第26話 ルシファー
ルシファーに連れられて、廊下を進み部屋を開けると、部屋の中には何とクロードの祖父、カーティスが笑顔で佇んでいた。
「……っカーティス!?」
僕がエダンに抱えられたまま声を上げると、カーティスは少し目を細めた。先ほどの鷹の姿を見ているため何とも言えない気持ちになっていると、カーティスはルシファーに会釈してから、僕の方に近づいて僕の額に手をそっと当ててきた。
「……これは酷い傷だ。私の孫が医者を呼びに行ったから安心するといい。大変な思いをしただろう。部屋のベッドを使いなさい」
カーティスは笑顔のまま、僕に声を掛けてくる。エダンは僕をベッドに降ろすと、カーティスはルシファーに目を合わせた。
「主よ……私の分霊がご指示通りにルーベン……いや、アベルを追っております。彼は本拠地に戻ったようです」
「うん、そうだろうね。分かっていたよ」
「……アベルのことをどうお考えですか?彼が……あのような商売に手をつけてしまうとは……」
カーティスは目を伏せた。「あのような商売」とはどういうことなのか、僕は横になったままカーティスに目を合わせると、カーティスは寂しげに笑った。
「……すまないね。全てを話すときが来たようだ。私の孫、アベルに何があったのか……ひとまず、この世界でのことだがね」
カーティスは傍の椅子に腰かけてから、手を組んだ。僕の方をジッと見つめる。
「まずは休みなさい。君が起きたら……話をしよう」
「……今話してくれて大丈夫です……僕は大丈夫ですから……早くアーデルを助けないと……」
「いいや。君は休んだ方が良い。獣の傷は深い傷になるだろう……例え君自身がかけた呪いだったとしてもね。獣の傷は毒がある。主の手当てによって抑えられてはいるだろうが……君は今晩夢を見るだろう。夢に呑まれないように気をつけたまえ」
「……夢?」
僕が聞き返すと、カーティスはルシファーの方をジッと見つめた。ルシファーは僕の方を見て笑いかける。
「大丈夫。僕が居るからさ。アーデルのことも心配だろうけれど、今は休んでくれ。また“夢”で会おうよ」
「……待ってくれ、夢を見るってどういうことだ?」
「さっき言っただろう。マリアの言葉は全て罠だと……夢では気を付けてくれ。マリアが君に干渉してくるだろうから。僕はずっと傍に居るから……だから今はおやすみ」
ルシファーは僕の目にそっと手を当ててきた。それと同時に急激に眠気がやってくる。視界がぐにゃりとぼやけて僕は夢の世界に吸い込まれて行った。
***
僕は目を覚ました。ここは何処だろう?周りには何もなく、白い世界が広がっている。子供たちの笑い声が何処からか聞こえてくる。楽しそうな男の子と女の子の笑い声だった。
声につられてその場に立ち上がると、目の前には大きな鏡があった。鏡を見ると僕の姿が映っており、その姿に驚愕した。
「……何だこれは……」
僕の頭には角が二本付いており、僕の身体には白い大きな翼が生えていた。思わず角に手を触れる。ざらざらとした感触が伝わる。
「……角!?何で頭に角があるんだ?」
僕の恰好も何処かおかしかった。黒い毛皮を肩にかけている。毛皮に手を触れると、それは動物の毛皮のようだった。呆然と鏡を見つめていると、後ろから男の子と女の子の声が同時に聞こえた。
「ルシファー!」
直ぐに後ろを振り返ると、男の子と女の子は嬉しそうに僕に近寄って来た。子供たちは無邪気な笑顔のまま僕の傍にやってくる。男の子は僕に笑いかけた。女の子は僕の足に縋って来た。
「ルシファー!一緒に遊ぶよな?」
「ルシファー!今度は何をするの?もっと楽しいことをするのよね?」
子供たちは無邪気だった。僕が驚愕していると、男の子と女の子は首をきょとんと傾げた。
女の子は不思議そうに声を上げる。
「どうしたの?いつものルシファーじゃないみたい!」
「……さっきから言っている意味が分からないんだが……君たちは何者だ?」
「ええ!?忘れちゃったの!?私はエバだよ!」
「僕はアダムだよ!」
(……っアダムとエバだって!?創世記の最初の人間の男女か……ならアダムはエダンだ……もう一人は?)
僕はエバの方を見つめた。エバの髪は黒髪でニッコリと笑顔を見せていた。アダムの髪色は赤髪でエダンだと言うことが直ぐに分かったが、エバの方は誰なのか分からなかった。エバは笑顔のまま僕の手を繋いでくる。
「ほら行こうよ!ルシファー!一緒に遊ぶんでしょ?」
エバは僕の手を引いて、歩き出した。アダムとエバに連れられて進んでいくと次第に景色は緑豊かな草原に変わって行った。美しい草原に目を向けていると、エバは不思議そうに首を傾げる。
「何だかいつものルシファーじゃないみたい!いつも面白いお話を聞かせてくれたじゃない!どうしちゃったの?」
「……いや……僕は君のことを……知らないんだ」
「ええっ!ずっと遊んでいるのに!?私のことを忘れちゃったの!?ちょっとアダムったら今の聞いた!?ルシファーったら酷いんだ!」
エバは怒り出してしまったが、直ぐにくすくすと笑い出す。そのまま舌をベッと出した。
「ふふっいいんだ!ルシファーがまた“ジョーク”を言っているのは分かっているの!ね、私もよく学んできたでしょう?」
「……何?」
「それもジョークなんでしょう?ルシファーは笑いにはジョークが一番だって言ってたもんね!そうだよね、私に最初に笑いを教えてくれた大切な天使様!」
エバはニッコリと笑って僕の手を繋いだまま駆け出す。慌てて着いて行くと、その先には大きなクマのぬいぐるみがゆったりとくつろいでいた。僕は直ぐにクマが何者なのか分かって、声を上げる。
「おい、ルシファー!この世界は一体どういうことだ?」
僕はエバと一緒にクマのぬいぐるみの前に行く。クマのぬいぐるみはゆったりと起き上がってから僕の方を見つめる。
「やぁ、また会ったね、ルシファー」
「はぁ?今度は僕に対して深層心理でも見せているのか?」
「ううん、違うよ。君がずっと……心に留めていることだ。君の心の引っかかりというのかな。それを見せている」
「何だって?これが?アダムとエバのことか?僕は……僕は天界で何をしたんだ?」
「焦らなくても大丈夫。ゆっくりと探して行こうよ。ほら歩き出そう。次の場面に行く時だ」
クマのぬいぐるみは僕の手を取った。その瞬間エバは僕から手を離してしまい、寂しそうに僕を見上げる。
「ルシファーまた行っちゃうの?私を置いて行っちゃうの?」
「……え?」
「……いいんだ。大事なことっていうのは分かっているから……私はいいんだ」
エバは寂しそうな表情を見せたが直ぐに笑顔を見せて、遠くに居たアダムの方に走って行ってしまった。その瞬間再び辺りは白い世界に変わってしまう。気づけば隣に居たはずのクマのぬいぐるみであるルシファーも居なくなっていた。僕は直ぐに声を上げる。
「おい!ルシファー!ルシファー!何処だ!?」
僕が白い世界を歩いていると、先程の子供のエバがぐったりと倒れていた。身体から血を流したままぐったりとしている。僕は慌てて女の子に近づいた。
「……っ大丈夫か!?」
エバの方に駆けよると、エバは僕の方を虚ろな目で見つめた。エバは恐怖で表情が歪んでいた。
「……どうして……どうしてこんなことになってしまったの?私たちは楽しく遊んでいただけだったのよ……なのに……あんなことになるなんて思わなかったわ……」
「……何があった?」
「世界を……世界を作ってしまった……私たちだけの世界を……貴方と作ってしまうことが、そんなに悪かったというの?こっそりと創造主様にバレないように……世界を作ってしまうことが……何が悪かったと言うの……」
「世界だって?」
僕が弱ったエバに顔を合わせると、エバはフッと笑顔を見せた。
「忘れちゃったの?私と一緒にした約束を……二人で楽しいことをしようねって言ったじゃない。二人で……世界を作ったじゃない。私と貴方と二人で……内緒の世界を創造よ」
「……待て、それは……」
「その世界は未完成だった……そこから呪いが生まれてしまった……最初は楽しいことをするつもりだったのよ。私と貴方で……でも収集がつかなくなったの……世界を創造することは最も……最も罪であった……私たちは罪を犯してしまったのよ……」
エバの言葉に僕は呆然とエバの瞳を見つめる。エバの身体からは血がとめどなく流れており、止められない。
「その世界はリンゴの果実のように……真っ赤に膨れ上がってしまった……最初は小さな世界だったのよ……それがどんどんと膨れ上がって行って……私たちは……隠してしまおうとしたの。でも隠せなかった……創造主様に隠せるはずがないものね」
「……どういう意味なんだ?」
「最初は楽しいことだったのよ……二人で思いついたはずだったのに……でも神様とは真逆のこと。神様とは逆の世界だったの……それが“鏡の世界”。私たちだけで創造した……新しい世界よ」
エバは泣きじゃくってしまった。エバの言葉の意味が分からず、僕は声を上げる。
「待て、鏡の世界……この世界は、僕が罪を犯した後に出来た世界だったんじゃなかったのか!?一体どういう意味なんだ?」
「……この世界は、私たちで作ったわ。創造主様には内緒にしようねって語り合って……アダムは参加しなかったわ。私たちだけで世界を作ったの……お互いに案を出し合って語り合った。子供のおままごとのように……最初は本当に気まぐれだったのよ……貴方の知恵と力と、私の愛を合わせれば大丈夫かなって……」
「……僕は……僕は世界を作っていたのか?どういうことだ?」
エバはゆっくりと起き上がると、血を吐いた。ゲホゲホと苦しそうに息を吐いてから、僕に目を合わせる。
「私は……世界を作ったことによってこんなにも弱ってしまった……貴方と私で一緒の神様。この世界の……神様だったの。私たちは隠し通せなかった。創造主様にバレてしまって……貴方は……貴方は……本当にごめんなさい。私は……私が……私が言い出したことだったのよ!!!」
エバは泣いていた。その瞬間、エバの姿はマリアの姿に変わり、マリアはジッと僕を見つめてきた。胸には首飾りはなく、彼女の瞳は純粋だった。
「ねぇ……このことは、そんなにも悪いことだったの?ルシファー……」
「マリア……」
「創造主様もやっていたじゃない。私たちも同じことが出来るはずでしょう?世界を作るなんて簡単よねって……話し合ったわ。だから一緒に絵を描いて、私たちは世界を創造しようと考案しあったわね。覚えている?」
マリアは優しく笑いかけてきた。僕はもう何も言えなかった。思い出すことは出来ないが……彼女の瞳は遠い昔、ずっと見ていたような気がした。
「私はマリア。この世界の女神よ。そして貴方はこの世界の神よね。一緒に世界を作ろうねって話し合ったわね。でも……どうしてこうなってしまったの?私たちは何か間違えていたのかな……」
「……そうか……僕は……僕がこの世界を作ったのか……」
「ええ。ねぇ、もう一度世界を創造することを試してみない?私たちなら、また一緒に出来るでしょう?呪われた世界ではなくて、今度こそ世界は成功するはずよ……今度こそ……」
その瞬間、マリアの瞳は濁っていった。マリアは僕に縋り付いてくる。
「お願い!私にまたチャンスを頂戴!私ならできるわ!私ならできる!絶対に出来るから!!!お願いよ!!!ルシファー!!!」
「……駄目だ。もう……もう出来ない」
「何で?何で出来ないの?どうして?私は……私はまたやりたい。世界を作ってみたい。何で作っちゃ駄目なの?どうして?ねぇ……貴方は……私の犬でしょう?」
その瞬間マリアは豹変して、狐のような表情になった。僕は驚いて彼女から咄嗟に離れる。彼女の手からは血がぽたぽたと流れ落ちており、顔は獣のように豹変していた。
「ねぇ……私の王子様……ねぇ……お願いよ……お願い……チャンスを頂戴……お願いよ……」
「マリア……」
「また私を捨てるのね。私を貴方は捨てるのね……そう!貴方は結局創造主様の味方ね!私の方が上だって創造主様が言った時、あんなにも貴方は私に嫉妬していたのに……ふふ、貴方は本当におバカさんよね……」
「……マリア。もうやめにしよう。こんなことを続けていても無意味だ……」
僕はマリアに歩み寄った。マリアの言葉は全て罠だとルシファーから聞いた。マリアは再び僕に甘い罠で誘おうとしてきている。
天界でのことは完全に思い出せないが、僕が彼女の誘いに乗ったことも事実だ。恐らく僕はずっとそのことを後悔した。僕は……エバと作った小さな世界が、ここまで大きな事態になるとは思ってはいなかったのだ。この世界は罪の象徴となってしまった。
「……そうか……世界を作ることは禁忌だった。僕は禁忌にエバと触れた。禁断の果実を食べたんだ。エバと共に……ルシファー……いや、創造主よ……僕は……ここまでの罪を犯しておきながら、何故まだここに居るのですか?」
僕はマリアの背後に向かって呟いた。マリアは狐のような顔のままで後ろを振り返ると、そこにはいつもの僕の姿をしたルシファーが佇んでいた。ルシファーは僕の方を見て、ニッコリと笑ってきた。
「君は……君は世界を創造することが、「罪」だと思い込んだんだ。僕はこうなることが分かっていたからね」
「貴方はこのことすらも分かっていたというのか!?」
「うん。全て分かっていた。君たちが隠れてこっそり何かをやっていることも気づいていた。一度君は暴れてこの世界を壊そうとしたんだ。だから僕は……鏡の世界を組み立て直すことを提案した。種族を人間だけにして、君の求めていた答えを探そうよって。同時にそれは僕が答えを求めていたことでもあるんだから」
ルシファーがマリアに触れると、マリアは黒い煙になって消えてしまった。ルシファーはマリアのことを寂しそうに見つめる。
「エバ。彼女は……最初の彼女はいなくなってはいない。ただ今は……呪いにやられているだけなんだよ。大丈夫。君は本来の彼女を取り戻せるさ……」
「……エバは“マリア”だったのか……」
「彼女は、この世界の女神だからね。女神マリアがこの世界を君と作った……最初は君たちも遊び心で作っていたのさ。この世界をね……言っただろう?本質は皆子供だって。ただ楽しいことをしたかっただけなんだよ。でも……君は世界を創造したことによって、迷ってしまった」
ルシファーは一歩前に足を進める。マリアはルシファーの方を見つめて、苦々し気に吐き捨てた。
「……そう。主は相変わらずルシファーの味方ね。いつもそうなんだから……いつまで茶番劇を続けるつもりなの?私の方が天使よりも上だって天使たちに伝えて、わざとルシファーを私に向かせて……貴方は何がしたいのよ!!!」
「エバ。落ち着いてくれ。僕は君にも……」
「落ち着けないわよ!何なのよ!本当に貴方は何がしたいの!?私を操っている気持ちかしら?それこそ操りの首飾りでね!!!」
マリアは何処から取り出したのか、「操りの首飾り」を手に持った。ルシファーはそれを冷静に見つめている。
「あら、驚いた?この首飾りがこんな場所にあるから驚いたの?ねぇこの首飾りのことをどう思う?ふふ……」
「エバ……君は迷っているだけだよ。そんな首飾りは幻さ。存在すらしていない……おとぎ話なんだ。君はずっとその首飾りを……僕にかけたがっていたね」
ルシファーは小さく呟くと、マリアは高笑いをし始めた。僕は驚いてマリアを見つめたが、マリアはひとしきり笑ったあと、大きくため息をつく。
「ええ、そうよ。私は……貴方を操りたかった!ずっと貴方に……私を見て欲しかった!結局天使の方が好きなんでしょう?分かっていた……気づいていた……私はどうしようもなく、天使より劣っている存在だということを……」
「エバ。君のことを愛している。どれだけ君にこのことを伝えただろう……それは数千年にも及んだのかもしれない。でも君は他人ばかり見つめて、君自身を見つめてこなかった……僕はずっと君の中にいる僕を見つけて欲しかったんだ……」
「またその話?もううんざりよ!本当にうんざり!うんざりよ!もう聞きたくない!何も聞きたくない!!!いい加減、私の思い通りに動いてよ!私だけをみてよ!!!どいつこもこいつもうんざりよ!天使が何よ!人間が何よ!創造主が何よ!!!私は……私の居場所は何処にもない……」
マリアは首飾りを落とした。首飾りは地面に落ちて、ルシファーはそっと首飾りを拾った。
ルシファーは微笑んでいる。
「いいかい、こんな首飾りは幻なんだ。おとぎ話なんだ……操る必要なんてない。僕はこんなにも君を愛しているのに、何故君は僕を操る必要があると思うんだい?」
「……私は……分からないわ……もう分からないの。ずっと地上で迷い続けたわ。“誰か”を求めて……その誰かを思い出すことが出来ずに私は迷い続けていた。ねぇ、創造主様……もう私を終わらせてよ……ねぇ、ルシファー……私はもう疲れたわ……だから……もう……」
マリアは地面に崩れ落ちるように座り込んでしまった。マリアはただ泣いていた。僕がマリアの傍に行くと、マリアは僕を憎々し気に睨んだ。
「そうよ!貴方がいなければ!!!貴方がいたから!!!貴方がずっと創造主の傍に居たからよ!!!」
「……マリア」
「……どうして主は私を見てくれないの?私はこんなにも愛しているのに……この世界でルシファーを奴隷にしてやった時、ついに私は天使を陥れたと思ったわ……でも今回も駄目だった……今回も主の勝ちよ。ええ、そうね。主は私を嘲笑ったのでしょうね。こんな醜い私を……」
「……マリア、君は迷っているだけだ。僕と同じように、この世界で迷ってしまった。創造主の言葉が聞こえなくなってしまった……ずっと創造主は君のことを愛していると伝えているのに」
マリアは僕の言葉を聞いた途端、ハッとしたような表情をして僕を見つめた。マリアは首を傾げる。
「愛しているですって?何を言ってるの?主はいつも私に言うじゃない。「お前は醜い」「天使の方が美しい」「ルシファーや天使だけを愛している」「女は醜い」女は……」
「……っそんなこと主は一言も言ってない!!!一体貴方は誰の言葉を聞いているんだ!?」
「私?私は創造主の話を聞いているわよ……ずっと私の心に居るじゃない……創造主の言う通り、私の心に創造主を見つけたわよ……うふふ……私の心の神様はそう言うじゃない……」
マリアは不気味に笑ったまま、自身の頭を大事にそうに触る。
「……ここにいるわ……ここにいるもの……ねぇ創造主様……分かっているわよ……私、ずっと分かっているから……」
僕は助けを求めるようにルシファーの方を見ると、ルシファーは寂しげに微笑んだまま、首を横に振った。
「ずっと……マリアは迷っているんだ。マリアの中に居る、幻の神様に対して祈っている。僕はずっと目の前に居るのに……マリアは永遠に迷ってしまった」
「……永遠に?」
「うん。永遠に……天界はね、楽しい所だったんだよ。でも……天使が迷った時に、人間もまた迷ってしまった……迷ったのは彼女さ……エバなんだ。一番仲良かった君に彼女は助けを求めたんだ。君は彼女を愛していたから、同情心で助けてやろうとした。彼女は無条件に自分を愛してくれる存在が欲しかったんだ。だから……彼女は仮初めの世界を作ることを思いついた。禁断の樹に君たちは触れた……僕はこうなることが分かっていた。完璧な世界を作るまでに、闇を受け入れる世界が出来ることが分かっていた」
ルシファーは座り込んだマリアの目の前まで行くと、屈む。マリアに向かって手を差し伸べたが、マリアは創造主の手を取ろうとはしなかった。ただ涙を流して、苦しそうに息を吐き出した。
「もういいの……私は、貴方に忘れられてもいいのよ……さようなら……」
マリアは微笑んで、煙になって消えて行った。僕は目を見開くと、ルシファーは悲しそうな表情を見せた。
「全て分かっていたことだった……この世界が出来ることは、全て僕の計画の上だった……でもね、僕は……本当は彼女をここまで迷わせるつもりはなかったんだ……幾千年も……数えきれないほどに……彼女は迷ってしまった……彼女の思いは女性たちに広がり、女性たちは数多く迷ってしまった……僕の責任なんだ……」
「…………」
「彼女自身も止められなかったのだろう。その寂しさが何処から来ているのか忘れてしまうほどに……彼女は記憶を失い、いつも僕を求めて続けていた。僕は分かっていたよ。ずっとここに居るよって伝えていたよ。でも……彼女に言葉は届かなかった。幻の首飾りが今も彼女を苦しめている。君自身の罪の証として。幻の罪の証として……」
ルシファーは僕に近づいて、僕の手を取った。ルシファーの表情は悲しそうに歪めており、いつもの笑顔ではなかった。
「……セリオン。君だからこそ彼女を解放できるんだ……もう僕には届かないところまで彼女は迷ってしまった。この世界だからこそ、君たちの繋がりは解放できる……この世界でしか無理なんだ……天界の方に彼女を引き戻すことはできなかった。だから……この世界で最後に終わらせよう。僕と君で……最後に……」
「僕は……僕はマリア……いや、エバに騙されて彼女を憎んでしまったのか?」
「……いいや。君も彼女を愛しているんだよ。僕と同じようにね……君も彼女をずっと天界で見守っていたんだから。その憎しみは幻だよ。ありもしない罪を抱えて君が迷った象徴として君の中に渦巻いている……君とエバがどういう関係であれ、僕は全て分かっていた。天使と人間に自由意志をつけたのは僕なんだから、僕は何でも見守るつもりだったよ。彼女が闇を抱えてしまうことも分かっていた……エバは彼女自身が抱えた闇を「美しくないもの」と思い込んでしまった……ずっと僕は分かっていたのにね」
ルシファーは小さく呟くと、僕の手を取った。ルシファーはフッと微笑む。
「彼女の闇はとても美しいよ……でも彼女にはそれが理解できなかった……自分の中に沸き上がってしまった闇を隠してしまおうとした……だから光の存在である君に助けを求めた……彼女は今も君に助けを求めているんだ」
「……奴隷にするほど、僕を憎んでいたのにか?」
「いいや、憎んだのは君に対してじゃない。彼女が憎んでいるのは……僕にだよ。僕を憎んでしまったんだ。彼女はその思いが辛かった。何とかしてほしかった。彼女の中に沸き上がった「嫉妬」をどうすることもできなかった。彼女は何処にも居場所がないと思い込んでしまった……」
ルシファーは目を伏せたまま、口を噤んでしまった。僕がルシファーの手を強く握り返すと、ルシファー顔を上げた。
「……ルシファー……分かった。これは僕にしかできないことなんだな……僕が彼女に力を貸したのは事実なんだろう。僕は彼女に力を貸したことを悪いことだと思い込んだ……そういうことか?」
「力を貸した……そうだね……それよりも君は、彼女を愛してしまったことに対して、思ったかなあ……」
「何だって?」
「君は彼女を愛したんだ。その愛が悪いことだと思い込んだ……君は彼女を愛していたから、世界を創造した。そのすべての流れが罪と思い込んだのさ……「天使と人間の叶わない愛」の舞台の完成かな……」
ルシファーはフッと笑顔を見せてから、僕をそっと抱きしめてきた。
「大丈夫。そんな舞台すらも幻だよ。君たちが作ってしまったね……最初から何もないんだから……さぁ、元の世界に戻る時が来たよ」
「……待ってくれ、僕は全てを思い出したわけじゃない……もう少し見せてくれないのか?」
「後は君がやることさ。最後に……全てを思い出すだろう。僕がずっと着いているから、君は大丈夫だよ。さぁ戻ろうよ」
ルシファーは指をパチンと鳴らした。その瞬間に世界は光り輝き出し、何も見えなくなっていった。
***
目が覚めると、元のクロードの屋敷の部屋で、ルシファーが僕を見下ろしていた。ルシファーの翼はいつの間にか元通り美しい白い翼になっており、僕を見るなりニッコリと笑ってきた。
「やぁ、おかえり。どうだった?」
「どうも何も……訳が分からない。マリアはエバだった……エバは今首飾りの呪いで、獣に変わってしまっている……一体何が起きてるんだ?」
「はは、今はマリアがエバだったという記憶だけで十分さ。これから全て分かるから……あれから一晩が経った。今は皆外に出て行って、昨日の騒動の後始末をしているよ。屋敷が酷いことになってしまったからね」
「……そうだ、アーデルは……アーデルを早く助けないと!!!」
「そうだね。実はカーティスから話があるんだ。それを聞いてから考えよう。アーデルは大丈夫。殺されることはないよ。彼女はただクロードをおびき出すために連れ去られてしまった。どうしてもアベルはカインに気づいてもらいたいようだ」
「……兄弟喧嘩も行き過ぎると、酷いな」
「はは、兄弟喧嘩も最初は可愛い物だったんだよ。でも、迷ううちにお互い訳が分からなくなってしまった。この世界の人間達もそんな感じでいつも迷っているからね。よし、カーティスを呼ぶね」
ルシファーが指笛を吹くと、少し経ってから部屋の扉が開いた。カーティスがクロードと一緒に入って来る。クロードの表情は曇っていた。
カーティスは僕たちを見るなり、笑顔になる。
「ほっほ!無事に目を覚ましたようだね。顔色も大分良くなったようだ。これから朝食が運ばれてくるからの」
カーティスは僕の傍の椅子に腰かけると、笑顔のまま見てくる。僕が軽く会釈していると、クロードは大きく咳払いした。
「……昨日のことについてはすまなかった……私は君を疑ってしまった」
「いや、別にもういいですよ……それより貴方の方が大丈夫ですか?弟があのような事態になってしまって」
「ああ、そうだな……それについては私の弟、ルーベンについて話す必要があるだろう。君が眠っている間に、他の者には軽く話したのだが、改めて話して行こう。アーデル嬢を一刻も早く助けなければならない。だがそのためには情報整理が必要だという話に私たちでなったのだ」
クロードはカーティスの方を少し見てから、僕の方に向き直る。カーティスは「ほっほっ」と笑い声を立ててクロードをたしなめた。
「まぁ待ちなさい。今から朝食が来るのだから、食べて貰ってからでもいいだろう。セリオン君は深い傷を負い、目覚めたばかりなのだぞ」
「しかし、アーデル嬢が!!!」
「分かっておる。分かっているからこそ、慎重な行動が必要だと伝えているんだ。いいかね?」
「……っ承知致しました……」
カーティスの言葉にクロードは姿勢を正すと、心を落ちつけようとして、軽く深呼吸をし始める。少し経ってから扉が開いて召使の男が入って来た。
「失礼致します。朝食をお持ち致しました」
召使は近くのテーブルに朝食を置くと、礼をしてから出て行った。カーティスは僕の方を見て、笑顔を見せる。
「さぁ食べなさい。何も食べていないだろうからね」
「……ありがとうございます」
僕は軽く礼をしてから、朝食を食べ始める。僕が食べ始めると、クロードだけ「用がある」と言って、一旦部屋を出て行った。
昨日の傷口を見てみたが、綺麗に包帯が変えられており手当てし直されていた。僕の眠っている間に医者が来たのだろう。
朝食を食べて少し経ってから扉が突然開く。エダンとレオとジャックが中に入って来て、レオは僕の方に早足で歩いてきた。
「……っおい、調子はどうだ?」
「ああ。大分良くなった」
「……そうか。昨日の夜、お前はかなりの熱を出してたんだ。一時期はまずかった。ルシファーが大丈夫って言ってきたが、俺は心配していた……」
「そうなのか?心配かけて悪かったな。とりあえずは大丈夫だ。痛みも引いている」
「それは痛み止めを処方されたからだろう。くれぐれも無理はするなって、来た医者が言っていた。だから気をつけろよ」
レオは心配そうに僕を見つめてくる。レオには心配かけてしまったらしい。エダンとジャックは心配どころか、いつもの調子で笑顔だが。
レオは獣の夢の時の関係こそ微妙ではあったが、今となっては良い友になれたのだろう。
僕は笑顔でレオをの方を見る。
「……ありがとう。お前をこんなことに巻き込んですまなかったな。お前は直ぐに船に乗れたのに」
「いや、俺がお前に着いていくのを決めた。最後まで着いて行こう。俺はお前に恩がある……感謝しているんだ……あまり無理はするなよ」
「はは、そうだな。もっとお前と……早く出会えていたら良かったかもな」
「……それはどういう意味だ?」
レオは怪訝そうに僕を見る。僕は食事をする手を止めて、ルシファーの方を見つめる。ルシファーが頷いたため、僕は口を開いた。
「お前に話していなかったことがあった……エダンは多分知っているだろうが、ジャックにも」
エダンとジャックはその言葉で僕の方を見てくる。僕はレオの方に目線を合わせた。
「すまない。レオ、ジャック。伝えるのが遅れたな……」
「何なんだ?」
「いや……実は天界に戻ったら……僕とルシファー、つまり僕と創造主は一体になるんだ。つまり一つに戻るってわけだな……いや、創造主としては何も変わらないんだ。ただ……僕は創造主に統合される。だから今のように僕とは話せなくなるだろう」
「……何?」
レオは眉を顰めてから僕を見つめる。ジャックは驚いたように僕を見てきたが、エダンはやはり知っているのだろう。いつもの顔のままだ。僕はフッと笑みを見せておく。
「詳しい説明をレオにはまだしていなかったな。創造主はルシファーではない。僕が天界での天使「ルシファー」だ。神話の話は知っているか?天使ルシファーは堕天使になったとされている。僕はこの世界で迷ってしまい、その間天界の方のルシファーが居なくなった。だから創造主が僕の代わりに、「ルシファー役」を天界でやっていたんだ……僕はこの世界で役目を果たして、皆を船に乗せて出航した後に創造主と一つになることが決まっている。その時、僕個人の意識はなくなるだろう。いや元に戻るだけだから、さほど変わらないとは思う」
「……つまり、お前とは……話せなくなるのか?」
「ああ。まぁ、元に戻るだけだ……別れという訳ではない。そこからやっと始まるんだ」
レオの方を見ると、レオは目を見開いたまま何も言わなかった。ジャックは「何だって!?」と大げさに驚いていたが、レオは口を噤んでしまった後に小さく「……んだよ」と呟く。
「……レオ?」
「……何だよ……そんなこと一言も言ってなかったじゃないか!何で早く教えてくれないんだ!?」
「……え、いや……」
「もっと早く教えてくれたっていいだろ!?船で元の場所に戻ったら、もっとお前と話せるって思ってたのに、何だよこの仕打ちは!!!ふざけんなよ!!!」
レオが突然怒り出したため、僕が目を見開いていると、ルシファーは僕たちに近づいてから、レオの肩に手を置いた。
「まぁレオ。落ち着きなよ。今とさほど変わらないから大丈夫だ。セリオンに話したいことは僕に話してくれればいいさ」
「……っそういうことじゃない、それじゃあ駄目だろ……ルシファー、何で……何でそうしなきゃならないんだ!?別に今のままでもいいだろ!」
「このことはセリオンと事前に決めてから、この世界に来ていたんだ。最初から決まっていたんだよ。こうなることはね……セリオンが消えるわけではない。いつでも君はセリオンとも話せるんだよ」
「……違うだろ。どう考えても……」
「この世界では分離することが普通だから、まるでこのことが悲しいお別れのように感じるかもしれないけれど、人は本来皆一体だったんだ。創造主の僕と君も一体さ。楽園に戻ったら君もその意味が分かるだろう。今君は忘れてしまっているだけだからね」
「…………」
レオはルシファーの言葉を聞くと、黙ってしまった。僕は場の収集をつけようと大きく咳を零す。
「……ごほっ。レオ、あまり気落ちしないでくれ。楽園は恐らく……この世界とは全く別の場所だ。このことを、この世界の価値観で考えない方がいいだろう。この世界には法則だかがあったと思うが、楽園にはないだろう。ただでさえこの世界も本来は何でもありの世界だったんだ……楽園の方は、更に決まった形がない。僕たちの姿も決まった形に定まることはないだろう」
「楽園のことは何も知らねえよ。ただ……お前ともっと話したかっただけだ」
「……僕もだ。楽園に戻ったら創造主を通してまた僕と話せばいい。今とさほど変わらないさ」
僕が笑顔をレオに見せるとレオはようやく、ふてくされた表情ではあったが頷いた。
それから少し経って朝食も食べ終わり、カーティスが用意してくれた動きやすい恰好に僕たち全員が着替え終わったタイミングで、クロードが再び部屋に入って来た。
カーティスはクロードを見て「今から話始めようと思っていたのだよ」と笑顔を見せる。
クロードを含めた僕たちは部屋のソファにそれぞれ座ると、ルシファーが話し始めた。
「さぁ始めようか。カーティス、よろしく頼むよ」
「……クロード。ルーベンについて話してくれ」
「……はい」
クロードは直ぐに返事をすると、僕たちの方をジッと見つめる。軽く咳払いをした後に、話し始めた。
「まず、私の弟はルーベン・ベアリングという名だ……昨日の男がそうだ。声で気づくべきだったが、何しろ髪色も雰囲気も全て変わっていたのだ。顔を見るまで気づかなかった……昔ルーベンと屋敷に共に暮らしていたのだが、弟が15歳の時、弟は行方不明になってしまった。ある日突然だった……弟は大人しい性格でな。弟とはベアリング一家として形式上の交流はあった。仲が良いとは言えないが、決して悪かったわけではない。だから彼が居なくなる理由は全く思いつかなかった……」
そこでクロードは一息ついてから、僕たちを見つめる。クロードは首を横に振ってため息をついた。
「ルーベンを見つけるために、ベアリング一家で必死に捜索したが見つけられなかった。誘拐事件と思ったんだが、足取りがつかめない。二年経ち諦めていたころ、一通の手紙が私宛に届いたんだ。行方不明になっていた、ルーベンからだった。直ぐに開けると、内容がこう書かれていた。『私は本当の居場所を見つけた。一般の貴族達には考えられない世界に行った。もう探さなくていい。私はとある商売をしている。もう屋敷には戻ることはないだろう』と……」
クロードは苦々し気な表情をしてから、両手を強く握りしめた。
「直ぐに手紙の出所を調べた。当然弟に会いたかったからな……何とか足取りを掴めて、私が手配していた探偵はルーベンを見つけた。探偵は私に、ルーベンが怪しげな男達と一緒に居たと伝えてきた。怪しげな男達は、沢山の奴隷たちを連れていたとな。探偵は、商売人の男が奴隷を馬車に乗せるタイミングを見たのだ。探偵が言うには、私の弟は奴隷商売の男達と親し気に話していたと」
「何だって?」
咄嗟に僕が聞き返すと、クロードは僕の方を見たまま眉を顰めた。
「到底信じられなかった……それからは徹底的に弟の行方を追った。探偵も弟を見つけた時は危険だと感じ直ぐに戻ってきたからな。私が直接捜査することにしたのだ……だが、弟を見つける寸前でいつも弟は居なくなってしまう。掴もうとすればすり抜けていく……弟は首謀者に騙されていると信じたかった。弟を忌々しい商売の場所から救い出したかった……君もよく知っているだろう。私が奴隷商売の首謀者を探していたのは」
「……知っています。僕を助けてくれた時に聞きましたから」
「私の一家はずっと弟の行方を追っていた。だが、ある日の調査で分かってしまったのだ。いつの日か弟が奴隷商売の「首謀者そのもの」になっていたことが……それでも、弟は誰かに操られていると信じたかった。君を助けたあの日は、弟を探すために最後の作戦を決行した日だった。弟と決着をつけようとしたのだ……だがその作戦すらも君が知るように、失敗に終わった」
クロードは目を伏せた。自分の弟が奴隷商売の首謀者になったとすれば、相当なショックだったに違いない。クロードは苦々し気な表情のまま、肩を震わせた。
「それから奴隷商売の行く手の足取りは全く掴めなくなってしまった。私の潜入に気づいた弟が徹底して身を隠してしまったのだ。だが諦めるわけにはいかなかった。裏から奴隷商売への手配をし、何度も見つけようとしたが……全ては無駄に終わった。そして……今……たった今弟を見つけたのだ……あのような変わり果てた姿で……」
クロードは自身の膝の上で両手の拳を強く握りしめた。唇を噛みしめたまま、強く吐き捨てる。
「私の弟は……弟は本来あのような性格ではない!!!ルーベンはとても勤勉で、大人しかったんだ。あのような姿になり、奴隷商売の首謀者をやっていることなど到底信じられはしない!だが……だが!何故だ!何故なんだ!!!弟のあの強大な力は何なんだ!?訳が分からない……弟は力によって狂ってしまったと言うのか!?」
クロードは次第に息を荒げ始めると、横に居たカーティスがクロードの肩にそっと手を置く。
「落ち着きなさい。今こそ、冷静になる時なのだよ」
「……っしかし……弟はあのような恐ろしい犯罪者になったのですよ!ベアリング家から犯罪者が出てしまったのです。そんなあり得ないことが……私は弟を……弟を罰せねばならない!!!一刻も早く!!!」
「……罰するとは具体的に何をするつもりかね?」
「……それは……この国の法によって罰します。それがベアリング一家の長男である私の役目です。罰する内容が、例えどんな方法であろうと……必ずあの男を罰して見せます」
クロードの方を見ると、クロードの瞳は闇に満ちていた。この世界の価値観の「正しさ」で纏った仮面が一向に剥がれ落ちずにクロードに纏わりついている。
黒い煙がはっきりとクロードの周りに見えた。以前夢で見たマリアを殺した時の僕のように……黒い煙がクロードの身体に食い込むように周りを漂っている。
そうか……クロードは再びアベルを殺そうとしている。この世界の幻の価値観で、この世界にとって「正しい方法」で、カインの正義感によってアベルを罰しようとしているのだ。
一見クロードの意見が真っ当に見えるだろう。だが今回は逆だ。アベルはカインに気づいてもらいたいだけだ。そんな「正義感」は全て幻だと……
この世界でしか、クロード自身の魂に響かせることはできないのだろう。
僕はルシファーの方を見ると、ルシファーは「シーっ」と人差し指を立てた。
「セリオン。このことは内緒だ。カーティスはわざと今、クロードに問いかけているんだよ」
ルシファーの言葉に返事の代わりに僕は頷く。クロードには今、ルシファーの姿は見えない。ルシファーの声も聞こえない。いや……聞こえない場所にまでクロードは行ってしまったのだ。強い正義感によって、彼は知らないうちに神を拒絶している。
例え創造主の正体が、狂気も司るおどけた創造主だと知っても、クロードは受け入れないだろう。一向にクロードは正義感を崩すつもりはない。
「神の道具」にまでなりたいと神を信仰していたクロードが、何とも皮肉なことだ。
カーティスはクロードの方をジッと見つめてから、優し気に話していく。
「ほう……つまり君が話す「罰する」とは、殺すと言うことかい?」
「……っそこまでは……考えてはいませんでした。ですが、説得で応じないならやむを得ない。覚悟の上で執り行いましょう。何故今更こんな分かり切ったことを聞くのですか?貴方もずっと、ルーベンを気に病んでいましたよね。彼をどうにか救い出すために奴隷商売人を追っていましたが……もう遅いことは昨日のことで十分分かりました」
「……そうかね。説得で応じないなら殺しても構わないということだね?彼は大罪を犯してしまったのだから」
「はい。その通りです。最初に気づくべきでした……彼はもう貴族ではありません。我々の一家の一員でもありません。ですが……まだ弟であることには変わりません。兄として最良の道を示してあげることが最後にできることなのでしょう」
クロードははっきりと話した。カーティスは目を細めてクロードを見たが、もう何も言わなかった。カーティスはフッと笑顔になってから僕たちの方を見る。
「これで分かったかね?私たちは私の家族の一員を……どうにかして止めなければならない。セリオン君、ご令嬢を巻き込むような形になってしまって申し訳なかった……私の孫はどうやら狂気に染まってしまったようだ」
「……貴方はこれでいいのですか?」
「今はクロードの結論に同意するしかないのだろう」
カーティスはジッと僕を見てくる。そうか。カーティスは全て分かっていると言っていた。今言っていることもわざとなのだろう。僕が頷くと、クロードは焦ったように話し出す。
「アーデル嬢を一刻も早く救い出さなければなりません。ルーベンは何処に行ってしまったのですか?全て分かっていると聞きましたが」
「特別な追跡を彼に着かせたからね……彼は今奴隷商売の本拠地に向かったと話があったよ。これで隠していた真実が明らかになるだろう。例えどんな形であれ……」
「お待ちください……特別な追跡とは誰なのですか?」
「ほっほ!内緒だよ!鳥のように高い目で見ることが出来る奴だからの。素早いことで有名な奴なのだよ」
「そんな特別な方がいらしたのですね……今すぐにでも向かいたいところですが、奴隷商売の本拠地に入るのでしたら、部隊と武器が必要です。私は一旦席を外して私の部隊に話してきます。直ぐに戻ります」
クロードは慌てて立ち上がって、そのまま部屋を足早に出て行った。カーティスは僕の方に顔を向けた。
「クロードが部隊を用意してくれるようだ。奴隷商売の本拠地は大変危険だ。近くに着いたら馬を降りて慎重に潜入せねばならない。セリオン君。戦えない者を連れていくのは危険かもしれない。大丈夫かね?」
カーティスはレオとジャックの方を見てから僕に話してくる。僕は直ぐに頷いた。
「大丈夫です。僕が守りますから……それにルシファーもついているんです」
「ほっほ!そうだったの。創造主を味方にするのは心強いだろう」
「そうですね……僕はルシファーに頼ってばかりです」
僕が呟くと、ルシファーはフッと笑ってから僕の隣に座って来た。ルシファーは両足をぶらぶらさせながら話してくる。
「大丈夫。いつでも僕に頼ってくれ。僕はいつでも君の傍に居るんだからさ。あの獣が特殊だっただけで君はとても強いんだよ。だから皆を守ることだってできるさ」
「……分かった。奴隷商売の本拠地に入るために作戦とかって練らないと駄目だよな?」
「はは、作戦なんていらないよ。僕は全部分かるんだからさ。今までは、アベルが無理やり隠していたところもあるけどね。彼は天界の力を使いすぎたのさ。首飾りに込められた君の力を借りることが彼の負担になった。彼が必死に隠していた場所は、めっきが剥がれ落ちるように暴かれている。潜入は簡単だろうね。問題は入ってからだけど」
ルシファーは僕の方を見てから、珍しく今まで黙っていたエダンの方を見る。
「エダン。君の力も必要だよ。君はとても強い光だからね。敵の本拠地は、かなりの罠が仕掛けられている。協力してくれるかい?」
「おおっ!?勿論だぞ!エダン様の筋肉と魅力で、敵と対決すればいいんだな!?」
「うん、その通りだ。そしてレオとジャック。くれぐれも僕とセリオンからは離れないでくれ。一歩踏み外せば、真っ逆さまだからね」
「そうなんっすか!?危ない場所なんっすね……」
「あ、ああ……分かった」
三人はルシファーの言葉に頷くと、ルシファーはカーティスの方を見てから話し始める。
「カーティス。敵の本拠地はどんな感じだ?黒いもやはとれたかな?」
「はい。今私の分霊が飛び回って見ていますが、もう奴隷商売人の本拠地は、我々から隠しきれなくなっています」
「よし、それじゃあ地図と行こうか!」
ルシファーは指をパチンと鳴らしてから、巻物を取り出す。巻物には紐がついていて簡単に紐を解くと、中身は地図が描かれていた。ルシファーは地図の下の方にある、二つの道を指差した。
「さて、これは特別な地図だ。僕たちはクロードの部隊とは別の道を進んでいこう。奴隷商売人の本拠地に入ったら二つに道が分かれている。僕たちは簡単な方を進み、クロードは入り組んだ場所を進むだろう。わざとそうさせるんだけどね」
「わざとクロードを別の道に行かせるのか?一体何のために?クロードと一緒に居た方が良くないか?クロードは戦力にはなるだろう」
「彼がその道の過程で少しでも気づくことが出来るためにだよ。難しい道は彼の価値観を壊していくだろう。謎解きや、色んな事がいっぱいの道なんだ」
「待て……まさか奴隷商売の本拠地にまで、貴方が関わっているってことはないよな?」
僕がルシファーを見ると、ルシファーはけらけらと可笑しそうに笑い出した。
「ははは!関わるね……面白いね。彼らは僕とは別の派閥だけど、今はもうズタボロさ!本来難しい道の方は「死への道」だったんだけど、僕が今介入してクロードのために「謎解きの道」に変えてあげたんだ。死の道なんかより、もっと楽しい道に変わっているよ。そして僕たちが進むのは、アベルが作った道だ。その道はアベルが配置した罠がいっぱいだ。クロードにとってはアベルの道の方が難しいだろうから、これで良い配分になったよね」
「つまりクロードは意図せず貴方の道を進んで、僕たちはアベルの道を進むのか?」
「そうだ。僕たちがアベルの道を進むことによって、彼に介入できるだろう。クロードがゴールに辿り着くのは、僕たちより遅れるよ。僕の道が“楽しすぎて”ね。僕たちの方が早くゴールに着くだろう。そこにアーデルが囚われているから……後はセリオン。君の出番だ」
ルシファーはニッコリと笑って僕を見てきて、僕は深く頷いた。
「……分かった。アーデルを助け出そう。そして……マリアの呪いを解くんだ。あの獣と決着をつけないとならない」
「そうだね。僕がずっとついているよ。そうだ!特別に僕がクロードに用意してあげた、奴隷本拠地にある「謎解きの道」を見せてあげようか?その道は僕の管轄にしてあげたからね。もう見るのは自由なんだ」
ルシファーが指をパチンと鳴らすと、突然空中に明るいパステルカラーの一本道が映る。軽快なピアノの音楽が何処からか流れてきて、映し出された道には人形たちが曲に合わせて踊っていた。人形たちは楽しそうに「謎を解こう!僕と一緒に謎を解こう!」と話している。楽しそうな部屋に一見見えるが、上からは沢山の槍が降ってきたり、大きな歯車が転がっていたりとめちゃくちゃな部屋だった。ルシファーは楽しそうに部屋を見つめる。
「うーん、美しいよね。ここは僕の道だから、最高に面白くなること間違いなしさ!クロードに早く楽しんで貰いたいな」
「……僕はこっちの道じゃなくて心底良かったと思ったよ」
「ええ?何でだい?最高に面白いよ?他にも色んな仕掛けがあるんだよ。「炎の池」だったり、「稲妻が光る道」、「横から大きなクマさんが登場だ!」「女の子とお喋りしてみよう!」「進め!進め!進まないと落っこちるぞ!」と色んな舞台が盛りだくさん。最高のステージを作ったんだよ」
「だからだよ!!!どう考えてもやばそうじゃないか!アベルの道がなかったから、まさか僕たちもルシファーの道に行かせるつもりだったな?」
「ははは!そりゃ勿論!今回はたまたま二つに分かれていたから、丁度いいと思って「死の道」の方に介入させて貰ったよ。クロードは僕のことを忘れているから僕の道に行く必要があるけど、僕たちは、用意された道をわざと進むのもいいかなって」
ルシファーはうんうんと頷きながら話し出す。僕は首を静かに横に振ってから、ため息をついた。
「貴方の道は大体想像つく。アベルの道よりもまずいってことはな」
「そりゃあね。アベルの道はエゴとして仕掛けた罠ばかりだけど、そんなこと僕の前には全て幻になっちゃうからね。暇になるだろうから、休憩するときにクロードの様子を見てみようよ。きっと面白いことになってるよ?」
「……待て。僕たちは楽しむために奴隷商売の本拠地に行くのではなく、アーデルを助けるためと呪いを解くために行くってことを覚えているよな?」
「勿論さ!でも、どんな時でも楽しまなきゃ。さぁこの地図をじっくり見ていたらいい。クロードが来るまでの間はさ」
ルシファーに地図を手渡されて地図を見てみると、「アベルの道」と書かれた方は丁寧に真っ直ぐに線が引かれた道が書かれていたが、「僕の道」と書かれた方は子供の落書きのようにクマの絵が所々に描かれた道だった。
「ここでガオー!クマさんだ!」「槍がいっぱいだ!いてて!」などふざけた言葉書かれている。他にも「炎の中でスープになっちゃうぞ?」「稲妻に当たるな!当たったらいててて!」と不吉な文章が書かれていた。
(絶対こっちの道には行きたくないな……)
ルシファーの道の奥の方には行き止まりでドクロマークが書かれていたが、ドクロの上から雑にバッテンが書かれて消されており、新しい道が伸ばされるように書かれていた。
最終的にアベルの道も、ルシファーの道も同じ場所に到達するようではあったが、ルシファーの道はあまりに過酷すぎるような気がしてならない。
僕が地図を見ていると、レオも地図を覗いてきて、「げっ」と声に出す。
「セリオン、絶対ルシファーの道はやばいだろ……」
「そうだな……僕は絶対にこの道は行きたくない」
「俺もだ。お前に言われて水たまりに入った時、最終的に助かることは助かったが、本気で溺れて死にそうになったんだ……あの時はまずかった。もう経験したくない苦しさだ。あれは……」
「まぁ……この場合夢の中に埋没するか、埋没はしないがもれなく苦しむかの二択だろうからな。僕もルシファーに拷問を受けている。お互い大変だったな」
「はぁ?拷問だって?」
「はは……まぁちょっと水に由来する拷問だな……ごほっごほっ……まずい、思い出したら息が苦しくなってきた」
水拷問を思い出したからか、苦しくなってきて咳をしていると、ルシファーは「大丈夫かい?」と僕の背中を撫でてくる。拷問してきた張本人に優しくされてもあまり嬉しくはないが、僕は半笑いで「大丈夫だ」と返事をしておいた。




