I LOVE YOUとアンブレラ・スカイ
傘を開いて目で追った。I LOVE YOU、I LOVE YOU――
この雨傘は二重張りになっていて、外側は無地の紺色だが、開くと裏地は淡い水色だ。そして、その淡さに消え入りそうなこれまた淡い桃色で、『I LOVE YOU』という文字が筆記体で散りばめられている。
初めて目にしたときには驚いた。この傘の持ち主からは想像がつかなかったからだ。
3日前、この傘を貸してくれたのは見知らぬ男性だ。最初は不審者かと思った。学校帰りの田舎道、路肩に停車中の乗用車。歩いて横を通り過ぎたら、中から出てきた人に呼び止められた。
「ねえ、ちょっと」
ぎょっとした。夕暮れどきの人気の少ない場所で下校中の女子高生に声をかけてくるなんて、不審者!?
今すぐ走って逃げるべきか、いや、でも道を聞きたいだけかもしれないし。いや、でも車ならカーナビあるだろうし、なくてもスマホに聞けば済む時代だし、やっぱり逃げ……
「この傘使って」
「え?」
「雨足強くなってきたから、びしょ濡れになっちゃうよ」
「いえ大丈夫です」
「大丈夫、大丈夫、遠慮しないで。あっごめん、電話がかかってきた。持ってって。返さなくていいから」
男性は持っている傘を私に手渡すと、着信中のスマホをポケットから取り出し、「もしもし」と通話を始めながら車へ向かい、乗りこんでしまった。
その強引さに唖然とした。どうしたものかと車内の男性を窺ったが、もうこちらを見ようとしない。話し込んでいる様子が、車窓越しに見てとれた。
じゃあしょうがない、せっかくのご好意に甘えることにしよう。
思いがけず雨に降られ、困っていたことは確かだし。バスを降りてすぐにポツリポツリと降りだした雨は、今は小雨だが、だんだん雨粒が大きくなってきた。
そう感じながらも悠然と構えて歩いていたのは、目的地の家までは走ってどうにかなる距離でもなく、田舎ゆえコンビニも遠く、例え目前にコンビニがあったとしても、そこで安易にビニール傘を買うなどという選択はしない。
今やSDGsの時代だし、ビニール傘を無駄に増やして親に嫌味を言われるくらいなら、そのお金でコンビニスイーツを買って食したい。大人にとっての何百円と、金欠少女にとってのそれは同価値ではないのだから。
「えっ、それってもしかしてナンパ?」
家に帰ったあと、姉にその日の出来事を話すと、好奇心丸出しの瞳で問われた。
「違う。通りすがりの親切な人」
連絡先を聞くことも名乗りもせず、通話しながらさっさと車へ戻った彼には、お礼を言う隙もなかったのだ。
「へえ、親切な人もいるもんねえ」
「うん。でね、その傘なんだけど、一見シンプルな紺無地なんだけど、開くと内側がパステル調で、メルヘンなの。女物っぽいんだけど、何でだと思う?」
「えっ、その人の傘じゃなくて、カノジョの傘とか? 勝手に貸しちゃまずいじゃん」
「だよねえ。もし人の傘だったら、貸して大丈夫だったのかなって、後から気になって……。でも返しようがないし」
「あっ、分かった! SNSで捜せばいいんじゃない? その傘の写真をアップして」
「えっ、そんな大袈裟なのは。そういうの勝手に拡散されるの、嫌がる人もいるじゃん。多分嫌がるタイプだと思う……」
親切な人だったが、とても素っ気なかった。それにハッキリと言われたのだ。傘は返さなくていいと。
じゃあ、もしかして別れたカノジョの忘れ物かもねと姉は言った。「処分できず困ってたのかもね」
「とりあえず見せてよ、その傘」と言われ、乾かしていた傘を姉にお披露目した。
「わあ~ほんと可愛らしいね。内側が。ていうかこれ、I LOVE YOUって書いてあるじゃん。えっ、もしかして告白!? ナンパじゃなくて、告白なんじゃない? 花蓮に」
「ないない、んなわけないじゃん。たまたま通りすがりだよ?」
「いや、分かんないよ? たまたまを装って、花蓮を待ち伏せしてたとか」
いやいや、その説には無理がある。私の下校時刻は日によってまちまちだし、寄り道して遠回りすることもあるし、待ち伏せは非効率だ。
それにわざわざ雨の日を待って、しかも私が傘を持っていないことを見込んで、I LOVE YOUの傘を用意しておくなんて、そんな遠回しすぎる告白の仕方って有り得ない。
大体、その告白の返事はどうすればいいのだ。
「それはまた偶然を装って現れるんじゃない? また学校帰り、待ち伏せしてるかもよー」と姉が面白がって言い、話を聞いた母親が本気で心配を始めた。
「何あんた、ストーカーに遭ってるの?」
「遭ってないよ。ちゃんと話聞いた? 親切な通りすがりの人が傘を貸してくれたって話」
「でも若い男の人だったんでしょう? 車を停めて待ってたって。怖いわね。気を付けるのよ。今度同じ車を見かけたら、近付かないですぐに連絡するのよ。分かったわね」
心配性の母親が眉をひそめ、大袈裟だなーと姉が笑った。
そんなやり取りがあったため、それからしばらくの間、下校時には妙に緊張した。あの人がストーカーだとは思わないが、もしかしたら傘を取り戻しに来るかもしれないと思ったからだ。
しかし春が過ぎて梅雨になり、本格的に雨の季節になっても、夏が来て日傘の要る季節になっても、彼が現れることはなかった。
そして夏休み明け、私たち高校生は文化祭の準備に追われている。
新型コロナの影響で昨年度の文化祭は中止、今年度は展示を中心に開催される。以前は文化祭といえば飲食の模擬店が中心で、人気があった。接客が楽しく、売上の目標もあり、クラスで一致団結して盛り上がっていたそうだ。
しかし新型コロナのせいでイベントは軒並み中止か縮小。入学前に思い描いていた高校生活と、現状との差が大きい。
だから今年度は文化祭が開かれるとはいえ、模擬店なしの展示のみという形で、みんなのテンションは低い。
文化祭実行委員の私は、他の委員の子たちと額を突き合わせ、どうしたら皆の気持ちが明るくなるか、話し合っていた。
「校舎全体を生かした、大きい展示は?」
「一目見て、おおーって思うような」
「感動する系の」
「大きくて、見上げる感じがいいよね」
「巨大ロボとか!」「いいね!」
「でも今から作るの大変じゃない?」
「予算も」「無理かも」
意見を出し合う内に、ぱっと閃いた。閃光のように脳裏を照らしたのは、いつかネットで見た、外国の風景写真だ。
「傘! アンブレラ・スカイ!」
これしかないと思った。
「何それ」
「カラフルなビニール傘をたくさん空に吊るして、下から見上げるとすっごく綺麗なの。傘で作るアート、アンブレラ・スカイ」
説明し、スマホで検索してその画像をみんなに見せた。わあっと歓声が上がる。
「綺麗!」
「いいねえ!」
「実際に作って、見てみたい」
「感動するだろうね」
「ビニール傘なら予算も大丈夫かな」
全員一致の賛成で、先生に企画を提出することが決まった。
「それにしても花蓮、よく思いついたね。何で傘アートに興味あったの?」
友達の安奈に聞かれ、傘アートに辿り着く経緯となった傘のことを話した。
「内側から見上げたときに、外側から見るのと全然違った景色があるんだなぁって、その傘を見て改めて思ったの。それで、そういう仕様の傘を色々見てみたくて、画像検索してたら、アンブレラ・スカイが出てきて、そういうアートがあるんだって知ったんだ」
「へえ、そうなんだ。さっきの画像、めちゃ綺麗だったもんね。実際見たらもっと感動するだろうなあ。すごく楽しみ! ほんと良かったあ、展示なんて何やっても退屈って思ってたから」
安奈がそう言って笑った。私も完全に同意見だ。この先が楽しみでならない。
それからの私たちは一致団結してせっせと行動し、全校生を巻き込んで、アンブレラ・スカイという大型展示を作り上げた。
校舎間に透明のワイヤーを通し、そこに色とりどりのカラフルなビニール傘を吊るし、それはまるで空に浮いているように見える。
地上から見上げるととても立体的で、幻想的な芸術だ。ビニール傘は日光を透かして、赤青黄色、オレンジや緑色の、カラフルな色を地面に投影する。ステンドグラスのようだ。
それを目にした人々は口々に歓声を上げ、満面の笑みを浮かべ、記録に残そうとスマホをかざす。その光景は私たちの記憶に残り、かけがえのない高校生活の忘れられない想い出となった。
使用したビニール傘は文化祭後は学校の貸し傘として再利用され、急な雨に困る生徒を救った。
そして月日は流れ――……
「わっ、その傘……」
私の傘を見て驚いた顔をした会社の先輩に驚いた。
「ああごめん、昔妹が気に入ってた傘と全く一緒だったから、すごい偶然だなと思って。俺、それを自分のと間違えて持って出て、人にあげちゃったんだよなあ。すげー怒られて、同じの買わされたからよく覚えてる」
それを聞いて心底驚いた。本当に凄い偶然だ。世間は狭い。
3つ年上の明島さんは地元の国立大を出て、東京本社で2年働いて、地元の支店へ異動してきた。つまりあの頃は大学生だったのか。
「それはすみませんでした」
「え?」
「この傘、その傘ですよ。明島さんが傘をあげた相手って、帰宅途中の可愛い女子高生だったでしょう? それ私です」
「えええっ、本当に!? ごめん、可愛かったかどうかは覚えてないけど、確かに帰宅途中の女子高生だった」
明島さんはまじまじと私を見て、えええともう一度驚いた。
「まじかー、すごいびっくり。もはや『運命の赤い糸』レベルの再会じゃん。付き合っちゃう?」
「ちゃいません。ああ、あの時の明島さんはあんなにクールだったのに、ああ神様、年月は人を変えてしまうのですか」
「うるせーわ。ていうかその傘、あれからまだ使ってくれてるんだな、何か嬉しいわ。ありがとうな」
改めてお礼を言うべきなのは私なのに、嬉しそうに笑う明島さんを見て、やっぱり好きだなと思った。
見上げると視界に入る、I LOVE YOUの淡い文字。