公表した!そんなこと許せない!許せるはずがない!絶対に許せない、あの女をどんな手を使ってでも消してやるわ!……これは君がまずいところだったな……だが、君は今、貴族の屋敷に戻っても大丈夫だ。マリアはクロードに捕まったからな!!!ははは!!!」
僕が大げさなそぶりで大笑いしてみると、アーデルはどういう訳か泣きそうな瞳で僕を見つめる。ああ、そうか。僕は今マリアを演じていたというのに、僕に戻ってしまっていた。僕は再びドレスを纏う。
「あの女が突然姿を消したと聞いた。こちらの行動に気づいたのだろうか?女の捜索隊が貴族区域をうろついている。クロード様は落胆されたらしい。ああ、クロード様。お傍に居られたら、私が慰められるのに……マリアは君を消すつもりだったらしい。僕にやった時のようなことをするつもりだったのだろうか?本当に……危ない所だったな」
僕が息をつくと、アーデルは肩を震わせていた。マリアがアーデルにしようとしていた行いを知って、怖かったのだろうか?僕は落ち着けさせるために、彼女を笑顔で見つめる。
「クロード様が私を見ないのなら、何としてでも振り向かせるしかない。ある力を持つ首飾りの噂を聞いた。私は必ずそれを探して、貴方に届けるわ…ずっと貴方は私の傍に……さぁここだ!!!見てみろ!!!ここだ!!!ここで……彼女は操る首飾りなんかの妄想に憑りつかれた。それからは、とことん男を騙しての奴隷商売さ。面白いよな?」
僕はくつくつと笑って見せる。アーデルを見ると、本当に泣きそうな表情になっていた。ああ、まずいまずい。僕はまた僕に戻ってしまっていた。
僕は目を瞑って、彼女に戻ろうとする。ドレスを纏って、彼女を思い出す。
再びお辞儀をして、次のページを読み上げようとすると、アーデルは僕に向かって走ってくる。僕を見つめて、泣きそうな表情をした後、僕を突然強く抱きしめた。
アーデルの体温が僕に伝わる。僕は固まってしまった。突然抱きしめられたものだから、僕は何も言えない。アーデルは肩を震わせている。そのまま強く、強く僕を抱きしめた。
「……もういいのよ。もういいの。読み上げる必要なんてないのよ……お願い、セリオン……もういいの」
「……っ」
アーデルは僕を抱きしめた後、僕から少し離れて僕をジッと見つめる。アーデルの瞳には……涙が流れていた。一筋の涙が流れ、僕を見つめていた。僕はその瞬間に、マリアから僕に戻った。
「……何故、泣くんだ」
「……もう……いいの。何も言わなくていいわ……セリオン」
アーデルはもう一度僕を抱きしめた。ただ、何も言わずに抱きしめる。アーデルの強い力を感じる。アーデルの温もりが全身を包み込む。僕は持っていた日記を地面に落とした。
その時突然、雨が降り始めた。ああ、大事な証拠品が濡れてしまう。アーデルは僕の表情で同じことを思ったのか、持っていた奴隷商売帳をアーデルの鞄に入れた。
僕は力を失くして、地面に膝をついた。アーデルはそれを見ると、同じように膝をついて僕を抱きしめる。
雨と同時に、僕は涙を流していた。辺りは揺らめき何も見えない。何も見えるはずがない。雨が降っているのだから。雨は僕を濡らしている。木の下で少しは防ぐことが出来たが、僕自身は雨で濡れたままだった。
雨は僕を濡らした。目を瞑った。ただ、僕は涙を流した。温かい物が頬に伝い、唇をなめると塩辛い味がする。
これが涙の味だったか。僕はやっと思い出した。塩辛くて、何とも言えないこの味は……僕が僕であることの証明だ。
天気が土砂降りになってきたと同時に、僕は嗚咽を上げた。駄目だ、止めることはできない。
僕は嗚咽を上げて、泣き叫んだ。必死に隠そうとしたが、無駄だった。
嗚咽は勝手に漏れる。アーデルはそれを分かったのだろう。ただ僕の背中をさすった。
泣き声を上げた。子供の時のように、泣き叫ぶ。鼻水まで垂らし、僕は不格好に泣いた。
男らしくも何もない。ただ子供のように泣いた。
それほど恰好の悪い僕を……アーデルは何も言わずに抱きしめ続けた。
冷たい雨の中、アーデルの温もりだけが……ただ僕を包み込んだ。
ひとしきり泣いた後、僕たちはようやく顔を見合わせた。僕は今どれだけ酷い顔になっているのだろうか、涙で濡れた顔を必死に拭うと、アーデルは僕の頬に手を当てて、指で少し拭ってくれた。
「……大丈夫よ。布を持っているわ」
アーデルはアーデルの鞄の中から、小綺麗な布を取り出して僕の顔にそっとあてる。僕はアーデルになすがまま身体を預けて、アーデルを呆然と見つめていた。
アーデルは丁寧に僕の顔をぬぐうと、切なげに笑いながら布を差し出す。
「もう少し拭く?この布は貴方にあげるわ」
「………ああ」
僕は布を受け取って、自分で涙をふき取っていく。空を見上げると、気づけば雨は小雨になっていた。少しずつ雨は止んでいき、どんよりとした雲の隙間に僅かな太陽が見える。
アーデルは何も言わなかった。僕が泣き叫んでも、何も言わなかった。僕はアーデルから視線を外して、呟く。
「その……すまなかった」
「謝ることなんてないわ……人は誰しも泣きたい時はあるでしょう?……それに、私は貴方が感情を見せてくれて良かったとも思う」
アーデルは僕を見て、切なげに笑っている。僕の方に手を伸ばして、髪に触れた。
「……本当に良かった。貴方が日記を読んでいる間……ずっと耐えているように見えたから。見ていられてないほど……私は苦しかったわ」
「苦しい?君が何故だ?」
「貴方は私が考えられないほどの……苦しみを背負っているのね。それだけは伝わったわ……私はこうすることしか思いつかなかった。貴方にとって何が最善なのか、私には分からない。でも貴方は……もっと感情を見せてもいいと思うわ」
アーデルは髪に触れた後に、もう一度僕を抱きしめた。僕はそれに驚いて、恐る恐るアーデルの背中の方に手を伸ばし触れる。アーデルもまた、僕の背中に触れると、再び二人で抱きしめ合った。
二人で温もりを確かめ合った途端に、僕は自身の心臓の鼓動が早くなるのを感じ取る。
何故アーデルはこんなにも格好の悪い僕を、ただ抱きしめてくれるのだろうか。
恰好の悪い男だと罵らないのだろうか。
アーデルは僕から離れると、優しく微笑んだ。
「やっと雨が止んだわね。そろそろ医院に戻りましょう?貴方の体調が心配だわ」
「……そうだな。体調なら大丈夫だが、医院の女性に文句を言われそうだ」
「ふふ、あの女性ならきっと怒るわね。それに私も……心配だから」
アーデルは立ち上がると、僕に向かって手を差し出す。僕はアーデルの手を掴んで、立ち上がる。雨に濡れたマリアの日記を見て、僕はそれを持った。そのまま歩き出す。
アーデルと共に、丘を下っていく。丘を下ると、丁度何人か集まって焚火をしている平民の姿が見えた。子供たちと一緒に家族で囲んでいるのだろう。親子で楽しそうに笑っている。僕は抱えたマリアの日記を見てから、その焚火に近づいた。
焚火の近くの椅子に座っていた、父親らしき人物が僕を見上げる。
「少しいいですか?燃やしたいものが……あるんです」
「ああ、いいよ。入れなさい」
僕はマリアの日記を見てから、それを焚火の中に投げ捨てた。日記は一瞬で燃え上がり、消えていった。アーデルはそれを見て驚いた表情をしていたが、何も言わなかった。
僕は無表情で燃えていく日記を見つめた後に、丁寧に礼をする。
「ありがとうございます」
「いいよいいよ。お安い御用さ」
父親らしき人物は笑顔で僕を見る。そういえば、最後に僕の家族に会ったのはいつだったか。大切な母を病気で亡くした後、父との仲は更に悪くなり、演劇をやると父に言って一方的に飛び出してから、家に戻ってはいなかった。近いうちに一度、戻ってもいいのかもしれない。母の墓にも……久しぶりに顔を見せたい。
後ろで待っていたアーデルと合流すると、再び歩き出した。
医院に着き、中に入ると医院に居た女は直ぐに出てきた。僕を見るなり、ホッとしたように顔を綻ばせる。
「良かった。戻ってきてくれたんですね。先生がお待ちですよ」
女に案内されて、老人の男の医者の前の椅子に座る。アーデルはそれを見て微笑んでから、奥の部屋へと入って行く。僕はそれを横目で見ながら、医者の方を見た。
「さて傷口の状態を見るので、一旦上半身の服を脱いでください」
「はい」
僕は頷いて、上半身だけ脱ぐと医者は念入りに状態を確認した後に、僕の目を見てから心臓音を確認する。
「顔色は良くなりましたね。これなら今日退院でいいでしょう」
「……ありがとうございます」
僕が丁寧に礼をすると、医者は頷いた。それから医者は遠慮がちに此方を見る。
「……ここからは個人的な質問だ。答えたくないなら答えなくていい。一体何があったんだね?手足に強い力で拘束された跡が見え、君の消耗は激しかった。腹部の打撲跡や背中の強く打ち付けたような跡は、明らかに……人為的なものだろう」
「………僕自身の、過ちです。それで……起こったことなので」
「……そうか……いや、君のことを詮索してしまい、すまなかったね。何か犯罪的なものに巻き込まれているんじゃないかと思ったんだ」
「……大丈夫です」
僕が笑顔で医者に返すと、医者はようやく納得したように頷く。僕は服を着てから、医院の女に言われた金額を払って、そのまま僕が居た部屋の方へ向かう。アーデルは医院の部屋の廊下に立っており、僕を見ていた。
「退院できそうなの?」
「ああ。医者から許可は降りた。金はもう払ったよ。アーデルは……これからどうするんだ?本当に……貴族の屋敷に戻るつもりか?」
「………戻らなくてはいけないわ。後二日後に……」
「何とか逃げることはできないのか?僕なら、その経路を考えられるかもしれない」
僕がそう言うと、アーデルは目を見開いてから、寂しげに首を横に振った。
「無理よ……きっと平民街には、ベアリング家の見張りがつけられている。国外にも無理ね。クロード公は見張っているって言っていた。私はもう逃れられないわ、その覚悟だったし、もういいのよ」
「……っ……でも君は……本当にそれでいいのか?」
僕はアーデルを真っ直ぐに見据える。アーデルは僕を見てから、少しだけたじろいたように視線を外した。それから目を伏せて笑みを見せる。
「……ええ。もういいの。ねぇセリオン。これからもう貴方とは会えなくなってしまうかもしれないけれど、私はずっと覚えている。貴方とのことを……ずっと覚えているわ。これは私にとっての大切な思い出だった。それだけは覚えていてね。貴方の演劇をずっと応援しているわ。頑張ってね……」
「……アーデル……」
本心を言ってしまえば、アーデルには貴族の屋敷なんかに戻って欲しくはない。だが、それを伝えることがアーデルにとっての最善なのかは分からない。クロードは貴族で、権力を持つ手強い相手であり、僕が全部に反抗できる自信はないからだ。
僕は……結局は平民で何の力も持たない。アーデルを連れて逃げたい気持ちではあったが、逃げたところで直ぐに捕まってしまうだろう。
僕は両手で拳を作り、強く握りしめる。
「さぁ、もう行きましょう?セリオンはこれからどうするの?」
「……アーデルの家は、今クロードの見張りがついているかもしれないんだよな?」
「……ええ。恐らくね。クロード公には、居場所は伝えてしまったから」
「僕は、一度僕の実家に戻ろうと思うんだ。良かったら、アーデルも着いてこないか?ずっと実家には戻っていなかった。父との折り合いが良くなかったからな……それで1人で戻るのは、どうにも気まずいんだ」
アーデルは僕を驚いたように見てから、直ぐに微笑んで頷く。
「ええ、いいわ。行きましょう。ご両親と、喧嘩でもしたの?」
「些細なことの積み重なりだ……それと……僕に母親は居ないんだ。僕が14歳の時、病気でな……母さんが亡くなった後、父との仲が元から悪かったのが、更に悪くなった。だから1人で演劇をやろうとして、実家を出た。それから戻っていない」
「……っそうだったの……ごめんなさい」
アーデルは目を見開いてから、切なげな表情を浮かべて僕に謝ってくる。僕は首を静かに横に振ってから、微笑んだ。
「……いや、大丈夫だ。アーデルの両親は二人とも……厳しかったんだろう?」
「ええ。両親には殆ど放っておかれていた。なのに、重要な貴族家とのパーティの時だけ、私に何度もマナーを教え込むのよ。それが本当に嫌でたまらなかったの」
「僕も父のことは嫌いだった。僕らは意外な共通点があったんだな」
僕がアーデルを見て微笑むと、アーデルも「ええ、そうね」と微笑んだ。親との関わりについては貴族も平民も関係のないことなのかもしれない。
貴族は傲慢で、豪華な暮らしばかりしていると思っていたが、アーデルが抱えた思いを見ていると、どうにもそうではないようだ。
貴族にも家族が居て、あの馬鹿でかい屋敷で暮らさなければならない。生まれた時からその定めを背負い、ある人はマリアのように権力に狂い、ある人はアーデルのような悩みを抱えている。
貴族のやったことは忘れられないが、僕は様々な貴族が居ること知った。
僕はこれからどうしていくべきなのか、答えはまだ見つからない。だが、今一度周りを見渡し、僕が本当に望むことを探していくべきなのだろう。
僕の終着点は何処なのか?僕自身でそれを見つけることはできるのだろうか?
横を見ると、アーデルは微笑んでいる。医院を出て二人で平民街を歩き出してから、僕は何となく手を横に伸ばしてみる。アーデルの手に指先だけ触れると、さりげなくを装って手を繋ぐ。
アーデルは驚いて此方を見た。アーデルは柔らかく微笑んで、手を握り返してくれる。
アーデルの首元には僕があげた首飾りが、太陽の光で光り輝いている。
(ああ……放したくない。アーデルを……放したくないな)
僕は胸の高鳴りを抑えられない。アーデルを放したくない。貴族であり屋敷に帰ってしまうことは分かっているが、放したくなかった。このままずっと、手を繋いだままでいて欲しかった。