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悲劇のパラノイア  作者: エデン
第1章
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第2話 愛するマリアよ永遠に

―――少し昔の話です。夢を見て劇団に入ったばかりの若い男が居ました。来る日も来る日も男は劇団で働きっぱなし。舞台にすら上がらせてもらえずに毎日荷物運びをしていました。



俺は子供の頃に素晴らしい劇の公演を見てからというものも、ずっと役者になりたかった。

今か今かと待ち続けて、劇団に入る資格を持てる16歳になってこの劇団に入ってから、毎日毎日荷物運びしかしていない。

劇団の練習場で重い荷物を持ち上げて運んでいると、突然ドレス姿の女が視界に入った。


「……邪魔、どいて」


女が俺に向かって邪魔な犬を追い払うかのように、手をひらひらさせる。大人しく無言で横に移動すると女はフンと鼻を鳴らしたが、後ろに居る人物を見止めた途端、女は声色を変えて大きく手を振った。


「ダーリン!劇の練習とても疲れたでしょう?美味しい物持ってきたわ!」

「ああ、ナタリー……ここには来るなと言っただろう」


劇団内の役者グループのリーダーである男キーランはやれやれと頭を掻きながらナタリーに近づいてナタリーを抱きしめた。男はまんざらでもなさそうにナタリーの髪をなでる。


「さぁ美人さん。こっちに来るんだ」

「ねぇ、いつになったら練習風景を見せてくれるの?」


これ以上馬鹿な恋人たちの話を聞いていても仕方ないので、俺は気配を出さないようにその場を離れる。あの女のせいで中断されていたが、劇団にとって“大事な大事な”劇団で使う重い道具を運んでいたんだ。今の会話のせいで余計にやる気をなくしたが。


(一体いつ舞台に上がれるようになるんだ。毎日毎日荷物運びばかりじゃないか)


確かに最初は下っ端だという話は聞いていたものも、もう六か月も経つ。そろそろ脇役でもいいからやらせてくれたっていいだろう。数日前にそれとなくリーダー、キーランに話したが、笑顔で突っぱねられただけで終わった。


「お前が舞台に上がりたい?よし……セリオンいいか。荷物運びは大事な一歩だ。まずは俺たちの姿を見るんだ!じっくりと観察をしろ!そして自分の物にするんだ。分かったな?」


(劇団に入った当初もまるっきりお前は同じことを言っていたし、いつまで“大事な一歩”を続けりゃいいんだ。もう実質数万歩くらい歩いているだろ。このバカが)


数日前のことを思い出して再びイライラしてくる。一旦地面に置いておいた道具を持ち上げるところまで来てピタリと手を止める。周りに誰もいないことを確認して壁へ向くと、何度も何度も木造の壁に足蹴りを入れた。


(この………くそが!)


これはあのくそ女の分、これはくそ野郎リーダーの分、これは前に馬鹿にしてきた野郎の分。数えきれない程恨みはある。でも反論して口に出すことはできなかった。反論すれば劇団を辞めさせられる可能性もある。それに口喧嘩になって勝てる自信はあまりない。

最後の蹴りを入れようと足を振り上げると同時に、女の悲鳴が響き渡った。


「キャー!誰か来て!誰か!」


女の甲高い声を聞きつけてか、どこからやってきたのか劇団の男達が声のする方に走っていく。セリオンは振り上げたままの足をようやく元に戻して、悲鳴のした方へ走った。


悲鳴の元へ駆けつけると、上から落ちてきたのだろう、屋根らしき大きな木の板の下にリーダーキーランが倒れており、女が傍で狼狽えている。体制的に女を庇ったのだろう。頭と手だけは無事だが、足が完全に木の板の下にあった。


(まさか今の壁蹴りの振動で落ちたんじゃないよな……)


一瞬心配になったが、たかが人間の足蹴りくらいで屋根が崩れるなどはあり得ないだろうと冷静に分析する。そもそも蹴りを入れるのは苛ついた時にいつもやっていることだ。

思考しているうちに、周りの男たちはすでに動いており、板をどかそうとテキパキと指示を出していた。


「リーダー!大丈夫か!?……おい!そっちを持ってくれ!持ち上げるぞ!」

「よし!」


比較的劇団の中で体格の良い男達が勢ぞろいで大きな板を持ち上げようとする。倒れたキーランはうぅ……と唸り声を上げており、意識はあるようだ。男達数人の掛け声とともに、板は持ち上がり、別の男によってキーランは救出される。


「医者だ!医者を呼べ!」

「ダーリン!ねぇダーリン!目を覚ましてぇ!」

「医者を呼ぶより俺が背負った方が早い!医者の元へ行くぞ!」


現場はまさにパニック状態で、俺は何もできずに突っ立っていることしかできなかった。

救出されて医者の元に劇団の男に背負われて去っていくキーランと、大泣きしながら顔面ぐしゃぐしゃでそれに着いて行く女が居なくなると、シン……と静まる。

その場に居た男二人は顔を見合わせて話始める。


「……なぁ本番は明日だぞ?今日の劇場でのリハーサルはどうするんだ?リーダーが主役だっていうのによ。主役がいなけりゃ大事なリハーサルができない。それに明日の本番もあの様子だとまずいかもしれない」

「おい!リーダーが怪我をした途端に口に出すことか!後で決めるぞ。まずは皆を集合させよう」

「そうだな……くそ。ここはいつも雨漏りしていた場所だ……木が腐りかけていることをリーダーは指摘していたよな。劇団の連中に注意を入れて屋根を補修することになっていた気がするが、まだやってなかったのか」


男達は話ながら去っていく。自分は雨漏りしていたことには気づいていなかった。しかしリーダーは気づいて修復しようとしていたようだ。さすが“皆慕うリーダー”だと皮肉の意味で笑う。しかも気づいていながら他の者に任せていたせいで屋根の下敷きにまでなっている。自分で気づいたなら、自分で直せばよかったんだ。


(自業自得だな)


心で嘲るように笑いながら、男達が去った方向に歩き出した。



練習場の一番大きな部屋につくと、男達が神妙な顔で立っていた。劇団員全員が集まっていたので、自分もそれとなく合流する。

一番前に立った副リーダーの男、ジムは息をスッと吸った。


「皆、ついさっきリーダーが怪我をして医者の元へ運ばれた。話したいことは今日のリハーサルだ。主役ができるやつがいなければ、リハーサルができない。つまり、誰か主役のセリフを覚えているやつはいないか?大体で良い。舞台で演じられるやつが必要だ。本番は…またリーダーの様子を見て考えよう」

「ちょっと!キーラン様が倒れたですって!?そんなの聞いてないわ!」


主役に付くヒロイン役を演じる細身の男が大げさに悲鳴を上げた。誰も本当の名前を知らないが、リリアンヌだか、リリーだかをその男は自ら名乗っている。


この劇団は男達だけで構成される劇団だ。よって女役が必要なのは確かだが、何故日常で女役を演じるのか、理解不能だった。その他にも日常で「いやー!」だとか「キャー!」だとかばかり言うから、俺はできるだけ関わらないようにしている。


ジムは動揺したリリーをなだめる様に、口を開く。


「リリー落ち着け。キーランは無事だ」

「でも……あたしの王子様が居ないと、劇はやらないわよ。他の人なんて嫌!」

「だから落ち着け。リハーサルだけ他の者に変わってもらいたい。できれば主役のセリフを暗記しているやつが望ましい。誰かいないか?」


その場はざわつき始めた。「お前できるだろ?」「全部は覚えていない」「あのセリフ量を全部できるやつなんていないだろ」と思い思いに話し出す。


(これはチャンスだ!)


その中で俺だけは興奮していた。いや、高ぶっていた。ずっと主役に憧れていた。いつか演じて見せたかった。主役ほど注目が得られるもの、賞賛されるものはないからだ。

更に俺は主役のセリフを全て覚えていた。仕草まで全部だ。リハーサルといえども体験してみたい。主役の凄さを。毎日発声練習をして台本を読み込み、練習風景をずっと大荷物を抱えながら見ていた俺にしか出来ない技なんだ。


気づいたら、俺は手を挙げていた。ジムは、俺が挙げるとは思っていなかったのだろう。

心底驚いた顔をしていた。


「セリオン……お前が?やれるのか?お前は一度も舞台に立ったことがないだろう。いいか、これは主役だぞ?」

「俺にやらせてくれないか!俺はずっと練習風景を見ていた。主役のセリフも全部覚えている。どこでどう動けばいいのかもだ」

「……お前、実は影では見ていたんだな。そうだな……何事も経験だ。よし、リハーサルはセリオンにやらせよう」


前の男が頷いたと同時に、傍に居た“リリー”はあからさまに顔をしかめた。


「本気でやらせるの?キーラン様の代わりよ!?それに今回の主役像と彼はかけ離れているじゃない!」

「これはリハーサルだ、リリー。それに自分がやるわけでもないのに、本気で全部暗記したっていうなら凄いじゃないか。セリオンの努力は中々だぞ」


リリーは男の言葉にため息をつきながら、俺を横目で見て、もう一度ため息をつく。俺に気に入らないことがあるならさっさと言えばいいだろうに、何度もため息をつくだけの“男リリー”に段々と腹が立ち、俺はリリーを強く睨みつけた。


「舞台で証明してみせればいいんだろう?全部のセリフを俺は覚えている」

「……セリフを覚えたかどうかは重要じゃないのよ」

「なら演技力を証明すればいいのか?」

「違うわ。“証明証明”って何なの一体……もういい、貴方と言い争っていても仕方ないもの。ま、リハーサルだし貴方がやれば?」


リリーは途端に興味を失ったかのように、欠伸をしながらその場を去っていった。


(なんだ、あのくそ野郎は……はっきり言えばいいのに、何故言わない?)


奥歯を強く噛み苛つきに堪えると、異様な空気になったと思ったのかジムが俺の肩に手を軽く置いた。


「おいおい気にするなよ。リリーはな、こだわりが強いんだ。でも人を良く見ている。お前もリリーから学べる事が沢山あるだろうさ」


(こだわりって女言葉好きなこだわりかよ。唯一学べるのは女言葉だろうな!)


心の中で悪態をついてから、表向きは軽く頷いておく。ジムは雰囲気を取り戻したと思ったのか、「よろしく頼むな!」と言って去っていった。



リハーサルのために明日の本番でも使う劇場に行き、俺は初めて舞台の上に立っていた。

舞台の上から見える観客席は特等席のようで、全てを見渡せる。そして誰もが舞台を注目する場所だ。


(どれだけここに立ちたかったか……今はリハーサルだが、いつか絶対に本番でも立ってやる)


心の中で決意を固めると、隣に立っていたリリーがやる気なさそうに台本をひらひらとさせている。


「それで?最初からやるのよね?ほら、私はここでうずくまって泣いているから、さっさと奥から出てきたら?」

「……分かった」


こっちは感傷に浸っていたというのに、あの男の態度はずっと変わらずのままだ。しかも俺への態度だけ当てつけのように悪い。


(俺の演技を見せて、分からせてやろう)


俺は拳を固く握りしめて片手の手のひらに打ち付けると、舞台裏へと歩く。それを見たジムが、「リハーサルスタート!」と大声を出した。


(ようやく始まりだ。これが俺の実力を証明するいい機会になる。絶対に成功させてやる)


今回の主役は、裕福な貴族の男だ。貴族の女との結婚が決まっている。男はある日狩りの訓練中、町娘の女ベラに会うことになる。


うずくまったベラの傍に立ち、膝をつく。顔は笑顔で、姿勢正しく顔を覗き込む。


「お嬢さん、何かあったのですか?」


俺ははっきりと言ったはずなのに、すぐに顔を上げて主役に抱き着くはずのベラこと“リリー”が顔を一向に上げない。もう一度はっきりと同じセリフを言ってみたが、反抗心の強いベラのままである。見かねたジムが、リリーに声をかける。


「おい、リリー!次のセリフを言え!」

「……ちっ」


(今こいつ舌打ちしなかったか?)


今まで練習中では主役にべた惚れだったはずのベラが、嫌そうに顔を上げる。退屈そうに「お願い、助けてください」と話してはいるが、目は死んでいる。

それからの場面は、俺がどれだけ完璧にセリフを言おうとも、ベラの反抗的態度は相変わらずだった。

それどころか主役がベラの手の甲にキスをするシーンでは、思い切り嫌がって俺を突き飛ばしてきさえしてきた。これではいくら完璧に演じようとも台無しである。


「リリー!これは大事なリハーサルだ!何をやってるんだ!」


ジムは声を荒げた。リリーは不貞腐れた態度を辞めて、ジムに言い返すように怒鳴り返す。


「少しはあたしの立場に立って考えてみてよ!?この男のどこが“貴族様“だっていうの?どう頑張っても、無理よ!ただでさえキーラン様が無事か心配でしょうがないのに、どうして今抱きつかなきゃいけないのがこの男のわけ?」

「リリー!劇と現実を混合するな!」

「するわよ!あたしにとってこの劇団は人生なの!その舞台をこの男に台無しにされてる気分になるのよ!この男はただ自分がいい気になりたいだけよ!」


リリーの最後の一言で、ついに俺はキレた。今まで演じていた役を辞めて、大声を上げる。


「俺はちゃんとやってるだろう!セリフも動作も!何が一体そんなに不満か言えよ、今すぐに!大体前から思っていたが、劇以外でも女言葉使うなんて、頭イカれてんだよ!」

「はぁ!?なんで今の会話で女言葉がどうだとか出てくるわけ!?信じられない!」

「図星だろ!?そんなイカれてる男はお前しかいないもんな」


俺が鼻で笑ってやると、リリーは強くこちらを睨みつけた後、鼻で笑い返してくる。


「貴方の言葉であたしが傷ついたと思ったの?貴方のような小人さんにおまけでついたちっっさな槍で攻撃されてもまっったく痛くないわね!」


等々痺れを切らしたジムが舞台上に上がり、俺たちの間に入り込む。大げさに手を振って制した。


「やめろ!今すぐにやめろ!リハーサルは中止だ!」


身を挺してお互いに掴みかかろうとしているのを何とか止める。周りで見ていた同じ劇団内の男達は、「俺たちの出番は!?」と騒ぎ出す。


「売り言葉に買い言葉とはまさにこのことだな……大体お前ら話したのは今日が初めてだろ……なんでそんなにポンポンと侮辱しあうんだ」


ジムは半ば呆れていたが、俺はジムを肩で押しのけて舞台から飛び降りる。


「そいつのお望み通りに“リハーサル”の主役は降りる。どうせ俺は荷物持ちがお似合いだって言うんだろ?」

「おい、セリオン待て!」


ジムは後ろから声をかけてくるが、すっかりやる気をなくした俺はもう何もかもどうでもよくなっていた。劇場の控室に置いてあった自分の荷物を取りに行くために歩き出す。


(もうこんな劇団なんてやめちまうか?)


憧れて入った劇団だったが、実際の現場はくそみたいな待遇ばかりだ。いつまでたっても舞台に上がらせてもらえないどころか、変な女男に文句を言われ、“憧れた劇団”の内部事情は結局こんなもんだった。

控室の扉を開き、鏡の前に立つ。言い合ったからか、眉間に皺は寄っており自分の顔からも苛立ちが伺える。その勢いで鏡の横の壁を何度か拳で叩きつけた。


(くそっくそ……!なんでいつも俺だけこうなんだ!)


思えば幼い頃から“女”と名の付くものからの扱いは散々だった。唯一自分に優しく接してくれたのは、母1人だけだ。

田舎にある小さな学校での学生時代は殆ど女と話すことはなかったが、少しでも学友と騒ごうものなら何故か俺だけ注意され、一々文句を言われた。

学友の男達は良い女が出来ただの騒いでいたが、俺はいわゆる“モテない組”に属し、自分の好きな話題だけを話していた。といっても殆ど劇団について語れるやつはいなかったから、実質心情的には1人で生活してるようなもんだった。

それから成長しても、店で女とやり取りするとき、道端で会う女全員が俺のことを批判しているような気分になってしまった。

しかも実際に店でやり取りするときに、女たちは俺に向かって嫌な顔をするんだ!俺を汚い物でも見るかのように、軽蔑した目で見てくる。

あいつら女たちは顔がとてつもなくカッコよく、「キャー!」だの騒げる男達だけが良くて、それ以外の普通の男達には扱いが悪いんだ。それだと言うのに、そんな女たちより数倍美人に向かって男達が噂めいて騒ぐと、「男ってなんでそうなの?」と文句めいていちいち騒ぐ。


(お前らが性格も顔もブスだから誰も注目しねえんだよ!男によって扱い変わってんじゃねえよ!)


最早劇団のことよりも、過去に会った女たちの扱いの方が気になってきた。気づいたら打ち付けたことにより拳が真っ赤になっていたため、いったん中断して大きく息を吸う。


(いや、落ち着け……今は劇団のことだ。この劇団を続けるべきか……?)


もう一度鏡に向かって自問自答しようとしていると、突然扉のノック音が響いた。


「誰だ?」


大方副リーダーだろうと思って身構える。しかし扉を開けて入ってきたのは劇団関係の者ではなかった。女だ。白いドレスを着て前髪は真っすぐ整い、黒髪を肩の上まで降ろした美しい顔立ちの女が微笑んで立っている。

ついあまりの美しさに、一瞬言葉を失うほどに見惚れてしまった。それほど立っている女はまるで別世界に住んでいるような人物に思えたのだ。


「初めまして。私はマリア……ここの劇場の関係者よ。貴方が出ているリハーサルをこっそりと見ていたの。貴方の演技……とても素晴らしかった」

「……っあ……ああ、劇場の関係者?俺の演技を見ていたのか?ただあれは…」

「あれは、相手の男性のせいだわ。貴方の演技は誰よりも素晴らしかったわ……でも劇団の人に聞いたのだけれど、明日の本番は貴方が主役じゃないんでしょう?残念ね……」

「……え?そんなに気に入ってくれたのか?君が?」


これは驚いた。いや、これはお世辞かもしれないと一瞬思うが彼女の頬は赤く染まっており、目は伏し目がちだ。これは本当に俺に見惚れて言ったことかもしれない。

それに彼女のそんな表情を見ていると……心臓がバクバクと高鳴ってくる。


「ええ、そうよ。ねぇ……貴方ともっと深いお話がしたいの。一緒にこの劇場を出て話しましょう?」

「……っぁ?あっああ……そりゃ勿論……あっいやちょっと待ってくれ。じゅ、準備をするからさ、外で待っていてくれないか?」

「……ええ、分かったわ」


マリアと名乗った女は、笑顔のまま部屋から出て行った。その途端に俺は息を大きく吐く。

それから鏡に向き直って自身の姿をよく見た。


(待て、待て待て待て。これはようやく俺にも“来た”ってことか?こんなに女に毛嫌いされていた俺に?いや、まだそうと決まったわけじゃない。落ち着け、俺。彼女は劇団関係に興味ある人物なのかもしれないし、いやそれだけならわざわざ俺を追いかけてくるか?それにあの表情……やっぱり舞台に立つ意味はあったんだ!)


思わず鏡を見ながらにやけてしまったが、そんなにやけ顔では締りが悪いと思いすぐに神妙な顔立ちに戻す。もしこれが俺の思うチャンスだとしたならば、慎重に行かなければならない。何となく髪を整えてから、荷物を持ってなるべく平然とした顔立ちで扉から出ると、美しい彼女はそわそわとした素振りで、そこに立っていた。


「あら?もう準備は宜しいんです?」

「ああ、大した準備もないし荷物を持つくらいだから……えっと……貴方は何処に向かいたいのですか?」


(いや待てよ、ここは男の俺が先導するパターンじゃないか?)


一瞬そう思ったが、マリアはすでに目的地を決めていたらしい。頷いてにこやかに笑顔で俺の手に手を重ねる。


(近い…!それになんでこんなに良い匂いがするんだ?)


明らかにそこらの女と違う高級な花の匂いが彼女から漂ってくる。しかも屈んで上目遣いにされると胸の谷間が丸見えだ!


「ええ、もう決めていたわ。この近くに美しい植物を育てている公園がありますの。そこに行って詳しく劇団についてお話してくださらない?」

「……っ、そうですね、喜んで」


女のことだから高級な店に行って、何かをねだられるのかと思っていたが彼女はそうではないらしい。美しい彼女は内面まで美しいようだ。まさか質素な公園で良いとは。彼女に対する好感度ばかり上がってくる。そもそもこの美貌だけで、俺にとっては十分すぎるほどいいのだが。

彼女に腕まで組まれて歩いていると、やっと追いかけてきたらしいジムとばったりと会ってしまった。ジムは見間違いをしたかと思ったのか、一瞬こっちを見てからもう一度俺を見て、更にまたもう一度隣の彼女を見る。


「……セリオン?知り合いか?」

「いや、これは……」

「私が押し掛けたんですわ。彼に聞きたいことがあって。少しだけ彼をお借り致しますね」


俺が何と説明しようか考えるうちに、彼女はさっさと答えてしまった。唖然と口を開けるジムを横目に、俺は誇らしげな気持ちにまでなってくる。ジムの横を通り過ぎようとする寸前に、ジムは突然俺の肩に手を置いて俺にだけ聞こえる声で小さく呟く。


「……気をつけろよ」


その言葉は一体どういう意味なのだろうか?怪訝な表情をジムに向けると、ジムは首をただ横に振った。


「どうしたのです?早く行きましょう?」


俺が何と返そうか迷っているうちに彼女は歩き出したため、俺はジムに何も言わずに、足を進めた。



マリアとたわいもない会話をしながら彼女の行きたがっていた公園に着くと、マリアは喜びながら辺りを歩き出した。


「空気が澄みわたっていますわね。それにこのお花たち…手入れが行き届いていてとても綺麗ですわ」


もしも劇だったら次のセリフは「君の方が綺麗だ」と言う場面だなと思いながら、嬉しそうに花の香りを嗅ぐマリアを見つめる。それほど非現実な光景に思えたのだ。彼女の美しさは稀に見る美しさではない。


「それでその……マリアさん。俺に聞きたいことって何ですか?」

「あら、マリアでいいですわ……さっき劇団の人が話しておりましたけど、貴方のお名前はセリオンというお名前で宜しいのですよね?」


そう言って、彼女は優しく笑う。人生でここまで俺に優しく笑いかけてきた女性はいなかった。なのに何故彼女が初対面からここまで優しく笑いかけてくれるのだろうか。


(これは……まさか彼女は俺に一目惚れしたってのか?あの演技にもならない演技で?)


これは都合の良すぎる解釈だろうか?だが演劇ではよくこういった“都合の良いこと”が起こるような脚本が多いので、現実でもたまには劇みたいなことが起きたっていいだろう。

頭を少し掻いてから、うなずいてもう一度マリアに話しかける。


「ああ。俺はセリオンだ……マリア、聞きたいことって何だ?」

「ふふ、ありがとうセリオン。ねぇ…分からない?聞きたいことがあるって言ったのはただの建前だってこと…」


彼女は微笑みながら一歩ずつ近づいてくる。一歩近づくごとに俺の心臓の音が高鳴って仕方ない。


(っうわー!なんだ!?まさか本当なのか!?)


彼女はそわそわと言いづらそうにしながら、ようやく口を開いた。


「………私舞台の上の貴方を見て、好きになってしまいましたわ。私と親密なお付き合いしてくださらない?」


その声を聞いた途端、頭の中で楽器の音がファンファーレの如く鳴り響く。俺は一人、舞台の上に立っていて、目の前の観客たちからの拍手喝采まで起こりだす。皆、ありがとう、ありがとう!


「……っは、……ひとめぼれ?」

「……ええ、こうやって直接伝えるのは恥ずかしかったから、ここまで来るのに道中でとても悩みましたのよ?それで…お返事はどうでしょう?」


それはもうはい、そう、勿論だ。何度だって付き合ってくれと言ってやりたい。だがここは「男らしく」決めなきゃならない。変な咳が出そうになったのを必死でごまかしてから、俺はできるだけ“クールな表情”を決めてやる。


「……いや、これまでに“そのパターン”は初めてで驚いたんだ。勿論……ああ、君のような綺麗な人から言われたら、断れるわけがない」


まずい、まるで今までも好きだと言われたことがあるように見栄を張って言ってしまった。今までに女から告白されたことは一度もないが、変な嘘をついたことがバレなければいいが。しかも最後なんて“セリフ風”に言ってしまった。現実でこんな風に言う野郎がいるだろうか?今まで告白されたことがないのだから、それすらも分かるはずもない。

しかし彼女は俺の嘘にも見栄にも気づかなかったのか、ぱぁっと表情を輝かせた。


「まぁ!よろしいんですの!?私……とても嬉しいですわ」


彼女は突然俺に抱きついてきた。む、胸が!胸が……柔らかい胸が当たる。俺は背が低い方だから、ちょうど顔に。顔に当たるんだ。こういう時、俺の手はどこに行けばいいんだ?彼女の背に回すべきなのだろうか。思考しているうちに彼女はすぐに離れてしまった。


「もっと貴方とお話ししたいわ。そこのベンチに座ってお話しましょう?」


彼女はベンチを指さしたので、俺は頷いて彼女をエスコートするため歩き出す。目的のベンチに軽い土の汚れを見つけたので手で払ってから、彼女の白いドレスを見て布か何かを持ってくるべきだったと気づいた。


「……何かベンチに敷く布でも持ってくるんだったな」

「あら?気づいてくれて嬉しい。でも、宜しいですわ。少しの汚れなんて気にしないの」


彼女は微笑みながらベンチに座る。前に似たようなシチュエーションを劇で見て良かったと思った。女は“気づく男”が好きらしい。つまり俺は彼女の些細なことに気づく男へ一歩近づいたということだ。

彼女の横に座ると、彼女は再び俺の肩にもたれかかる。


「ねぇ…ちょっと“おとき話”をしてもよろしいかしら?」

「おとぎ話?」


彼女が突然突拍子もないことを言ってきたので、俺はつい聞き返してしまった。彼女は頷いて前を向く。


「聞いたことはありまして?不思議な力を持つ宝石が存在するというお話がありますの」

「…なるほど。その力って?」


女は宝石の話が好きだよなと思う。彼女たちにとっては、宝石の全てが魅力的なのだろう。それと同時に、劇内で起こる突拍子もない恋愛のおとぎ話も女ばかりが好んでいる。

あんなことは現実に起こるはずがない話だと思っていたが、今俺に起こったことを考えると絶対に起こらないというわけではないようだ。


「………“どんな人でも心を操ることができる能力”…それが宝石の持つ力ですわ」

「あ…操るだって?…ああ、そうか。おとぎ話ではよくありそうだな」

「ええ…そうでしょう?でもとても有名な話。実は私…子供っぽいと思われるかもしれないけれど、ずっとその宝石を探しているのです。だからどんなことでもいいのです、もしそんな話を聞いたら私に教えて欲しいの」

「それはまるで……操りたい人がいると言っているみたいだ」


彼女はそれを聞くと突然涙をこぼした。突然のことに俺はどうしたらいいか分からなくなる。彼女は泣きじゃくりながら手で自身の涙をぬぐった。


「……っご、ごめんなさい…私……母に虐待されておりますの」

「……虐待?」


彼女は泣きながら、俺に抱き着く。俺はようやく彼女の背中に手を置いて、軽くポンポンと叩くと彼女は安心したかのように少し微笑んだ。


「ありがとう。私、実は裕福な家庭の育ちなんです…そこで私は好きでもない貴族の家系の男と結婚させられそうになって…私が必死に断ると母は私を鞭で打つのですわ」

「裕福な家庭って…まさか君は貴族なのか!?」


思わず大声を出してしまってから、しまったと慌てて自身の口をふさぐ。ここは貴族が来ない平民街の公園だ。貴族嫌いの民も多い。ここらで「貴族が居る」と大声で言うことは、もし彼女が貴族なら良くない行為だ。


「…ええ。私は貴族ですわ。隠していてごめんなさい…お嫌いでしょう?」

「…っいや嫌いじゃないさ……でも、貴族様と俺たち平民は……恋愛関係になるとまずいかもしれない」


通りで彼女が育ちの良い喋りと服装をしていたわけだ。彼女と付き合えることは何よりも嬉しかったが、貴族となると話が別だった。一般的には法律で貴族と平民の恋愛は禁止されている。恋愛したものは、良くて平民側が投獄、悪くて平民側だけが死刑だ。だからこそ、恋愛劇では貴族と平民の恋話が盛り上がるのだ。


ただ例外はある。それは貴族側の親が認めた場合だ。貴族に絶対権限があるここアラルド国では、貴族の意見は国が聞き入れることが多い。

だが血筋を大事にしている貴族は、両親が平民の者を受け入れることはほぼない。つまり貴族と恋愛するということは…平民の者ばかり損をする結果となるように、この国の法律はできている。


「ええ、分かっておりますわ…でも私は好きでもない男性と結婚するくらいなら…本当に好きな人と結婚したいのです。そして私は貴方に一目惚れをしてしまった……」

「…君の意見は分かったよ。俺は君が好きだから、君の味方でいたい…そしてその操る宝石だかが欲しい理由は…」

「ええ、母の心を操りたいのです。正確には父も。私…貴方が好き。ずっと宝石は貴族家の男性との結婚を辞めさせるために探していたのだけれど、この国の法律をご存じでしょう?貴方とできるなら結婚をして、貴族の方の結婚を断りたいわ。そして、それをするためには母と父に婚姻を認めさせる必要がある…」

「俺たちまだ会ったばかりだろう!?結婚だって!?」


さすがに驚きを隠せなかった。会ったばかりで少ししかまだ話していないのに、彼女は俺と結婚したがっている。確かに彼女とできることなら一緒にはなりたいが、急すぎないか?

しかし彼女は俺と結婚する気満々なようだ。俺にぐいっと詰め寄ってくる。


「ええ…嫌でして?」

「いや…嫌というわけでは…」

「それなら良かったですわ。この“操る宝石”の話は単なるおとぎ話にはとても思えませんの。沢山の書籍がありますし、噂話も多い…絶対にこの世に存在すると思いますわ。そして、私は宝石の外観まで突き止めた…」


彼女は持っていた小さめの鞄から、羊皮紙を取り出して宝石の説明をし始める。

羊皮紙には宝石の絵と、横の説明には血のような赤の輝きを持つと書いてある。その宝石は首飾りにはめ込まれており、その首飾りを操りたい者の首にかけると、完全にその者の心から動作まで操ることができるらしい。彼女は熱心にそれを語っているが…

申し訳ないが、彼女がただの妄想癖だとしか思えない。


「…ここまでが私が調べたことですわ。宝石の情報があったら少しでも私に教えて欲しいのです。情報を知る人が居たら、私に伝えてください。情報を知る者には幾らでもお金は出せますので、その旨も」

「……あ、ああ分かったよ。その紙は貰ってもいいのか?」

「ええ、そのつもりでしたわ。ああ…そろそろ戻らないと母に気づかれますわ…ここに来るには家を抜け出して来たんですの。あの劇場に貴方が居て良かったです…本当に。また来週の同じ曜日、ここでお昼に会いましょう?もし宝石の情報があったら私に教えて欲しいですし、貴方にまた会いたいのです」


彼女は俺に羊皮紙を握らせてから、勢いよく立ち上がる。俺が別れの挨拶もしないうちに小走りで公園から去って行ってしまった。

そんな彼女を呆然と見送ってから、彼女の言葉に訳が分からなくなる。現実味のないことを実際にこの世に存在しているかのように語るから、彼女に何と声をかければ良いか分からなかった。


(ここで彼女にそんな宝石なんて存在しないだろうと、現実を伝えるのは酷だよな…紙にここまで丁寧に書いてあるし…)


手元の紙を何となく見つめる。事細かで美しい宝石の絵だ。彼女が描いたのだろうか?

…彼女は貴族の男との結婚が嫌だと話した。そして俺に一目惚れをしたからこそ、両親に俺との結婚を認めさせるために人を操る宝石が欲しいのだと。

しかし彼女は俺に教えるために以前から用意していたかのように羊皮紙を取り出し、熱心に宝石について語った。普通なら何かおかしいと思う所だが、彼女の涙を見ていると居ても立っても居られない気分にさせられる。それに再び彼女に会えるなら、彼女に会いたい。

そうだ……貴族が涙を演技では出せないだろう。だから彼女の言葉は真実なんだ。


俺は羊皮紙を強く握ってから、立ち上がった。



それからというもの、俺はあるはずもない宝石のことを自分なりに調べ続けた。ちなみにリハーサルの翌日にやるはずだった本番は、キーランが骨折状態だったため、中止になってしまった。元々劇団内で話す者など殆どいなかったが、リリーからの一方的な険悪な空気により余計劇団内の立場は面倒なことになった。

公園で一週間ごと「宝石の情報を話す」という名目でマリアに会い、なけなしの劇団での給料をはたいて買った様々な物をプレゼントした。女の好みなどは分からないから、商店へ行って勇気を出して女の商人にどんなものが喜ばれるかを聞いて買ったりもした。

彼女にただ、喜んでほしかった。元々人を笑わせることは結構好きなタイプなので、彼女にそっくりな人形を買ってその場で人形劇を披露したこともある。役を人形に見立てて二人芝居のようにしたんだ。


「そこで美しいマリアは、とんでもないものに出会います。大きな泉から背中の白い羽を広げた女が出てきたのです!」


俺が人形劇もどきを披露すると、マリアは嬉しそうに熱心に聞いてくれた。時には面白おかしい話を聞かせて彼女を笑わせたりもした。


「この人形、マリアにそっくりだと思って買ったんだ。貰ってくれる?」

「……あら、よろしいのです?ありがとう。貴方ってとても面白い人ですわね。一緒に居て楽しいですわ」


マリアは人形を嬉しそうに受け取った。彼女の嬉しそうな表情が見たくて、殆ど安い給料で生活も苦しい癖に見栄を張って贈り物を買っている。貴族の彼女にはこんなものは簡単に手に入るものなのかもしれないが、それでも俺の手から貰ってほしかった。

宝石について語る彼女を、宝石に興味のあるフリをして聞いて、帰り際に彼女を抱きしめた。

間違いなく、今までで一番幸せだと言えた。誰も俺に対して笑顔を向けてくれる女性は居なかった。なのに、彼女は無条件で笑顔を向けてくれるんだ。俺の下手な人形芝居にも笑ってくれる。今までにこれほど心が満たされることがあっただろうか?


マリアを手放したくはなかった。俺にここまでの純粋心があったとは自分でも驚いたが、まるで物語のように彼女を愛していた。

しかしまだ、彼女とはキスすらもできていない。誰かと付き合うのは初めてのことだからキスやそれよりも先のタイミングが全く分からない。

彼女にはできるなら嫌われたくはない。でも俺は男だ。彼女の毎週変わるドレスの下を暴いてみたい。彼女の全てを俺だけが知りたい。

ここ最近では彼女を喜ばせるつもりが、気が散って仕方ない。気が付けば初対面の時から二か月ほど経っていた。


二か月経っても、力を持つ宝石の情報の進歩はなかった。彼女の言う通り宝石に関する書籍類は確かに存在したが、実際の宝石の目撃情報は一切ない。とうとう俺は、宝石の情報は見つからないだろうと彼女に伝えるために、いつものように公園で彼女の隣に座っていた。


「マリア、君に伝えなきゃいけないことがあるんだ」

「あら、どうしまして?」

「君の探す宝石についてなんだ……ずっとこれまでに探してきたが……この宝石はこの世には存在しないと思った方がいい」


真実を伝えると、彼女は目を見開いた。唇を震わせてから首を静かに横に振る。


「……そうは思えませんわ。確かにこの地域には目撃情報はありませんでしたけれど、絶対にあります」

「ああ、だけどここまで探してもないのなら…」

「―――っ私は一年以上この宝石を探してきましたのよ!?今更諦めきれませんわ!」

「そんなにこの宝石に何故執着するんだ?」


それを言うと、彼女は押し黙ってしまった。両手を握りしめて、彼女は俯いたままだ。


「……だって、このままですと貴方と結婚できないでしょう?でも貴方の意見は分かりました……ねぇ今夜私のお屋敷に来て下さらない?二人でこの国から逃げましょう?」

「……っ何だって!?」

「いいでしょう?もうそういう……頃合いじゃありませんの。宝石は見つからなかった。私と貴方の間にある障害はこのままだと一向に縮まりませんもの……だから私とどうか一緒に……」


彼女はそのまま俺に抱き着いた。彼女の力は案外力強く、それほどに彼女の必死さが伝わる。

俺は劇団のことを思ったが、元々やめるつもりだったのだと考えを振り払う。俺は彼女を抱きしめ返した。


「……分かった。君と共にこの国から逃げよう。君の屋敷はどこにあるんだ?」

「……普通に入っては見つかります。裏口を教えますので、そこに来てください。馬車を用意させますわ。それと必ず一人で…人数が多いほど屋敷の私兵に見つかる可能性が出てきます…何日か過ごせるような荷物はしっかりと持って。それにお金も。何があるか分かりませんわ…」

「逃げるための準備をして君の言う場所に行けばいいんだな?」

「ええ、では深夜に、この場所に」



彼女は地図を描いた羊皮紙を俺に手渡して、彼女の方から俺の頬にキスをして名残惜しそうに去っていった。俺は羊皮紙を見つめて、言いようもない不安感に襲われていた。

なぜかは分からない。これから先の不安だろうか?本当に彼女と共に行っていいのだろうか。俺の夢である劇団での活躍の全てを投げ捨てて、彼女と逃げていいのだろうか。

でも彼女を愛してしまった。彼女だけが、俺の希望だ。今となっては劇団での活躍よりも、彼女の方へ執着してしまっている。

自分の迷いを振り払って、彼女の元へ行かなければいけない時が来たのかもしれない。


俺はすぐに彼女に指定された場所へ向かった。荷物を抱え殆ど全ての金を持って、深夜自分の住むボロ家から飛び出してきた。もし劇団内の誰かが、俺が居なくなったと気づいたとしても夜逃げでもしたかと思われるだろう。


彼女の屋敷は大層立派だった。こんな大きな屋敷を見るのは初めてだ。

貴族街に平民は立ち入り禁止のため、彼女の教えてくれた「特別なルート」でここまで来ている。彼女の策は巧妙で、貴族街の見張りをすり抜けるようなルートが示されていた。その道順通りに行くと、簡単に彼女の住むという屋敷に着いたわけだ。


(ここが…マリアの住む屋敷か…本当に住む世界が違うんだな)


俺は呆然と見上げる。住む世界もこれまで生きてきた環境も全く正反対程に違うというのに、何故彼女は俺に一目惚れをしたのだろうか?でも彼女の言葉に嘘偽りないことは、これまで二か月ほど過ごしてきて分かっていた。彼女は俺のことを愛してくれていた。


彼女の示した屋敷の裏口に着くと、深夜だというのに、鳥の羽ばたき音が聞こえ不気味だ。

それにあたりは暗い。確かにここならひとけはないだろうが、もう少しマシな場所はなかったのだろうか。


(マリア…早く来てくれ)


見つかるかもしれないという緊張感の中ここに居る。荷物を抱えている為、もし見つかった場合荷物を投げ捨てて逃げなければならない。そうなると国外脱出は不可能になる。彼女にはここで落ち合った後、用意した馬車で逃げると伝えられている。

突然、後ろで複数人の足音がザッザッザッと聞こえてきた。


(―――っまずい!誰か来たかもしれない)


隠れる場所を咄嗟に探すと、突然目の前にあった扉からノック音が聞こえた。


「…セリオン?そこにいるの?」

「―――っマリア?」


彼女の声が扉の向こうから聞こえる。何と彼女は今この扉から出るつもりでいるようだ。しかし後ろには何人かの足音が近づいてきている。今彼女が出れば見つかってしまう。


「だめだ、マリア出てくるな!後ろで誰かの足音が聞こえているんだ!」

「―――っ何てこと!セリオン、早くこの扉から入って!」


彼女の声と同時に扉が開く。急いで扉から部屋の中に入り、彼女を探す。中は暗く彼女をすぐに見つけることは困難だ。


「…マリア?どこにいる?」


俺が手探りで彼女を探そうとした時だった。突然後ろで彼女が開いたはずの扉が勢いよく音を立てて閉まった。


「…っなんだ!?何で扉が突然…」

「……セリオン、私はここよ…」


マリアの声が聞こえる。扉が閉まったことにより余計視界が困難になった。俺は何とか目を凝らして彼女を探そうとする。彼女を見つけるため、手を大きく伸ばした時だった。


「…うう!?」


何かが絡みついたかのような感覚が襲う。その瞬間身動きが取れなくなり、俺は咄嗟にもがいた。もがけばもがくほど立つことはできなくなる。重い何かに引っ張られるかのように、俺は地べたに這いつくばった。


「…っマリア……まずい何かに……」


必死に抜け道を探すため手探りで自分にまとわりついたものを触る。これは…網だ!しかも固く、金属のようなもので出来ている。何故網が俺に……

その瞬間、突然蝋燭に火が付き始める。真っ暗闇だった室内は一気に明るくなった。見上げると網の隙間から、黒服を着た見知らぬ男達が見える。その後ろにマリアが……黒いドレスを着ていつもの微笑みを見せて立っていた。


「こんばんは、セリオン。あら、そんな顔しないで。ちょっとしたサプライズよ?」

「……サプライズ?これが?」

「ええ!面白いでしょう?」


彼女は心底面白そうに笑う。一方で彼女を取り巻く男達は不自然なほど無表情で俺はどうしようもない恐怖感に襲われた。


「ちっとも面白くない……一体何を…」


彼女はニッコリと笑った。お手本のような笑みに、俺はじんわりと寒気を覚える。そんな笑顔は今までに見せたことがなかったじゃないか。


「“今回”のは長めだったわね。あーあ、疲れちゃった。ここまで必死に宝石について探してくれる人は貴重だったから仕方ないけれど。でもその分こうやって楽しみが増えたでしょう?」

「楽しみ?何を言っているんだ?」

「まだ分からない?どれだけ貴方は馬鹿なのかしら!」


彼女はけたたましく笑った後、俺の顔を蹴ってきた。何度も何度も何度も蹴り続けてくる。

俺が声も上げられずに蹴られていると、周りの男がマリアを制するように耳打ちした。


「お嬢様…“商品”に傷がつくかと。年齢が若ければ、労働力が高い。高く売れるのですよ?」

「あら?そうだったわね。ごめんなさい。この前は20代だったかしら?今回のは更に若いわね。本当は子供の商品が欲しい所だけれど、仕方ないわよね…」

「子供はお嬢様の手では厳しいでしょう」

「…値が上がれば上がるほどいいのに……奴隷商売ほど儲かるものはないわ」


奴隷商売?儲かる?彼女が一体何を言っているのか分からない。俺の表情を見た彼女は再び微笑んだ。


「あら?やっと状況が分かったかしら?その表情……何度見てもいいわね。男の人って簡単に騙されるんだもの。それとちゃんと……荷物は持ってきたわね。これで足は付かない商品になった。突然貴方が失踪しても、貴方は誰にも気づかれない。だって一人で逃げたと思われるでしょう?貴方の家に金や物が少なければね」


彼女の言葉が頭をすり抜けていく。何を言われているか理解できない。いや理解したくない。


「…待て、どこからどこまでが真実なんだ?君は一体何者なんだ?」

「あら、全部本当よ!私は貴族のお嬢様。でも確かに違う所もあったわ、貴方なんて愛してはいないこと……触れられるのすら嫌だったわ。今まで私に触れられて良かったわね。貴重な経験だったでしょう?女を知らず騙しやすい、奴隷のためのターゲットを見分けるのは簡単ね!」

「奴隷って……君は貴族なのにこんなことをしているのか!?」

「ええ!話したでしょう?宝石を探すためには別の資金源が必要。情報にも値が張るでしょう?金はいくらあってもいいわ。それだけあの宝石に一歩近づく…」

「まさかあんな在りもしない宝石のためにこんなことを!?君はずっと!?」


彼女は一歩下がって俯くと、突然大声を出して罵倒した。


「宝石はあるに決まっているじゃない!何を言っているの!?あるのよ!あるの!あの宝石は絶対に!!!そして………あの人は私の物になるわ、絶対に……」


彼女の目は虚ろだった。目は焦点が合っていなく、俺ではない“何か”を見ている。それと同時に彼女の全てが嘘だったこと、ここに来る時の言いようもない不安感の正体が何だったのか、全部理解してしまった。


「少しお喋りし過ぎてしまったわね。ねぇ馬車は用意してあるんでしょう?早くこの商品を積み上げて」

「…かしこまりました、お嬢様」


彼女は俺への興味を失ったのか、後ろを向いて去っていく。マリアに何かを言いたかった。でも何と言えばいいか分からない。辛うじてマリアと名前を呼ぼうと口を開くと同時に、突然後ろに強烈な衝撃を受け、俺は意識を失った。

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