第4話 歌姫アーデル
演技が終わり真っ先に見たのは、演劇会場に僕が招待した歌姫の女、アーデルが居るはずの席だった。アーデルの姿は見えたが、俯いており表情までは見えない。一刻も早くご感想を聞きたいところだったが、舞台を締めくくるため、僕は礼をした。
「今回の話には「裏の世界」が垣間見えたと思います。ご来場の皆様…こちらのお話は外部の皆様には何卒内容を洩らさぬようお願い致します…それでは僕の舞台を見て下さり、ありがとうございました」
深く礼をすると、徐々に拍手が起こる。拍手喝采とまではいかないが、貴族らしい丁寧な拍手で会場は包まれた。今回の演劇は貴族世界の裏を突いた話となったため、貴族の間で必ず賛否両論が起こるはずだ。
演技の最中に思い出した内容とは違い、実際の演技では完全な場所や人物の名前は使わなかったものも、これだけの情報で詳しい者なら人物を特定もできてしまうだろう。それに、“マリア”だけは真実の名前を使った。マリアなどありふれた名前なのだから、特定はしにくいだろう。
全てのリスクを背負い、僕はこの話を公表したかった。これほど舞台のネタになる話はない。
ゆっくりと舞台裏に下がると、直ぐに会場の入り口に向かうため走り出す。
アーデルは悲痛の表情を浮かべるだろうか?それとも僕を軽蔑するだろうか?「この犯罪者」と罵ってもいい。ただ答えが欲しかった。僕の行いの答えが。
会場の入り口に着くと貴族たちは沢山居たものも、肝心の女の姿が何処にもない。
外に駆け出そうとすると、会場から出ようとしている貴族が僕を呼び止めた。
「あら!ちょっとよろしいかしら?役者さん」
「……ええ、何でしょう?」
僕は笑顔で貴族の方へ振り向く。豪華なドレスを着た婦人と、恐らくその夫であろう男が笑みを浮かべている。婦人は少し困ったような表情を浮かべた。
「今回の話はさすがに作り話でしょう?私たちの中でここまで恐ろしいことをする人が居るとは思えないわ」
「……基本僕の舞台は、ご来場の皆様のご想像にお任せしております。その言葉しか言えないのです、中には極秘情報も含まれておりますので」
「あらまあ…でしたら今回のお話は、貴方の舞台の中で極秘情報の演劇でしたの?」
「僕は立場上全ての話が真実だとは言えないのです…それでも貴方のような美しいご婦人ならば、どの話が真実かご想像頂けるかと思います」
笑みを浮かべて礼をすると、婦人は「あらあら」と少し照れたような表情をしている。
貴族は容姿に特に気を遣う者が多い。相手の容姿を褒めることも貴族社会のマナーの1つだ。
「私は真実だと思うがね。ほら…“あの“ご子息の近くでは起こりそうじゃないか」
「あら、それはまさに極秘情報じゃありませんの」
婦人の隣に居た夫らしき人物が、会場から出てくる特定の人物の方向を見て、小さくつぶやく。貴族は噂話が大層好きだ。つまり、一度貴族たちに捕まればまずいことになる。僕は適当に切り上げるべく、丁寧に礼をする。
「とても貴重なご意見ありがとうございます。大変有意義なお時間ではありますが、僕はこれからどうしても外せない用がございまして…」
「あら!ごめんなさい、引き留めてしまったわね。貴方の舞台は最近夫と一緒になっての楽しみなのです。次回の公演も必ず行きますわ」
「ありがとうございます。お言葉を頂き、大変光栄でございます。それでは失礼いたします」
まだ話続けている婦人達を横目に、入り口から会場の外に出る。辺りを見渡してみるが、アーデルの姿はどこにも見えない。
(あの女…せっかく招待してやったのに、速攻で帰ったのか?)
僕の舞台を気に入らず、感想を言うまでもないと思いさっさと帰ったのだろう。いっそのこと女の居るあの廃屋まで押しかけてやろうかという考えが脳裏をよぎった瞬間、後ろから声を変えられた。
「…セリオン殿!劇場の人がお呼びですって!」
後ろを振り返ると、昨日歌姫に勝手に劇場を譲ろうとしていた小太りの男が汗まみれで走ってくる。僕は大きくため息をついた。
「何だ?急じゃないなら後で向かうと伝えてくれ」
「次の公演の日程についてお話をする予定だったでしょう!お忘れですか?」
「ああ……そんなこともあったな」
確かに劇場の者と次の日程について詳しく話をする予定だった。あの女の廃屋に行くのは明日にするしかないだろう。舌打ちをしてから、渋々男の後ろに着いていった。
次の日、僕は軽い発声練習をしてから、午前中に家を出て真っ先にアーデルの元へ向かうべく足を進めていた。
前のボロ家を出て、今の清潔で広い家に引っ越してから居心地が良くなったため、最近では練習場ではなく家で練習することも多くなっている。演技を行うのは1人のため、他の奴らと余計な挨拶や顔を合わせる必要がなくなり、昔より大分気楽になったものだ。毎日の練習は欠かせないが。
暫く道を歩いていると、後ろから突然肩を掴まれた。
「…っ!?」
驚いて振り向くと、今となってはかなり昔に感じるが前の劇団に居た、副リーダージムが息を切らせて立っていた。
「…セリオン、はぁ…名前を呼んだのに気づかない…のは何でだ…」
ジムは大分向こうから走ってきたのだろう。何とか呼吸を整えようとしている。会いたくもない人物に会ってしまった。しかし一応は笑顔を向けてやる。
「申し訳ございません。考え事をしていたもので……何かご用でしょうか?」
「……は?何だそれは?」
ジムは唖然として僕を見ている。皮肉めいた対応をしていることを気づいてないのだろうか。もう一度笑顔のまま礼をする。
「……もう辞めた劇団です。僕にとっては関係のないことですので、何かない限りは失礼したいのですが……ああ、仕事の話なら別ですよ?」
「……そうじゃないって。お前……どうしたんだよ?その口調といい」
「僕はもう貴方がたとは別の道を歩んでおります。これ以上構わないで頂きたい」
「はぁ……だから!話を聞けって!!!」
ジムが突然大声を上げたため、周りの通行人がびくりと身体を揺らしてから一斉にこちらを見た。僕は大きくため息をつく。
「……そんな大声を出さずとも、聞こえていますよ」
「全くお前は聞いていない!ほら、来いよ。話があるんだ」
「僕は急ぎの用事があるのですが」
「いいから来い!強制だ!」
ジムは突然僕の腕を乱暴に引っ張って、何処かへ連れて行こうとする。周りの目もあり抵抗する気も失せてきたので大人しく従うことにした。
ジムに強制的に連れていかれたのは平民街にある有名な酒場だった。午前中から酒場に行く人は殆ど少ない。閉まっている酒場も多いのだが、この酒場は日中には食事だけ提供されている。人の多いところは好きでないので、劇場関係の売り込みをしなくて良くなった後は殆ど寄り付いていないが。
酒場に入るとジムは無言のまま席につき、「座れよ」と声をかけてくる。渋々目の前の席に座ると、ジムはジッと此方を見た。
「お前の話…最近よく聞いているよ。凄いな。貴族の間で有名になったらしいじゃないか」
「…ああ、知っていたのですか」
「…はぁ……なぁ、何で突然俺たちの劇団を辞めたんだ?」
ジムはずっと目を反らさずに見つめてくる。一体こいつが何をしたいのか分からない。辞めた場所など、もう僕にとっては関係ないのだが。適当に返事を返しておく。
「もうそちらの劇団の技術的向上は見られなかったので。僕の自己判断です」
「はぁ!?自己判断?お前……なら何で辞めるって直接言いに来なかった?練習場に置手紙だけで、お前の家はもぬけの殻って何のつもりだ!?俺がどれだけお前のことを探したか。辞める前、お前は行方不明になっていたんだぞ!?朝練習場にお前がこないから、お前の家に行ったのに、周りの住民はお前を見ていない!周りの人と協力をして、お前の家を蹴破ったら家具はそのまま荷物が異様に少なかった!どれだけ心配したと思っている!」
「……随分と早口でしたね」
「そりゃ、早口にもなるだろ!」
ジムは声を荒げて異様に早口で言ったせいか、息を切らしている。何故ジムがここまで心配していたかは謎だが、副リーダーの責務だかがあるのだろう。
「置手紙だけでは不十分でしたか?ならこの場で言わせてください。そちらの劇団はもう辞めます」
「おい!今の一連の話に何の突っ込みもなしかよ!」
「心配をしてくださって、どうもありがとうございます…と言えばいいですか?」
「…だからなぁ…はぁ…くそ。お前…変な女と一緒に居たことがあったよな?お前はあの日から毎週練習が終わった後に何処かへ行っていた…何か…あったんじゃないか?」
「………何もないですよ…もういいですか?僕は貴方と違って忙しいので」
もう面倒ごとの話はうんざりだ。さっさと席を外そうとすると、ジムは再び大声を出す。
「まだ話は終わってねえって!!!」
「……チッ。一体何なんですか?」
「お前が言いたがらないところは、俺は無理に聞き出したりはしない。だがな、お前のことを心配している奴も居るってことだ。お前は前からそうだったが、特に今、俺たちのことが見えていないだろう?」
「…はぁ?何のつもりだ?」
ジムのあまりの鬱陶しいしつこさに、つい敬語が取れてしまった。腕を組んでから、席を立とうとしていたのを辞めてジムに向き直った。
「もう少し俺たちを見てもいいと思っただけだ。簡単な例を挙げるとリリーのこともだ」
「リリー?何であの男の話が出てくる?」
「あいつに…謝ったらどうだ?」
ジムは妙に真剣な表情になって、此方に目線を合わせてくる。もういい加減にして欲しい。何で辞めた劇団員のことをこいつはここまで構うのだろうか。リリーの話をここで持ち出してくるとは、尚更意味不明だ。
「謝る?そもそもあいつから僕に喧嘩を吹っかけてきたのは知っているよな。何を謝る必要がある?」
「…やっと素に戻ってきたじゃないか。リリーなんだが、気丈には振舞っているがお前の言葉に傷ついている。俺や劇団のほかの者が言っても駄目だ。あいつは何も話さない。だからお前なら…」
「傷ついているようには見えなかったがな。そもそもあいつも僕に色々と言ってきたろう。僕が傷ついた心はどうなる?」
「お前は…そういう意味としては大丈夫そうだがな」
ジムは半笑いになった。僕のことを心配だという建前で馬鹿にしたいのか。もうこれ以上こいつと話していても時間ばかり奪われるだろう。
「…謝るつもりはない。もういいよな?もうあんたらの劇団とは、関わるつもりはない。そっちは劇団員の仲間同士慰めあってやっていきゃいい」
「…そうか。そうだな。俺も引き留めて悪かったよ。お前は忙しいもんな」
「ああ、忙しい。それでは“副リーダー”。失礼いたします」
席を立って僕が笑顔のままジムに丁寧な礼をしてみせると、ジムは少し困ったような顔をした。そのまま酒場から出て行こうとすると、酒場の奥から女の怒鳴り声が聞こえたため、思わず立ち止まってしまった。
「もういい加減にして!貴方に奥さんが居たなんて!騙していたわね!」
「待ちなさい、シャーロット!妻とは必ず別れるから!」
「あらそう!貴方が私と同時に何人の女性とお付き合いしていたか、大声で言いましょうか?探偵を雇ったのよ。全部バレてるわよ!」
「君だけが私の全てだ!他はどうでもいいんだよ!」
「へえ?それは昨夜違う女性に言った言葉でしょう?もういいわ。貴方とは金輪際お話するつもりはございません」
怒りに燃えた女が鋭い目つきで此方に向かってドスドスと足音を立てて歩いてくる。女とぶつかりそうになった所を寸での所で避け、女の後ろ姿を目で追う。
大慌てな様子で奥から中年くらいの男が出てくると、一目散に女を追いかけて行った。
男の服は平民街にしては身なりが良く、そこそこ金を儲けている商売人だと予想がついた。
(一体…何だったんだ)
すると突然ジムが立ち上がり、こみ上げてくる笑いを無理やり抑えるように此方へ歩いてくる。
「おい、セリオン少し待て。今のはこの酒場の名物だ、知っておいた方がいいぞ」
「…名物だって?今のが?」
「ああ、そうだ!今の男の名前はな、ローガンという裕福な商売人だ。ここらの酒場に入り浸っては、何処からか捕まえてきた女を誘いまくっているのさ。振られるか、女に受け入れられるか、酒場の奴らは案外そういうのが好きだからな、気にしてみている。だから“名物”だ」
「…ああ、なるほど」
そもそもさっさと店から出るつもりだったのに、何故まだジムと話をしているのだろうか。
しかしジムは心底面白いものを見たかというように、まだ話続けてくる。
「酒場の奴らはあいつには奥さんがいることを知っているが、誰も奥さんに密告してないのがまだ救いだがな!噂では奥さんは相当怖く、何でもローガンのことを管理したがるらしい。金すらも奥さんに全て握られているらしいぞ。だからあいつの逃げ道は女しかないってわけさ」
「その男の妻は何処に住んでいる?」
誰も男の妻に密告していないのなら、僕がその妻側に男の証拠を集めて密告すれば、いつか使える演劇のネタになるかもしれない。今は貴族向けの公演しか行っていないが、いずれ庶民向けの劇に戻った時にでもそういった話題は使えそうだ。最近では話題収集する機会も減ってきたため、積極的に不幸話を集めることは必要だった。
「おいおい!まさかローガンの奥さんに密告しようっていうんじゃないよな?酒場の名物が減るのは、酒場の奴らが悲しむぞ」
「いや?単純に興味があるだけだ」
密告する気満々だったが、しらを切っておく。その男の妻に密告して、あとは適当に不倫の不幸の結末を追っていけばいいだろう。まぁ小ネタくらいにしかならないだろうが、小ネタでも十分金になる時はある。
ジムはジッと此方を見てから、ニヤリと突然笑った。まさか此方の意図が見えたのだろうか。
「…まあ、いいか。あいつも時間の問題だったろう。ローガンは奥さんと一緒に平民街の…ここらで有名な宝飾店があるだろう?あの近くだ。奥さんの名前はイザベル。今のところはローガンに女が居るなんて夢にも思っていないだろうな」
「そうか、好都合だ」
「好都合って…お前ローガンに密告しない代わりに、金でも要求するんじゃないだろうな」
「そんな馬鹿なことはしない。僕の場合はネタ探しだ。単純にもっと金になる」
僕が言うと、ジムは分かっているのか分かっていないのか「ほー」と頷いた。不倫ネタの場合は、女が怒り狂って“喜ぶ”ことが多いだろう。客層の好みの話題を仕入れるのも僕の役目だ。
「ネタか…その発想はなかった」
「僕がしていることを本当に知っているのか?殆どの場合実話の演劇を…まあいい。情報を提供してくれたのなら、僕はそれに金を払う義務がある」
僕が懐から革袋を取り出し、その中から金貨を二枚取り出してジムに手渡そうとすると、ジムは心底驚いた表情をした。
「何しているんだ?金?何で金が出てくる!?」
「何で?…情報には金を出すのが礼儀だろう」
「おい、全く意味がわからないって!」
ジムは渋ったが、僕が金貨を無理やりジムの手のひらに押し付けると、ジムは何が起こったのか分からないとでも言いたげに僕を見つめた。
「金を貰って嬉しくないのか?…それはどっちでもいいが、口封じの意味も込めていることを忘れないでくれ」
「…これが礼儀って言うのなら、お前にはもっと気にすべきところがあるんじゃないか…」
ジムが唖然とした表情のまま言ってきたので、大きくため息をついてやった。
「いいか、僕とお前は仕事上の取引しかしない。ただの雑談なんて勘弁してくれ。これは僕が金で情報を買っただけだ」
「そうかよ…お前はどこまでも徹底的な奴だよな」
「ああ、そうだな。情報だけ有難く受け取っておこう」
僕が入り口の方を向いて歩き出すと、ジムはもう何も言わなかった。アーデルといい、ジムといい、人がわざわざ金をやると言っているのに何故素直に受け取らないのだろうか。
心底不思議だ。世の中は金で動いているというのにな。
ジムの話も興味深かったが、まずは当初の予定通り、アーデルのボロ廃屋に向かうことにした。アーデルの居る廃屋の扉を開けると、この前出迎えてきた身なりのいい女が視線を此方に送る。女はパッと笑顔になった。
「ああ!この前のお方ですよね?」
「ええ、そうです。アーデル様にお話したいことがあるのですが…」
「今日はおりますよ!アーデル様!お客様です!ほらこの前のお方ですよ!」
女はパタパタとせわしなく奥に走っていく。すると直ぐに戻ってきて、笑顔のまま話す。
「お部屋に来てくださいとのことです!」
「そうですか、有難うございます」
丁寧に礼をすると、女は笑顔のまま照れくさそうな表情をした。アーデルの部屋にまで行き、軽くノックする。
「どうぞ」
部屋の中からアーデルの声が聞こえたので、部屋に入るとアーデルは何故か緊張した表情で座っている。此方を見ると、アーデルはふぅとため息をついた。何処か面倒そうに此方を見ている。
「…一体何の用かしら?」
「……アーデル様、昨日舞台が終わってすぐに帰られたのは何故でしょう?ぜひとも貴方に舞台のご感想をお聞きしたかったのですが」
「ああ、それは…ちょっと用事があったのよ。そんな理由でわざわざここまで足を運んだってわけ?」
(…何だこの女は)
普通招待されたら、舞台が終わった後に顔を合わせるくらいはするべきであろう。しかし女はどういうわけかピリピリした雰囲気を纏い、此方に目を合わせようともしない。だが僕は役者だ。嫌な顔1つ見せずに、笑顔を作る。
「ええ、“そんな理由で”です。僕は貴方に招待状をお渡ししたのですよ?気になるのは仕方ないでしょう」
「…舞台は良かったわよ。貴方の演技にも引き込まれたし、凄かったわ。でも前置きにあなたが言っていたあなたの実話がどうだかって…ああいう嘘をいつも言っているの?」
(―――嘘だと?)
あの公演は正真正銘の実話だ。なのにアーデルはそれを信じる所か、疑わし気に目線を送ってくる。僕はフッと笑って見せた。
「嘘じゃありませんよ。本当の実話です。それを聞いてどう思います?」
犯罪者と来るか、哀れみの目で見てくるか、怒り出すか、一体どの反応かと期待したところ、アーデルは可笑しそうに突然笑い出した。
「そんなはずはないわ!それじゃあ貴方が人殺しをしたってことになるじゃない!」
「……それがもし本当のことだとしたら?」
「本当も何もそんなのあり得ないわ!昨日の演劇からすると、あなたがそんな分かりやすい罠に引っかかったってことになるでしょう?いくら何でもあれは…作り話にしか思えないわね」
「……っ」
分かりやすい罠だと嘲るようにこの女は笑いやがった。どれだけの思いをあの時にしたのか、お前などに分かるはずがないだろうに。それを単なる作り話だと、端から信じようとすらしない。怒りに顔が歪みそうになったが、寸での所で抑えて笑顔のまま語り掛ける。
「まぁ…いいでしょう。お客様には信じるも信じないも全てお任せしているのです」
「あらそうなの…ねぇ申し訳ないけれど、そろそろ帰って下さる?」
「…はい?」
来たばかりで速攻帰れと言うなど、どれだけこの女は無礼なのか。招待をわざわざしたというのに、感想も「凄かった」と言った子供でもできるような感想で、この女は脳が足りてないのだろうか。
「ちょっと…用事があるのよ。これからお客様が…」
「アーデル様!ローガン様がお見えですよ!」
奥から入り口に居た女が叫んでいる。アーデルはその声にびくりと肩を揺らして、かなり焦ったように此方を見た。
「だから言ったのに!今からあなたがのこのこと出て行ったら、面倒なことになるわ!」
「…はぁ?」
「ここに隠れて!早く!!!」
アーデルは突然衣装棚の1つの中から扉を開けて、僕を無理やりその中に押し込めた。抵抗する間もなく、衣装棚の中に入っていたドレスに身体は埋もれてしまう。何か言葉を言おうとしたところ、凄い剣幕のアーデルがシーっと人差し指を立てて衣装棚の扉を思い切り閉めた。
「絶対出てこないでね!声も出さないで!いい?分かった?」
「おい、説明を…」
「説明の時間はな…」
扉を開く音が突然聞こえる。衣装棚の中に開いたわずかな隙間から部屋の様子を除くと、アーデルは身体を硬直させて何かを見ている。猫なで声の男の声が部屋中に響き割った。
「アーデルちゃん!久しぶりだなぁ!」
「……ローガン様」
アーデルは表情を硬直させたまま、突っ立っている。革靴の音が聞こえて、にやにやと笑みを浮かべた男がアーデルにそっと近づいた。
(あの男…さっき酒場に居た男じゃないか!ローガンか…どこかで聞いたことがある名前だと思った)
酒場で散々女と揉めていた身なりの良い男の姿が見える。男はアーデルを舐め回すように上から下まで見つめて、アーデルの直ぐ傍まで近づいた。
「ちょっと見ないうちに、ここまで綺麗になっちゃって…本当に君は若くて美しいな!」
「…お褒め頂いて光栄でございますわ」
「おっ!?それなら、アーデルちゃんのこと、もっと褒めちゃおうか?こことか、こことか…?」
男はアーデルの背中を触った後、さも偶然に触ってしまったかのように装い尻の方まで手を移動させる。アーデルは無理やり笑顔を作っているが、肩を震わせている。目に涙が溜まり、過呼吸になる寸前かと思うほどに、ジッと男のする行動に耐え続けている。
(……くそ、面倒だが……)
此方としても永遠に男の猫なで声を聞いていたくはない。今の自分の持ち札は、偶然にもあの男を対処する方法は分かっている。何故アーデルが相手を殴らずに好き勝手させているかは分からないが、ここは腹をくくるしかない。
衣装棚をバン!と力強く押し開けて、ドレスの中から無理やり出てくると、ローガンは心底驚いたのか「ヒェッ!」と空気を吸うような悲鳴を上げた。
ローガンの目の前に立って、とりあえず丁寧に礼をして見せる。
「大変お取込み中なようですが……ローガン様、初めまして」
「なっ!?どういうことだ、これは!アーデル!!!」
ローガンは怒り狂った目つきでアーデルの方を見る。しかしアーデルは何の反抗もせずに、呆然と此方を見ている。
「まぁ落ち着いてください。怒りを抑えるのも商売人の技でしょう?」
「おい、アーデル聞いているのか!?まさか俺に黙って部屋に男を連れ込んだんじゃないだろうな!?なあ!答えろ!!!」
「―――イザベル」
ローガンがアーデルに掴みかかろうとしたところで、僕は酒場でジムに聞いたローガンの妻の名前を呟いた。その名前を聞いた途端男はサッと青ざめさせて此方を見た。
「…何故それを知っている!?」
「そりゃあ貴方のお噂はよく聞いているもので。貴方と奥さんの住処は宝飾店のお近くにあり、奥さんはとっっても怖いらしいですね?例えばこの出来事を…僕が奥さんにちょっとお話したらどうなるんでしょうね?まぁ僕はいいですよ。最高のネタになるのでね」
「…待て。それだけは駄目だ!絶対に!」
「駄目ですか…それでしたら今はお帰りになったらどうでしょう?商売人のローガン様」
「……は、はは。ああ、そうするよ。いいか、絶対にイザベルだけには言うなよ!」
男は一目散に逃げだすように、床にある物に何度も躓きながら部屋から出ていく。その間抜けな様子を笑顔で見送ってから、アーデルの方に振り向くと、アーデルは硬直したまま固まっていた。
「……アーデル様?大丈夫ですか?」
アーデルは何も言わない。虚空を見つめたように呆然と立ち尽くしている。僕が目の前で手を振ってみても何の反応も示さない。
反応がないので、アーデルの左腕を触ろうとしたところ、アーデルは部屋中に響き渡る大声でそれを制した。
「―――触らないで!!!」
僕が思わず肩をびくりと揺らすと、アーデルは全力で拒否するように一歩後ろに下がった。
アーデルの肩は震え続け、涙が零れ落ちそうなのを必死で耐えている。
「……ごめんなさい、本当に…触らないで……」
「……失礼しました。ああー…入り口の女性を呼んできます」
慌てて両手を上げて後ろに下がると、急いで部屋から出ていく。これは大変まずい。女でないと対処できない問題だろう。部屋から出ると女が大層驚いた顔して此方に走ってくる。
「今の声…一体何があったのです?先ほどローガン様が大慌てで出て行かれましたね。何か…あったんですか?」
「……僕では対処できない。君が行った方がいい」
僕が女に向かって早口で言うと、女は神妙な表情をして急いでアーデルの部屋に走っていく。何故かここには居てはいけないような気持ちになり、僕は足早に建物から出て行った。
あれから何かをやる気にもなれずに家に戻ると、あっという間に次の日になった。とりあえず午前中に劇団の練習場には来てみたものも、次の公演の練習などやることは沢山あるはずなのに、どういうわけか身が全く入らない。
思い出すのはアーデルの最後の表情ばかりだ。
怯えたように此方を見て、今にも泣きだしそうだった。強い女に見えたから、そんな表情をするなど微塵も思っていなかった。
男に触られる女の光景は、昔酒場に行っているときによく目に入る光景だったが、いつも女側はどこか仕方ないという表情をして軽くあしらっていた。
そういうものだと思っていたのだ。しかしあの時のアーデルは呼吸が乱れ、苦しそうに表情を歪めていた。アーデルのような女なら直ぐに相手をぶん殴ると思ったのに、怯えたように立っているだけだった。
「あー駄目だ。全く集中ができない」
意味もなく練習場の部屋の中を行ったり来たりぐるぐると回る。
あの時自分は何をするのが正解だったのだろうか?ローガンは追いやったが、最後にアーデルの腕に触れようとしたのが駄目だったのだろうか。
あの女のことなどどうでもいいはずなのに、あんな表情をされたら流石にこちらも罪悪感が生まれるだろう。
暫くぐるぐると回り続けていると、扉のノック音がしていつもの小太りの男が入ってくる。
「セリオン殿!お客様ですよ」
何処か嬉しそうに小太りの男はニンマリと笑みを浮かべている。それに不審に思って男の後ろに居る姿を見ると、目を見開いた。
「…ごめんなさい、突然押しかけちゃって。その……昨日のことで話したいの」
アーデルが何処か気まずそうに立っている。僕は驚いたままその場に制止すると、アーデルはゆっくりと部屋に入ってくる。
「前行った劇場の人に聞いたの。あなたの居場所をね。昨日…追い帰しちゃったから、あなたに謝りたかった。ちょっと一緒に来てもらってもいい?歩きながら話しましょう」
「……分かりました」
僕が頷くと、アーデルはホッとしたように表情を緩めた。練習場を出て暫く歩くと、ずっと黙ったままだったアーデルがようやく口を開く。
「実はね、毎週朝、教会に歌いに行っているの。子供たちとかも来て、私の歌を聞いてくれるのよ。今日はそれに付き合ってくれる?」
「…したかったのは、その話ですか?」
「……教会の前にベンチがあるの、そこに座ったら…話すわ」
それからは暫く無言のまま教会に着くと、アーデルは教会を見上げてから直ぐ傍のベンチに座った。
「ほら、あなたも座って」
「…そうしましょう」
ベンチに女と座るなど、“あの時”以来だ。嫌なことが思い出されるが、今回の場合仕方ない。
僕が少し距離を開けて隣に座ると、アーデルはふぅとため息をついた。
「まずはごめんなさい。昨日はあんな風に言うつもりじゃなかった。あなたは…私を助けてくれたのに」
「何故、男に対して拒否しなかったんですか?」
「…できないの。あの男は…私の歌の活動を金銭的に支援してくれる人だったから。それに…あの目で見られると駄目なの。動けなくなる…」
「金のことは分かるが、そんなこと、あの場合関係ないでしょう。殴ってやればいいじゃないか」
アーデルはそれを聞くと、フッと表情を曇らせた。首をゆっくりと横に振る。
「…あなただったらそれでいいでしょうね。でも…そう簡単にいかないこともあるわ。相手にそれ以上のことをされるかもしれないじゃない。抵抗するとね」
「……」
それ以上のことというのは、暴力…はたまた男に殺されるかもしれないと言っているのだろうか。僕がマリアにしたように。
「きっとこれは分からないことだと思う。でも…あなたには知っておいて欲しかった。そんな気がするのよ…何故かしらね、いつもならこんなこと言わないのに」
「言わないとは、どういう意味ですか?」
「……言っても理解されないから。抵抗してみろ、全力で逃げればいいと大抵の男性は言うわ。あなたも同じ考えかもしれないけれど、1つ違うのは私を助けてくれたところ。それは素直に嬉しかったわ。ありがとう」
アーデルは優しく微笑んだ。今まで女から素直な感謝の言葉は伝えられたことはない。
マリアの場合は全て噓だったが、今回の場合、事実今まさに僕自身が女を助けたことにより伝えられた言葉なので、真実だということが分かる。
何故か胸が暖かくなるような気がした。ほんの一瞬だったが、確かに心が安らいだような気がしたのだ。
「……お礼はいいです。あの男のことを知っていたのは、偶然のことだったので」
「ねぇ、敬語はやめない?私は普通に話しているのに、あなたばかり敬語でつまらないわ」
アーデルの方を見ると微笑んでいる。僕は咳を1つこぼしてからアーデルに向き直った。
「ああ、分かった…」
「セリオン、と呼ぶわね……男性にとって女性は難しい存在だということは分かるわ。でも…知識程度は分かってほしいと思うのよ。すべての女性が女という生き物でしか見られずに、まるで腫物を触るように扱われることを好んではいないことを。私は、ただの私であるということを…いつか……ああ、ごめんなさい。変なことをあなたに話してしまった」
アーデルは何処か寂しげに空を見上げている。何故アーデルがそんなに寂しそうな表情をするのかは分からない。今の言葉に何と返事すればいいか分からない。
「…時には言葉にすることで楽になることもあるんじゃないか?」
僕が何となくそう返すと、アーデルは此方をみて「ええ、そうね」と微笑んだ。僕はもう二度と女のことを信用することはない。だが……ようやく今になって、人生で初めて、女と対等に話しているような気がした。
自分も何となくアーデルと共に空を見上げていると、突然周りに子供たちが群がってきた。
「アーデルお姉ちゃん!お歌まだなの?」
小さな少女と少年がアーデルの前に群がりだす。アーデルは驚いて、立ち上がると両手を広げる。
「そろそろ始まるわよ!みんなほら、教会に入りなさい!」
「ねぇー、隣の人だれ?」
「お友達よ!お友達!」
アーデルは笑顔のまま子供たちを教会の方向へ促す。そのまま子供たちと一緒に教会へ向かうかと思ったが、アーデルは振り返って僕に声をかけた。
「ほら、セリオン。教会の中まで来てくれる?あなたにも良かったら聴いてほしいの、私の歌をね」
「…そこまで言うのなら、貴方の歌を聴いてみようじゃないか」
「ありがとう。あなたにアッと言わせちゃうんだから」
アーデルは悪戯気に笑っている。僕は仕方ないという振りを装いつつ、内心は彼女の歌を聴いてみたい一心でアーデルに着いていった。
教会の中に入ると、外観に目を奪われた。窓ガラスは美しい装飾の彩られたステンドガラスになっており、七色に輝いている。今まで宗教関係とは無縁だったため、初めて教会の中に入ったが、ここまでの美しさだったとは思っていなかった。
中には子供たち以外にも、大人の男や女が混じっており、それぞれが席についている。
決して声を出してはいけないような神聖な空気に辺りは包まれており、ここに自分が居ていいのか、そんな気分にまでさせられた。
奥に居るアーデルを見ると、牧師と思われる人物と何やら話している。この雰囲気で前に出る勇気はないので適当に席につく。周りの人物を見渡してみると、殆どが生真面目そうな雰囲気の男や女であったが、たった一人だけ明らかに教会に居るべきではないであろう派手な服装をした赤毛の男の姿が見えた。
(……あいつは教会の関係者なのか?)
何処かだるそうに、頭の後ろで手を組んで座っている。欠伸までして眠そうな様子で前を見据えている。頭が前に揺らいでいる、本当に眠っているんじゃないだろうか。
周りの人間を観察しているうちに、奥で牧師が難しい表情で前に立った。
「…今日もまた聖なる日が迎えられたことを感謝致します。お祈り致しましょう」
牧師がそう発言した途端、皆が一斉に項垂れる。慌てて自分も項垂れてみるが、こんなこと聞いていない。奥に居るアーデルの方を盗み見ると、しっかり自分は項垂れている。こんな儀式があるならば先に教えてくれれば良かったろうに。
先ほど見た男の方を見ると、項垂れたまま本格的に眠ったようだ。ああいう男もこの場に居ることが許されているのならば、気持ち的には少し軽くなったが。
暫く項垂れているが、いつまでこうしていればいいのだろうか。自分も眠くなってきた。半分夢の世界に行こうとしたところで、ようやく牧師の声が響いた。
「……聖なるリネノール神を想い、聖歌に入ります」
リネノール神とは、アラルド国で一般的に信仰されている神だ。その存在などあまり深く思ったことはなかったし、ましてはその教会の儀式に自分が参加するなど思っても居なかった。
牧師の声に続いて、アーデルが前に立ち、丁寧に礼をする。顔を上げて口を開いて息を吸う。
一瞬だけ僕と目が合った。アーデルはそれに微笑んだまま、美しい音色の声を出す。
『仮初めの夜が今訪れる。あなたの心に、光が灯る。あなたは無条件に守られている。神の名があなたに舞い降り、神の言葉があなたに伝えられる。夜は終わりを告げるだろう、あなたと神の心によって……』
聖歌と共に、アーデルの美しい歌声が響き渡る。誰もがそれを見惚れたように聞き入り、先ほどの派手な男までも、アーデルを一心に見つめている。
その空間の全ての人間が、アーデルを見ていた。言葉では説明がつかないほどに、美しかった。大きなステンドグラスを背後に歌う姿は、この世の中の全てを、超えた存在に思えるほどに。
アーデルの歌が終わると、すべての人間が呆然と前を見ていた。アーデルはそのまま礼をして、一歩後ろに下がる。牧師は頷いて、前を見据えた。
「それでは皆様も席をお立ちください。聖歌を斉唱いたします」
言われるがまま席を立ったが、もう歌うどころではなかった。どれほどまで訓練すれば、あれほどの歌声を出せるのだろうか。アーデルが持っているのは僕にはない才能だ。
結局何も歌わないまま、アーデルが歌う姿を見ていただけで、教会の儀式はいつの間にか終わっていた。
他の人たちが立って外に出始めたが、アーデルはまだ奥で牧師と話していたため、とりあえず自分も教会の外に出ることにした。
外に出ると、先ほど見た派手な赤毛の男が、教会の入り口の直ぐ傍の壁にもたれかかって立っている。何かを待っているのか、視線は教会の中に注がれている。
何故そもそもこの男はこの教会に居たのだろうか。自分と同じく教会に寄り付きそうな人間には思えない。あまりにも見すぎていたからか、ついに男に声を掛けられた。
「お前もアーデル目当てか?」
「……はい?」
「言っておくがな、アーデルは俺が先に目をつけていたんだ。お前には無理だよ」
男は鼻で笑う。アーデル目当てというのは、この男はアーデルを狙っているということになる。そんなことお前の好き勝手にすればいいだろうとは思ったが、何となく癪に障り言い返す。
「アーデルに呼ばれてここに来た……だから待っているだけだ」
「ほう?そうか。またいつものアーデルのストーカーかと思ったよ」
「ストーカーはどっちだ」
「俺は正しい方法でアーデルを誘おうとしているだけさ。お前…名前は?」
男は笑ったまま、何故か此方の名前を聞いてくる。馬鹿にされているような気分になり、舌打ちが出そうになったが寸での所で抑えておいた。
「……お前から名乗れよ。馴れ馴れしいな」
「俺はエダンだ。どんな女も俺に惚れる、良い男とはこの俺だ」
「……そうか。楽しそうで何よりだな」
やはりこういうタイプの男だったか。あまり関わりたくはない人物だ。昔に関わった人物でもこういうタイプは居たが、いつも周りに女を引き連れて調子に乗っている男が多かった。
自分とは無縁の世界だし、生きていることを全力で楽しむタイプの男には、僕たちのような男の気持ちなど分かるはずがない。
「ああ、楽しいよ。どんな女も俺の物になるんだからな、ほら早く名前を教えてくれよ」
「……僕はセリオンだ」
「そうか、セリオン。悪いがアーデルは譲れないからな。お前もアーデルを狙っていることは分かっている。そこまで分かりやすい目をしていたら、隠せないぞ?」
「狙っているも何も、アーデルに呼ばれただけだって言ってんだろ!」
「ははは、そうか。それならそういうことにしておいてやるよ」
エダンは心底面白そうに笑う。丁度このタイミングで教会から出てきたアーデルを見つけると、エダンは直ぐにアーデルの方へ歩き出した。エダンは先ほどまでと声の調子が打って変わってアーデルに話し出す。
「美しいお嬢さん、少し宜しいですか?貴方の美しい歌声に感銘して…」
「またあなたなの?あなたの誘いには乗らないって言っているでしょう!」
アーデルはイラついた様子で、そっぽを向く。「どんな女も俺に惚れる、良い男」は一体どこに行ったのやら。心の中で嘲けるように笑ってやったが、エダンは断りの言葉も全く聞かずに、アーデルに迫り続ける。
「いつもお厳しいですよね。そんな所も俺にとっては最高に輝いて見えます。さぁ俺の手を取って……この教会よりも美しい場所に連れて行ってあげましょう」
「セリオン、行きましょう」
アーデルはエダンの差し出した手を完全に無視して素通りすると、此方に目線を向けた。
勝ったような気分になるのは仕方ない。調子の乗った男には良い薬だろう。
…いや、別にアーデルが僕を選んだから、嬉しかったわけではない。女のことは信用ならないからな。
アーデルと一緒に歩き出すと、アーデルの横に並行に並んでピッタリとエダンが着いてくる。
「俺は簡単には諦めませんよ、貴方の元に通い出して暫く経つのに、貴方は俺を見てくれない……ああ、胸が張り裂けそうです!」
「そうね。単純に興味がないからよ」
「興味!ああ、なるほど……俺の顔は貴方にとって好みではありませんか?俺の顔ほど完璧でハンサムな男はいないと思いますが……」
「そういう所が嫌いなのよ。いい加減分かったら?」
アーデルは冷たい声で、エダンを適当にあしらった。エダンはそれでも負けずと着いてくる。
「そんなちんちくりんの男が良いのですか?俺にしておいた方がいいですよ。俺の方が背も高く、そうですね……中身まで“ご立派”な物がついて……」
「―――いいから黙って。二度と顔を見せないで」
この世の底から出したかと思うほど、低い声でアーデルが男に言い放つと、エダンは圧倒されたのかピタリと動きを止めた。
アーデルは冷たい目線をジトリとエダンに送った後、ずんずんと早歩きで歩き出す。
今の恐ろしい声は自分も圧倒されそうになった。男に半分同情すら覚えるほどに。
アーデルの方に着いていくために、固まったままの男を横目で見ながら僕は走り出した。
「本当失礼しちゃうわ!あのイカレ男、毎週私の歌の時だけ教会にやって来るのよ!」
「……毎回ああなのか?」
「そう!毎回“ああ”!その度に断っても断っても、しつこくて!教会出入り禁止にしたいくらい!でも牧師様ったら、「全ての人が神に愛されております」だとか何だとか言っちゃって!」
「そりゃ、災難だな…」
アーデルの怒りにとりあえず答えておく。アーデルは今にも沸騰しそうなほど怒っており、地面を固く踏み潰すようにドスドスと力強く歩いている。
「あんな男、神様のことなんて何も思っちゃいないわよ!」
「そういう貴方は神を信仰しているのか?」
「私は…本当の意味では宗教には入ってはいないけれど、リネノール神のことは信じているわ。神様はいつも傍に居る…そんな気がするの」
「…まぁ僕たちのことを、殆ど見ていないような気がするが」
うっかりと本音を言ってしまい、「しまった」と思ったがアーデルは意外にも怒らずに、ただ僕の言葉に頷いただけだった。
「そうね。直接的に何かを私たちにすることは少ないと思うわ。でもふとした瞬間がない?絶対絶命だったのに、何とかなった!とか。ああいう時って本当に偶然なのかしらね?」
「……絶体絶命か」
自分自身のことを直ぐに思い出す。昔、奴隷馬車の時に、命が自分だけ助かった。あの時は咄嗟に信仰をしてもいない神に祈ったが、そのおかげで助かったのか、はたまた偶然か。
「あら、あなたもそういう事態になったことがあるのね?…実は私もなの。絶対にダメだって思った時があった。でも何故か…上手くいってしまったわ。不思議よね」
「ああ、そうだな……」
僕が何となく濁すと同時に、前から女の声が聞こえる。声の方を咄嗟に見ると、小太りの中年くらいの女が走り寄ってきており、女は手をブンブンと振ってから此方に向かって大声を出した。
「アーデルちゃーん!」
「キャロルさん!?」
「やだ、もう終わっちゃったのね!?今日こそは教会に行くつもりだったのに、また子供たちのお世話で遅れちゃったのよ!」
「キャロルさん」と呼ばれた女は、随分と遠くから走ってきたせいか汗だぐで、布を取り出して額の汗をせっせと拭いている。
「また来週もやりますよ、また是非来てください」
「あらそう?もー子供たちもそろそろ自立してくれればいいんだけどねえ…あら?そちらの方は?まさか……」
女は突然僕の方を見る。まさか…の後に続くのは、「彼氏さん?」ではないだろうな。警戒心と、ほんの少しばかり期待してみると、キャロルはにこやかな笑顔になった。
「弟さんね!?アーデルちゃんにこんな小さな弟さんが居たなんて!」
(―――っておい!)
思わず心でキャロルに全力で突っ込みを入れてしまった。僕の心情とは裏腹に、アーデルはそれを聞いた途端笑いと共にプッとふきだした。いや、待て。その笑いは一体どういう意味だ。
「あはは!そうなの!可愛い弟なのよ」
「あらやっぱり!もーご姉弟が居るなら言ってくれても良かったのに!」
「おい、ちょっと待て。僕は弟ではない」
「あらら!もー反抗期ね!?うちの息子にもこういう時期があったわぁ!」
キャロルは全く僕の話など聞くそぶりもしない。キャロルの話に乗ったアーデルをギッと睨みつけるが、アーデルは面白そうに笑うだけである。
「それでね、アーデルちゃん。ほら…あの子なんだけど、教会に来てた?」
「フィオナちゃんのことですか?それが…見ていないんです」
「そう…ヴァンスさんのお宅、ちょっと特殊じゃない?娘さんももう15歳になるのに、家から殆ど出させようとしないで…様子を見に行こうかと思ったんだけどねぇ…扉を叩いても出てこないのよ」
「心配ですね…ちょっと様子を見てきます」
アーデルが頷くと、キャロルは「あら!」と驚いた表情をする。
「駄目よ!ヴァンスさん酔っぱらっているときは手がつけられないんだから!扉を叩いても出てこなかったってことは…絶対酔っぱらったまま寝ているわよ」
「でも心配なので…実は私も気にしていたんです。フィオナちゃん、教会に来てもずっと暗い表情をしているので…」
「あらそう?でも絶対に1人で行くのはやめてね。そうよ!お隣の弟さんを連れて行くといいわ。ほら!弟くん。頑張ってアーデルちゃんの用心棒になってね」
一体何歳児に語り掛けるように、このおばさんは言っているつもりなのか。そもそも僕はアーデルの弟でも何でもない。何も返事をせず、おばさんを睨みつけるとキャロルは不思議そうな表情を浮かべる。
「弟くんって、本当反抗期ねぇ…」
「ええ!そうなんですよ!この弟ったら…ごめんなさい!弟も連れて行きますので!」
アーデルはペコペコと謝ったまま、僕の背中を強く押して、歩き出す。
キャロルの「頑張ってねー!」という声を背中に聞きながら、しばらく歩いていくと、アーデルは咳を1つこぼした。
「…ごほん。あーセリオン?」
「……何であのおばさんの言葉に乗った?」
「何でって……ほかに何て説明すればいいか分からなかったのよ。キャロルさんは噂好きだし、友達って答えても「二人はどうして友達になったの?」って絶対突っ込まれるわ」
「ほー…なるほどな。だから僕を勝手に弟に仕立てたわけか。僕はてっきりそういう“プレイ”をし始めたかと思ったよ」
「プレイって?」
アーデルはきょとんと首を傾げる。
くそ、やらかした。庶民向けの演劇をやっていた時に演じた話で、1つ可笑しな話がある。
ある裕福な貴族の女とその召使の男が真夜中、女がわざと「姉」を演じ、召使が「弟」を演じるという“プレイ”を毎日行っていた。
召使はあろうことか、日常でも女と実の姉弟のような気分になり「姉さん」と貴族の女に向かって召使が呼んだところ、貴族の親がひっくり返りそうになるほど驚き、そこから夜のプレイが大暴露され、最終的に召使は首になったという半分不幸、半分お笑い話をやったことがあるのだ。ちなみにこれは正真正銘の実話だ。
僕は慌てて咳き込んで見せて、声を整える振りをする。
「……ごほっごほ。んんっ。いや、何でもない」
「何よ、気になるじゃない?」
「本当に何でもないから。そのフィオナだかの家に本当に行くつもりなのか?」
話題を無理やり移すように誘導すると、アーデルは諦めたのか不満そうに頷く。
「ええそうよ?一緒に来てくれるわよね?」
「まぁ…ちょうど暇だった。別にいいけど?」
「そう!良かったわ。ヴァンスさんのお宅って実は行ったことないのよね…悪い噂ばっかりなのよ。あそこの家」
「心配しなくていい。もしも何かあったら僕が…」
そこでウっと言葉につまる。僕は今何を言おうとした?「アーデルを守るから」と続けようとしなかったか?この甘い考えで散々痛い目にあってきたというのに、僕はいつまでも学ばない。こういう所が駄目な所なんだろう。
「僕が…?」
「……何でもない。そんなに心配することでもないだろうと言いたいだけだ」
「あらそう…まぁいいわ。行ってみないと分からないわよね。そうとなれば、フィオナちゃん救出作戦!開始よ!」
「救出作戦…?」
呆れてアーデルに返すと、アーデルは意気込むようにポーズを取る。
「ええ!子供の頃から何かあるたびに、こうして作戦ごっこをしていたの。その方が何だかかっこいいでしょう?」
「アーデル…まるで子供のようだな」
「あら、子供心は忘れないわよ?あの頃は悪戯ばっかりしていたわ!やんちゃだったの。ふふ」
アーデルは片目を瞑る。そのせいで何故か自分の顔が熱くなった。だめだ。完全にこの女のペースに飲まれている。僕は女に乗せられるまいと強く念じているのに、何も言い返せない。
そうだ。ここらで気分を入れ替えないと。女は敵……女は敵だ。最後には絶対裏切ってくる。どんな女も信用できない。笑顔を見せられても警戒しろ。どんな女も金のことしか見ていない。女は顔が整った男には声色を変えて、金を稼げない男のことは、軽蔑する。それが女だろう。
女は男の価値を金としか見ていない。世の中は己の名声と、金が全て……全てなんだ。
「ちょっと何で立ち止まったのよ」
「……精神統一だ。僕が僕であるために、心を落ち着けている」
「……あはは!」
アーデルはどういうわけかまた噴出した。何故アーデルは僕が何を言ってもいつも笑うのか。全く理解できない女だ。
「もー駄目。何なのあなたは。初対面から思っていたけれど、変わっているわね?」
「変わっている?僕は普通だ」
「普通?あら、まさか自分ではそう思っているの?あはは!」
アーデルは笑い転げそうなほど、大笑いし始める。別にお笑いの演劇をしたわけでもないのに、何故この女はここまで笑っているのだろうか。段々とその笑いに不快な気分になってきて、顔を顰めて見せるとアーデルは流石に笑いを止めた。
「あーもう。ここまで笑ったのは久しぶりだわ。あなたを見ていると何だか飽きないわ。何だか、ちょっと変なのよね」
「おい、流石に失礼じゃないか?僕は普通だって言ってるだろう!」
「普通ねえ?もしも、あなたが正真正銘の「普通の人」だったら、あの演劇はできなかったでしょうね」
アーデルはニッコリと笑って、僕を見下ろす。アーデルは何もかも「見透かしていますよ」とでも言いたいのか、笑顔のままだ。
「それは僕に才能があるとでも言いたいのか?」
「うーん。ちょっと違うわ。いえ…あるかないかで言われたら、あなたの才能は強く感じるけれど…」
「何が言いたいんだ。僕のことを馬鹿にしたいのか?」
強くアーデルを睨みつけると、アーデルは「おー怖いわ」と肩をすくめる。
「あなたの…あなたから感じる空気と心情…それがとってもこう…濃いのよ!濃すぎるの!あなたの演劇が何故人気なのかも分かった気がするわ。皆あなたから感じる物に惹かれているのね」
「はぁ?意味が分からない。結局結論は何なんだ?」
「結論?そんなものないわよ!そうね。あなたもきっと…第三者としてあなた自身の演劇を見れば分かるようになるかもしれないわね」
アーデルは1人で解決したようにうんうんと頷くと、さっさと先を歩いて行ってしまう。
駄目だ。アーデルの言っていることが全く理解できない。ただ不快な思いだけが残ったが、ここは仕方ない。アーデルの後ろを反抗の意味も込めて、少し距離を開けて着いていくことにした。
フィオナの家に着くと、目を見張った。アーデルの廃屋よりもさらにボロさが増して、よくこの状態で建っているなと思うほど、ボロい建物だったからだ。
周りにはカラスが飛び交い、怪しげな儀式でも行っていそうな風貌である。
「あー……ここか?」
「……そうね…場所は知っていたんだけれど、ここに来るのは初めてだわ…」
この廃屋に入ると、呪われそうだ。昔やっていた演劇の中でも、怖い幽霊話もある。それを自然と思い返される。
「昔聞いた話でこういう場所の幽霊話を聞いたことがある。当然の如く、そこは…呪われていた」
「呪われていたですって?ここはフィオナちゃんの家…なのよ…」
「自信なさそうだな。そのフィオナという女は…本当に実在しているのか?」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ!一回だけ話したわよ!」
「一回だけかよ…」
アーデルの言葉に呆れ、もう一度廃屋を見上げると、カラスがカーッとけたたましい鳴き声で頭上を通り過ぎる。アーデルと僕は顔を見合わせた。
「ねぇ、扉をノックしてくれる?」
「何で僕がノックする必要が?君が用事あるんじゃなかったか?」
「……あーもう!分かったわ」
アーデルは扉を三回ほど強く叩いた。耳を澄まして暫く待ってみるが、何も声は聞こえない。もう一度強く叩いてみるが、何も聞こえない。
アーデルはため息をついて、試しに扉を引いてみると扉はいとも簡単に開いた。
「…あら、開いちゃったわ」
「開いちゃったな」
「…絶対着いてきてね」
アーデルは此方を振り向くと、念を押すように呟いてから扉の中に入る。後に続いて入ってみると中は真っ暗で何も見えない。
「お邪魔しまーす…」
アーデルが大声を出してみるが、中から誰も出てこない。靴で床を踏みしめると、どういうわけかチャラチャラという音が聞こえて、目を凝らして下を見ると驚いた。
「おい、気をつけろ。ガラスが下に散らばっている」
「ああ…さっきから踏みつけている感触はガラスだったのね…」
アーデルは声を震わせながら前を歩いていく。アーデルがここまで怖がりだったとは思っていなかった。別に僕は怖くないが、ちょっと脅しただけでここまで怖がるとは。
「アーデル。まさか怖いのか?」
「…怖くないわ」
「ほーそうか。ならさっき見た、影は見間違いだったか…」
「何ですって?」
アーデルは途端にきょろきょろと辺りを見回し始める。それに面白くなり次々と続けてみる。
「ほら、そこに……髪が長くて、雪のように肌が白い…やせ細った女が!」
「キャーーーー!!!」
アーデルが声を大きく上げたので、その方向を見ると、冗談で言ったはずの女の姿が目の前に立っている。目を何度か瞬きさせてみるが、その女は呆然と突っ立っているままだ。
「……本当に出たな」
「変なこと言うから!ごめんなさい、荒らすつもりなんて……ってフィオナちゃん?」
アーデルはびっくりしたように女に駆け寄ると、長い銀髪のフィオナは静かにアーデルを見上げた。
「…誰?」
「ほら、教会で歌っていた、アーデルよ!ごめんなさい。何度扉をノックしても出てこなかったものだから…勝手に入ってきちゃったの」
「ああ……アーデルさん……こっこんにちは」
「ねぇ…フィオナちゃん。大丈夫?ずっと教会に来ていなかったみたいだけど…」
フィオナの声は掠れ、目が虚ろのまま、ゆっくりと動き出す。よく見ると目はやつれ、身体はやせ細り、殆ど食べていないように思える。15歳の女と聞いていたがそれにしては身体が小さい。
「…隣の人は?」
「友達よ。名前はセリオン」
「そう…あの、ここに居ると危険だから帰った方がいいわ」
フィオナはせわしくなく辺りを見回している。何かに怯えているのか、身体は小刻みに震えている。アーデルは心配して、彼女の肩にそっと触れた。
「フィオナちゃん、大丈夫?とても痩せているわ……ちょっと外に出られる?」
「……無理よ……無理なの」
フィオナが怯え切った目で答えたと同時に、突然入り口から男の怒声が鳴り響いた。
「おい!フィオナ!居るか!?……お前らは誰だ?」
体格の良い中年くらいの男がドスドスと此方に歩いてくる。その男が近づけば近づくほど酒の臭いと妙な異臭が強くなり、思わず鼻をふさぎそうになった。
「誰だって聞いている!人の家に勝手に入って、ただで済むと思っているのか!?」
「私は!教会でフィオナちゃんとえっと…話をさせて貰っていて…」
「…お前は?」
体格の良い男は、僕を見下ろすと低く呟いた。こういうタイプは非常にまずい。酒場でよく居るタイプだが、少しでも逆鱗に触れると、必ず殴ってくるようなタイプだ。
「…僕はアーデル…この女性の友人でして…まずは勝手に入って申し訳ございません。フィオナさんとお話したいことがあり、扉をノックしてもお姿が見られなかったもので…深くお詫び申し上げます」
僕は丁寧に礼をした。誰しも怒っているときに丁重に謝られたら手は出せないはずだ。
しかし読みとは違い、男は「そうか」と低く呟いた後、突然拳を振り上げて凄い勢いで此方に振り下ろしてきた。拳がゆっくりと、僕の目の前に迫ってくる。
「……っおわ!?」
僕は咄嗟に地面に突っ伏して何とか拳を交わした。こういう時に演劇で身体を動かす練習もしておいて良かったと心底思う。いや今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。
今度は男の足が僕に向かって蹴りこまれようとする。地面に突っ伏した状態で交わせるはずがない。
覚悟を決めて目を強く瞑ると、フィオナの声が悲鳴のように響き渡った。
「やめて!!!お父さん!!!殴るなら私にして!!!」
フィオナが僕の前に立ち、僕を庇うように腕を大きく広げる。フィオナの目には涙が零れ落ちており、身体は小刻みに震えている。
男はフィオナの姿を見ると、ニンマリと笑いフィオナの言葉通りに何とフィオナに向かって拳を振り下ろそうとする。
「…やめろ!!!」
僕は思わず声を出した。男はゆっくりと僕を見下ろしてから、首をこきっと鳴らした。
「それで?フィオナがお前を庇って、お前はフィオナを庇うのか?はっ!何だこの茶番は。フィオナ…父さんはな、不法侵入してきたやつを撃退しようとしているんだよ。何も悪くない。フィオナ…お前がそんな奴を庇うから……しっかり仕置きをしないとな」
男の目の焦点は合っていない。酒を飲みすぎたのか、身体はふらついている。それでも男の殴りはしっかりと力が入っていたし、力で勝負したところで、勝ち目はないだろう。
だが…このような男には殆どの場合必ず効くものがある。
僕は何とか立ち上がり、フィオナの前まで行くと、懐から金の入った革袋を取り出した。わざと金の音がなるように振って見せる。
「…これはお詫びです。貴方が思う金額をお支払いできます」
「ほう?金か………いいだろう。全部よこせ」
「……全部?」
思わず聞き返してしまう。思わぬ出費だが、このままだと男はフィオナに危害を加える。全部払えというのなら仕方ない。貯金全てを持ち歩いているわけではないし、今月の生活費が少しなくなるだけだ。男はイラついて騒ぎ出す。
「おい!払えないのか!全部よこせと言ったんだ!!!」
「……分かりました。お渡ししましょう」
僕は直ぐに男に手渡すと、男はニンマリと笑って革袋の中の金を数え始める。
「結構入ってるじゃねえか。お前金持ちだな?けっ!まぁどうせ商人の息子かなんかだろ」
「……あー、僕は働いております」
「ほう?働いているのか。それならまだマシか。おい。フィオナと何処かに行くなら行っていいぞ。どうせ暫く家には戻らない」
(そういうお前は働いているのかよ…)
心で呟いてから、男がご機嫌な様子でふらついたまま出て行くのを見送る。ため息をついてから、フィオナの方を振り返るとフィオナは焦った顔をして此方を見た。
「…ごめんなさい!私の父が…お金は必ずお返しします!」
「いや、僕が判断して払った金だ。今回ばかりは不法侵入したのは僕たちの方だったからな」
「そういう訳にはいきません!必ずお支払いはしますので!お幾らだったのですか!?」
「君には難しい金額だろう。気にしなくていい…ああ、そうだ。恩返ししたいっていうなら、1つ方法がある。まだチケットは仮のものしかないんだが…」
持っていた鞄から、羊皮紙が束ねられた物を取り出してから、一枚のページをフィオナに手渡す。僕の名前が書かれている簡易な紙だ。
「改めて僕はセリオンだ。演劇をしている。今は貴族向けの演劇ばかりやっているんだが…近々庶民向けにまた演劇をやるかもしれない。その時にお客さんとして来てくれればいいよ。その紙を受付に手渡せば無料で入れるようにするから」
「えっ……でもそれでは…全くお返しになっていません」
「いや十分お返しになる。僕はさらなる高みを目指しているんだ。だから1人でも多くの人に知られて、気に入られたいと思っている。その中の1人に君がなってくれるかもしれないだろう?」
(……ふっ。我ながら最高にかっこいいんじゃないか?)
少し前ならこんなことを言うことはあり得なかった。これも羽振りが良くなった結果だ。
別にアーデルが居たからかっこつけようとしたわけではない。断じてない。フィオナという少女は僕より年下で、恨むべき相手でもないように思えたし、流石に可哀そうだったからだ。普段から少女は父親に殴られているからだろうか、少女の腕に痣があちこちに見えた。フィオナの身体が震えたと思うと、突然ポロポロと泣き出した。
「ごっごめんなさい……必ず行きます。そして必ず…いつか恩返しします…」
「ああ、本当に大丈夫だから。ほら、アーデルも何か言ってく…?」
アーデルはどういう訳か呆然と固まっていた。此方に声を掛けられてようやく気付いたのか、ハッと顔を見上げる。アーデルの身体もまた震えている。
「…セリオン…大丈夫だった!?」
「ちょっと遅いんじゃないか?まぁ、問題なしだ」
「お金…払ったのよね…私のせいだわ。私があなたに着いてきてもらったから…幾らだったの?私があなたに払うわ。あなたが危険な時に何もできなくて…本当にごめんなさい」
「金はいらない。あの時は動ける者が解決する必要があっただろう。たまたまこの僕が動けたというわけだ。だから別に気にしていない」
アーデルはハッと驚いたように此方を見たかと思うと、呆然と僕を見つめてきた。
「………貴方は…強いのね…」
アーデルは何かを悟ったように僕を見た。僕をそんなに見つめるのは構わないが、「かっこいい」くらい言ってくれてもいいんじゃないだろうか。僕はそれほどのことをしたはずだ。いや別にこの女からの言葉を期待しているわけではないが。しかしアーデルは僕とは思う裏腹の言葉を言い出した。
「私はちっとも動けなかった…恐ろしくて。フィオナちゃんを庇うことも、貴方を庇うこともできなかった。私は……昔から何も変わっていないんだわ」
「変わっていない?」
「…変わっていないわ。昔の私は何も知らない馬鹿だった。でも気づいたわ…今もあの頃のままだったということを…貴方は強い。本当に強いわ。今まで貴方のことを、馬鹿にしてごめんなさい」
アーデルは突然深々と項垂れる。駄目だ。この状況の意味が全く分からない。アーデルから何か言われるとしても「かっこいい」くらいのものだと思っていたが、それを超えてまさか謝られるとは思ってもいなかった。
「あー…別にいい。気にしているようで、気にしていないから。とりあえず外に出ないか?ここは辛気臭……あっすまない」
フィオナに咄嗟に謝ると、フィオナは曖昧に笑った。
アーデルのことを最初は失礼な女だとは思っていた。その時に内心は怒ってはいたが、その後に僕に見せた彼女の様子は、僕の知るくそったれ女とは少し違った。勿論完全に信用したわけではない。アーデルがいつ裏切ってきてもいいように心の準備はしている。
しかしまぁ……こういう危機的場面では「男として」かっこつけたいものだろう。
これは最早本能とも言えるかもしれない。こうすることで男は満たされるのだ。
フィオナの家から出ると、アーデルはフィオナの弱りきった姿を見て心配そうな表情をした。
「フィオナちゃん、とりあえず私の家に来る?一緒にご飯でも食べましょう」
「……でもそんなご迷惑じゃ…」
「全く迷惑じゃないわ。ベルって女の子が居るの。その子ときっと話が合うと思うわ」
「…ありがとうございます」
フィオナは丁寧にお辞儀をする。アーデルは「いいのよ!」と笑っている。ベルという女とは、恐らくいつもアーデルの家で見る女のことだろうか。
「ベルっていつも迎えてくれる、彼女のことか?」
「ええそうよ。あの子の名前はベル。私の……えっと、友達なの」
アーデルは何故か含んだ言い方をして、友達と付け加えた。少しの違和感はあったが、特に突っ込むことでもないように思えたし僕はただ頷いておく。
「セリオン。私たちは帰るわね。あなたはこれからどうするの?」
「あーとりあえず僕も帰るよ。練習場にな」
「そう…私たちと一緒にご飯とか…食べない?」
アーデルは何処か遠慮がちに話す。フィオナとアーデルを見て少し考えたが、どういうわけか彼女たちを見ていたはずなのに、マリアのことを急に思い出してしまった。
やはり…アーデルは女であることには変わりない。一生僕の気持ちなど分かるはずもないし、いつかは見下してくるかもしれない。
僕はその考えが浮かんだ途端に、作り笑いをして返事をした。
「いや、これから用事があるんだ。次の公演が近いから練習をしないといけない」
「…そう…残念だけど、分かったわ。また会いましょう?」
「ああ、また」
アーデルに笑顔のまま会釈をすると、アーデルはフィオナと一緒に去っていった。後ろ姿を何となく眺めてから、僕は自身の作り笑いを解いた。
(これで…いいんだ)
僕はこれでいい。人に踏み込むような愚かな真似はもうしたくない。もう誰かを信用することはあり得ない。あの日から、こうして生きていくことを決めた。これは…僕自身への決意なんだ。