第11話 故郷
馬車が僕の故郷ヴィルギ村に着いた頃には、夕方近くになっていた。急がなければ村の商店が閉まってしまう。商店に置いてある花を買う必要がある。母さんの所に、母さんが好きだった花を持っていきたい。まず実家に帰る前に、母さんの墓に墓参りを先にしておきたかった。二年間も顔を見せなかったんだ。きっと……心配をしているだろう。
馬車から降りて御者の男に金貨で金を払い、明日の昼過ぎにまたこの村に来てくれるように頼むと、御者は頷いてから馬車を動かし、また来た道を戻って行った。
アーデルとエダンと共に歩き出すと、エダンはキョロキョロと辺りを見回す。
「ここがお前の故郷か!中々良い村じゃないか」
「……何もないがな。家に帰る前に、先に母さんの所に顔を見せに行きたい……花を買うために、商店に僕は行く。お前は村の中で好きにしていていいぞ」
「いや、俺も行くよ。俺が迷子になったら困るだろ?」
「こんな狭い村で迷子になる奴がいるかよ……アーデルはどうする?」
横に居たアーデルに顔を向けると、アーデルも村を見渡していたが直ぐに此方に気づき、「私も一緒に行くわ」と微笑んだ。
結局アーデルとエダンと共に商店に向かい、商店の中に入ると、商店のおばさんは二年前と変わらず、鼻唄を上機嫌に唄いながらカウンターに立っていた。僕を見ると、心底驚いた顔をして悲鳴のような声を上げる。
「あらまあ!!!セリオン君じゃないの!!!あら、あらあら!?」
おばさんはカウンターから出てきて、小走りで僕の方までやってくる。僕が帰ってきたことに驚いたのだろう。何せ二年間も顔を見せていなかったのだ。この村唯一の商店なので、僕を含めて村人の殆どは、この商店に毎日のように通っていた。
「帰ってきたのね!!!あら、いやだ!男前になったじゃない!!!ずっと心配していたのよ?貴方のお父さんだって、口では言わないけど絶対に心配しているわ!直ぐに顔を見せてあげなさいな!もー私が先に走って呼んできちゃおうかしら!」
「……久しぶりです。呼ばなくて大丈夫です。どうせ家には帰るので。先に……墓の方に行こうと思っているんです。いつもの花、今日はありますか?」
おばさんはハッとしたような顔をしてから、切なげな表情を浮かべて頷いた。
「ええ……あるわ。綺麗に包んであげるから、ちょっと待っていてね……あら!後ろに居る人達は、セリオン君の都会でのお友達?」
「ああ、そうです」
僕が頷くと、エダンが突然僕を押しのけて前に出てきて、謎のポーズを決めてニッコリと笑う。
「どうもこんにちは。俺はセリオンの友人であり、強くて、ハンサムな男……その名もエダンです!!!初めてこの村には来ましたが、良い村ですね!!!!」
「あらあら!元気ねえ!あははは!確かに貴方は男前ね!」
「ええ!それはもう……心の底から分かっております!何かあれば言ってください!この村に居る間なら、この筋肉を使ったお手伝いができますよ!」
「本当に頼もしそうね!この村に残っている若い男共ったら殆ど使いものにならないんだから……荷物を持つのもへっぴり腰で……あらやだ何てこと愚痴っちゃったのかしら!そちらのお嬢さんは?」
おばさんはアーデルの方を笑顔で見る。アーデルはハッとして、丁寧に礼をする。
「こ、こんにちは。私はアーデルです。セリオンの友人です」
「あら!貴方とっても綺麗だから、村の若い男達が騒ぎそうね……気を付けるのよ?この村に今残っている若い男はろくな男が居ないからね!あはは!」
「いえそんな……」
アーデルは曖昧に笑っている。僕と同学年だった学友達はまだこの村に居るのだろうか。
この村は小さいが意外と子供たちは居る。当時学校全体が20人程度で構成されていて、僕と同学年の子供は10人居た。男が僕を含めて6人、女が4人だった。
ジャックという男が異様にモテていて、4人の女全員から好かれていた記憶がある。一番調子に乗っていた男だ。僕は突然その男のことを思い出して、話してみる。
「そういえば、ジャックはこの村に居るんですか?」
「あら、勿論いるわよ。今この時間なら、村の畑に居ると思うわ。そうそうジャック君ね、セリオン君が居なくなった丁度後くらいだったかしら……村に突然変な男達が来て、村の若い女の子達が絡まれてね。ジャック君がその時傍に居たのに、女の子置いて逃げちゃったらしいのよ!それから村の女の子全員に無視されちゃっていて可哀そうなの。だから慰めてあげてね」
「あいつそんなことになっていたんですか?調子に乗って、いつも俺が女全員を守るだの言っていた記憶があるが……はっ……」
僕は思わず鼻で笑ってしまうと、おばさんはため息をつきながら首を横に振る。
「後からジャック君に聞いてみたら、男達が突然殴りかかってきて、怖かったらしいのよ。それから自信を無くしちゃって思い詰めているようだから……他の男の子たちは、からかい続けているようだし……だからセリオン君だけはね?このままだと可哀そうだわ……」
「……そりゃ、からかうだろうな……あいつ本当に調子に乗っていたんですよ?まぁ……顔くらい見せてもいいか」
「ええ、お願いね。そうそうお花ね!今包んでくるわね」
おばさんはドタバタと慌てて花が積まれている場所に行くと、花を取ってそのまま店の奥に走っていく。エダンはその間もキョロキョロと辺りを見回しながら僕に話しかけてくる。
「ジャックって奴は、ダチだったのか?」
「……いや、一緒に先生に教えられはしていたが、殆ど関わったことはない。いつも女を引き連れてアピールするような奴だった」
「ほーなるほどな。そういや、お前って学校時代はどうだったんだ?ちなみに俺は平民街のでかい学校に通っていた。授業中はずっと寝ていたよ。眠くて眠くて仕方がなくてな……殆ど授業内容は覚えていない。後は男達とバカ騒ぎだな。ま、結構楽しい思い出ではあるな」
「お前ならそうだろうな。授業は、僕は普通に聞くときは聞いていた。友人も居るには居たが……殆ど心から話したことはないな。話題が合わないんだ。そもそも。小さい学校だから、人と関わらないことは不可能だったし、面倒なもんだった。早く終わって欲しかったな」
僕たちの話を聞いていたアーデルは、何故かジッと僕たちに視線を送ってきたため、僕は自然とアーデルの方を見る。アーデルは切なそうに笑っている。
「……良いなぁ。私は、皆と一緒に学校で授業を受けたことがないの。専属の教育係が私について、教え続けたわ。実は私には妹が居るんだけど、妹の方が上手くやっていて、適当にサボっていたのよ。私は上手なサボり方が分からなくて……大変だったわ」
「教育係なんてものがつくとしたら……面倒そのものだな」
「……ええ。本当に面倒だったわ……毎日毎日貴族のマナーを教えられていた。それが嫌いだったから、両親に相談しても私の話を聞いてすらくれなかった。ただ貴族としての嗜みを念入りに何度も教えられただけだったわ……私は長女だったから、余計責任感を押し付けられたの」
アーデルが首を横に振ってから、何かに耐えるような表情をする。そうだ……アーデルは嫌な貴族の屋敷に戻らないといけない。それも僕のせいでだ。何とかしてやれないのだろうか。そう思考し続けても、あの貴族共から逃れる術は見つからない。
その時、丁度おばさんが奥から出てきた。包んだ花と、手提げ袋を抱えている。
「セリオン君お待たせ!お花と、後は食料品を袋に詰めたわ。今日の夜ご飯に使ってね」
「いや、すみません……食料品の分も払います。いくらですか?」
「お花の代金だけでいいわ。久しぶりにこの村に帰ってきてくれたんだから、おばさんからの贈り物よ。また直ぐに……平民街に戻るのよね?」
「ありがとうございます……はい、明日には出発する予定です」
「そう……元気でね……帰る前に、おばさんに言うのよ?本当に心配していたんだから」
商店のおばさんは、母さんが亡くなった時、僕のことを唯一気にかけてくれた人だ。
母さんの体調が悪い時、僕が何とか母さんに元気になってもらおうと、身体に良い食材を探していた時によく相談に乗ってくれていた。それから母さんの病気の症状が悪化してしまい、亡くなって……僕が何も食べられなくなった時、家に来てはよくご飯を分けてくれた。
この村で唯一感謝できる存在だ。
……ああそうか。僕のことをこの村で、唯一助けてくれた存在は居たんだ。
母さんが亡くなってしまい、悲しくて苦しくて、自分だけのことに必死でその事実に気づいていなかった。
誰も助けてくれなかったとは思っていたが、僕は見失っていた1つの事実にやっと今になって気づくことができた。
僕が花の代金をおばさんに渡して、丁寧に礼をしてから、アーデルとエダンと共に店を出ようとすると、おばさんは突然声を掛けてくる。
「セリオン君、元気でね。それと……お友達さん、二人共良い人そうだから言うけれど……良かったら、ずっとセリオン君と一緒に居てあげてね。セリオン君は……」
「あーおばさん……僕なら大丈夫です。帰る前に、ここにまた顔を見せます。色々とありがとうございました」
気恥ずかしくなり軽く会釈してから商店を出て行こうとすると、何故かエダンだけは出ようとはせずにおばさんの方に振り返ると、グッとおばさんに向けて親指を上に立てた。
「大丈夫ですよ!俺はずっとセリオンの傍に居ますので!最高のハンサムで強い友人として!……何だ?セリオン。俺の言葉に感動して泣きそうか?」
エダンはニヤニヤしながら、此方を見てくる。それに異様に腹が立ったため、とりあえず睨み返しておく。アーデルも直ぐにおばさんの方に振り向いて、声を出した。
「私も……ずっとセリオンの傍に居ます。できるだけ……できる限りは……」
アーデルは何かに耐えるように声を出す。エダンはともかく、アーデルの思いが伝わり、僕は何と言えばいいか分からなくなる。おばさんはハッとした表情をして、深く頷いた。
「ええ、ありがとう……セリオン君、本当に良い友人を持ったわね」
「……はい……僕にとって……大切な友人です」
僕がうっかりと呟いてしまうと、エダンは「ふー!!!俺は最高だ!!!」と必要以上に喜び始め、アーデルは嬉しそうに笑みを見せた。アーデルとおまけでエダンは、ここまで僕のことを気にかけてくれた。だからこそ、この言葉が今になって言える。
突然、二人にそんなことを言ったことが気恥ずかしくなり、直ぐに商店から出て行くと、おばさんの嬉しそうな笑い声が後ろで聞こえて、エダンが無理やり肩を組んでくる。
「はは。お前、照れてるだろ?」
「照れてない。いいから手を離せ。何で毎回毎回肩を組んでくるんだ?」
「俺はいつもダチにはこうするぞ?ま、細かいことはいいだろ?」
エダンはニヤリと笑う。その後ろでアーデルも商店から出てきて、嬉しそうな笑みのまま僕を見てくる。すると突然目の前から声を掛けられた。
「……セリオン?お前、戻ってきたのか!?」
目の前を見ると、さっき話していた女にモテていた男ジャックが驚いた表情で僕を見ている。いつも周りに引き連れていたはずの女たちの姿は見えず、おばさんの言葉が本当だと確信する。
「……ああ。さっきな」
「……っそうか!それは良かったな!やっぱり平民街は合わなかっただろ?この村の方がいいよな?」
「いや、直ぐに戻るつもりだが?この村は仕事をするには不便だろ」
僕はエダンから無理やり離れて、ジャックに目線を合わせるとジャックは心底驚いた表情を見せた。
「でも、平民街は貴族たちも居て、きついって話じゃないか。この村の方がいいよな?そうだろ?」
「……はぁ。僕が何のためにこの村を出て行ったと思っている?仕事をするためだ。1人でやっていくためにな。それよりお前……商店のおばさんから聞いたが、色々とあったんだろ?学校の時の奴らから無視されているのか?」
「……っ……お前、変わったな。雰囲気が。前はもっとぼそぼそと喋っていてこう……違っただろ。やっぱり都会に行くと変われるのか?強くなれるのか?」
ジャックは僕のすぐ目の前に来ると、熱心に僕を見てくる。そのセリフはこっちのセリフだ。ジャックも前はこんな男ではなかった。何故ここまで今は弱く見えるのだろうか。
前はもっと調子に乗っていて、生きていることを楽しんでいた男だった。
……そうか。平民街に出た後は、僕はそれこそ死に目にまであってきた。僕はこの平和な村では考えられない、全く違う世界を経験してしまったんだ。
僕は目を伏せてから、フッと笑みを見せる。
「……確かに強くはなれるかもしれないな。だがお前が1人でやっていく覚悟がないなら、村を出るのはおすすめしない。誰かの下で仕事しても、貰えるのは安月給だ。最終的には1人で何もかも考えるしかないんだ。これで分かっただろ?村で畑仕事することが、どれだけ幸せか。それにお前には……ちゃんと家族や兄弟がこの村に居るだろう」
「……っでも、お前は1人でやっていけているんだろう?おばさんから話を聞いたんだよな?そうだ。恥ずかしいことに、俺の正体は臆病者だった。俺だって強くなれるためなら、何だってする。それこそ安月給だっていい」
「いいか、僕は平民街で何もせずに安月給を貰っていたわけじゃない。色々とあって……僕は僕自身の力だけで、でかい劇団に名前を売って契約をこじつけ、1人演劇でのし上がった。でも最後に待っていたのは何だったと思う?確かに金は沢山手に入ったが、自分自身を、それで見失ったんだ。僕は最も嫌いだった者になってしまっていた。それに気づいたと同時に、契約を強制的に破棄され、解雇されたがな」
ジャックはそれを聞くと、ハッとしたように僕を見る。横で話を聞いていたエダンは、何故か嬉しそうにニッコリと僕を見てくる。エダンの視線は無視して、ジャックをジッと見つめるとジャックは「……そうか」と呟いた。
「そこまで色々あるのか……解雇は辛いな。そうだよな。そんなに都会は甘くないよな……ありがとう。お前のおかげで目が覚めたよ。俺はこの村で出来ることを考えてみる」
ジャックは項垂れたまま、頼りなく笑ってから後ろを振り向く。そのままジャックが歩き出そうとすると、突然エダンがジャックに声を掛けた。
「おい!ジャックって言ったよな?なぁ、武道には興味ないか?」
「……え?武道?……あんたは誰だ?」
「俺はセリオンのダチだ!ハンサムで強くて筋肉がついていて、どんな女も俺に惚れる最高の男だ。はは。気軽にエダンって呼んでくれ」
(毎回その自己紹介をするのかよ……)
僕に初めて会った時もそうだったが、何故毎回恥ずかしい自己紹介をするのだろうか。そのせいか、ジャックは呆気に取られている。エダンはジャックに近づくとニヤリと笑った。
「強くなりたいその思い、確かにエダン様が感じ取った!お前なら絶対強くなれるぞ!何なら俺が住むところを手配してやってもいい。俺が入っている平民街にある、マッスルハッスル武道訓練場には、専用の寮があるんだ。訓練場では実は人を雇っていてな。お前の望みである働くことができて、給料も貰える。同時に武道も学べて強くなれる。何もかも一石二鳥だ!休日は、皆で集まってパーティもしている。楽しいぞ?どうだ?」
「……え?そんな場所があるのか?いや待てセリオン……どうしてこの人とダチなんだ?お前と全然タイプ違くないか?」
「ああそうだな。それは僕が一番聞きたい……」
ジャックに曖昧に笑っておくと、ジャックは考え込んだ素振りをして、エダンの方を真剣な表情で見る。
「……考えさせてくれないか?家族に相談してみるよ!明日はまだ村に居るんだよな?」
「そうだ、セリオン。明日のいつ帰るんだ?」
「ああ、明日の昼過ぎくらいには戻らないとな。おい、ジャック。あまりエダンの言うことは真に受けない方がいいぞ。こいつは……心底面倒な奴だ。一々うるさくて耳を痛めることになるからな」
「おいおいセリオン!酷くないか?さっきの“大切な友人”って言葉を俺はしっかりと聞いてるぞ?」
「あれは、殆どアーデルに言ったんだ。お前は全体の一割くらいだ一割」
僕とエダンが話続けていると、後ろでアーデルが「あはは!」と笑い声をあげて前に出てきた。アーデルが前に出てきた途端ジャックが驚いた目をしてから、顔を突然真っ赤にさせて、俯き加減で口を開く。
「……え?そちらの綺麗な女性は?はっまさかセリオン……お前の恋人ってわけじゃないよな!?」
「っそうじゃない!!!……いや……僕の友人だ」
「そ、そうか……あの……お名前は何というのですか?レディ……」
ジャックはしどろもどろの態度で、アーデルに声を掛ける。アーデルは微笑んでからジャックに答える。
「私はアーデルよ。そうそう。念のために言っておくけれど、エダンに関わると大変なことになるかもしれないわよ?とっても面倒だからね」
「ちょっ!アーデルまで!俺は流石に傷つきますよ……」
エダンは大げさに項垂れて見せたので、僕は笑ってからエダンに目線を合わせる。
「はっそう言われて当然だろう。それと前から思っていたが毎回毎回あの自己紹介は何なんだ?ハンサムで強くて?女にモテて?恥ずかしくないのか?」
「俺の最高の部分はいつでもアピールして当然だろう!ハンサムで強くて筋肉がついていて、女にモテる。最高だ!後は知っているだろ?好みの女にしか言わない自己紹介があるんだ。それは俺には大層“ご立派”な……」
「―――エダン。黙って」
アーデルは突然エダンの言葉を思い切り遮って冷たく言い放つと、エダンは「……はい」と流石に真顔になっている。僕たちの話を聞いていたジャックは「ははは!」笑い声をあげると、僕たちに目線を合わせた。
「三人共凄く仲が良いんだな!よし、ありがとう。俺は直ぐに家族に相談してくるよ!」
さっきまで頼りなく笑っていたはずのジャックは、満面の笑みを見せてそのまま走って去って行った。僕たち三人は顔を見合わせてから、思わずフッと笑う。
花と手提げ袋を抱えたまま、僕たちは母さんの墓に向けて歩き始めた。
村から出た少し先にある墓場に着くと、僕らの他に誰も姿は見えなかった。どことなく暗い雰囲気が流れており、僕たちは無言のまま墓場に入って行く。村から持ってきたバケツ持って近くの水場で水を組む。暫く母さんの墓は手入れされていないだろう……父さんが頻繁にここを訪れるとは思えない。実際、母さんが亡くなってから父さんは墓場に寄り付こうとしなかった。
あれから父さんは母さんの話題を頑なに話さなかった。何かから逃げようとするように、ずっと無言のままだった。
母さんの墓の前に着くと、現状は思ったよりは酷くはなかった。まさか父さんが来ていたのだろうか。もっと酷くなっているかもしれないと思ったのだが、意外にも手入れされていた。
「……母さん、ただいま」
僕がポツリと呟くと、アーデルとエダンは無言で墓を見つめる。僕は二人に「自由にしていていい」と伝えてから、墓を手入れしていく。綺麗な水で流してから、母さんの好きだった花を置く。そのまま目を瞑って、僕は心の中で母さんに話しかける。
僕が村から出て行った後起きた出来事の全てを……僕の罪の告白を……母さんに心配をかけたいわけではない。ただ……伝えなきゃならないことだと思った。
(母さん……僕は……取り返しのつかない罪を犯しました。貴方はきっと、僕を軽蔑するかもしれません。怒って当然のことをしました。僕は……1人の女性に騙され、奴隷にされそうになり、その憎しみから相手を殺そうとしました。この王国では、兵士達は当然のように殺し合いをしています。昔、貴方は国の戦争状況を聞いて、嘆いていましたね。殺し合いなんてとんでもないと……嘆いていました。僕はその中の1人になりました。でも……殺したはずの女性は生きていました。確かに僕が殺したはずなのに……僕は……僕はこれからどうすればいいのでしょうか)
そこまで思ってから、涙が出そうになり咄嗟に地面に膝をつく。母さんは僕を軽蔑している。墓の前でこんなことを告白して、きっと……僕を怒っている。簡単に女に騙されて、怒りから憎しみに任せて相手を殺そうとする男など、息子ではないと……怒っているだろう。
僕は奥歯を噛みしめてから、目を開いて墓をジッと見る。
今度は心ではなく、言葉で母さんに伝える。
「母さん、すみません……僕は……貴方にとって良い息子にはなれませんでした……」
墓をそのまま見つめても、返事は返ってこない。母さんの笑顔は、四年前のあの日からもう見ることはできない。学校から帰って来て、「おかえり」と迎えてくれた母さんの笑顔……もともと病気がちだった母さんが、病気で起き上がれなくなって、それからたった一年で……母さんは逝ってしまった。僕はもう母さんに抱きしめてもらうこともできない。
「セリオン、貴方は私にとって最も大切な存在よ……そのことだけは忘れないでね……だから……これからは父さんと……」と病気で亡くなる一か月前に泣きながら僕に言った、あの言葉が忘れられない。今思えば、母さんはあの時すでに最期を悟っていたのだろう。
僕は「そんなこと言わないでくれ」と必死に返したが……母さんは泣きながら笑うだけだった。
この世にはもっと死んだ方がいい人が居るだろうに……どうして、どうして神は母さんを奪ってしまったんだ。
不幸話題で馬鹿みたいに引き寄せられ、僕の演劇を見に来た人々……目をギラギラさせて、嬉しそうに不幸話を自分に置き換えて陶酔させて、僕の話題を聞いていた。
そして僕は……僕はそんな人々を見下して、嘲笑っていた。僕はそんな民衆どもとは違い、誰よりも上に立ち名声を得るのだと……そう思っていた。
でも僕は気づかないうちに、自分の舞台に心まで取り込まれ、気づけば民衆と同じ観客席で僕自身を見ていたんだ。僕は僕自身に陶酔して観客席から僕を見て、それこそが僕にとっての価値なのだと……そう思っていた。
そうだ。僕が……僕こそが死ぬべきだったんだ。母さんの代わりに僕こそが……
気付けば、涙が零れ落ちていた。墓を真っ直ぐに見ながら、僕は涙を流していた。
僕は地面に身体ごと突っ伏して、何度も何度も母さんに謝る。
「母さん、ごめんなさい……ごめんなさい、本当にごめんなさい……僕は……僕は貴方を裏切りました……ごめんなさい、ごめんなさい……」
地面の土に頭を擦りつけて、母さんに何度も罪を懺悔する。勝手に嗚咽が漏れ始めて、僕は涙を止められなかった。突然肩に手を置かれる感覚がして、僕はハッと顔を上げる。
「……セリオン」
アーデルは涙をこらえるように顔を歪めて僕を見ていた。アーデルは何も言わずに、もう一度木の下で抱きしめた時のように僕を抱きしめた。僕はアーデルに縋り付いた。かっこよくない男の行動だ。女が軽蔑する男の行動だ。でも僕に止める術はなかった。ただ目の前の彼女に身体をすり寄せて、僕自身を受け止めて貰うことしかできなかった。
そうだ。僕は母さんが亡くなったあの日から、ずっと死にたかったんだ。死んでしまえば、この悲しみも苦しみも終わるのだから。母さんの元に行って、もう一度抱きしめて貰うことができる。
マリアを愛し、マリアに騙されて憎しみから彼女を殺し……僕はそれからずっと死ぬ道を探していた。だが憎しみから起きた死への気持ちは、きっかけに過ぎなかった。僕は、母さんが亡くなったあの日から、ずっと死にたい思いのまま生きてきたんだ。
自分ではどうにもできない悲しみと苦しみを、誰かにただ受け止めて貰いたかった。
その事実に気づくと、僕はアーデルからゆっくりと離れた。アーデルは心配そうに僕を見ていたが、僕は自分の涙を拭ってから、ようやく首を横に振る。
「……アーデル、ありがとう。もう大丈夫だ……」
「セリオン……いいのよ。ずっと抱きしめてあげるわ……」
「……もう、いいんだ。僕は……ずっと気づいていなかったことに、今になって気がついた。だから……もういいんだ」
僕はアーデルから離れて、ゆっくりと立った。もう一度母さんの墓を見つめてから、丁寧に礼をした。僕の懺悔の思いと、感謝を込めて……
「母さん……僕を愛して育ててくれて……ありがとうございます……」
しっかりと母さんの墓に向かって伝えた。僕が小さく「行こう」とアーデルに伝えると、ようやく母さんの墓から目線を逸らして、後ろに振り向いた。
振り向くとエダンが静かに此方を見ている。僕が墓の前から離れると、何故かエダンは朦朧とした表情で何も言わないまま、母さんの墓の前に立った。
僕はエダンの行動をジッと見ていると、エダンは何も言わないまま、目を瞑った。
そのままどういう訳か、フッと笑みを見せる。エダンは僕の方を見て口を開いた。
「母親に伝わっているさ……お前の思いは……お前の母親はお前を……今も愛している」
「……何でそんなことが分かる?」
「……感覚だな。俺の場合は……何となく、分かるんだよ。何となくだがな」
エダンは笑みを見せたまま、僕の方に来てから僕の肩に軽く手を置いた。そのまま手を離して、何も言わずに歩き出してしまう。
僕とアーデルは顔を見合わせてから、エダンの方に向かって歩き出した。
墓場を出てから、僕たち三人は無言のまま歩いていると、突然前から黒い不思議な恰好をした中年くらいの黒髪の男が此方に向かって歩いてくる。村では見たことがない、知らない男だ。僕たち三人を見た途端、男は突然立ち止まった。
「……ちょっとお待ちください」
男はジッと僕を見てくる。僕が不審に思いながら男を見ると、「ふむ」と考え込むように僕を見つめてくる。
「墓場からの帰りですか?私も今そこに向かう予定だったのですがね……ああ勿論、浄化のためにですよ。あそこは魔の空気が流れておりますので。ですが今……貴方自身に重大な魔が憑いております!!!」
「……は?」
僕は悲しみの気持ちを引きずっていたため、面倒そうに男を見ても男は「ふーむふむふむ」と考え込んだ素振りをしながら僕を見てくる。
「これは大変まずいですね……貴方は心の中で無意識に抑えている気持ちってあったりしませんか?ありますよね?貴方に憑いている魔の力が貴方の心を抑えつけているんです。今も貴方を貪ろうとしています!!!これは一刻も早く祓わなくては!!!」
(まずいのは、お前の頭の方じゃないか?)
僕は男のことを冷静に判断し、そのまま男を無視して通り過ぎようとすると、何故かエダンは興味深げに男を見てから、ニヤリと笑う。
「へぇ。魔が憑いているのか?セリオンに?どんな魔なんだ?」
「おい、エダン!!!変なのに関わるな!!!」
「ふっ……まだやはり幼いですね。私は変なのではありませんよ。貴方には理解できないかもしれませんが……私は師匠の元で修行をしておりました。魔を祓う修行をね。私は手に剣を携えて……魔をそのまま消し去ることが出来るんです。木端みじんにね……魔の正体に、私に切られたことを気づかせないほどに……」
「ほうほう剣を?どんな風にだ?」
エダンは男に妙に興味を示しはじめる。もういい加減にしてくれ。僕はさっさと実家に戻りたいというのに。エダンのせいか黒髪の男は調子に乗り始める。
男はフッと笑みを見せてから、突然「はぁぁぁぁ」と声を出し始める。右手に力を込めてからカッと目を見開く。
「はぁぁぁぁぁ!!!……はぁはぁ。ほら剣が出ました。貴方の心の魔をこれで!!!はぁぁぁぁぁ!!!」
男は見えない空気の剣を僕に向かって振り下ろすようにして、僕に向かって切りつける素振りをする。僕がただそれを呆然と見つめていると、男は呼吸を激しく荒げた。
「むむっ!!!貴方の魔は強い!!!強すぎる!!!この剣では……切れません!!!」
「ははは!!!いいぞ!!!次はお前自身についている剣でも使ってみたらどうだ?」
「私についている剣とは?私は剣を生み出して、魔を切るのですよ?」
「はは!!!男には元からついているだろ?最も大事で……最も誇れる……」
エダンがニヤニヤし始めたと同時に、アーデルは死んだ目でそれを見ると、アーデルだけ無言で歩き始めてしまう。僕もまたアーデルの横について歩き始めると、エダンはわいわいと騒ぎ始める。
「あー!!!魔が逃げていくぞ!?ほら、お前自身の剣を使え!!!」
「……っ流石にこの剣は使えませんよ!!!何をおっしゃるんですか!!!しかしどうすれば……魔が逃げてしまう!」
「だから使うんだよ!!!お前自身の真の剣をな!!!」
「それは無理です!そんなものでは切れないこと分かっているでしょう!それに、女性の前で何てことを言うんですか!」
アーデルは男の発言を聞いていたのか、「エダンには女性の前での心構えを、分かって欲しいわ……」と死んだ目のまま小さく呟いている。
僕としては、今のネタは案外面白いとは思うがな。エダンには絶対に伝えはしないが。
後ろから男とエダンが追いかけてきて、エダンは何故か男を応援し始める。
「ほら行け!!!切れ!!!お前自身の真の剣を見せるんだ!!!」
「くっそれは女性の前では出せません!!!なので私はもっと修行をせねば……」
「修行?男の剣の使い方のか?」
「そうそう!男の剣の……いえ違います!!!何てことを言わせるんですか!魔を祓う剣ですよ!私が生み出す剣です!」
「もうついているんだから、生み出す必要も何もないだろ?もしかしてもう一本サービスをしようとして……」
二人が掛け合いしながらついてくると、とうとうキレたアーデルが思い切り後ろに振り返って、地響きが鳴り響きそうなほど大声を出した。
「二人共黙って!!!黙らないとぶっ飛ばすわ!!!」
アーデルから「ぶっ飛ばす」なんて発言が出てくるとは思わなかった。僕が唖然と口を開けてアーデルを見ると、アーデルは息を荒げて男二人を見ている。
エダンは真顔になって「ごめんなさい」と頭を下げて、黒髪の男は心底アーデルの怒りに冷えたのか「墓場の浄化に行かねば……」と逃げて行ってしまう。
エダンはその後、ははっと笑って余計な一言を言った。
「今のアーデルの気迫は……どんな剣よりも魔を吹っ飛ばすな……はは……」
アーデルはエダンをキッと強く睨みつけてから、昔エダンに絡まれた教会の前の時のようにズンズンと歩き出す。
僕はエダンとは部外者で、ネタに面白いと協調しなかったという素振りでアーデルに無言で着いて行く。
(確かに男が剣を生み出したら……もう一本サービスになるな……くくっ……)
心ではエダンの言葉に笑いながら、必死に追いかけてくるエダンを無視してアーデルと共に実家に向けて歩き始めた。
実家の前に着くと、僕は家の前で一度深呼吸をした。懐からずっと使っていなかった実家の鍵を取り出し、ゆっくりと鍵を開ける。鍵は簡単に開き、扉を開ける。緊張しつつも家の中に入って行くと室内は薄暗い。もう夕方になるのだから、蝋燭にそろそろ火を点けるべきだろうに。
「……父さん?いるのか?」
暗い室内を歩くと、何かに足が躓く。転んでしまいそうになったが、何とか耐えて床を見ると、無造作に空の酒瓶などのゴミが積まれている。室内は食べ物が腐ったような生臭い臭いが立ち込めており、思わず鼻を手で塞いだ。
今まで家の仕事は母さんがしていた。母さんが病気がちになり、寝込むようになってしまった後は、父さんは村での仕事に行っていたため、僕が代わりにやっていた。まさか僕が出て行った後、一切家のことを何もやっていなかったのか?
その時、二階から物音がして階段を降りてくる音が聞こえる。僕は階段の方向を見ると、ボサボサ髪の父さんが眠そうな目を擦りながら現れた。
「……っ!?お前……」
父さんは僕を見るなり驚いた表情を浮かべる。そのまま静止したため、僕が先に口を開く。
「……父さん、あー……帰ってきたんだ。母さんの墓に顔を見せるために……」
父さんに会いに来たわけではなく、母さんの墓のためにやってきたと言い訳がましく呟く。
父さんは眉を寄せたまま僕を見てから、頭を少し掻く。僕の後ろを見てから、ようやく口を開いた。
「後ろは?誰だ?」
「……僕の友達だ。平民街から来てくれたんだ。名前は……」
僕が後ろのアーデルとエダンを紹介しようとする前に、何故かエダンが前に出て、大声で話し始めた。
「こんにちは!!!いや、もうそろそろこんばんはか……ま、どっちでもいいか。俺はエダンです!!!後ろの美しい女性がアーデル。どっちもセリオンの友人です。俺はハンサムで、筋肉が最高なことで平民街の中で一躍有名です!!!どうぞよろしく!」
エダンが謎のポーズを取りながら、父さんに話しかけると、父さんは何も言わずにエダンを不審げに見ている。父さんに冗談の類は全く通用しない。不機嫌そうな表情をするだけだ。しかしエダンは父さんの嫌そうな表情に全く気付いていないのか、突然部屋の中にズカズカと入り、家の窓を次々と勝手に開け始めた。それと共に爽やかな空気が室内に入ってくる。
「よっしゃ、これでよし!!!この家を見ると、俺の友人の家を思い出しますよ!!!大量にゴミを放置したまま、家の中に居たもんですから、俺がまずしたこと分かりますか?窓を開けたんですよ!空気爽快!!!」
エダンは笑顔で父さんに話しかけているが、父さんは無言のままだ。いくらエダンでも父さんと話すことは無理だろう。いい加減諦めたらいいだろうにと思ったが、エダンはしつこく父さんに話しかけている。
「実はセリオンのお父さんに、セリオンからの差し入れがあるんですよ!ほら、これです!」
何故かエダンは僕から酒の入った袋を奪い取り、父さんに差し出す。父さんは、不審げにエダンを見たまま、それを受け取って中身を見るなり目を見開いた。
「……これは、誰が考えた?」
「差し入れすることを考えたのはセリオンで、その酒を選んだのは俺ですね!」
「……そうか。趣味が……分かっているな」
父さんはエダンを少し見てから、ほんの少しだけ顔を綻ばして袋の中身を見る。僕を見てから、後ろのアーデルを見ると、淡々と話し出す。
「後ろの女は、お前の女か?」
「……っは?いや!!!いや、違う!!!」
「……随分と分かりやすく否定したな。まぁいい……少し待っていろ」
父さんは再びため息をついて、黙々と床に散らばっているゴミを片付けていく。見かねて僕もゴミを拾い始めると、父さんは不機嫌そうに「お前はやらなくていい」と言ってきたが、僕は無視して片づけを進める。エダンもゴミを拾い始め、後ろで遠慮がちに見ていたアーデルもゴミ拾いに参加する。まさか実家に帰って来て、まず初めにすることが「ゴミ拾い」になるとは思ってもいなかった。
三十分ほどで、一階のゴミは全て広い集め、軽く袋にまとめる。僕は思わずため息をついた。
「……どれだけ何もせずに放置していれば、この量になるんだ……まだ隅の方には残っているしな。まさか僕が出て行った後に、掃除を何もしていなかったのか?」
「必要最低限だけだ。生活できるなら、それで構わない。お前……何でここに帰ってきた?」
「…………」
僕は流石に何も言えなくなり、口を閉じる。二年前、僕が一方的に父さんに罵声を浴びさせてから、荷物を持って村から出て行った。村から出て行くときも、父さんは何も言わなかった。僕にとことん関心がないのだろう。母さんが居た時の家の中は、母さんのおかげで明るかった。母さんが居なくなってしまった後は……家には何もなくなった。殆ど僕に話しかけもしない父親と二人きりだ。誰もが絶望する状況だろう。
久しぶりに帰ってきた息子に言う言葉がそれか?「何でここに帰ってきた?」と文句のように言われて、僕は流石に自分の父親ながら、心底呆れた。
「お望みなら、僕は直ぐに帰るが?母さんのところに顔を見せられたんだ。もうここでやる用は済んだしな」
僕がため息をついて、父さんを睨みつけると、父さんは眉を寄せたまま何も言わない。そのまま睨み合っていると、エダンが僕の傍に来て話始める。
「来たばっかりなのに、今帰るのは流石につまらんだろう!ほら、酒もあるんだ。パーティしようぜ?商店の人から、食材は貰ったんだろう?」
「……まぁ、そうだな。僕が何か作るから、適当にくつろいでいていいぞ。座る場所は適当に見つけてくれ」
「ねぇセリオン!私も料理の手伝いするわ」
アーデルから声を掛けられて、僕は振り向く。正直に言えば料理はあまり得意ではない。1人暮らしを始めてからはいつも定番メニューだったし、アーデルが入ってくれれば助かる。父さんはこの様子だと何もやる気はないのだろう。父さんはさっさと椅子に座り、持ってきた酒を無言で出し始めている。
「分かった。一緒にやろう」
「ええ!厨房は何処なの?」
「こっちだ」
アーデルを厨房まで案内するが、ここの惨状も酷いものだった。腐った食材が散らかっている。僕は大きくため息をついて、ゴミを軽く片付ける。幸い火にくべる木はまだ残っていたので、それを取って調理場に置くと、火をおこしていく。その間にアーデルは動いてくれており、水を井戸から汲んできて商店の人がくれた野菜類を洗っている。
石を暫く打ち鳴らすと、火がついたので風を送って火を調整してから、厨房に置いてある鍋を取る。父さんは一切鍋を使った料理はしていなかったのだろうか。鍋には埃が被っていて、使われていない様子だった。
(鍋料理は母さんが良く作ってくれていたな……)
母さんが作ってくれた、野菜が沢山入ったスープは美味しかった。祝い事の日にはそれにウサギ肉を焼いた物がついて、豪勢だった。昔の楽しかった日を自然と思い出す。汲んできてくれた綺麗な水を鍋に入れていくと、アーデルは既に野菜を切り始めている。
「セリオン、今日はスープにするの?商店の人がくれた物の中に、パンが何個か入ってたわ。メニューはスープとパンでいいかしら?」
「ああ、そうだな。スープと、パンにしよう。いつもの感じだけどな」
「……ええ、そうね」
アーデルはトントンと音を立てて野菜を包丁で切りながら、寂しそうな表情を浮かべた。僕はそれに不思議に思い、アーデルの方を見る。
「……どうした?」
「……実はね、家から出る前は料理をしたことがなかったの。全部料理人にやってもらっていたのよ。新鮮な食材を選ぶ方法も、野菜の切り方さえ分からなかった。恥ずかしい話だけどね」
「そうなのか?アーデルは随分と手慣れているように見えたが」
「ふふ、これでも凄い練習したのよ?ベルにやり方を聞いたの。一生懸命頑張ってここまでの実力になった。家から出なかったら……私は一生料理ができないままだったでしょうね」
アーデルは笑ってはいるが、やはりどこか寂しそうだった。その様子を見て、やっと気づいた。アーデルは家に帰りたくないのだろう。
「皆のようにただ日常を過ごしてみたい。その願いはもう叶ったからいいんだわ。私はもう十分楽しんだ。平民街での生活はとても大変だったけど……窮屈な屋敷にいるよりも、楽しい思い出だったわ。それだけで十分なのよ。さ、続きに取り掛かりましょ?」
アーデルは手を鳴らすと、そのまま野菜を切っていく。僕は鍋を見ながら、アーデルに話しかける。
「……アーデルの屋敷は何処にあるんだ?地図を書いてくれると助かるんだが……」
「……本当に、来てくれるつもりなの?」
アーデルは驚いたように僕を見つめる。僕はアーデルの方を見て、頷いた。
「ああ。行くってさっき言ったろ?貴族街に潜入するためには、作戦を立てる必要があるだろうから、時間はかかるかもしれないが、必ず行くから」
「……ありがとう、セリオン。嬉しい……嬉しいわ。地図は後で書いて渡すわね」
アーデルは顔を綻ばせて笑ったため、僕は咄嗟に顔を熱くさせてしまう。そういえば昔カーティスに貰った、貴族街に入るためのバッジが使えるかもしれない。確か僕の家の棚に閉まったままだったはずだ。
それからアーデルと二人で協力して料理を作っていき、やっと料理は完成した。僕はスープの入った鍋を持って元居た部屋に持っていくと、部屋の様子を見て驚愕した。
「それでは行きます!!!もう一回一発芸!女の尻を叩きすぎた男!!!」
エダンは何故か下着姿で、椅子の上に乗っており、父さんはグラスを持って酔いつぶれながら手を叩いている。父さんは顔を真っ赤にさせながら「いいぞ!行けエダン君!!!」と全く見たことのないテンションで笑っている。エダンは満面の笑みのまま、空中で尻を叩く動作をしている。
「やぁそこのお嬢さん!美しいですね!おや?そっちのお嬢さんも美しい!俺の全身が貴方を求めてやみません!!!え?尻を叩いてもいいって?よし、ちょっとお待ちください……俺は特別な剣を生み出す必要があるんです!!!はぁぁぁぁぁぁ!!!」
今日会った変な男の真似だろう。エダンが両手を広げて謎のポーズを取ると、父さんは例え酔っぱらったとしても見せたことのない大笑いをしている。
「よし!!!剣を生み出せた!!!いや、待ってくれ!これじゃあ女に二本サービスってことになっちゃうじゃないか!!!こりゃ参った!!!」
「おいおい!女二人に両方使えばいいじゃないか?」
「セリオンのお父さん!良いこと言いますね!!!両方使えば美しい女は俺のもの!よいしょー!!!」
エダンは謎のポーズを取りながら、椅子の上で飛び上がる。僕と後ろからやってきたアーデルが唖然とその様子を見ていると、ようやくエダンは此方に気づいた。
「おっ食事はできたか?悪いが、酒を先に楽しませて貰っていたぞ!ははは!!!」
「いや……酒を楽しむとか以前に、これはどうなっているんだ?」
「どうなっているって、一発芸大会してるんだが?参加者は俺1人、審査員はセリオンの親父さんって感じだな!」
「……は?」
僕はとりあえず重い鍋をテーブルに載っている木の板の上に置いてから、恐る恐る父さんの方を見る。父さんは顔が真っ赤のまま腹を抱えて笑っている。僕は父さんを見てから、エダンをもう一度見る。
「……父さんに何をした?」
「何って一発芸を披露しているだけだが?何かあったか?」
「いや……」
父さんは腹を抱えながら「次のを早くやれ!!!」と手を叩いている。エダンは父さんのリクエストに答えたのか、今度は謎の歌を歌い出す。よく聞けばそれが教会で歌われている、聖歌だと言うことが分かった。しかし不協和音の大声で歌ったため、全く聖歌のように聞こえない。しかも所々変な替え歌をされている。
「かりそめーのよるがー!!!いま!!!おとずれる!!!あなたのしりにー!心が灯る!あなたは無条件に守られている!いよ!神の名が尻に舞い降り、神の言葉があなたにつたえられる!!!尻は終わりを告げるだろう!あなたと尻によって!へい!」
(これは聖歌の侮辱に繋がりそうだな……教会の関係者がみたら……あっ)
僕は恐る恐るアーデルを見る。案の定アーデルは肩をわなわなと震わせており、これは大変まずい。しかし父さんは聖歌の替え歌がよっぽどウケたのか、テーブルをダンダンと叩いて大笑いしている。そもそも父さんがここまで笑ったことは、人生で一度も見たことがない。
「いよ!!!いいぞ!!!尻の聖歌ってわけか?」
「そうです!!!尻こそ聖なる女の部位ですよね!!!神聖な美しい……」
「……いい加減にしてよ、エダン!!!」
等々アーデルは怒ったのか、エダンに大声を出す。エダンはキョトンと首を傾げてくる。
「ん?何ですか?美しいアーデル」
「こんなのってないわ!聖歌を侮辱するつもり!?」
「別に侮辱するつもりはないですよ!尻と聖歌をかけただけで……」
「それが侮辱っていうのよ!神がそんなことをお許しになると思うの!?神は神聖なものなのよ!それをそんな低俗な歌にして!!!神はお怒りになるわ!!!」
アーデルは神を侮辱したと怒っているが、エダンは笑ったまま、アーデルに答える。
「そんなことでお怒りにはならないですよ!そこまで厳しくはないでしょう」
「貴方にそんなことが分かるわけないじゃない!神はお怒りになるわ!神は、とても温厚な人柄で神聖なものとされているのよ!それを……貴方は!!!」
「落ち着いてくださいよ、美しいアーデル……神には俺も会ったことはないから分かりませんが、ま、大丈夫でしょう。もしかしたら、一緒に尻でもふりながら踊ってくれるかもしれませんよ?こんな感じに!!!」
エダンは相当酔っぱらっているのだろう。今度はいきなり踊り出した。父さんのように顔には出ていないが、グラスはエダンの分も置かれている。アーデルもそれが分かったのか、大きくため息をついてから、鍋から木の器にスープを分けていく。
「こんな男は放っておいて、早く食べちゃいましょうセリオン」
「……ああ、そうだな」
「え、俺の分はないのか!?そんなに美味そうなスープなのに!?」
「食べたかったら、早く服を着なさい!!!」
アーデルはビシッとエダンに言い放つ。まるで小さな子供に言うような説教に僕は思わずプッと吹き出してしまう。
気付けば父さんは、テーブルに突っ伏したままいびきをかいて眠り始めている。まさかこんな変な父さんを見ることになるとは……エダンは本当に父さんに何をしたんだ。
「父さん?寝たのか?飯は、いらないのか?」
「ぐがー……」
父さんに声を掛けても、大きくいびきが聞こえるだけだ。僕が父さんを呆然と見ていると、エダンはワイワイと出来上がったスープに騒いでいる。
「セリオンと一緒に作ったのか?早く食べたい気分だ!」
「……ええ、そうね。早く服を着て」
「よし分かりました!服を着ましょう!貴方のために!!!」
エダンは小躍りしながら、床に落ちていた服を拾いやっと服を着ていく。それからスープの匂いを大げさな仕草で嗅ぎ始める。
「おー!!!こりゃ美味そうな匂いだ!最高だな!!!」
「……ええ、早く椅子に座って」
「もう少し食事前に楽しんでもいいだろう?せっかく美味そうな食事なんだ。俺は楽しみたい!」
「いいから黙って座りなさい!!!」
アーデルは怒ってエダンに言う。エダンは大げさに驚いた表情を見せると、ようやく大人しく椅子に座った。まるで、はしゃぎまわる子供に言うような説教言葉に、僕は再び笑ってしまう。
「……くくっ……アーデルとエダンは何をしているんだ……」
「何って、エダンが変な歌を作ったから!!!あら?セリオンのお父さんは眠っちゃったのね……その分のスープとパンは取り分けておきましょう」
アーデルはパンとスープを別に取り分けてから、ようやくアーデルも椅子に座る。僕も椅子に座ると、アーデルは両手を組んでから熱心に祈り出す。
「リネノール神よ……大切な恵みをありがとうございます。貴方の思いを受け止め……って何でもう食べてるのよ!?」
アーデルはエダンを見て目を見開いて驚く。エダンは既に取り分けられたスープを食べていた。エダンは首を傾げてアーデルに答える。
「ん?美味そうだったからな。もういいだろ?」
「祈りの途中よ!!!馬鹿ね!!!さっきから何なのよ!」
「アーデルは案外信仰心があったんだな?ま、大丈夫だろう。感謝の心は神に伝わってるさ。言わなくても十分な」
「そういう問題じゃないの!これは大切な祈りの儀式なのよ?はぁ……もういいわ……感謝致します……食べましょう」
アーデルは大きくため息をついてから、スープに口をつける。食事前に正式に祈ったことなど一度もなかったが、祈るっていうのも新鮮なものだと思いながら、僕もスープに口をつけてみる。これは中々に美味く出来た。アーデルに教わった通りの調理法にした途端、普段よりも格段に美味い。
ガツガツと食べるエダンを見ながら、僕は声を掛ける。
「エダン。父さんに何やったんだ?僕はこんな父さんを今までに見たことがない」
「……ん?……ふやぁあ、しょれわな……」
「……飲み込んでから話せ」
僕が冷静に突っ込みを入れると、エダンはもぐもぐと食べ物を飲み込んでから、ようやく普通の言葉で話し出す。
「さっき言った通り、一発芸を披露しただけだ。酒のツマミには笑い話って言うだろ?俺は笑っている人を見るのが好きなんだ。それで披露したらセリオンの親父さんは笑ってくれた。そんな感じだな」
「父さんが笑うのは初めてだ……しかもあんなくだらないことで笑うなんてな……」
「じゃあお前も試してみればいいだろ。お前も人を笑わせるのが好きなタイプだろ?」
エダンは何でもないことを話すように突然話してくる。何故そのことをエダンは知っているのか。昔、確かに僕は人を笑わせることは結構好きだった。だがそれを人に話したことはない。
「……何で、そんなことが分かる?」
「何となくそう思っただけだ。劇を披露しているのも、結局は人を楽しませたいんだろ?動機は色々とあれどな。お前は劇を使って、人々を利用しているって前に言っていたが、お前の本心は純粋なもんだ」
「……っいや……僕は民衆を欺いている……それで……」
「欺く、か……ま、お前がそう思いたいならそう思っておけばいいさ。お前の本心は純粋で、人を笑わせたい気持ちを持っている。それで十分じゃないか?」
エダンは笑ってから、再び食べ始める。一気に食べ終わらせると、「スープ、お代わりしていいか?」と呑気にアーデルに聞いている。アーデルはため息をついてから、スープをエダンによそってあげている。
僕は何故、エダンにこんな馬鹿なことを言われて動揺している?僕が純粋?確かにエダンは事あるごとに僕のことをそう言っていた。昔は確かに純粋だったかもしれない。だが今は違う。劇を使って民衆を利用しているだけだ。これは商売なんだ。
確かに劇に純粋に憧れて16歳の頃劇団に入った時期もある。酷い劇団だったが、純粋に夢を追っていた時もある。
しかし今は、僕は汚れてしまった。汚れたからこそ、この商売を見出せた。僕は汚れきった自分を力に変えて、今まで生きてきたんだ。




