第7話 エダン
アーデルの家に一旦荷物を置いてから、アーデルとフィオナ、そして僕はエダンの異様なハイテンションと共に、エダンの案内する方向へと着いて行った。
エダンの向かう方向は平民街の中心地とは離れた場所で、下町の方向だった。段々と人通りが少なくなり、ここらは貧民街のため殆ど来たことはない。路上では物乞いが虚ろな目で座っており、怪しげな薬取引をしてそうな輩も居る。何故エダンは美しい場所と言いながらこんな場所に連れてきたのだろうか。アーデルは段々と不審そうな表情になっていく。
「ちょっと、ここの何処に美しい場所があるのよ?こんな場所来たことないわ!」
「同感だ。ここらは危険地帯じゃないか?一体どういうつもりだ」
「はは。二人とも落ち着いて。ここを通らないと行けない場所なんですよ…」
(まさか今までの異様なハイテンションぷりは、まずい薬をやってたからじゃないよな…?妹の話で自分を追い詰めたエダンは、薬をやり始めた。そういうシナリオも考えられる)
絶対に怪しい。エダンは薬の禁断症状などを見せたことはないが、万が一のことはあり得るかもしれない。何かしら対抗しておく術を考えておいた方がいいだろう。そして一応友人として、そんな薬など今すぐやめろと忠告しておくべきかもしれない。
エダンに着いて行っていると、突然横の建物の目の前に居た、金髪の図体のでかい男が話しかけてきた。
「よう、エダン。また利用するつもりじゃねえだろうな?」
「おう、レックス。久しぶりだな。今日はいい」
「あ?そうか?金さえ用意すれば、必要なブツは用意できるからな」
「ああ分かったよ。それじゃあ友人達を連れているんでね」
「お前…この場所によくダチを連れてきたな。物乞い共に嚙まれねぇようにしっかり、見張っておけよ?」
レックスと呼ばれた男はニヤリと僕たちを見て笑う。ああ、何てことだ。悪い予感が当たってしまった。エダンは確実に、まずい系統の薬をやっている。今の会話で全てを察してしまった。僕はそのまま笑顔で進もうとするエダンに走って追いついてから、エダンの腕を思い切り掴んだ。
「おい、エダン。お前……危険な薬に手出してるだろ!」
「………ああー……急にどうしたんだ?」
「だから薬だ!今の会話を僕は聞き逃さなかった。お前…いくら暇だからってな、そんな物に頼るのはやめろ!」
「………くっ……ははははははは!!!」
エダンは突然大笑いし始めた。ああ、まずいこれは薬の禁断症状だ。アーデルはひき気味にエダンを見ているが、此方としてはどう対処すべきか思考し続ける。
「……いいかエダン。薬が欲しいのは分かるが、一旦落ち着けよ…アーデルやフィオナも居るんだ。ここで狂ってしまえばどうなるか…」
「……っふはははは!!!もうお前は何なんだよ!本当想像力が豊かな奴だな?もう駄目だ……ははは!」
エダンは腹を抱えて笑い出したため、横のアーデルとフィオナを見ると二人とも曖昧に笑っている。やはり僕と同じように薬の禁断症状だと思ったのだろう。
「今の会話で全部分かった。今の医術は発達していて、そういった禁断症状も治せるかもしれない…」
「ははは!今のは情報屋だ!!!」
「は?情報屋?」
僕が咄嗟に聞き返すと、腹を抱えたまま苦しそうに呼吸しながら、エダンはやっと声を出す。
「…くくっ……情報屋って聞いたことがないか?」
「いや、聞いたことはあるが……」
「はー…金を払えば、必要な情報をくれる。物凄く単純だろう?」
「何のために情報屋なんて利用する?」
「そりゃあ…あれだ。今朝話したことだよ」
エダンはそう言ってから首元の銀色の首飾りを取り出して、僕に見せてくる。それでようやく僕は納得した。今朝、エダンは妹を探すために色々と動いていると聞いた。そのために、恐らく情報屋を利用したこともあるのだろう。成果は得られないのだとも語っていた。
「……なるほど、あれか」
「そうだ、あれだよ、あれ。ほら行くぞ?」
「ちょっと、何なのよあれって!気になるじゃない!私も正直薬かと思ったわ」
アーデルは此方に向かって歩いてくると、不満そうに腕を組んだ。エダンはどういう訳かニヤリと笑って、話し出す。
「残念ながら、秘密にしておかなければ…実は男として必要なブツがあり、情報屋に頼らなくてはならず…」
「……はぁ?………まさか……ばっかじゃない!?」
(何だよ、男として必要なブツって…)
アーデルはどう解釈したのか、顔を真っ赤にさせて怒り出す。そもそもエダンはアーデルに妹のことを話すつもりはないのだろうか。
「何でもかんでも、いやらしいことばっかり!本当信じられないわ!」
アーデルは怒りながら、ずんずんと先に歩き始めてしまう。その様子を見てから、僕はエダンの方を見て呟く。
「何なんだ?男として必要なブツって…」
「ん?特に何も考えていなかった。ああ言っておけば、上手い方向へ解釈してくれるだろう?」
「は?何だそりゃ…お前は…アーデルに、あのことを話すつもりはないのか?」
僕がそれとなく聞くと、エダンは僕を見てからフッと神妙な様子で笑う。
「そうだな……いつかアーデルが気を許してくれたら、頃合いを見て話すかもしれない。だが、今日はお前に話したからな…また次の機会を見てだな」
「……そうか」
エダンにとっては妹や家のことは、相当心に来るものだったのだろう。僕に話すのですら、ためらっていた様子であった。何人もの人に話すのは精神的に来るものも、あるのかもしれない。エダンは次の瞬間、神妙な表情をパッと笑顔に変えるとアーデルを追いかけまわすように走り出す。
「美しいアーデルお待ちください!ここは俺と歩かないと危険ですって!!!」
「こんな危険な場所に連れてきたのはあなたじゃない!」
(神妙なんだが、馬鹿なんだか、よく分からないやつだな…)
僕はフィオナの方を見て、「行こうか」と声を掛けてから、ゆっくりと二人を追いかけるため歩き始めた。
エダンが言うには目的地は、貧民街を抜けた先の山の方向にある、長い階段を登り切らないと着かない場所らしい。階段を登り続けていると息が切れて仕方ない。アーデルは最早怒りを通り越した視線をエダンに向けており、息をはぁはぁと静かに吐いている。
途中でリタイアしそうになったフィオナを背負って呑気な表情をして登っているエダンに向かって、とうとうアーデルはかすれ声を出した。
「ふざけないで……はぁ…何でいきなり山登りなんてさせられてるのよ…」
「…その通りだ……エダン、お前は……はぁ…僕たちを騙したのか?」
「まぁまぁ。後少しですから」
「今に…見ていなさい……」
アーデルはゆっくりと息を吐くと、エダンに恨みの籠った視線を送る。エダンは笑顔のまま、「あっ」と声を出して先の光が漏れている部分を指さした。
「ほら、着きました。フィオナお嬢さん、目的地に到着いたしましたよ!」
「えっ?ちょっ……キャーーー!!!」
エダンはフィオナを背負ったまま、フィオナの悲鳴と共に物凄い勢いで階段を駆け上がっていく。ああ、駄目だ。この馬鹿に付き合っている僕が馬鹿らしくなってきた。アーデルも同じ気持ちだったのだろう。アーデルは僕を見ると、苦笑いをする。
「もう……はぁ……エダンのことを信用するのはやめるわ」
「……同感だ」
呼吸を荒げたまま、階段を登り続けていると遠くの方でエダンが此方を見て、ブンブンと手を振ってくる。
「ほら!ここは美しい場所ですよ!!!早く来てください!!!」
「………っこの馬鹿が!!!」
「本当ね……なら、私も…この、アホ男―――!!!」
アーデルと僕が暴言を次々と吐くと、エダンはきょとんとした表情をして、首を傾げている。
それに思い切りイラつきながら二人で協力し、やっとの思いで階段を登りきると、その場所は想像を超えた景色だった。
「これは……」
「あら……」
一面に美しい花畑が広がり、それを超えた先は王国の平民街を上から全て見渡せた。建物は細かく見え、美しい空が広がっている。更にどういう訳か野生の花畑だというのに、誰かに手入れされているように整っていた。
アーデルは呆気に取られたように景色を見ており、エダンに降ろされたフィオナも驚いたように前の方で景色を見つめている。
エダンは花畑の真ん中に立って、誇らしげに此方に向かって振り返る。
「どうでしょう?皆様……この場所は誰にも知られていないんですよ。この階段を登りきる人は中々いないので…場所が下町を超えた先なこともありますが。ということで、俺の秘密基地みたいなもんです」
「この花は……一体どこから?植えたの?」
「アーデル、驚きましたか?花は殆ど俺が植えたものです。元はこの場所も荒れ放題だったので。毎週訓練の一環として階段を登ると同時に、花の世話なんてこともしていたり…」
「はぁ?お前が花の世話?」
僕が咄嗟に返すと、エダンは僕を見てフッと笑った。もう一度銀色の首飾りを見せて、ただ笑う。
「……この景色を、見せたい人がいるんだ。いつか……」
「…………ああ……そうか」
花畑を作っていつか見せたいと思うほど、実の妹を想っていたのか。兄妹は僕には居ないから完全には気持ちが分からないが、そこまで実の兄妹というのは特別なものなのだろう。
そしてそれほどに…エダンは自分自身を思い詰めているのだろう。
アーデルはきょとんとして、エダンの方を見つめる。
「えっちょっと何なの?エダンには恋人でも居るの?」
「ただいま俺は勿論フリーですよ!いつでもこの胸は空いています!さぁアーデル!この俺の胸に飛び込んで来てください!」
「ふざけるのはやめて。はぐらかそうたって無駄なんだから!」
「……俺の家族にですよ」
エダンはアーデルに向かって、寂しげに笑うとアーデルは眉を寄せて、「あら……」と呟く。
「ごめんなさい。聞いてはいけないことだったかしら…」
「いえ、大丈夫です……ああ、そうだ!俺としたことが、大切な用事を忘れていた!!!大変だ!!!」
エダンは突然大声をわざとらしく出すと、フィオナを勢いよく抱きかかえて、驚いたフィオナに耳を寄せる。
「え?フィオナお嬢さんにも大切な用事があるって?そりゃ大変だ!!!俺も今すぐに帰らなければならない用事が出来てしまった!!!それではお二人とも、ごゆっくりと……帰りも階段を下らないといけないので、その時間も考えてお過ごしください…」
「えっ……待ってそんなこと言っていませ…」
「ほらほらフィオナお嬢さん行きますよ!!!安心安全にアーデルの家に帰しますので!!!」
エダンは超高速でフィオナを担いだまま階段の方へと走ってから、僕の方に振り向いて親指をグッと上に立てると、フィオナの悲鳴と共に階段を降りて行ってしまった。
(お前…わざとらしすぎるだろ…)
先程確かにエダンは首飾りを渡す機会を作ると言っていた。そして奴はそれを実行したに過ぎないのだろうが……どうしてここまで分かりやすくやってしまったのか。横を見るとアーデルは案の定「はぁ?」と呟いて眉を寄せている。
「何?あれ……ここに連れてきたと思ったら、突然用事が出来たですって?フィオナちゃんを強制連行もしちゃうし……セリオンどう思う?」
「あー……奴は予測不可能だからな……」
「はぁ…ええ、そうね。これからどうする?あら、でも…ここは本当に綺麗ね…」
アーデルは嬉しそうに花畑を見ている。この繊細な花畑をエダンが作る姿は全く想像できないが、確かに出来は素晴らしい。アーデルは振り返って、此方を見る。
「ねぇ、せっかくだから景色を全部見れるところに座らない?」
「ああ、そうだな」
僕とアーデルは二人並んで、花畑を超えた先に行く。エダンが作ったのか手作りベンチのような物があり、アーデルは「こんなものまで作ったのね…」と驚いた声を上げる。
「ここに座りましょうか?」
「ああ」
僕は頷いてアーデルの座ったベンチの隣に座る。目の前の景色を見るとまるで国全体が見渡せるような気分になる。勿論平民街までしか見えないのは分かっているが、これは気分の問題だ。沈黙が訪れたため、僕は恐る恐る口を開いてみる。
「アーデル……」
「ええ、なあに?」
アーデルは景色を見るのをやめて、僕の方を見る。僕は何と切り出せばいいのか分からなくなり、誤魔化して咳をこぼしてみる。アーデルの方を見ながら片手で鞄の中から、先ほど買った首飾りの入った包みを取り出すと、無造作にアーデルの方に差し出した。
「これ………昨日助けてくれた……お礼にと思ったんだ…」
「え?これは……」
アーデルは心底驚いた表情をして、包みを受け取った。ああ、何故僕はもっとマシな言い方ができないのだろうか。演技をしている時は大丈夫なのに、人付き合いというものが真面目にするならどうすればいいのか、分からなくなってしまった。
アーデルは嬉しそうに笑顔で、僕の方を見てくる。
「開けてもいいかしら?」
「…ああ」
「ふふ、ありがとう」
アーデルはゆっくりと包みを開ける。アーデルが包みを開ける姿を見て心臓がバクバクとしてきた。もしも気に食わなかったら…もしも、今は笑顔で受け取っても後で捨てられたら…そんなことがいくつも思考される。
しかしアーデルは包みを開けた瞬間、目を見開いて首飾りをゆっくりと取り出した。
「これは……もしかして、私が買うか悩んでいるのを見てくれていたの?」
「ああ、たまたま……欲しそうだったからな……」
(それを買えと言ってきたのは、エダンだったがな…)
僕が冷静にあの時のことを思い出していると、アーデルは微笑んだ途端、首飾りをゆっくりと包み込むように手を添える。
「……見てくれていたのね…ありがとう……本当に、嬉しいわ」
「……そういうもので良ければ、いくらでも渡せる」
「ふふ、正直に言っちゃうと、あなたのことだから一瞬包みの中身は、金貨かと思っちゃったわ」
アーデルは反省したように笑う。一体僕は……アーデルにどんな印象を持たれていたのだろうか。僕はそれに曖昧に笑っていると、アーデルはぷっと吹き出すように笑った。
「ふふ!冗談よ!流石にそれはないだろうとは思っていたわ。でも…初対面の時にあんなに自信満々に金貨を渡してくるんだもの!もうセリオンと言ったら“金貨”って印象しかなくて…」
「ああ、冗談か……いや、金貨を渡したのは…取引でよく使う手段だからな…」
「取引ね?本当にあの時のあなたは自信満々だったわよね!「世の中は金だ!」って思うようなタイプなんだろうなって思ったわ。そういうタイプの人はよく見てきたけれど、ここまで分かりやすい人居るんだなって」
「………分かりやすくて、悪かったな…」
僕は思わず不貞腐れたように呟くと、アーデルは可笑しそうに笑い出す。
「あら、やっぱりそうだったのね!世の中は金で、金があれば何でもできるって思っているんでしょう?」
「……実際にそれで、ある程度のことは解決する」
「ええそうね。でも今回は金貨じゃなくて、首飾りでホッとしたわ……本当に私にとって嬉しい物だったから」
「それも金貨を払って買ったものだぞ?」
「ふふ!それはそうね。でもこの首飾りはね…気持ちが違うわ。あなたの気持ちが……伝わったから…」
(まずい、エダンが全部考えたことだって言った方がいいだろうか…)
一瞬焦るが、アーデルの嬉しそうな姿を見て何も言い出せなくなってしまう。何故…僕は自分自身で首飾りを渡すことを考えなかったのか後悔さえしてくる。エダンの読みは全て当たっていた。だが、考えたのはエダンだ。僕自身は何も分かっていなかった。どうせ捨てられると自分が傷つけられることばかり考えていたんだ。
アーデルは立ち上がってから僕を見下ろすと、目を細めて笑顔になった。
「ねぇ…この首飾り、私に着けてくれない?」
「…え?あ、ああ……勿論」
僕はアーデルから首飾りを受け取って、立ち上がる。アーデルは僕が着けやすいように少し屈んでくれて、後ろから首飾りを付けようとした途端、僕の手は突然動かなくなった。
目の前にあるのはアーデルの首だ……突然あの日のことが思い出される。マリアの細い首を絞め、マリアの首に首飾りを付けたあの夜……マリアは……マリアの顔は苦痛に歪んでいた……違う。今は違う。目の前に居るのはアーデルだ。あの日とは違う。
僕の手は震え続け、首飾りを地面に落としてしまう。アーデルは驚いて僕の方に振り返る。
「……セリオン?」
アーデルは不思議そうに僕を見る。僕は咄嗟に作り笑顔を作って、「はは」と乾いた声で笑って見せた。
「…すまない。手が滑った」
僕は笑いながら地面に落ちた首飾りを拾う。大丈夫だ。僕は笑えている。アーデルに何も気づかれることはないはずだ。僕はアーデルの首元に震えた手のまま首飾りを付けて、もう一度笑顔を作る。
「ほら、できたぞ」
「ありがとう……ねぇ、大丈夫?」
アーデルは心配そうな表情をして屈んだまま僕を見たが、僕は笑顔のままアーデルに答える。
「…大丈夫だ。ああー…聞きたいことがあるんだが聞いてもいいか?」
違う方向に話題を持っていこうと試みる。アーデルはそれで僕が大丈夫だと判断したのか笑顔で再びベンチに座った。
「何で…アーデルは、歌をやろうと思ったんだ?」
「……あら……それは…歌が好きだったから。って単純な答えは駄目よね?」
「深い答えがあるのなら、それを聞きたい」
アーデルはそれを聞くと、フッと笑って目の前を見る。僕は震えた手を隠して、アーデルの隣に座った。
「私にとって唯一……自分が持っている物だったから…幼い頃は周りによく褒められたの。歌が上手ねって。でも…それだけだった。私に自由はなかったから…歌を家族以外の誰かに見せられる場所は、与えられなかった……」
「自由はなかったってどういうことだ?」
「……私の両親はとても厳しい人だったのよ……だから…私は別のことをよく押し付けられていたわ。例えば…結婚とかね」
アーデルは遠くの景色を眺めて、寂しそうに笑っている。緩やかな風が吹いてアーデルの髪を静かに揺らした。
「結婚こそがあなたの価値だってよく言われていたわ。女は殿方に仕えてこそ、本当の価値になるんだって。殿方に仕え、殿方の機嫌を伺い、誰もが褒め称える美しいレディになりなさいと…私は両親の考えにどうしても納得がいかなかった。どうしてそんなことが決められているの?って聞いたら「それが規則」って答えられたわ……あなたは努力して教養と美しさを磨きなさい。相手方の殿方に気に入られなさい。女は何もしなくていい。ただ美しい女になれば、それが殿方にとって良いものになると……」
アーデルはそこで言葉を止めると、自身の膝の上で強く手を握りしめた。アーデルの瞳は揺れており、何処か遠くを見ているようだった。
「私に生まれた感情が分かる?反発心よ…両親の考えに納得がいかなかった。だから私は…ある日家を飛び出したの。殆ど何も持たずに、自分の力だけでやっていってやるって。厳しい両親だったから、飛び出すのにも計画性が必要だったわ。色んな人に協力してもらった。そうして……上手くアーデルは国外に逃げたって、両親や周りの人々に思わせることに成功したのよ」
アーデルはようやく僕を見た。表情は笑ってはいたが、寂しそうな気配は変わらない。
「でもね…飛び出してみれば、待っていたのは「現実」そのものだったわ…何も知らない私が、この世界でやっていくには…知識が少なすぎた。今までと全く違う環境でやっていくには……私は……何かあるたびに、嫌な思いをしなくてはならなくなった。お客様から嫌な言葉を言われたこともあるわ…箱庭の中の「歌が上手い娘」だけではこの世界では、駄目だったのよ…」
「箱庭?アーデルは何処に…住んでいたんだ?」
「………平民街の、少し辺境な所よ……商人の娘だったの。商人の子供同士の結婚が決められて…いたの」
アーデルは何処かしどろもどろに答える。何故自分のことを話しているのに、こんなにつっかえた様に話すのだろうか。不審には思ったが、アーデルがそのまま話を続けてしまったため、僕は聞く機会を失ってしまう。
「だから…あなたの演劇を見た時、心底素晴らしいって思ったわ。私にはこんなに人を集める能力はない。やっとの思いで貴族へ歌が披露できることになったあの日も…ローガンのおかげだった。しかもこれは後から聞いたのだけれど、ローガンがいい加減な取引をしたせいで、あなたの公演と被ることになったみたいなの。ごめんなさい…今となっては、あなたに譲って正解だったって思うわ」
「…いや、あの日は今となっては……僕も君の歌を聴いておくべきだったと思っている。君の実力は素晴らしいだろう」
「いいえ、駄目だわ!あなたには人を惹きつける魅力がある…でも私にはなかった…ローガンに手伝ってもらって、披露できることになった貴族への公演なんて意味がない。私は全部自分の実力でやる必要があったのに…私は……」
アーデルの肩は震えていた。僕はなんと声を掛ければいいか分からなかった。ここで君には実力があると言ってもアーデルには駄目だろう。アーデルは声を荒げて続ける。
「私はあの時から何も変わっていない!私は……歌の上手い娘というだけで、他は何も持っていなかった…箱庭の中に居たままだったわ。努力をしても、一向に進まなかった…苦しかったわ。深い迷宮に入ってしまったと思ったくらいに……正直に言ってしまうと…あなたの実力が羨ましいわ!あなたの人を惹きつける実力が羨ましい!!!あなたの強さが私には………とても羨ましいのよ……」
「……アーデル……」
アーデルは僕のことを羨ましいと何度も語る。アーデルの声は震えていた。ああ、駄目だ…本当に何と話せばいいのか、分からない。
「私が…もしもあなたのように男性だったら、何か変わったのかしら?直ぐに結婚しろとはまずは言われなかったわね…殿方の機嫌を伺えとも言われなかった。私は、ある程度自由に何かを出来ていたのかしら……ああ、駄目ね…こんなこと、考えても仕方がないのに…私は女性であることを誇りに思っているのに……どうしても……辛いのよ…」
「……君の歌声は女性だからこそ、出せるものだろう?男の僕には…出せない歌声だ。それほどに素晴らしいと僕は…」
「ええ、そうね…女性だから…女性だったから……大好きな歌をこの声で、披露することはできるわ…私は女性だったから……」
アーデルはそこで声を止めると、ただ肩を震わせていた。泣きそうになっていたが、決して涙を落とそうとはしない。ただひたすらに、自分自身に耐えているように見えた。
僕は何も言うことが出来ずに、ただ一言だけ呟く。
「…君は十分強いと……僕は思う……僕は……もう…」
僕は……殺人者だ。ある人はお前など、この世に居る価値がないと言うかもしれない。
マリアを殺したからこそ、僕はそれを力に変えてここまでやってきた。だがそれは…殺人者としての僕がやってきたことだ。
もしもマリアが今目の前に居たら、僕は何度だって彼女を殺すだろう。それこそが…僕なのだから。それが、僕の憎しみの感情だ。
“憎しみ”…… それこそが今の僕、そのものなんだ。
「……ありがとう。ちょっと長居しすぎちゃったわね…感情をぶつけてしまったわ、ごめんなさい。ほら、そろそろ行きましょう?」
「……ああ、そうだな」
アーデルと僕は立ち上がって、最後にもう一度二人並んで景色を眺めた。アーデルも僕も、もう何も言わなかった。ただ流れる風に身を任せ続けた。
帰りはゆっくりと長い階段を下って、貧民街を抜け、アーデルの家にたどり着いたのはもう時刻は夜に差し掛かっていた。辺りは薄暗く人通りが少ない。アーデルの傍にしっかりと着いていきながら、アーデルの家の前で足を止める。
「セリオン、今日は…ありがとう。楽しかったわ」
「ああ。僕も……楽しかった」
「それとこの首飾り…大切にするわね」
アーデルは嬉しそうに首飾りに触れる。僕は首飾りを見ると、少し視線を逸らしてポツリと呟いた。
「その首飾り…とても似合っているよ」
アーデルはその声に驚いたように目を見開いてから、ふふっと笑顔になった。
「……ありがとう。それじゃあ、またね」
「…ああ。また…」
僕はそのままアーデルと笑顔で別れて、自分の家の方向へと歩き出す。数歩歩くと、何故か後ろから、物音のような音が微かに聞こえた。本当に微かな音だったが、僕はその音で振り返る。
当然アーデルの姿は見えない。アーデルは家に入ったのだろう。だが……何故こんなにも胸騒ぎがするのか。全身が冷えたような感覚になった。
僕はアーデルの家に向かって走った。距離は短いはずなのに、どういう訳か長く感じた。
扉は閉まっていたが、思い切り扉を開ける。扉を開けると、直ぐに目に入った。アーデルが何者かに押し倒されている。……男だ。男の姿がアーデルにのしかかっている。その姿はローガンだった。ローガンの呼吸は荒く、何かをぶつぶつとつぶやいている。
「アーデル……アーデル…お前が俺を愛さないから悪いんだ……お前のせいだぞ…」
ローガンはにやけながらアーデルにのしかかっていた。周りを見るとフィオナとベルは縄で拘束されている。
ローガンはナイフを持っていた。ナイフを持ってはぁはぁと呼吸を荒げている。ローガンの姿は……一瞬で僕自身の姿に変わった。僕がアーデルにのしかかり、何度も愛さないから悪いんだとアーデルに呟いている。
(―――駄目だ)
駄目だ!駄目だ駄目だ駄目だ!その人を殺すのは!!!僕が!!!僕が許さない!!!僕自身に!!!僕が…!!!
気づいたら、僕は僕自身に飛びかかっていた。不意打ちで後ろから飛びかかれた僕自身はいとも簡単に床に転げ落ちる。僕はうめいた僕自身の首を絞めた。首を絞めて、笑ってやった。
「はは……これで…これでアーデルに手を出させないぞ……僕は……僕はここで死ね!!!」
僕は声を荒げてから、強く強く両手に力を込めた。僕自身は鈍い声でうめいた。その姿が幾重にも重なり、マリアになり、僕になり、ローガンになった。何重にも何重にも人の顔が変わった。僕は僕自身の姿をその中から見つけ、最後の力を込めようとした時だった。
「セリオン!!!駄目!!!」
アーデルの声でハッと僕は我に返った。横を見るとアーデルが僕の肩を掴んでいた。アーデルは涙目のまま、僕の肩に力を込める。僕が咄嗟に手を首から放し、のしかかっていた人物をよく見ると、ローガンだった。ローガンは気を失ったのか、そのままぐったりとしている。
咄嗟にローガンの心臓音を、僕は確認をした。心臓音がトクトクと聞こえる。
ローガンは……生きていた。
そういえばあの日…マリアの心臓音を僕は確認しなかったことに、今更になって気が付いた。
「……ああ、そうか……ローガン……ローガンか。これは…」
「……セリオン?」
「アーデル……僕は……」
僕はアーデルの方をただ見つめた。何も言えなかった。心配そうに見つめるアーデルを横目に、震え切ったフィオナとベルの元に行き、縄をほどいてやる。
その縄を使って、気を失ったローガンを何重にもきつく縛り上げた。そのまま床に放置すると僕は無言で立ち上がる。
「あとは…警備兵がなんとかしてくれるだろう……」
「セリオン……」
「……アーデル、すまなかった」
僕はアーデルの方を見ずに扉から外に出た。アーデルの呼び止める声が聞こえたが、僕は振り返らなかった。振り返れなかった。振り返る……資格すらないように思えた。
どうやって自分の家に帰ってきたのかどうかも分からない。僕は家の玄関の床でうずくまっていた。何もする気は起きなかった。ただうずくまって、目の前を見つめていた。帰ってから、何時間経ったのかも分からない。
控え目なノック音が数回聞こえた。
「セリオン…?セリオン居るの?」
アーデルの声だった。何故アーデルは僕の家を知っているのだろうか。僕は何もせずに、ただ耳を澄ましてみる。
「お願い……居たら開けて欲しいの…ローガンだけど、あの後見回りの警備兵に捕まったわ…牢獄行きですって。あなたが助けてくれなかったら危ない所だった…警備兵に質問をされて市場の向こうにある兵舎まで行っていたから、昼過ぎまでかかってしまったわ…ねぇ、話をしましょう?」
僕はまだ何も行動を起こさず、アーデルの声を聞き続けてみる。
「……セリオン。大丈夫よ。あなたが私を助けようとして、起こした行動だったというのは分かっているから……お願い。話をしたいわ…」
僕はその声でようやく立ち上がって、扉を開けた。扉を開けると光が強く入ってきた。いつのまに昼になっていたのだろうか。アーデルは扉が開いたことに驚いたのか、一歩後ろに下がった。
「セリオン…居たのね。良かったわ……家の場所だけど、昼頃私の家にやってきたエダンから聞いたのよ。エダンも着いてくるって何度も言ってきたんだけど、断っておいたわ…」
「……そうか」
僕は一言だけ呟く。アーデルは僕を見て、静かに眉を寄せる。
「セリオン……大丈夫?顔色が悪いわね……」
「……僕は大丈夫だ……なぁ。アーデル……」
アーデルに真実を伝えなくてはならない時が来たんだろう。舞台で語った、マリアの話…殺人をしたことが本当に僕の真実だったことを。今ならアーデルはそれを信じてくれるかもしれない。僕が危険な奴だということを。それを伝えるのは……マリアに会っていた公園がいいだろう。
「話したいことがある。今から出かける準備をするから、それが終わったら一緒に着いてきてくれないか?」
「……ええ、いいわ」
アーデルは頷いた。僕はアーデルを外に居させたまま、家の中に入った。まずは酷い顔を洗うことからした方がいいかもしれない。はっきりとした意識でアーデルに伝えなくては。
準備をして、アーデルと共に家を出た。無言で歩き続けたからか、アーデルは不安そうに僕を見る。胸元には僕がプレゼントした首飾りが着けられていた。
「セリオン、ねぇ何処に行くつもりなの?」
「……昔通っていた公園だ」
僕は呟いてから、アーデルの方を見ずただ目の前を見て歩き続けた。僕の雰囲気が伝わったのか、アーデルはそれ以上僕に何も聞かなかった。
公園に着くと、僕は無言でベンチの方へと進んだ。アーデルは僕を見ながら着いてきて、僕はマリアと座っていたベンチの前に立つと、アーデルに話す。
「ここに座ろう」
「ええ、分かったわ」
僕とアーデルはベンチに座った。アーデルは僕の言葉をずっと待っているのか、ただ僕を見つめてくる。僕が何も言わなかったからか、アーデルの方から口を開いた。
「昨日のことだけど……あなたが助けてくれて、助かったわ…ベルに聞いてみたら、エダンがフィオナちゃんを家に送り届けてから少し後に、突然ローガンが私の家にやって来てフィオナちゃんとベルを拘束したみたいなの…ローガンに待ち伏せされていて、家に入るなり私はローガンにナイフを突きつけられた…本当に怖かった…でもあなたが来てくれて…」
「……怖いと感じたか?」
「……ええ…」
アーデルは不審そうに僕を見る。僕の質問した意図がよく分からなかったのだろう。
「……君は殺されそうになったな……ローガンは一歩間違えれば殺人者だ。だが僕は……」
一呼吸置いて息を静かに吸った。やっと伝えることができる。これを伝えれば…もうアーデルから離れなくてはならないだろう。僕はようやく口を開いた。
「僕は殺人者だ。君は僕を信じなかったが、君に最初に見せたあの舞台の復讐劇は……全て真実だ。僕は貴族の女と今まさに……座っているこのベンチで会い続け、最終的に騙された。その後僕は、貴族の女に操られたように演じて見せてから、憎しみを込めて女の首を絞めて殺した。あの話は全て僕自身のことなんだ」
「………っ」
アーデルは僕を見つめた。ただ見つめている。驚いたように、真実ではないと信じたいように、瞳は揺れている。
「昨日のローガンのことで分かっただろう?僕はあんな風に貴族の女の首を絞めたんだ。憎くて……憎くて憎くて仕方がなかった!!!演技で他の人物の名前は違う名前を使ったが、あの女の名前だけは真実だ。マリア……マリアを何度だって殺してやりたい。僕は……!!!」
「……セリオン。あの劇の話は……真実なのね……」
「……ああそうだ……なぁアーデル、もう僕は君とは………」
一緒には居られない。アーデルにその言葉を伝えようとした途端、突然周りに人影が見えた。咄嗟に人影の方を見ると、5人の男が此方に近づいてくる。中には黒服の男と、警備兵のような男も混ざっており、警備兵は剣を携えている。
僕とアーデルは咄嗟に立ち上がった。目の前から来ていた男だけではなく、気が付いたら横に居た男達に進路は塞がれてしまっていた。目の前を全て囲むように僕たちを男達は囲む。
警備兵は僕に向かって剣先を向けた。
「お前の名はセリオンだな!カーライル家のご令嬢…マリア・カーライルの殺人罪でお前を捕える!!!」
ああ……ついに僕の罪が明かされる日が来てしまった。何故よりにもよってアーデルと一緒に居るタイミングなのだろうか。これもまた、僕の運命なのだろう。アーデルは男に押しのけられ、僕は、男数人によって腕を強く掴まれた。その中に居た黒服の男が僕を見てニヤリと笑った。
「……正確には殺人「未遂」罪だがな。……マリアお嬢様に手を出した罪は重いぞ!お前の死刑は確実だ!!!今すぐにでもこの手で、殺してやりたい所だがな!!!」
その言葉を疑った。未遂?僕は確かにマリアを殺したはずだ。この男がでまかせを言っているとしか思えない。僕を囲んだ男は、僕を連行するために動き出す。抵抗するつもりはなかった。何かを考える気すら起きない。
アーデルは僕を追いかけようとして、直ぐに走り出す。
「待って!!!セリオンは違うわ!!!駄目!!!連れて行かないで!!!駄目よ!!!」
アーデルは僕に向かって叫び続けるが、周りに居た警備兵に拘束されてしまった。
「お嬢さん、あの男は犯罪者ですよ!!!」
「離して!!!セリオンの話を聞いたの!?お願い!!!話を聞いて!!!セリオンは違うのよ!!!」
アーデルは大きく叫んだ。僕はそれを男達に囲まれた隙間から、呆然と見つめていた。
アーデルの悲痛の叫び声が耳に入った。僕は目を閉じた。もう何も……何も考えたくはなかった。
一章完