別に秘密でもないが、胸が痛む話。
コロナでの楽しかった日々は、今はもう昔の話となった。
暑い。どこにいても暑い。僕の家にはクーラーなどというハイテクな機械は存在しないのだ。ちなみに扇風機もない。それでもなんとか生活できてしまうのが、北海道の最果てたる所以なのかもしれない。
「先輩、今日は何を食べますか?」
和の声が聞こえる。アパートの隣に住む和は僕と同じ大学に通う後輩だ。奴はさっきトランプで負けたから、今日の夕飯当番なのだ。
「そーめん。もしくはカレー」
「それなら、そーめん一択っすね。楽なんで。ほんとはカレーがいいんですか?」
「出来たらね」
「ならカレーって言えばいいのに」
「ありがとう」
「出来たら呼びますね」
大学が休校になって、実家にも帰れず、バイトもなく、日常をただただ受動的に消化していく毎日には本当に嫌気がさした。なにかしなきゃ。このままじゃだめだ。この生き急ぎ症候群を必死に抑えて、今日を過ごしていた。
<できたんで、来てください>
スマホに通知が来て、僕は本から離れる。最近は本を読むことしかしていない。それか教授から言われている微々たる課題。趣味だったベースも、ライブがないから触っていない。
和の部屋も暑かった。カレーを作っていたためだろう、僕の部屋よりも暑い。奴の部屋には立派な扇風機があるから、そのうち涼しくなるはずだ。
部屋の中には既に先客がいた。このアパートのもう一人の住人、りな嬢だ。高校の体育で使っていただろう半ズボンをたくしあげ、健康的な生足が見える。以前は少しだけドキドキしたが、今はもうただの背景だ。ヒトは慣れる。いい意味でも、悪い意味でも。
「先輩、みそ汁は要りますか?」
「ありがと」
「座っててください」
「うん」
既にカレーはよそってある。この子達の食卓には必ずお味噌汁が並ぶ。女の子はマメだ。女の子と言って主語を大きくすると色んな人に怒られるかな。訂正。少なくともこの2人はマメだ。僕は一人暮らしは自分に求めるハードルを下げることで成り立つものだと思っていたけど、この2人は違った。「お味噌汁って作るの楽じゃないですか」あれ?楽ってなんだっけ。習慣って素晴らしい。
初めてこの娘たちとのギャップを感じたのはいつだっけか。大掃除の時だと思う。あまりにも僕の部屋が汚くて、まともに暮らせるようにと、見かねた2人が手伝ってくれた。あれやこれやがポンポン捨てられる。ほぼ観賞用と化した遊戯王カードと遠距離中の彼女の歯ブラシは捨てられなかった。「でも、その気持ち、めっちゃ分かります」りな嬢が僕に優しく笑いかける。テレビって映ればいいと思っていた。埃が溜まっていたことにすら気が付いていなかった。カーペットのゴミは、叩けば増えるビスケットみたいだった。それを口に出したら和に無言で睨まれた。ごめんて。
至れり尽くせりのカレーを食べながら、娘たちの会話を聞き流す。最近太ったとか、彼氏を作るためにはどうすればいいか、とか。脱毛の話とか。脱毛と育毛ってどっちが大切だと思う?髭はのびるのにハゲは進む。いやはや困った。男性フェロモンってどうしてこう、融通の利かない奴なんだろうか。そんな会話が流れていく。
食器を洗う係はトランプで決める。和は随分弱いけど、二回連続で同じ人間がやらないようにしている。
「私やりますよ」そういう時には、気を使わせれば超一級品のりな嬢が申し出る。大体、今度は僕がやろうと胸の中で思う。
りな嬢はモテる。派手な美人ではないがそこそこの大和撫子で、空気が読めて男を立てる。僕が知っているだけで4人の男を誑かしている。ちなみにその男たちは全員玉砕した。すごい娘だと思う。対照的に、和は自分の興味に一直線な人間だ。りな嬢とは対照的に、思ったことをズバズバ言える子だ。だからこの2人は気が合うのかもしれない。え?僕?僕のことは棚に上げよう。好きなタイプを語ったり、評価するときって、大体自分のことは置いといて考えるじゃん?
程なくして、それぞれの部屋に解散する。こうして、うやむやな謹慎生活を過ごしていた。
今思い出してみると、幸せだったって思う。